うそのやぶれめ
この街のどこかに、ねじを盗んだ泥棒がいる。時計屋を出た僕たちはもと来た道を戻りながら、目についたお店を片っ端から調べていった。この通りに並んでいるのはレストランや飲み屋がほとんどだけど、中にはケーキやガラス細工、外国の服を売っているお店もある。そういうお店を見かけるたびにマリーは張り切って寄り道をするし、大人しか入れないエッチなお店にまで入りたがるのを、僕は必死に止めなきゃならなかった。マリーによれば、ねじどろぼうはすごい悪者らしいから、そういうお店にいたとしても、もちろん少しも不思議じゃない。それでも入っちゃいけないと思うのは、僕が臆病者だからなんだろうか。
休み休み犯人を探して、通りを端まで調べ終わったころには、だから、きっと半日以上経っていたはずだ。頭の上に広がる空は相変わらず紺色のまま、少しも黒くならないけれど、僕たちがこうしている間にも、ねじは僕たちからどんどん遠ざかっているのかもしれない。
時計屋からの帰り道、短い影を引きずって僕らは真昼の底を歩いた。あの時間、通りには子供の入れる陰もないし、道路に打ち寄せる青いブロックの波は、すっかり焼け付いてしまう。やっと駅に着いたときには、坂道を上る元気はどこにも残っていなかった。
時計屋から帰るとき、いつも僕たちは路面電車を使う。あの日はたまたま混んでいたから大した話もできないまま、僕たちはただじっと海を眺め、電車が止まったときだけ降りる人をよけたりした。
「席、空いたよ」
真ん中の駅を過ぎると、席は段々空いてくる。扇風機に流される金色の髪を押さえ、マリーは小さく首を振った。
「いいわ。もうすぐ降りるんだし」
開けられもしない天窓のせいで、路面電車は大きなオーブンになってしまう。時計台の向こうに広がる涼しげな海を見つめて、僕は浅い息を繰り返した。
「ねえ、マリーは見る? スピケ? だったっけ?」
席に気付いたおばさんが階段を上ってきて、どっかりと占領してしまった。手下げから伸びたネギがぐったりとしていたのは、やっぱり暑さのせいだろうか。
「スピカでしょ……どうかなぁ、覚えてたら見るかもね」
マリーの青い目は、窓の外を流れる街の上をゆらゆらと漂っていた。もっとしっかり見ていたら、マリーの様子がおかしいこともちゃんと分かっていたかもしれない。
「もったいないね、せっかく話をしてくれたのに、すぐ見えなくなっちゃうなんて」
それなのに、僕は見えない星ばかり眺めていた。悲しいお話はみんな夜空に昇ってしまうって、母さんも言っていたから。
「ケースケ、私ね――」
手すりを握った僕の手に、ざらざらした手が重なった。驚いて振り向いたけど、マリーはうつむいたまま、それ以上何も言おうとしなかった。
「鳶が丘、鳶が丘です。お降りのお客様は、お忘れ物のないよう、お気をつけください」
錆びついた10円玉を探して、僕はズボンのポッケを探った。時計屋さんは面白いけど、僕の少ないお小遣いじゃ、そう何度も電車に乗れない。
「どうしたの? マリー」
10円玉を見つけると、僕はマリーに聞き返した。ほかのお客さんが立ち上がり、階段を上りだしたせいで、声がずいぶんよじれてしまったような気がする。
「……ううん、なんでもない」
それじゃ、またね。マリーが手を放すのと一緒に、路面電車が駅にとまった。マリーは暑くてぼーっとしていただけかもしれない。僕はあまり考えないことにして、蒸し暑い電車を降りた。
日差しに焼けた白いホームを、分厚い潮風が通り過ぎた。最近は海のにおいが薄れて、少し風が澄んできたように思う。まぶしい雲を見上げながら信号を待っていると、電車の中で誰かが叫ぶのが聞こえた。
