まひるのはりうっど・すたあ
でも、時計のゼンマイがきれただけで、本当に時間が止まってしまうものなんだろうか? たった一つの時計に、月や、太陽や、地球や……星空を動かすことなんて、できるんだろうか?
マリーに小声で問いかけると、マリーは腰に拳を当てて思いきり鼻を鳴らした。
「じゃあ、他に何か思いつくわけ?」
何も答えられずに、僕は街を見下ろした。街は押し黙ったまま、灯りを夜空に滲ませている。僕は小さくため息をつき、それからもごもごとマリーに聞き返した。
「それは……でも、だったら、どうするのさ?」
街が止まったままじゃ、僕はきっと困るだろう。そのうちお腹が減って死んでしまうかもしれない。でも、どうやって戻すかなんて、僕には分からない。途方に暮れた僕に向かって、マリーは滑らかな金髪を払い、高らかに言い上げた。
「決まってるでしょ。時計がどうなってるのか、確かめに行くのよ!」
マリーは軽い足音を辿って、すり減った石段を下り始めた。ほとんど真っ暗な階段の先には、大きな屋根の付いた路面電車の駅が見える。
「待ってよ!」
置いていかれるのが怖くなって、僕は一段飛ばしでマリーを追いかけた。駅からもれた冷たい光が近づき、湿った雑木林の匂いが、後ろへ流れ去ってゆく。一番下まで下りきっても、勢いがついてすぐには止まれず、僕達は小走りでケーブル巻き上げ機の横を通り過ぎた。
「ほら、ケイスケ! みんな止まってるでしょ」
マリーは膝に手をつき、肩で息をしながら、なぜか楽しそうに駅前の広場を眺めた。足を踏み出したおじさん、お父さんの腕にぶら下がった男の子、皮鞄をぶらぶらと揺らしているお姉さん……駅から出てきた人たちは中途半端な格好のままぴたりと止まり、近づくことのない我が家に向かっている。駅の看板が放つ生白い光を浴びながら、僕は広場の真ん中で立ちすくみ、震えながら辺りを見渡した。
「本当に、本当に……動ける人は、もう誰もいないの?」
車や電車が止まってるんだから、人も止まっている方が普通なのかもしれない。でも、それは、誰も僕たちを助けてくれないということだ。向かいでプラスチックのテーブルを囲み、ビールをあおっているおじさんでも、大人が動けたらどんなに助かるだろうか。向こうを向いたおじさんにおそるおそる近づいて、顔を覗き込んだけれども、おじさんは馬鹿みたいに口を開けたまま、ジョッキから落ちたビールのしずくが口に入るのを待ち続けていた。
「そうよ。動けるのはあたしたちだけ。あたしたちで謎を解いて、この街をもとに戻すの」
腰に両手を当て、マリーはにやりと笑って見せた。こういうときには、何を言っても止められない。僕は小さく溜息を吐きだすと、マリーについてすごすごと大通りを下りだした。いつものことだ。僕がマリーの我儘に逆らえた例は一度もない。出会ったあの日から、一度も。
僕とマリーの出会いは、ちっともロマンチックじゃなかった。ロマンチックどころか、何から何まで最低だった。出会えてよかったと思えるようになるなんて、全然考えつかないくらいに。
七月の初めの、あれは今日と同じくらい暑い日だったと思う。学校が半日で終わるようになって、僕は仲間たちと一緒に映画を見に行った。なんとかの浮気という名前通りのエッチな映画で、それは僕たちにとって、ちょっと大人っぽくて、それと同じくらい、カッコイイということを意味していた。話がよく分からないまま二時間くらいはしゃぎ倒し、僕たちは映画館を後にした。
「なあ? あれ、外人じゃねぇ?」
暗さになれた目を細めながら、僕たちは竹ちゃんの目配せに従った。僕たちのいるところから、十二、三メートル先、真っ白に焼けついた大通りの交差点に、今日と同じ、明るい青のワンピースを着て、マリーは信号を待っていた。
「スゲー、金髪だよ……映画みてぇ」
ゥオォォ……。サドケンだけじゃなく、僕たち皆が、ぽかんと口を開けたまま、映画の――特にエッチなシーンを思い出していた。あの日僕たちの目の前にいたのは、きっと、暗すぎるとか何とかいう理由で映画から飛び出してきた、マリリン・モンローその人だったのだ。
「なぁ、お前ら、ちょっとさ」
サドケンが身をかがめると、アスファルトに染みついた五つの影が束になった。
