なつかしいよりみち
どろぼうは、駅前にも、大通りにも、商店街にもいなかった。どろぼうは本当に、まだこの町にいるんだろうか。僕たちは時間をかけて数えきれないお店を見たけど、まだどろぼうを見つけるどころか、通りがかった跡にもありつけない。次にどこを探せばいいのかすっかり当てがなくなって、僕たちはとりあえず一休みすることにした。
「よかった、まだ開いてるみたいね」
僕たちは商店街から横っちょに進んで、いつも行く小さなパン屋に入った。この時間に来たことはなかったけど、お店にはまだ灯りがついている。そっと扉を押しあけると、木のモビールがコリンコリンと楽しげな音を立て、僕たちはバターの匂いにぶつかった。
「あんまり残ってないね。もっと急いできた方がよかった?」
トウモロコシの入った食パンに、普通のクロワッサン、いちじくのデニッシュ……パン屑しか入ってないかごに混じって、売れ残りが並んでいる。スカスカになった棚を見渡しながら、僕は頭の中でパンの味を比べた。
「何バカなこと……パイはどれも売り切れね。食べてみたいと思ってたんだけどな」
そんなことを言う割に、マリーの声は弾んでいる。大きなあくびをしている眠たげなおじさんを、僕はちらっと振り返った。
「なんだ、残ってるじゃない」
マリーが見つけたのは、プチあんドーナツだ。こんなときだけど、レストランばかりを巡ったせいで、お腹がうるさくて仕方ない。
「ケースケ、これ食べたら、幾つ目かな?」
練習にもっていくのは、大抵プチあんドーナツだった。値段は他のパンの半分だし、表面がぱりぱりしてておいしい。
「どれくらいかな……20個? くらい?」
数えたことはないけれど、それぐらいは食べた気がする。僕の答えに、マリーは小さく笑った。
「アンタ、いっつもこればっかり持ってきて……どうせ、安いからでしょうけど」
自分も喜んで食べてたくせに。マリーはいつも、都合の悪いことからあっさり忘れてしまう。
「僕ばっか買いに行かせるからだよ……じゃあ、ほら、あれは?」
僕は棚の端に残った、緑色のパンを指した。
「ああ、よもぎあんパン?」
まあ、それなら。マリーはカウンターにお代をのせて、ナイロン袋にあんパンを入れた。気付いたおじさんが、ちゃんと驚きますように。僕たちはお店を出て、表の公園で座れるところを探した。背の高い木が生えてるせいか、公園は随分暗い。僕たちはプラスチックのベンチに腰掛け、甘い香りのする包みを開けた。
「アンタ、これ好きよね。最初にあげたときなんか、泣きながら食べてなかった?」
あんパンを片手に、マリーは意地悪く笑った。流石の僕も、あんパン一つで感動できるほど貧乏じゃない。
「違うよ、あれは――」
あのパン屋に初めて来たのは、犬に帽子をかぶせた日だった。マリーがウインナーで釣っていたから、なんとかかぶせられたけど、怒った犬がむちゃくちゃに吠えだして、僕はわんわん声を上げ、子供みたいに泣いてしまったのだ。
「ああ、そうだったわ。ケースケがビービー泣くから、仕方なく買ってあげたんだっけ」
これ以上ないってくらいにわざとらしく肩をすくめて、マリーは大きなため息をついた。本当のことを言われたら、何も言い返せない。黙ってあんパンに噛みつくと、なんとなく賢そうな緑の匂いが口の中に広がった。僕につられて、マリーもパンをかじり出す。
「食べ終わったら、試合再開よ」
口の中のあんパンを飲みこんで、僕はおそるおそる聞いてみた。
「この後はどこから探す?」
いい考えが浮かばなければ、街を端から端まで見て回るしかない。男が見つかるまでに、一体どれだけかかるだろう。
「そうね……次は山の方を探してみる? やっぱり、居酒屋から見ていく感じで。」
マリーはほっぺについたパンくずをぬぐって、傷痕だらけの指を舐めた。
「なんとかなるでしょ? 私たち以外で動いてる人を見つければいいんだから」
空になったナイロン袋を僕に押し付け、マリーは立ち上がった。青白い砂地の上を、ほっそりとした影がすべってゆく。いつの間にあんパンを平らげたんだろう。僕はゴミ箱に袋を投げ込み、マリーの後を追いかけた。
今朝目が覚めてすぐ、僕は着替えてマリーの家を目指した。昨日マリーがサボったのは、僕の知らないつらいことがあったからかもしれない。僕はマリーに謝るために、それから、少しでも一緒にいるために、元気のないセミの声をかいくぐって坂を上った。
路面電車の終点から少し横手に入ったところに、マリーの家は建っていた。神社で練習するときにマリーがたまたま忘れ物して、ついていったっきりだけれど、とがった屋根の白い家は、僕でも間違えようがない。大きく息を吸ってから呼び鈴をしっかり押すと、重たいドアがゆっくり開いておじさんが現れた。