何を言っているのかまでは分からなかったけれど、あれは多分マリーだったんだろう。ゴムのぶつかる濁った音に、ドアの開くかすれた音が重なって、大慌てでマリーが飛び出してきた。マリーのうちは、鳥居前を降りたところだ。僕は目を丸くして、マリーに訊ねた。
「いいの? 帰らなくても」
レッスンをサボっきてたから、帰ったらおじさんに怒られると思ったのかもしれない。怒られるのは僕もいやだけれど、もうじきお昼だし、帰らなかったらもっと怒られるのは、マリーも分かっていたはずだ。
「帰るわよ、子供じゃあるまいし……」
マリーは金髪をいじりながら、路面電車を横目に見送った。
「帰りづらくなるんなら、なんでサボったりしたのさ……今まではちゃんと行ってたし、頑張って練習してたじゃないか」
遊びに出かけたときでも、マリーはよく練習している曲の話をした。難しい話ばかりで、僕には半分も分からなかったけれども、マリーが夢中だったのは間違いないと今でも思う。
「別に……たまたま気が向いたから、パパに付き合ってあげてただけ」
文句を言うみたいな言い方になってしまったせいだろうか。マリーはぎゅっとスカートの裾を握って、僕から目をそらした。ただの嘘だ。ちゃんと分かっていたのに、僕はマリーの言いぐさを許せなかった。
「嘘だ! バイオリンを弾いてるとき、マリーは楽しそうにしてた、マリーはバイオリンが好きだった!」
マリーの弾くバイオリンは、まるで魔法みたいに思えた。カッコよくて、優しくて、時々はおっかなくて――僕の知らないところに連れて行ってくれる、特別な力を持った魔法だった。
それなのに、マリーにとって、バイオリンはどうでもよかったなんて、大事じゃないなんて、そんなことあるはずない。僕が考えていたのは、もうマリーの気持ちじゃなかった。マリーにも同じ気持ちでいてほしいと思ってしまった、僕はなんて自分勝手だったんだろう。
「それは……いいわよ、バイオリンなんて。本当は一度やめてたんだし……それより、ほら。信号、変わってる」
マリーは僕の手を引っ張って、横断歩道を渡らせようとした。僕がもっと賢いか、何もわからないくらい馬鹿だったら、黙ってあのままついていったのかもしれない。
「そうだ、お昼食べたら、またヒモ飴やりにいかない? 今度はあたりが出るまで引くわよ」
マリーはきっと、本当に駄菓子屋へ行きたかったんだと思う。どっちが先にあたりを引くか、何度も勝負に行ったから。でも、僕にはそれがわからなくて、全部がごまかしみたいに聞こえた。
「意地っ張り……おじさんに謝って、昼からでも教えてもらえばいいじゃないか」
僕が手を振り払うと楽しそうなふりが破れて、マリーはとうとう僕をひっぱたいた。
「なんで、なんでそんなこと言うの……! そんなに私と居るのが嫌? 今日一日だけじゃない!」
ぶたれたほっぺたからしびれが広がって、僕の体は小刻みに震えた。大したことないビンタなのにゲンコツよりも痛かったのは、僕を殴ったマリーのほうが、傷ついていたからだろうか。マリーは荒く息をしながら、僕の隣を通り過ぎた。
「たった一日ぐらい……何よ、バカみたい!」
あの時小さくマリーがこぼした涙まじりのひしゃげた声は、今でも耳に残っている。僕が気付いて振り向いたときマリーはもう走り出していて、チカチカまたたく信号と風にたなびくマリーの髪を、僕はただ、見ていることしかできなかった。
僕はマリーを見つけられずにすごすごと家に帰り、お母さんに謝って少し伸びたそうめんを食べた。あれだけ楽しみにしていたスピカを見る気も起きずに、うちでごろごろしていたけれど、夕方から雨が降り続けていたから、西の空を見張っていたって、スピカは見れなかったと思う。僕は時々思い出したようにカーテンをめくって、雨が窓を流れているのを見つめては、僕をぶつ前、少しだけマリーが見せた、さみしげな顔を思い出していたのだった。