「あ、あの外人がさ、マリリンみてぇなスッゲェパンツはいてたら、どうする?」
スッゲェ、パンツ。サドケンの一言が、ひそひそ話に火を投げ込んだ。僕たちは口々に小さな叫び声を上げ、お互いに目を見合わせ、そしてこの可能性について話し合った。
「そんなこと言ったって、映画でも全然見えなかったじゃないか」
僕が水を注したせいで皆は余計にスカートの中身が気になりだし、しまいに誰が外人のスカートをめくりに行くのか、ジャンケンで決めることになってしまった。
「負けた奴が外人に近づいて、スカートをめくってくる。いいな」
僕が言い訳する前にジャンケンは始まってしまい、僕は慌ててパーを出した。このとき僕が出した手が、グーだったり、チョキだったりしたら、この夏休みは、もっと平和で、そしてつまらなくなっていただろう。
晴れて皆の代表となった僕は、前かがみになって、女の子の後ろ姿に近づいた。子どもといっても外人だから、本当にすごいのをはいているかもしれない。前だけを見てればいいのに、どうしてもおしりに目が行ってしまい、僕は気付くたびに赤信号へと目をそらした。周りからは、きっと、これ以上ないくらい怪しく見えたに違いない。
女の子のすぐ後ろまで辿りついたはいいけれど、いざめくるとなると、僕は足がすくんでしまった。めくった後は、どうやって逃げたらいいだろう。外人は日本人より足が速いし、力もずっと強いらしい。脇道に逃げ込むだけで、ちゃんと逃げ切れるのだろうか。のぼせた頭であれこれ考えるうちに、信号があっさりと青になってしまった。
こうなったら、もう考えてる暇はない。結局なんの考えもないまま、僕は女の子について歩きだした。何もできずにいるうちに、横断歩道の残りは減ってゆき、あとニ、三歩というところでやけになって、僕は滑らかなスカートの裏地に手をかけ、思いっきり跳ねあげた。
スカートの向こうから小さく悲鳴があがったときには、僕はもう振りむいてがむしゃらに走り出していた。逃げるのに必死だったから、何が見えたかはよく覚えてない。今でも思い出せるのは、横断歩道の向こう側で必死に手招きするサドケンたちの姿と、せわしなく瞬きする青信号。僕が渡りきるのと一緒に、信号が赤に変わって、それで僕は、無事に仕事をやりとげた筈だった。
けど、そこで後ろを確かめたのは間違いだった。信号の言うことを聞くほど、マリーはお利口さんじゃない。悲鳴を上げる車の前をわき目も振らずに駆け抜けて、マリーは僕の襟首を簡単に捕まえた。間髪いれずに殴られたけど、頭がぐらぐらしていたせいで、どれくらい痛かったのかはあまりよく思い出せない。
「何すんのよ、このマセガキ!」
日本語のどなり声が、頭の中で跳ねまわった。困ったときには、助け合うのが友達だ。僕はなんとか起き上がり、皆の姿を探したけれど、助けるどころか、誰も残っていなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 僕じゃないんです。友達が言いだして、僕はたまたまジャンケンに負けたから――」
マリーは僕より4つも年上で、サドケンよりも背が高い。体を丸めて必死に言い訳する僕を、マリーは鋭い目つきで見下ろした。
「なんて白々しい……パパに言いつけてやるわ」
決して大きくないけれど、ぞっとするほど冷たい声だった。それからマリーは唇の端を曲げ、きつい笑顔を作ってみせた。
「喜びなさい。パパの知り合いには偉い人がいっぱいいるから、アンタ、もうこの街にいられなくなるわよ」
僕はすっかり慌ててしまって、まともにものを考えられなかった。僕がへまをしたせいで、母さんも街を追いだされてしまう。僕はどうして、外人なんかに手を出してしまったのだろう。こんなことなら、スカートをめくる前に逃げ出せばよかった。そうすれば、サドケンに殴られるだけで済んだのに。
「ごめんなさい! もう二度としません。何でもやります! 何でもやりますから、母さんだけでも見逃してください」
きっと、マリーが言ったのは、僕を怖がらせるためのはったりだったんだろう。でも、今更そんなことを言っても仕方ない。しばらくして頭を上げたときには、マリーはもうあの笑顔を浮かべていたのだから。
