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Bar Absolution ~罪喰いの夜~  作者: 依羽


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6/6

6.Last Word-新しい人生へ-

「おかあさん、いたいいたいなの?」

「え? あっ……」パシッ


 “あの日”を境に、芙美(ふみ)の表情が曇ることが多くなった。

 心配して手を伸ばす透の手を、反射的にはじいてしまうのも……もう何度目になるのか。


「ごめんなさいね、大丈夫よ」


 そう言って透の頭を撫でる手は震えていて。笑顔は何だか怯えているように見える。そのまま、自室へと戻って行った。

 透と顔を合わせる時間も、確実に少なくなっている。自室に籠ることが多くなり、そこに透の立ち入りは禁止されているのだ。


「いっちゃん。おかあさんはぼくのことがきらいなのかな」

「そんなわけないだろ! とおるのおかあさんはいつだってにこにこして、とおるがだいすきだっていってたぞ!」


 泣きそうな顔で見上げてくる透の手を握り、樹は力強い声で答える。


「そうかな?」

「そうだぞ! いまはちょっとちょーしがわるいだけだって、とおるのおとうさんもいってただろ」

「そっかぁ……じゃあ、それがなくなったら、げんきになる?」

「ああ、きっとだいじょうぶだ」


 元気づけるように透をギュッと抱きしめ、「大丈夫」と言い聞かせるように背中をさする。


「じゃあさ、いっちゃん」

「ん?」

「きょう、ねんねのとき、いっしょにおかあさんのとこいってくれる?」

「ああ、いいぞ。でもしかられないか?」

「みんなには、しぃーね」

「わかった」



 その日の夜、屋敷中が寝静まった頃。

 いつも通り二人は一緒に寝かしつけられていたのだが、樹がこっそりとセットしていた目覚まし時計が鳴った。


「とおる、おきろ」

「んー? いっちゃん……?」

「おかあさんのとこ、いくんだろ」

「あっそうだった! ありがとう、いっちゃん」


 そっと布団から抜け出し、そっと部屋を抜け出し、そーっと、芙美の部屋に向かう。


「おかあさん、ねんねしてるかな?」

「ものおとはしないな」


 ヒソヒソと話をしながら、静かに扉を開けて中の様子を見ると、芙美はベッドに横たわりしっかりと布団をかけている。耳を澄ますと、スーッと規則正しい寝息が聞こえた。


「いっちゃん、ねんねしてる!」

「だいじょうぶそうだな」


 足音を立てないように、こっそりと芙美の枕元に近づき、頭に触れる。


「いたいのいたいの、とんでけー」


 そう、透が口にした時。透の頭の中に流れ込んできたのは、芙美の感情だった。

 

 あの日――透の『罪喰い』としての能力が顕現した日。

 当主である宗介が透を呼び出し、あの騒動について“確認”を取った後、芙美と昌宏も宗介に呼ばれ事情を聞いていた。

 月峯の先祖には『罪喰い』がいたこと。

 そして、何世代かに一人、その能力を持った子供が生まれること。

 宗介の祖父が、先代の『罪喰い』だったこと。


 直接関わることがなければ知らされることがない、『罪喰い』という存在。

 愛していたはずの息子に触れることが怖い。目を合わせたら、すべてを見透かされそうで怖い。……そんな風に思ってしまう自分に、嫌悪感でいっぱいになる。

 自分の息子が“異質”な存在だと聞かされたショックと、『罪』を見抜き『罪を喰う』という能力に抱いてしまった畏怖の感情に、芙美の心は押し潰されそうになっていた。


 突然流れ込んできた母親の、自分へ向けられた感情に、透は戸惑い、そのまま“喰って”しまった。

 恐怖と悲しみに襲われながら、咄嗟にその“すべて”を。


――――――――



「こんばんは」


 日中は汗ばむ陽気が続くようになった初夏の夜も、陽が落ちるとまだまだ肌寒い。そんな、少しだけ冷んやりとした空気を纏いながら、一人の老婆がBar Absolutionの扉を開けた。


