うちゅうのとけい
僕たちがあの時計屋を見つけたのは、出会ったばかりの頃だった。あの頃、僕はマリーに呼び出されるのが嫌で嫌で仕方なかった。女の子と一緒に遊んでるなんてカッコ悪くてしかたないし、理由を知ってるサドケン達まで、僕をマリーの子分だって馬鹿にした。それに、僕はマリーに弱みを握られて、えげつない罰ゲームみたいなことを毎日のようにやらされたのだ。
パトカーに落書きするとか、朱鷺川にかかった水管橋を歩いて渡るとか、藤堂さんちのブルテリアに赤白帽をかぶせるとか……谷口組の組長の庭からビワをくすねてきたのに、まだこうして元気にしていられるのは、この世にはちゃんと神様がいるっていう証拠だと思う。そして、そのうちの一つが、どこにあるかもわからない怪しげな時計屋の正体を確かめることだった。
その日、マリーは僕を駅前に呼び出し、僕を捕まえるや否やもと来た道を引き返した。あの時間、異国通りはルド女のお姉さんでいっぱいだ。黄色いルド女のセーラー服は夏の日差しをまとって、歩いているだけでも目がちかちかする。同じルド女の制服を着たマリーの後を、無地のTシャツを着た僕がついていくのが、奇妙に見えたのかもしれない。僕達を見て囁き合うお姉さん達の間を、マリーは物おじせずに歩いた。
駅からルド女までは、そんなに遠くない。駅から出て五分もしないうちに、みずみずしい青色の屋根が見えてきた。ルド女の教会は街の名物で、よそから見に来る人もたくさんいる。教会の隅から伸びたとんがり帽子を指さして、僕はマリーに塔のことを訊ねた。
「ああ、あれは鐘をつく塔よ。高い方が遠くまで聞こえるでしょ?」
マリーは塔をじっと見つめて、それからにやりと笑ってみせた。僕へのお仕置きを考えているときの顔だ。僕は首を肩にうずめて、マリーの思いつきに身構えた。
「ねえ? 今度はあの塔に登らない? きっと海がよく見えるわ」
マリーが言うからには、きっと入っちゃいけない場所だ。もしバレたら、大人たちはかんかんに怒るだろう。
「今度、今度だよ? ……今日は、ほら、時計屋だって言ったじゃないか」
マリーは何か言い返そうとしたとき、校門から楽器のケースを抱えたお姉さんたちが出てきた。ひょっとすると、マリーの知り合いだったんだろうか。自分から話をそらしたくせに、マリーは血相を変えて僕を路地裏に押し込んだ。
僕らは手分けして時計屋を探したけれど、見つかったのは普通の小さな時計屋だけ。日の光も黄色がかってきて、マリーも諦めて帰ろうと言いだしたそのとき、僕らは一本の裏道を見つけた。
美容院と楽器屋の間に伸びた暗い裏道の真ん中に、その時計屋は隠れていた。フクロウの形をした柱時計が出窓に陣取って、目盛をうった大きな目をゆっくりと回してたんだ。
「ケースケ、中に何があったか、後でちゃんと話しなさいよ」
フクロウに睨みつけられ、足のすくんだ僕をおいて、マリーは通りに逃げようとした。
「そんな、待ってよ、無理だよ!」
僕はマリーに泣きついたけど、やっぱり勘弁してくれるわけなかった。
「そう? なら、あのこと、パパに言いつけるわよ」
逃げ出すわけにもいかずに、扉についた窓からお店の中をのぞいてると、突然フクロウがカタカタと音を立てて、せわしなく羽ばたきだした。よく考えたら、4時になって仕掛けが動いただけのことだったんだけれども、あのときの僕はそんなこと思いつきもしなかった。フクロウが僕を見つけて怒ってると思い込んで、大きく悲鳴をあげてしまったんだ。
そうしたら、涼しい音を鳴らしながら、緑色の扉がゆっくり開いた。中から顔をのぞかせたのは、小さな丸メガネをした髭の長いお爺さんだ。お爺さんは顔をしかめていたから、意地悪な博士みたいに見えたけど、あれはひょっとすると困ったときの顔だったのかもしれない。
「……少年? そんなところで、どうしたんだね?」
お爺さんは、しりもちをついた僕を見下ろして、ぼそぼそと話しかけた。
「フ、フ、フ、フクロウが! 今、こっちを見て――」
ああ――大人しくなったフクロウを振り返り、お爺さんは溜息をついた。
「あれはただの時計だよ。時間になれば、同じように仕掛けが動く……客が来なくて退屈していたところだ。良かったら、他の時計も見て行かんか?」
お爺さんは僕を引っ張り起こし、店の中に案内してくれた。まだ外は明るいのにお店の中は薄暗くて、壁にひしめく時計たちを、傘のついた豆電球が弱々しく照らしていた。僕はこのときの驚きを、今でもそっくり思い出せる。学校にもある柱時計、家の形をした鳩時計、木の幹をそのまま使った時計……時計たちが時間をなぞる固い音は何重にも積み重なって、世界中の全部の時間を一つ残らず数えているような気がしたんだ。