紫色の空に浮かんだ時計台の文字盤を目指して、駅前の広場から僕らはのんびり歩き出した。日が沈んだばかりの大通りは、楽しげな光でいっぱいだ。自動車や、路面電車の放つとがった光、背の高い街灯から広がる温かい光、ガラス窓から零れる透明な光……街を照らす賑やかな灯りの間に、僕たちの小さな足音がしみ込んでいく。歩道で固まった人たちを避けながら、僕はマリーが悪戯を始めはしないか、ずっとヒヤヒヤし通しだった。
「僕たちだけ、かぁ……でも、時間が止まっちゃったんなら、なんで僕たちだけが動けるんだろう」
他の人と同じように、僕たちが止まっていてもおかしくない。僕たちだけが止まらないような、特別な理由があったのだろうか。
「さあね。これがあの時計のせいなら、あの時計を見た人だけが、動けるようになったんじゃない?」
横に並んだお兄さん達をよけて、マリーは縁石に飛び乗った。
「じゃあ、お爺さんも動けるかもしれないね」
お爺さんに助けてもらえば、街を直す方法が分かるかもしれない。何とかなりそうな気がして、僕の声は自然と弾んだ。
「だとしたら、お爺さんはまだねじを巻いてない。時計が壊れたか、お爺さんがわざと止めてるのかもしれないわ……」
まあ、お爺さんが止まってるってこともあるけど。マリーは小さく付け足して、バス停のベンチに腰を下ろした。マリーはさらっと言ったけれど、どっちも同じくらい大変だ。時計を直すのも、お爺さんに立ち向かうのも、僕にはちょっとできそうにない。
「そんなの……どうしたらいいのかな」
僕はマリーの隣に座って、静まり返った通りを眺めた。排気ガスの厚みに隠れて、突きあたりの駅は見えない。
「とりあえず、休憩させてよね。あんたと違って、私はこの道を神社まで登らされたんだから」
マリーは青いワンピースの裾をつまみ、面倒くさそうに脚をあおいだ。マリーが裾を持ちあげるたび軽やかな生地がはためき、触れたら溶けてしまうほど細くて白い太ももが奥の方まで見えてしまう。あの時僕を殴ったくせに、マリーはすぐ自分を安物扱いするのだ。
「最低ね、人の脚ばっか見て。小学生のくせに、どうやったらこんな風に育つのかしら」
僕の目がスカートの中身に吸い寄せられている間、マリーはしっかり僕の顔を見ていたらしい。エッチな気持ちを言いあてられると、ますます頭に血が上った。きっと、僕の顔は耳まで真っ赤になっているだろう。
「だって、マリーが……」
言い訳をくすぶらせていると、マリーはわざと大げさに溜息をついた。空気と一緒にイライラした気持ちも抜けてしままったんだろう。マリーはがっくり項垂れ、まっすぐな金髪が、細い肩を優しく流れた。
「これでこんなにスケベじゃなかったら……しょうがないか。今日のところは勘弁したげる」
スケベじゃなかったからって、僕がカッコよくなれるとは思えない。マリーは一体、何を言おうとしたんだろうか。僕が首をかしげていると、マリーは通りの先を見やった。僕たちが初めて出会った、あのときの交差点だ。向かい側を少し行ったところに、電球で着飾った、うるさげな映画館が見える。
「ケースケ、覚えてる?」
マリーは立ちあがって、向かい側を見つめた。白い鞄を振り上げて、女の人が彼氏の背中を叩こうとしている。なんだか、二人とも必死さが足りない感じだ。
「アンタにスカートめくられて、頭にきて追いかけて……あの辺だっけ?」
少し迷ってから、マリーは交差点の角を指した。マリーがあの日の話をするのは、初めてじゃないだろうか。いつもは僕が話そうとしたときでも、キッと睨みつけてくるのに。
「多分」
僕が頷くと、マリーは横断歩道の上に指を走らせ、ゴミ箱の辺りで止めた。
「それから、あそこでケースケを捕まえて……面喰ったわ。いきなり土下座するんだもん」
僕をぶったところを飛ばして、マリーはため息交じりにぼんやりと話した。僕ばかりが悪者みたいで――僕が悪かったのは、そうだけど、なんかずるい。
「まだ、怒ってる?」
僕が顔を覗き込むと、マリーは目をそらし、それから小さくため息をついた。
「しょうがないって、言ったでしょ?」
ほら、行くわよ。マリーは乱暴に僕の手を引っ張り、駅に向かって歩きだした。