「こんばんは。過ごしやすい季節になってきましたね」


 いつも通り穏やかな笑顔で迎える透に、強張っていた老婆――渡邉(わたなべ)幸子(さちこ)の顔が解れる。


「違ったらごめんなさいね。ここは、『罪喰い』のお店?」

「左様でございます。どなたからのご紹介でしょうか?」

「昔、父から聞いたことがあってね。正直、半信半疑だったのだけれど……」

「本日は、どういったご用件で?」


 その問いに幸子は答えず、じっと透の顔を見ている。


「いかがされましたか?」

「いえ、ね?父が話してくれた罪喰いさんは、もっとこう……厳粛そうな紳士のイメージだったから。お兄さんはどちらかというと、穏やかな王子様って感じよね」


 ふふふ、と微笑みながら言われた言葉に、透は思わず笑顔のままで固まってしまう。裏からは樹が静かに噴き出す声が聞こえた。

 コホンッとひとつ咳払いをして、「何か飲まれますか?」と仕切り直すように注文を聞く。


「そうね……せっかくだからお任せするわ。私、あまりお酒に詳しくないから」

「かしこまりました」


 注文を受け、シェイカーとカクテルグラスを取り出す。そして流れるようにシェイクし、幸子の前にゆっくりと置いた。


「お待たせいたしました。ウォッカマティーニでございます」

「あら、ウォッカは知っているわ。とても強いお酒じゃなかった?」

「ええ。ウォッカは世界四大スピリッツの一つでして、一般的に売られている度数は四十〜六十度ほどのものが多いです。ビールのアルコール度数が五度前後ですので、比較するととても強いものになりますね」

「若い人なんかはこれをそのまま飲んだりするんでしょう?」

「そうですね。元々ウォッカは味に癖のないお酒なので、純粋に“刺激”を楽しむためにショットで飲まれることも多いです。こちらのカクテルに使ったのはクリアウォッカという、無味無臭と言われているウォッカですので、飲みやすいと思いますよ」


「強いお酒」という言葉に慎重になりながらも、その瞳に宿る好奇心は隠せていない。

 恐る恐る、グラスに口をつけ、傾ける。


「あら?確かに、お酒って感じはするけど、思ったより飲みやすいわ」

「それは良かった。ステア……マドラーで混ぜるより、こちらのシェイカーで氷と一緒にシェイクすることで通常よりマイルドな味わいになるんです。ウォッカの量も少量にしておりますが、念のためこちらのチェイサーと一緒にお飲みください」

「ありがとう」


 笑顔で礼を言う幸子に、透も笑顔を返す。そこに、樹が裏から顔を出し、一枚の皿をカウンターに置いた。

 

「こちらも、よろしければご一緒にお召し上がりください」

「まぁ、美味しそうねぇ」


 皿の上に盛られているのは、生ハムとチーズ。幸子は嬉しそうにフォークを持つと、早速生ハムを口に運ぶ。


「美味しい。生ハムねぇ、昔どこかのパーティーで食べたことがあって、そこで私大好きになったの。何年ぶりかしら、やっぱり美味しいわぁ。このカクテルともよく合うのね」

「そう言っていただけて、嬉しいです」


 そう、言葉を切ると、透はふっと表情を引き締めた。


「――お客様。ウォッカマティーニのカクテル言葉は、『選択』でございます」

「選択……」

「本日は『罪喰い』への依頼でご来店された、ということでよろしいでしょうか?」


 透の真剣な声音に、幸子もまた表情を引き締め、フォークを置く。


「ええ、そうよ」

「では、ご依頼の概要をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 

 その言葉に、幸子はもう一度マティーニで喉を潤し、背筋を伸ばして透を見上げた。


「私、主人を殺しましたの」

「殺し、ですか」

「ええ。殺してしまったのよ」


 先ほどとは打って変わり、淡々と紡がれる言葉。その表情には、何の感情も載せられていなかった。


「詳しくお聞きしても?」

「――ここ五年ほど、主人を自宅で介護していたの。大きな病気を患っていたわけではないので病院に入ることも叶わず、『他人の世話になりたくない』と施設に入ることも拒み。ずっと、私が一人で」

「それは、大変でしたね」

「大変……そうね、大変だったのかもしれないわ。でも何だかよくわからなくて」


 そう言いながらチーズをつまみ、どこか遠くを見るような目をした。

 

「わからない、とは?」

「介護を始めたばかりの頃は、確かに“辛い”という感情があったと思うの。介護生活になって、横暴さと理不尽さがより一層酷くなったから」

「……」

「それが日常になって、気づいたら“辛い”という感情よりも、“怒らせないように”って怯えながら過ごすようになったの。それも通り過ぎたら、“今日はあまり怒鳴られずに済んだ”って一日の終わりに安堵するだけ。“辛い”なんて、思う余裕もなかったわ」