「あれ? ケースケ君? だよね……マリーは一緒じゃないのかい?」
おじさんは、マリーよりももっと外人だった。金髪なだけじゃなくて、顔の形がごつごつしているのだ。
「一緒って、マリー……さんはいないんですか?」
僕が聞き返すと、おじさんはそり残したひげをさすった。
「ああ。やけに早いとは思ったけど……いつもみたいに、神社に行くって、バイオリンを持って出かけたよ」
マリーには、僕が来ることが分かっていたのかもしれない。顔を合わせないように、どこかへ行ってしまったのだ。
「僕、探してきます」
走り出そうとした僕を、おじさんは呼び止めた。
「まあ、上がっていきなよ。そのうち帰ってくるかもしれないし、僕からもお礼をしたいと思ってたんだ」
お礼を言われるようなことなんて、僕は何もやってない。どうしておじさんは、あんなことを言ったんだろう。
「ええっと、その……ごめんなさい。僕、どうしても謝らなきゃいけないことがあって、だから、決めたんです」
僕がマリーを迎えに行くって。おじさんの青い目を、僕は真っ直ぐじっと見つめた。マリーのことを全部分かってるなんて、そんなことは言えないけれど、これだけは間違いないはずだ。
「それなら……探すのは君の仕事だ。ついでに、早めに帰るように言っといてくれないかな。まだ引越しの準備が残ってるから」
おじさんが付け足したさりげない一言が、日に焼けたホームの上にぱらぱらとシミを落とした。分かったような口をきいたくせに、僕は一体、どれだけマリーの気持ちを分かろうとしただろう。マリーがうまく言えなかった、本当の理由のために、僕は町中を走り回った。会えるかどうか分からないってマリーは言っていたけれど、今日だって、明日だって、少しでも見込みがあるなら、僕は絶対会ってみせる。
マリーは一人で、一体どこに行ったんだろう。神社も、駄菓子屋も、パン屋も、海辺も、二人でよく行ったところは片っ端から探してみたけど、どこに行ってもマリーはいなかった。丸1日かけて僕がようやくつかまえたのは、朝の間にマリーが来たという、時計屋のおじいさんの話だけだ。
僕は手ぶらでマリーの家にもう一度行ったけれども、マリーは戻ってきていなかった。探し回って見つからないなら、来そうなところで待つしかない。僕たちが一番多く過ごしたところ、思い出が一番残ってるところ、お互いを嫌っていた僕たちが、初めて友達になれたところ。たとえほんの少しでもマリーが僕のことを考えてくれたなら、僕たちは何度でも、必ずここで巡り合う。マリーが初めてバイオリンを弾いてくれた神社のベンチで。
疲れてうとうとしちゃったのは僕の失敗だったけれど、神社で待っていたのはやっぱり正解だったと思う。マリーにも、あの場所が分かっていたんだから。あと少しでマリーを見失ってしまう本当にぎりぎりのところで、僕はマリーを見つけることができたのだ。
菓子パンでお腹を膨らませてちょっとだけ元気になると、僕たちは残ったところをぶらぶらと歩いて回った。小学校や駄菓子屋にも行ったし、肝試しをした古寺にも行ってみた。僕に内緒で肝試しをしようとしたサドケンたちを、僕とマリーでコテンパンに怖がらせてやったのだ。あの時のサドケンの叫び声は、今になっても忘れられない。ヒモ飴を当たるまで引いてみたり、僕がイタズラをやらされたところに行ってみたり、いくつも寄り道をしている間に、犯人捜しの方がついでになってしまっていた。
そうして僕たちは川の土手を歩いて、海沿いの公園に出た。見てないところはまだあるけれど、これで一応、街を一周してしまったことになる。
「ねえ、ケースケ、覚えてる?」
芝生の上を歩きながら、マリーは芝生の真ん中を指さした。
「私たちが花火を見たの、あの辺じゃない?」
結局どろぼうは見つからなかったのに、マリーはけろりと乾いた声で花火のことを話している。
「よく分からないけど、その辺だった気もする」
あまりきれいな話じゃないけど、あの辺には、僕たちのこぼした焼きトウモロコシの粒がまだ転がっているのかもしれない。僕はマリーの後について、芝生の中に入っていった。
「きれいだったわね、大きな花火がいくつも横に並んで、真昼みたいに明るくなって……大きくて真っ白な尾が、ここまで落ちてくるかと思った」
ずっと悲鳴を上げてばかりでろくに見ていなかったようで、マリーは僕よりもずっと花火のことをよく覚えていた。わっかのついた花火のこと、色の変わる花火のこと、真っ暗な空の上を、泳ぎ回る花火のこと。花火の話を夢中で続ける、キラキラしたマリーを眺めるうちに、僕はやっとあることに気づいた。
僕たちの犯人捜しは寄り道だらけに見えたけれども、本当は、まっすぐ犯人の足跡をたどっていたのだ。