おとめざのものがたり
七時過ぎの改札は、いつも仕事から帰って来たおじさんたちでいっぱいになってしまう。そういうときは人の流れに付いて行けばいいけれど、今日ばっかりはそうもいかない。西口を塞いでしまったおじさんたちの間を縫って、僕たちは表を目指した。この道に出れば、時計屋はもうすぐだ。
少しずつ人の波がほどけてきて、隙間から何かが見えた気がした。目に入るのは人の足だけなのに、なぜそこだけ違うような気がしたんだろう。もう少し進むと、理由が分かった。向きだ。足の向きが違う。この中で、ワイシャツの背中が、一つだけ左を向いている。手は隣の人の袖をつかんでいるのは、喧嘩しているからだろうか。
「マリー!」
右側へ進もうとしていたマリーが、僕の声に気付いて振り向いた。マリーがこっちに来るのを確かめて喧嘩に近づくと、絡んでいる人の格好が分かってくる。丸まった背中、灰色の頭、手前に向かって伸びる二つの影……紛れこんでいた人が誰か分かって、僕は思わず叫んでしまった。
「お爺さんだ!」
腕まくりをしたお兄さんに、お爺さんが怖い顔でしがみついている。周りの人たちと同じように、その格好で固まったまま。
「何ですって?」
マリーはお爺さんに駆け寄って、周りを歩きながら眺めまわした。お爺さんは大きく口を開けて、お兄さんに何か頼みごとをしているようにも見える。
「……何かあったみたいね。ねじを巻き忘れただけじゃなくて」
お爺さんの掴んだ袖には、深くしわが寄っている。あんなに強く握られたら、きっとすごく痛いだろう。何かを追いかけているんだろうか、それとも何かから逃げているんだろうか。いつもは眠たそうにしているお爺さんの必死な顔を見て、僕もTシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
「でも、それならどうするの、マリー」
巻き忘れにしても、わざとにしても、お爺さんのせいにしていたことに変わりはない。僕たちのあてはすっかり外れてしまったのだ。僕は困ってしまったけれど、マリーは呆れるくらいにけろっとしていた。
「どうもしないわ。時計屋を確かめるのは、最初から決めてたんだし」
ぐずぐずしてると置いてくわよ。元気に歩き出したマリーの行く手には、僕たちが知らない夜の通りが続いていた。街灯やお店の灯りはくらくらするほど賑やかなのに、太陽の光と違って、残した陰に何かを隠し持っている。長く、大きく道路にかかった大人たちの影をくぐって、僕はマリーを追いかけた。
駅から遠ざかるほど、街の灯りはまばらになった。寝静まった楽器屋を照らすのは、近くのガス灯一本きりだ。表より裏道が明るいわけもなく、時計屋からもれた灯りは、真っ黒の底に沈んでいる。僕たちは大きく息を吸い込んで、壁の上に焼き付いた梟の影を目指した。
「ここね」
一度も見たことがない、夜の時計屋。心もとない灯りの中で、時計たちは息を潜めている。扉の開く冷たい音が、息遣いの隙間を過った。
「これは……空きっぱなし? 飛び出していったのかしら」
扉を閉める暇もないくらい、お爺さんは急いでいたのかもしれない。照らし出されたお店の中はいつもとあまり変わらないのに、時計の音が止んでしまうと、なんだか軽くなったように見える。その薄い灯りが、もっと引き延ばされた窓際で、宇宙の時計が眠っていた。
「どこも壊れてないみたい」
マリーの言うとおり、時計は綺麗なものだった。傷もなければ、時間も狂っていない。太陽は沈んだばかりだし、月は昇ったばかりだし、おとめ座は、今から沈もうとしているところだ。でも、時計の中には壊れやすい機械が入っている。僕は時計をゆすって、変な音がしないのを確かめた。
「そうだね」
僕は温かい溜息を吐きだした。大した故障はなさそうだ。ただ、この時計は止まっている。宇宙を動かすほどの力、僕たちを簡単に引き千切ってしまうような大きな力は、どこへ行ってしまったんだろうか。それはぜんまいが切れただけで、こんなに簡単に止まってしまうものなんだろうか。
「とりあえず、ねじを巻いてみたら?」
時計をじっくり調べる僕を、マリーは腕を組んで眺めていた。マリーは待つのが何より苦手で、電車を逃がした時なんか、自分で歩き出してしまう。小突かれながら仕方なくカウンターをのぞいてみると、一つ残らず引き出しが開いていた。
「ど、どうなってるの?」