「それは……」

「だから、死んでくれた時は正直せいせいした。ああ、これで解放されるんだって」


 「酷いでしょ?」とほのかに笑う表情は、少しだけ寂しそうに見えた。


「先ほどの、『殺した』というのは?」

「死因自体はね、事故だったの。仰向けで寝ている間に嘔吐したみたいで、嘔吐物が喉に詰まっての窒息死。気づいた時には手遅れだったわ」

「では、何故『殺した』と?」

「私ね、その時出掛けてたのよ。近くのスーパーに、買い出しにね。……別に急いで必要な物があったわけじゃないから、ヘルパーさんにお願いしても良かったんだけれど」


 一旦言葉を切り、一呼吸置いて続ける。


「離れたかったの。あの人から、あの家から。だから、家を出た。ちょっとした気分転換のつもりで。……だけど、心のどこかにあったのよね。“いっそ私がいない間に死んでくれたらいいのに”って」

「でも、直接手を下したわけではないのですよね?」

「ええ、そうよ。だから私は裁かれないの。むしろ同情してくれる人が多かったわ。“よく一人で頑張ったね”って」


 そこまで言って、また一口マティーニを飲み、何かを嘲笑うように歪んだ笑顔を見せた。


「慰めにもならないわよね、そんな同情。本当に辛い時は、誰も助けてくれなかったんだもの。入浴介助のヘルパーさんだけよ、わかってくれていたのは」 

「では――お客様が忘れたいのは、『潜在的な罪の意識』ということでよろしいでしょうか?」

「ええ、そういうことになるわね」


 ふう、と息をつき、隣の椅子に置いていた鞄を手に取る。おもむろに鞄から取り出したのは、銀行の名前が入った封筒だった。


「依頼料がいくら必要なのかわからなかったから、とりあえず百万円だけ持って来たわ。足りなければその分は後日必ず払います。……どうかしら?」

「いえ、充分でございます。少々お待ちください」


 そう言って、透がConfessionを作り始める。手際よく作ったそれを、優しくカウンターに置いた。


「こちらのカクテルはConfession。意味は、『告白』。こちらを飲んでいただきますと、依頼の受注が完了いたします」

「じゃあ――……」

「ただし」


 すぐに手を伸ばそうとする幸子を、言葉で止める。


「その『罪』を喰った代償に、あなたは『失う』ことになります。『罪の記憶』だけでなく、もしかしたらご主人との思い出すべてを。そして、それに付随するものも、すべて」

「それは、子供たちのことも、ってことかしら?」

「はい。あくまでも、“もしかしたら”ですが。お客様の『意識』次第ではそうなる可能性もあることをご了承いただけますか?」

「ええ、構わないわ。覚えていたい記憶なんて、ないもの」

「かしこまりました。では――あなたの罪、私がいただきますね」


 透の言葉を聞き、幸子は迷うことなく一気に飲み干した。


 

――――――――


 “幸”せな“子”と書いて、幸子。

 父親が私の幸せを願って名付けてくれたと聞いている。……だけど、本当に幸せな人生を送っている“幸子”なんているのかしら。少なくとも、ここにいる“幸子”は幸せなんかじゃないわよ?

 実家にいる時はそれなりに幸せだった気がするけれど、結婚してからは生活が一変した。

 お見合い結婚をした相手は典型的な亭主関白で、専業主婦である私を見下し、いつも文句ばかり。モラハラ・フキハラって言葉をテレビで初めて聞いた時は驚いたわ。これ、うちの主人じゃないって。

 自由が無く、お友達と遊ぶことも許されなかった結婚生活。人と関わる場といったら、あの人の仕事関係で開かれるパーティーくらい。……その時に食べた料理は美味しかったわ。あの人の希望で和食ばかりが並ぶ我が家の食卓とは大違いだった。生ハムなんて、初めて食べたもの。


 いつだって一番は主人で、次に子供達。私の存在は、あってないようなものだった。きっと、住み込みの家政婦くらいにしか思われていなかったんじゃないかしら。子供達も自分の父親の態度を見て、私を見下し続けていたから。

