うんめいのひびき
時計台の影が大きくなるにつれて、車も人もだんだん増え、人込みをよけるために、僕たちは道路の真ん中を歩いた。車の熱やすすけた臭いはちょっとだけ気になるけれど、その方が早く進めるし、なんだかウキウキしてくる。このゆうべは、僕たちの貸し切りだ。いつの間にか足が勝手に走り出して、駅前についたときには、二人ともすっかり汗だくになっていた。
真下から見上げると、時計台はいつもより大きく見えた。街の灯りはてっぺんまで届かず、温かく照らされた白い文字盤だけが、夜空に浮かんでいるみたいだ。透かしの入った重たい針は七時半にぶら下がって、灯りを付けたまま静かに眠っている。
「何ぼさっとしてるの、時計屋はもうすぐよ!」
僕を無理矢理引っ張って、マリーは勢いよく駅の入り口をくぐった。シャンデリアから大粒の光が散らばって、急に開けた駅の中は真昼よりももっと眩しい。改札の上にかかった大きな階段をのぼりながら、僕はマリーの手を握り返した。見た目と違って、マリーの手は固くてざらざらしている。出会ったばかりのころには、考えつきもしなかった。
渡り廊下を歩きながら、僕は窓の向こうの時計台を振り返った。僕とマリーは、初めから友達だったわけじゃない。僕たちが仲良くなれたのは、あの時計台のおかげだったのだ。
宇宙の時計を見せてもらってから、僕たちは時々時計屋に偵察をしに行った。お店を覗くと、お爺さんはいつも暇そうにしていて、変わった時計を見せてくれたり、戦争の話や星座の話をしてくれる。僕たちはお客さんでもないのにお爺さんが相手をしてくれるのは、お爺さんの中に話が溜まり過ぎていて、聞いてもらわないとパンクしてしまうからなのかもしれない。
あの日、僕たちはお爺さんにさよならを言うと、長く伸びた影を引きずり、夕日の中を引き返した。こっち側と違って、線路の向こうは少しだけ海の匂いがする。オレンジ色の道路を洗う生臭い潮風に逆らい、僕たちはだらだらと駅を目指した。
僕たちは人込みをかき分けて、汗の臭いを溜めこんだ駅の中を通り抜けた。大人になったら、僕もあんな匂いになるんだろうか。今はまだ分からないけど、とにかくひどい臭いだったから、外の空気を吸えたときには生き返ったような気がした。
「あーっ、もう、最っ低。もっと早く出てくればよかったわ」
マリーが毒づいたそのとき、駅前の騒がしさが、すーっとどこかに引いて行った。鍵が開く小さな音をきっかけに、頭の上で音が爆発した。時計台のオルゴールだ。時計台の中ごろには幾つもの楽器がついた大きなオルゴールがついていて、5時になると演奏を始める。塔に開いた窓からは、逆さまになったバイオリンがひょこひょことお辞儀しているのが見え、そのたびに強い音が広場を叩きつけた。
大きいだけじゃなくて本当に怖い音だったから、驚いてマリーの後ろに隠れてしまったのも仕方ないと思う。大きな音が止むとバイオリンの軽い音が走り出し、バイオリンを追いかけてオルガンが何度もせり上がり、最後に一番大きな音が、夕焼け空に飛んで行った。
「すごい音だったね」
あんなにたくさんの楽器を、間違いなく鳴らしてしまうなんて。あの機械の中は、一体どうなってるんだろう。閉まった窓を見上げて、僕は熱い息を吐き出した。きっと、数えきれないくらいの部品が繋がっているに違いない。
「分かってないわね」
時計台を見上げ、ぼんやり口を開けたまま立ちつくしている僕を見て、マリーは少しだけ顔をしかめた。
「あんなの、音を出すだけの偽物じゃない」
僕にはマリーの言ってることが、このときちっとも分からなかった。こんなにすごい時計なのに、本物が別にあるんだろうか。なんだか自分まで馬鹿にされたような気がして、僕はマリーに食ってかかった。
「偽物なもんか! これが偽物なら、本物はどんなだっていうのさ!」
いつの間にか、立ち止まっていた人たちが、また流れ出していた。僕の握った拳を眺め、それからマリーは僕を指差した。
「言ったわね。今度の土曜日、朝一で神社に来なさい! アンタが間違ってるってこと、教えてあげる」
力のこもった声ですごまれ、僕はただ、頷くことしかできなかった。機嫌の悪いマリーに、わざわざ言い返すなんて、僕はなんて馬鹿だったんだろう。大股で歩き出したマリーの後ろ姿を見送り、僕はがっくりとうなだれた。
身構える暇もなく、土曜日はあっという間にやってきた。もう慣れてしまったけれど、神社の階段は結構長い。上った先に罰ゲームが待っているのだから、なおさらだ。降り注ぐ木漏れ日と蝉の声を背中に受けて、僕はわざとゆっくり上った。
「遅い! 何してたのよ」
神社には、楽器のケースを持ったマリーが待ち構えていた。あの日は、ひまわりの刺繍が入った真っ白なワンピースを着ていたような気がする。僕の返事を待たずに、マリーは早速ケースの金具を外して、バイオリンを取りだした。
