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やくそくのゆくえ

 僕たちが時計屋に戻り、宇宙の時計のねじを巻くと、街は再び何事もなかったかのように動き出した。あれだけ街を歩き回った後ではあの坂を上る気力など残ってはおらず、何とか座れた路面電車の椅子で、僕たちは眠り込んだ。

 問題の引越しだが、大騒ぎをした割に出発までには間があった。僕たちは夏の残りを今まで通りに過ごし、学校の宿題を5日間で片づけた。別れだけを先に済ませてしまったせいか、二人ともケロリとしていたけれど、いざ船が出る時になると、マリーが大泣きしてしまったのを覚えている。

 それから僕は生意気に文通を始めたものの、それもやがてまばらになり、いつの間にか年賀状しか書かなくなっていた。中学を出て、僕が上京してしまうと、マリーも引越しをしたのだろうか、最後にはお互いの住所が分からなくなって、僕たちの文通は終りを迎えた。僕は時計の工房に弟子入りし、なんとか一人前になり、コンサートで知り合った女の子と付き合いはじめ、今はこうして、人並みの所帯を持っている。


 僕はあれから、一度もあの時計屋に行っていない。次に僕が行ったときには、美容院と楽器屋が、ぴたりと隣り合っているのではないか。ありえない話だが、なぜかそんな気がしたのだ。ただ、イギリスの空気だけでも一度は吸っておきたくて、少しずつ資金を蓄え、8つになる息子を連れて短い家族旅行に出かけた。

「でっけー! ……父ちゃん、あれ、本当に時計なのか」

 徹はビッグベンを見上げ、大きな声で僕に聞いた。

「いや、時計の格好をしてるけど、実はあの下に宇宙船が隠してあるんだ……でも、誰にも言っちゃだめだぞ。これ、父さんと徹の約束な」

 僕が徹に耳打ちするのを見て、早雪は必死に笑いをこらえている。そんな様子に気づいたからか、向かいから来た現地の女性が徹の脇に屈みこみ、なんと日本語で話しかけた。

「坊や、宇宙船、好き?」

 少し訛りはあったものの、外国人とは思えない、ずいぶんとはっきりした発音だ。

「うん、おばちゃんは?」

 女性が笑うと、サングラスの奥に小さなしわが寄った。

「私はそうでもないけれど……そうね、下の子はスターウォーズが大好き」

 幾つぐらいの子供だろうか。徹にはまだ早いのか、うちでは専ら、僕がスターウォーズの担当だ。

「日本語、お上手ですね」

 立ち上がった女性に向かって、早雪が小さく会釈した。

「母が日本人なんです。でも、随分なまってしまった……久しぶりに日本語が聞けてよかった。旅行、楽しんで行ってください」

 熱い風に、半透明のカーディガンが揺れた。淑女然とした身なりをして、髪を短く切りそろえてはいるものの……声が少し、似ている気がする。

「それじゃ、坊やも。元気でね」

 徹が手を振るのを見守ってから、僕たちは顔を上げ、彼女に別れを告げた。今のがマリーだとは限らないし、確かめようとも思わないが、イギリスに来た甲斐はあったのかもしれない。僕は彼女を一度だけ振り返り、再び早雪と並んで徹の後を歩きはじめた。





 僕には家族がいる。住宅ローンが残っているし、最近は腹も出てきた。それに、あれから26年もの月日が流れてしまっている。だから、きっと今のは人違いだ。人違いだと、分かっているはずなのに、僕の足は次第に重くなり、ついにはぴたりと止まってしまった。そして、見えない力に引き寄せられ、もう一度後ろを振り返った時、横断歩道の向こうでマリーが僕を見つめていた。

 点滅する青信号に向かって、僕は手を振って走り出した。こんなに真面目に走るのは、幼稚園の運動会以来か。あっという間に息が上がり、重たい革靴が全力で足首にかみついた。信号も変わってしまい、車が動き出したというのに、それでも僕は止まれない。クラクションを鳴らしながら、突っ込んできたワゴンの前で、思いきり大きく跳んだ。

「大丈夫ですか?」

 硬いヒールの音を響かせ、女性は僕に駆け寄った。盛大に擦りむいた両手がひどく痛んだが、そんなことはどうでもいい。

「しまった!」

 痛みをこらえて立ち上がると、僕は真っ先にポロシャツのポケットを探った。ガーネットを散りばめた、純金の懐中時計。念のために蓋を開いてみたが、針の動きにおかしな様子はない。

「時計も心配ですが……随分とひどい怪我ですよ!」

 女性は血相を変えて、血まみれの肘にハンカチを巻いてくれた。ブドウのつるが描かれた薄いベージュのハンカチに、茶色いシミが広がってゆく。

「初めて作った時計なんです。友人に渡すために、ずっと持ち歩いていた。でも、壊れていないみたいで、よかった」

 蓋の裏に入った名前を見せると、女性は小さく顔を背けた。

「……右手も手当てしましょう。ハンカチはありますか?」

 僕は時計を女性のバッグに押し込み、右手でハンカチを取り出した。

「受け取ってください。お礼というわけではありませんが……その、友人には渡し損ねてしまったんです」

 女性は僕の手からハンカチをひったくって、細長くたたみ、僕の肘に巻き始めた。

「受け取れません、こんな高価なもの、今更」

 ハンカチの角を小さく結ぶと、女性はうつむいたまま、僕をとがめた。骨ばった手が、つやのある皮ひもをぐっと強く握りしめている。

「なら、彼女に会った時に、代わりに渡して下さいませんか。僕からこれを渡す機会は、もうないと思うから」

 女性がふと顔を上げ、涼しげな青い瞳を、じっと僕の顔に向けた。分かっていたことだけれども、引き返したのはやはり間違いかもしれない。女性が笑顔を作るまでにはほんの少し時間がかかった。

「そう……そういうことでしたら、喜んでお預かりいたしますわ」

 交差点を横目で見やると、横断歩道の向かい側で、早雪と徹が待っている。

「いや、ありがとうございました。そろそろ信号も変わるので、僕はここで」

 信号が変わり、挨拶もほどほどにそそくさと歩き出したその時、信号の鳴き声に混じって僕の名前が小さく聞こえた。

「ケースケ」

 僕は決して振り返らずに、一瞬だけ立ち止まった。

「ありがとう――約束、守ってくれて」

 マリーは今、笑っているだろうか。笑っていると、僕は思う。そう信じて徹に手を振り、僕は再び歩き出した。背後では、軽快なヒールの音が雑踏の中に消えてゆく。

 そうして僕たちは、日々の暮らしに帰っていったのだ。


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