中がめちゃくちゃにひっかき回され、ペンやクリップは床にも散らばっている。ようやく事件らしいものが出てきて、マリーはさっそく飛び付いた。
「これはきっと犯人の仕業ね! ケースケ、ねじが残ってないか、探しなさい!」
カウンターの周りはもちろん、店中を探したけれど、あのねじはどこにもなかった。どうやら本当に、ねじが盗まれてしまったらしい。僕は諦めて、出窓の縁に座り込んだ。
「でも、誰があんなもの持ってったのかな?」
とがった顎に手を当てて、宇宙の時計を睨んでから、マリーは人差し指を立てた。
「分からないわ。でも、どろぼうを見つけるのは簡単よ」
マリーに言わせると、大体のいたずらは簡単らしい。水道管の上を渡るのも、犬に帽子をかぶせるのも、簡単だって言ってたくらいだ。マリーが自分でやったところは、見たことがないれども。
「簡単って、どんな格好をしてるのかも分かんないのに?」
僕たちにはどろぼうが誰か分からないし、どろぼうを見た人から話を聞くこともできない。マリーは何か、どろぼうが残していったヒントを見つけたんだろうか。
「バカねぇ。犯人がなんでねじを盗んだのか考えてみなさいよ。時間を止めて、その間にもっと悪いことをするに決まってるじゃない」
マリーは腰に手を当てて、僕のことを鼻で笑った。
「だとしたら、犯人は他の人と違ってまだ止まってないはずよ。止まっていない人を見つけて、ねじを取り返せばいいんだわ!」
随分調子がいいというか勝手な話に聞こえるけれど、ねじどろぼうを見つけないと街は元に戻らない。どうやってどろぼうを捕まえるのか思いつきもしないまま、僕は仕方なくマリーの犯人探しに付き合うことにした。
昨日、マリーは朝からどこか変だった。何かがあったことくらい僕でも分かったはずなのに、どうして気付けなかったんだろう。そうしたら、きっとケンカもせずに済んだはずなのに。
「――ケ、ケースケ、出てきなさい!」
外からマリーの声が聞こえて、僕はちゃぶ台に鉛筆を置いた。遊べないって言ってたのにわざわざ宿題を邪魔しに来るなんて、マリーはやっぱり自分勝手だ。立ちあがって窓から表を見下ろすと、緑のブラウスを着たマリーが立っていた。
「友達かい?」
アイロンがけの手を止めて、母さんが僕に聞いた。ブレーカーが落ちるから、アイロンと一緒に扇風機はつけられない。昨日も母さんは、手拭いでおでこを拭きながらアイロンをかけていた。
「まあ、そうだけど……」
マリーがうちまで迎えに来たのは、それが初めてだった。いつもは駅で待ち合わせるのに、どうして昨日だけ迎えに来たんだろう。
「行く!」
やりかけのプリントを残して、僕はうちを飛び出した。格好悪くて、母さんにはマリーのことなんて教えられない。だから、怒っていたわけじゃないけれど、ついマリーに話すときにも文句を言うみたいになってしまった。
「今日はレッスンがあるんじゃなかったの?」
この次は、鐘のナントカを聞かせてくれる約束だった。難しい曲だからって、マリーも乗り気で練習していたはずだ。
「ああ、アレ? すっぽかして来ちゃった……それより、久しぶりにいかない? あの時計屋さん」
お爺さんの話は面白いし、僕はやっぱりあの時計を見るのが好きだ。どこか変だとは思ったけれど、僕に断る理由はなかった。
間があいていたせいか、僕たちが顔を見せると、お爺さんは珍しく嬉しそうに笑った。さっそく僕たちは宇宙の時計にかじりつき、新しい星座が太陽に近づいていることに気付いた。
「ねえ、お爺さん、この星座はなんの星座?」
青い石でできた板には、女の人の形をした、金の像がのっていた。
「おとめ座だね。ギリシャの女神さまの星座だ」
お爺さんが応えると、マリーはテーブルの上に乗り出して、おとめ座を指差した。
「知ってるわ、アストレアって言うんでしょ?」
お父さんが外人だから、マリーは外国のお話をよく知ってる。お爺さんは頷いて、それから椅子にそろりと座った。
「よく知ってるね。でも、この星座には他の話もある――どうして冬が生まれたのかという話だ」
冬とか夏は、最初からあるものだと思っていたけど、どうやらそうじゃなかったらしい。僕はお爺さんを見上げて、次の言葉を待った。
「ギリシャには、デメテルという大地の女神がいた。デメテルにはペルセポネという娘がいたんだが、ある日この娘がいなくなってしまったんだ」
お爺さんは椅子を引き出し、ゆっくりと腰を下ろした。