「まずいよ、バレたら怒られちゃうよ」
音を確かめようとするマリーを、僕は必死で止めようとした。それで止められたことなんて、今まで一度もなかったけれど。
「いいじゃない。誰もいないんだし、少しくらいうるさくしても」
お祭りの時以外、確かに神社はがらんとしている。僕だって、たまに友達とセミを取りに来るくらいだ。でもこのときは、言ったそばから神主さんに見つかってしまった。
「こらこら、困るよ、勝手に」
ここの神主さんはいい加減な人で、僕たちが来ているときは、いつも決まって舞台の真ん中で昼寝している。仕事をしているところなんて見たことがないけれど、神主さんの格好をしているから、きっと神主さんなんだろう。
「じゃあ、お願いするわ。ここで演奏させて頂戴」
ぶっきらぼうで偉そうな言い方をされても、神主さんは怒ったりしなかった。代わりに長い生あくびをして、ふやけた返事をしただけだ。
「いいけど、場所代は払ってもらうよ」
マリーは腰に手を当てて、顎をくいっとしゃくってみせた。
「いくら?」
神主さんは張り合わずに、笑って舞台に引き返した。
「1円でいいよ。後で賽銭箱に放り込んどいて」
肩すかしをくらったマリーは、神主さんの背中に向かって舌を突き出した。
「覚えてらっしゃい……ケースケ、これ、持ってて」
僕がケースをあずかると、マリーは弓を軽く握って弦の上をそっと滑らせた。バイオリンを弾いているときだけ、マリーはまるで魔法使いに見える。あぶら蝉の鳴き声を押しのけ、平らな音が広がっていった。
マリーは一度手を止めて、目を閉じ、大きく息を吸った。後から聞いた話だけど、あれは久しぶりのちゃんとした演奏だったらしい。見ている僕もなぜか緊張してきて、両腕でケースに強くしがみ付いた。
やがて、バイオリンはゆったりと流れ出した。普段はサドケンより乱暴なマリーだけど、お人形なのは見た目だけじゃない。音楽はやっぱりお金持ちのものだし、曲そのものもお嬢様っぽかった気がする。
楽器を演奏するのはやっぱり大変なことみたいで、のんびりした歌を散歩しながら、マリーのおでこには汗が光っていた。きっとこのときも、マリーは細くて切れやすい糸をなぞっていたんだと思う。
バイオリンの音は段々と、強く張りつめていった。マリーの左手がせわしなく動くたび、少しかすれた鋭い音が広がり、木漏れ日が石畳に泳いだ。ひょっとしたら、それは僕の思い込みかもしれない。でも、マリーはバイオリンを使って、周りの物をみんな動かしてしまうような、そんな力を持っている。それは僕にとって、魔法以外の何ものでもない。
僕が見守る中、音は高く上った後、ひらひらと舞い降り、ふっと切れてからまた緩やかに流れだした。僕はこの時の驚きを、今でもそのまま思い出せる。大人になっても、きっと忘れないだろう。それはマリーが僕にとって、意地悪な飼い主から本物の魔法使いになった瞬間だった。マリーは何の前触れもなく足を踏み切り、僕を巻きこんで、高らかに空へと飛びあがった。嬉しいとか、楽しいとか、そんな簡単な気持ちだったとは思えない。それは、僕の知らなかった、なんて言ったらいいか分からないものだった。大きく咲いた歌から鮮やかな音色が舞い散り、空に溶けて消えていくまで、僕はずっとマリーから目を離すことができなかったのだ。
「すごい! マリーがこんなことできたなんて!」
演奏が終わると同時に、僕はケースを抱えたままマリーに駆け寄ったけど、マリーはむつかしい顔で弾き方を確かめるばかりで、なかなか返事をしてくれなかった。
「何はしゃいでるの?」
マリーはきょとんとして、顔を上げた。
「びっくりしたよ! 音が体に伝わってきて、僕もその中に混じっていくみたいで――」
暑苦しくまくしたてると、マリーは弓を左右に振った。
「分かってないわね。そんな……」
マリーは何か言おうとしたけど、蝉の声に押しつぶされてしまった。僕をじっと見つめ、溜息を吐き出し、それからマリーは小さくこぼした。
「私が本気出したら、こんなもんじゃないからね」
本当のところ、マリーには気に入らないことだらけで、僕が勝手に舞い上がっていただけだったのかもしれない。でも、あれは初めてで、幸せで、一番大事な演奏だった。それだけで、この夏を変えてしまうくらいに。
その日から、マリーは新しい曲を覚える度、僕を神社に呼び出すようになった。マリーが時々話すような難しいことは分からないけれど、僕はマリーのバイオリンが好きだ。聞いているとワクワクしてくるし、弾いているマリーだって、いつもより活き活きしているように見える。いつの間にか根性試しをさせられることもなくなって、マリーの練習に付き合う時間が何よりも大切になっていた。