部屋の真ん中に立ちつくして、じっくり時計を眺めていると、お爺さんはいきなり、表に向かって声をかけた。
「お嬢さん、そんなところで覗いてないで、堂々と入ってきたらどうかね?」
マリーは少し考えてから、ばつが悪そうに眼を伏せて入ってきた。
「……こんにちは」
お爺さんは小さく頷いて、時計を眺めながら顎ひげを伸ばした。
「ふむ。子供が見て楽しいものか……これなど、どうかな?」
沢山のベルがついた僕の2倍もありそうな時計を、お爺さんはごそごそといじりだした。時計の針が左回りに、12の上を通り過ぎると、お爺さんは重りを引っ張り、僕らのところまで戻ってきた。
「歌を演奏する時計だ。じき――」
お爺さんが言いかけたところで、時計はベルを鳴らし始めた。仕掛けが線を引っ張って、小さなベルを器用に揺らすのを、僕は夢中になって見つめた。僕には、ただなんとなく物悲しい歌だってことしかわからなくて、だから、マリーがぼやいたときには、初めてマリーをすごいと思った。
「よく出来てるけど、半音のベルがないから、なんか気持ち悪いわ」
別に怒るわけでもなく、お爺さんはマリーに訊ねた。
「音楽をやるのかね?」
「バイオリンを……ならってたことがあるの」
マリーの返事がそっけなかったのは、マリーが怒っていたからだろうか。でも、その後お爺さんは日付の分かる時計や中身の見える時計を見せてくれて、そのときはマリーも楽しんでいたような気がする。
「お爺さん」
そうしているうちに、僕はある考えにつきあたった。
「時計の音って、なんだか宇宙の動く音みたいだね……宇宙って、ずっと動いてるんでしょ?」
僕はなんとなく思いついたことを言っただけなのに、お爺さんはにやりと笑って、僕の頭をぽん、ぽんと叩いた。
「よく気づいたね……実はここに、宇宙を動かしている時計があるんだよ」
お爺さんは窓際のテーブルに近づき、赤みがかったテーブルの上に、そっと大きな手を置いた。テーブルの真ん中がくぼんでいて、そこに小さな地球儀がついていた。
「これは宇宙を動かす時計さ。ねじがきれると、この世の時間が止まってしまう。だから毎日、朝夕かかさずにねじを巻いているんだよ」
あの時計には針がない。小さな地球儀と、その周りを囲むドーナツ型の板がついているだけだ。
「この真ん中にあるのが地球だ。地球の周りを回る三重の円盤が、月と太陽、星座を表している。月には表と裏があって、地球儀の外側にある円盤が回ると、この玉も回るようになっているんだよ」
テーブルを覗き込む僕達に、お爺さんは一つ一つ仕掛けを指さしながら話した。
「でも、これじゃ何時か分からないよ」
僕が首をかしげると、お爺さんはゆっくりうなずいた。
「ああ。この時計が教えてくれるのは、星がどちらに見えるかということなんだよ。そして、それより大事な役目は、宇宙の時間を進めることだ」
あのとき僕は、お爺さんの話が信じられなかった。それに、多分マリーもそうだったんだろう。
「嘘でしょう? あなたの話が本当なら、この時計ができる前、宇宙はどうやって動いていたんですか?」
眉間にしわを寄せたマリーに、お爺さんはのんびりと答えた。
「宇宙ができたときには、もうあったのさ。神様が作ったものだからね……そろそろねじを巻く時間だ。どうだね? 君が巻いてみないか?」
お爺さんはカウンターの引き出しからねじを取り出し、僕に手渡した。ねじのつまみは目の形をしていて、確か、赤い紐がついていたと思う。僕はお爺さんに教えてもらいながら、時計の底に空いた穴にねじを指し込み、右向きにねじを巻いた。ねじがガコガコいう音を聞きながら、僕は宇宙のことを考えた。
「ありがとう。君のおかげで、明日もまた陽が昇るだろう」
僕はよく分からないままに頷いたけれど、気付かないうちに、すごいことをしていたらしい。ねじを巻くのをサボっただけで、こんな風に時間が止まってしまうのだとしたら、だけど。
僕はお爺さんにねじを返そうとしたけれど、大切なねじを床に落としてしまった。部屋の時計が、一斉に叫び出したからだ。仕掛けの動く固い音と、偉そうな鐘の音、鳥達の鳴き声が入り混じった乱暴な騒ぎの中で、僕とマリーは震えながら店の中を見渡した。
「5時になったようだ。もう遅いから、そろそろお帰り」
お爺さんの優しい声で僕達はようやく落ち着きを取り戻し、小さくお辞儀をして、時計屋を後にしたのだった。