「まあ、座りなさい……ペルセポネをさらったのは、ハデスというあの世の神様だった。これはデメテルのお兄さんなんだが……ペルセポネに一目ぼれして、無理矢理自分の奥さんにしてしまったんだ」
結婚って、そんな勝手にできるものなんだろうか。しかも相手が自分のおじさんなんて、マリーが怒ったのも仕方ない。
「何それ、女を何だと思ってるの!」
マリーに怒鳴りつけられて、お爺さんは縮みあがった。
「そうだね。確かにひどい話だ。それでデメテルもかんかんに怒って、畑の作物が育たないようにしてしまった。これには皆も音をあげて、ペルセポネをデメテルに返すよう、ハデスに約束させたんだが、このとき……ハデスがどうしたか、分かるかね?」
お爺さんの作った隙間に、僕たちはいつの間にか吸い込まれていた。
「……ペルセポネを引きとめようと、騙してザクロの実を食べさせたのさ。ペルセポネが食べたのは、ほんの一口だったけれども、毎年4か月の間、あの世に戻らなくてはいけなくなってしまった。ペルセポネがいない間はデメテルも機嫌が悪くて、冬になってしまうというわけだ」
お爺さんの話が終わると、マリーは頬杖をついて、思い切り鼻を鳴らした。
「変なの、そんな陰気臭い男のところに戻るなんて」
マリーがすっかりむくれたのを見て、お爺さんは大きく笑った。
「そういう決まりだったんだ。あの世のものを食べた人は、あの世にいなくてはいけないというね」
ふたりの話を聞いているうちに、僕は別のことが気になってきて、思い切ってお爺さんに聞いてみた。
「でも、ハデスはなんでわざわざそんなことしたかな? ハデスがあの世から出てくればいいのに」
そうしたら、いつも一緒にいられたはずだ。ペルセポネにふられなければ、だけど。
「そうだな……」
お爺さんは目を丸くして、白い髭をさすった。ひょっとして、僕はすごくとんちんかんなことを聞いたのかもしれない。
「……やはり、仕事のためだろうね。あの世を世話する人がいなくなったら、お化けがみんな戻ってくるかもしれんぞ」
お爺さんは黄色い歯を見せて、にやっと笑ってみせた。僕はあんまり、お化けのことが好きじゃない。すっかり縮こまってしまった僕の頭を、お爺さんは掌で優しく叩いた。
「帰って日が沈んだら、西の空を見てごらん。今ならまだスピカが見えるかもしれない。おとめ座で一番明るい星だ」
お爺さんは、日本からおとめ座に向かって指を動かした。おとめ座は、太陽より少しおくれていた。
「しし座からおとめ座になったら、一晩中ずっと見える?」
僕はなんとなく聞いただけだったけど、お爺さんの眉毛はふっと下がった。
「いや、それが逆なんだ。星座の時期というのは、太陽と重っているときのことなんだよ。空のある間はずっと昼間だから、少しも見えなくなってしまう」
流石のマリーも、そのことは知らなかったらしい。テーブルにつっぷして、ため息混じりに小さくぼやいた。
「やっぱり変よ……おとめ座の季節におとめ座が見えないなんて」
いくつもの時計の音が、薄暗い窓際に積み重なった。ああいうところだと、マリーの金髪はぼんやり光って見える。ぼやきの続きを待ってから、お爺さんはテーブルに手を付いて立ちあがった。
「そう残念がることもないさ。冬になれば、おとめ座が太陽を追いこして、夜明け前、東の空に出てくるようになる。太陽と同じだよ。夜明け前の東の空から、夕方の西の空に向かって、星は少しずつ西にずれていくんだ」
マリーは目を閉じて、お爺さんの話を小さく繰り返した。冬になれば、おとめ座はまた昇る。窓から射し込む光を吸った重たい髪を引きずって、マリーはゆっくりと起き上がった。
「そっか……お爺さん、おとめ座はいつまで見られる?」
なんでマリーがおとめ座を気にしたのか僕はまだ分からなかったけれど、きっと、マリーはもう知っていたんだと思う。お爺さんは、窓から空をのぞきながら答えた。
「スピカは明るいから、今週一杯は見える筈だよ。水平線に少し出るだけで、すぐ沈んでしまうがね」
もうすぐお昼の時間だ。間に合わないと、母さんに怒られる。
「お爺さん、ありがとう。日が沈んだら、スピカを探してみる」
お爺さんに手を振って、僕たちはお店の外に出た。西の空、水平線にスピカが見える。とにかく星のことで頭がいっぱいで、マリーのことを考える隙間なんて、これっぽっちも残っていなかったんだ。