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『代価』(仮)  作者: 新米オッさん兵士


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第1章 掌の天使

佐藤悠真は、朝の陽射しがカーテンの隙間から差し込む自室のベッドで、ゆっくりと目を覚ました。

 左手のひらに、いつもの感触があった。

「ん……おはよ、悠真くん♪ 今日も可愛い寝顔だったよ?」

 十五センチほどの小さな少女が、俺の掌の上で両手を広げてにこにこ笑っている。

 純白の羽をぱたぱたと動かし、銀色の髪を朝陽に輝かせながら。

 自称「ミカエルちゃん」。

 俺が生まれた瞬間から、ずっとここにいる。

 手のひらサイズの天使。

「おはよう……ミカエル。今日は早いな」

 俺は上半身を起こし、左手を目の高さまで持ち上げた。

 彼女は慣れた様子で俺の親指にちょこんと腰掛け、足をぶらぶらさせる。

「だって今日、学校で大事な日でしょ? あのいじめっ子のリーダー、田中がまた悠真くんのこと狙ってるって聞いたよ。

 ほら、昨日の夜、悠真くんがちょっとだけ『身体強化30%アップ』を試したでしょ? 小指の爪、一枚削ったよね」

 俺は左手小指を見下ろした。

 確かに、昨日まであったはずの爪が一本、綺麗に消えている。

 代わりに、指先が少しだけ強くなった気がする。

 でも、まだ実感はない。30%なんて、所詮微々たるものだ。

「使いたくなかったんだけど……昨日の夜、ちょっと腹が立ってさ」

「えへへ。いいのいいの! 代償を払ったんだから、ちゃんと強くなってるよ?

 今なら田中の顔面、軽く殴ったら鼻血出るくらいにはなると思う!」

 ミカエルちゃんは無邪気に笑う。

 天使の笑顔は、どこまでも純粋で、どこまでも残酷だ。

 この世界では、生まれたすべての人間の左手に、掌サイズの天使が宿る。

 天使は「代償の判定者」。

 人間が何かを「捧げる」ことで、魔法やスキル、身体強化を得られる唯一のシステムを管理している。

 代償は重ければ重いほど、得られる力も大きい。

 小指の爪一本で身体強化30%。

 人差し指全部で「火球術」。

 片目全部で「短期未来視」。

 そして——大切な記憶や、感情、寿命、他人との絆までもが、代償になり得る。

 誰もが知っている。

 天使は「守護者」だと。

 でも、誰も本当のところは知らない。

「ねえ悠真くん。今日、もっと削らない?

 例えば……左手の小指全部で、身体強化150%とかどう?

 田中なんか一瞬でぶっ飛ばせるよ?」

「……やめとく。学校で目立つのは面倒だ」

 俺はベッドから降り、制服に着替えた。

 ミカエルちゃんは俺の肩に飛び乗り、耳元で甘く囁き続ける。

「でも悠真くん、強くなりたいんでしょ?

 このままじゃ、ずっと弱いままだよ?

 みんな、どんどん強くなってるのに。

 クラスで一番の刻印者、葵さんなんかもう両手の爪全部削って、剣術スキル取ってるって聞いたよ?」

 刻印者。

 多くの代償を払い、力を得た人間たちの総称。

 社会では尊敬され、企業や政府からも優遇されるエリートだ。

 でも、俺はまだ「爪を三枚」しか捧げていない。

 弱い。

 本当に、弱い。

 朝食を済ませ、家を出る。

 ミカエルちゃんはいつものように俺の左手のポケットの中に隠れる。

 他人には見えない。

 見えるのは、宿主である俺だけ。

 高校までの道中、彼女は延々と代償を提案し続けた。

「右耳の聴力20%で『高感度聴覚』はどう?

 敵の足音が先読みできるよ?

 ……ダメ? じゃあ、昨日の夕飯の美味しかった記憶一つで『一時的幸運』!

 今日のテスト、満点取れるかも!」

「うるさいな。黙っててくれ」

「えー、ひどい! 私は悠真くんのこと、本気で強くしたいだけなのにー!」

 彼女の声は本当に天使みたいに可愛い。

 だからこそ、怖い。

 学校に着くと、教室はすでにざわついていた。

「おい、佐藤。また天使と話してんのか? キモいんだよ」

 田中が、取り巻き二人を連れて近づいてきた。

 身長百八十センチを超えるガタイ。

 奴も刻印者だ。

 右腕の肘から先を代償に捧げて、「怪力強化」を得ている。

 その証拠に、制服の右袖がだらしなくぶら下がっている。

「ほらほら、悠真くん。反撃のチャンスだよ?

 今なら小指の爪一本追加で、十分戦えるよ?」

 ミカエルちゃんが興奮気味に囁く。

 俺はため息をついた。

「……放っておいてくれ。俺は争いごとは嫌いだ」

「は? お前、相変わらず天使に頼りきりで何もできねえのかよ。

 弱虫が」

 田中が俺の胸倉を掴もうとした瞬間——

 俺は咄嗟に左手でガードした。

 昨日削った小指の爪の効果か、田中の手がわずかに止まる。

 でも、それだけだ。

「チッ……」

 田中が舌打ちしたその時、教室の後ろから声がした。

「田中くん。朝から暴力はよくないよ」

 長身の美少女——神崎葵が、静かに立っていた。

 彼女の左手には、明らかに多くの爪が削られた痕がある。

 刻印者の中でもトップクラスの実力者。

 噂では、すでに「風の操術」まで習得しているという。

 田中は舌打ちをもう一度して、取り巻きを引き連れて去っていった。

 葵が俺に近づき、小さく微笑んだ。

「佐藤くん。また我慢してるの?

 ……天使、どんな顔してる?」

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

 葵にも天使が見えているはずだ。

 でも、彼女の天使は俺のミカエルとは違うらしい。

「普通……だよ」

「ふふ、そう」

 葵はそれだけ言って自分の席に戻った。

 授業が始まっても、俺の頭の中はぐるぐる回っていた。

 ——本当に、このままでいいのか?

 弱いままで、誰かに守られて、誰かに馬鹿にされて。

 昼休み。

 屋上で一人で弁当を食べていると、ミカエルちゃんがポケットから顔を出した。

「ねえ、悠真くん。

 本気で強くなりたい?」

 彼女の声が、いつもより少しだけ低かった。

「小指の爪全部で、身体強化150%。

 それだけじゃなくて……

 『初恋の記憶』を一つ捧げれば、

 今日一日だけ『完全無敵モード』にできるよ?」

 俺は弁当を置いた。

「お前……本気で言ってるのか?」

 ミカエルちゃんは、にっこりと笑った。

 天使らしい、無垢で、残酷な笑顔で。

「もちろん本気だよ?

 私は悠真くんを、

 この世界で一番強くしたいんだから」

 その瞬間、俺は初めて気づいた。

 彼女の瞳の奥に、

 ほんの少しだけ——

 俺の知らない何かが、潜んでいることに。

 遠くの空で、

 誰にも見えない巨大な天秤が、

 静かに傾き始めていた。

(第1章 終わり)

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