 悲しい、とか寂しい、とかそんな感情すらもう感じない。

 最後の最後まで私を罵倒していた主人と、「お前が父さんを殺したんだ」と責める息子と娘。

 家族の情なんてものは、どこにも感じなかった。


 衣食住には不自由をしなかったから感謝している。……なんてこともないわ。服なんて擦り切れるまで着回していたし食べる物はほとんど残飯だった。自分の好きな料理なんて、作ったことがない気がする。住……は、まぁ無駄に広かったわね。掃除が大変だったわ。

 ……やっと解放された。私はこれから一人で生きていくの。ほんの少しだけあったような気もする、“幸せな思い出”も、すべて捨てて。

 『幸子』の名前に相応しい、幸せな人生を――


――――――――


 

「透、起きろ」

「――あ、いっちゃん。おはよう」

「おはよう、じゃねぇ。ちょっと長すぎだ……起きないかと思っただろう」

 

 眉間に寄った皺と掠れた声が、樹の焦燥を表していた。


「ごめん、いっちゃん。何時間くらい経った?」

「もうすぐ五時間、だな」

「わ、そんなに経ってたんだ。……心配させちゃったね」

「いや、起きたなら、それでいい。辛くないか?」

「うん、大丈夫。でもさ、」

「ん?」

「“家族になれない家族”って、悲しいね」

「……血が繋がっているから、すべてを分かり合えるわけじゃないだろ」


 どこか、痛みを我慢するように、痛みに寄り添うように。透の肩を抱き寄せる。


「忘れた方が幸せな記憶があることはわかってる。でも、自分の子供ですらも、その対象になっちゃうんだなって……」


 いつになく弱っている透の表情(かお)は、まるで“あの夜”のようだった。


「透。今回のケースは、お前の時とは違う」

「違う……?」

「ああ。お前と母さんには、間違いなく親子としての思いがあった。だからこそ苦しんだんだ。“家族になれない”んじゃない。互いを守るために、“離れた”だけだ」

「そうかな」

「そうだろ」


 “――あら、初めまして。分家の子かしら? よろしくね”


 “あの夜”の翌朝。透と樹に向けられた芙美の笑顔は、とても柔らかかったが、そこに親愛の情は入っていなかった。

 初めて会う幼な子に向けられた、『優しい大人』の笑顔だったのだ。


「忘れる側よりも忘れられた側の方が、辛いものだよね」

「それは、そうだろうな」

「でも正直、この人の家族は因果応報だと思うよ」

「そうか」

「うん。これからは理不尽に搾取されることなく、気楽に生きられるといいんだけど」


 今後を案じるように透が視線をやると、カウンターに突っ伏していた幸子が身じろぎ、起き上がった。

 

「あら……?」

「お目覚めですか?」

「ええ。私、眠っていたの?いたた……何だか身体がすごく痛いのだけれど」


 五時間近くもあの体勢で眠っていたのだ。老齢の身体にはなかなか酷というものだろう。


「申し訳ございません。もっと早くお声を掛けるべきだったのですが……」

「ゆっくり寝かせてくれたんでしょう? 身体は痛いけど、お陰様ですっきりしているもの。ありがとう。これも、とても暖かくて心地よかったわ」


 晴れやかな笑顔でそう言うと、肩に掛けられていたブランケットを畳み、隣の椅子に置いた。


「ご気分はいかがですか?」


 氷を入れたグラスにミネラルウォーターを注ぎ、カウンターに置きながら透が尋ねる。


「ええ、大丈夫よ。でも、どうして寝ちゃったのかしら」

「お疲れだったのでは?」

「……どうだったかしらね。何だか頭にもやがかかっているような気がするの。気分はすごくいいのだけれど……」

「きっと、知らず知らずのうちに何かが溜まっていたのでしょう。今、ご気分がよろしいのなら良かったです」


 にこやかに応える透に釣られて、幸子も笑顔になる。


「そうよね、気分がいいのはいいことよね」

「ええ、いいことです」

「――ねぇ、この気分に合うカクテルを何か作ってもらえないかしら?」

「かしこまりました。少々お待ちくださいね」


 そう言って透が作ったのは、ライトグリーンのショートカクテルだった。


「こちらをどうぞ」

「これは、何て言うカクテルなの?」

「ラストワード。カクテル言葉は“別れの言葉”です。何か『一区切り』をつけたい時に選ばれることが多いカクテルになります」

「一区切り、ね……何だかわからないけど、すごくしっくりくるわね」


 幸子はゆっくり、グラスを傾ける。


「甘酸っぱい……けど、何かしら? 何だか不思議な味ね」

「主張の強いお酒を合わせて作っておりますので、個性的な味だと言われる方が多いですね。よろしければ、こちらのチョコレートも一緒にどうぞ。また違った味わいを楽しめますよ」


 そう言って渡されたチョコレートを載せた皿に、幸子は嬉しそうに手を伸ばす。


「あと、こちらを」


 次に透が差し出したのは、一枚の名刺。


「弁護士さん、ですか?」

「ええ。もしかしたら今後、ご入用になることもあるかと思いまして」

「何かあるかしら。でも、ありがとう。必要になったら、頼らせていただくわね」


 きっとこれから、多少のゴタゴタが起きるだろう。あの血縁者達を相手にしなければならないのだから。



 

「ふぅ……そろそろ帰ろうかしら。長居してしまって、ごめんなさいね」

「とんでもございません。ここで過ごした時間が、お客様の人生において有意義な時間になっていたら良いのですが」

「ええ、とっても。正直曖昧な部分もあるけれど……あなたと話をしている時間は、とても気分がいいわ」

「そう言っていただけると、至極光栄でございます」


 会計を終え扉へ向かおうとする幸子に、裏から顔を覗かせた樹が紙袋を透経由で手渡した。


「こちら、よろしければ召し上がってください」

「これは……?」

「バウムクーヘンでございます。うちの者が作るお菓子は、とても美味しいのですよ」


 得意げな透の表情に、思わず笑ってしまう。


「バウムクーヘン、美味しいわよね。確か前に食べたのは……あら? いつだったかしら。忘れちゃったわ」

「ふふ。きっとこれは、忘れられない味になりますよ」

「おい、ハードル上げんな」


 二人のやり取りにまた笑みを浮かべ、扉の取手に手を掛けた。


「ありがとう。美味しくいただくと約束するわ」

「ええ、ぜひとも。……お客様の“これから”が、たくさんの光に包まれますように。心から、お祈りしております」


 最後に、涙を堪えるよう笑顔で頭を下げ、店を出て行った。



 *

「樹、報告書が届いたよ」

「報告書?」

「うん。あの後、弁護士さんに正式な依頼が来たって言ってたでしょ?」

「ああ、子供達との関わりを無くすために遺産を全部整理したいってやつだな」

 

 幸子が来店して数ヶ月後、透の元に届いた報告書には、遺産整理が無事完了した旨が書かれていた。

 

「そうそう。子供達……まぁ、もういい大人なんだけどさ。本当に最後まで救いようがない人たちだったみたい」

「そんなに酷かったのか」

「そもそもね――」

 

 ――報告書に書かれていた詳細は、こうだ。

 曰く、「人殺し」だと責めたのは、遺産相続で母親を不利にするため。

 曰く、孤立した母親を長男が引き取り、体よく自分達の面倒を見させようとしていた。

 曰く、子供らは決して母親を疎んでいたわけではなかった。むしろ母親の自尊心を削り、どこにも行けないようにさせていた。


「――っていうことだったみたいだよ。この前とはまた違う形の、“歪んだ愛情”だね」

「……だな」

「でもね、彼女はもう家族と過ごした時間を忘れてしまったから。『母親相手にそんな言い方しかできない子供となんて、金輪際関わりたくないわ』ってはっきり言ったらしいよ」


 きっと、あっけらかんとした態度だったんだろうな。と、その場面を想像した透が笑う。


「記憶が無くなることで、呪縛も解けたんだな」

「そうだね。今まで自分達の言いなりだった母親に見限られた人達が、その過ちに気づけたらいいんだけど。難しいかな」

「……」

「樹?」


 黙ってしまった樹の顔を覗き込むと、どこか苦しそうな表情をしていた。


「どうしたの?」

「なぁ、透」

「ん?」

「俺は……お前を縛り付けているか?」

「え?」

「お前も、ずっと俺としかいないだろ。本当はもっと外に出て、いろんな人と関わりたいんじゃないかと思ってな。……お前は、人が好きだろう?」


 苦しそうな、不安そうな。まるで、飼い主に置いて行かれそうな大型犬のような顔をしている。樹に耳や尻尾があったなら、きっと垂れ下がっていたことだろう。

 

「それを言うなら俺の方じゃない?」

「は?」

「この店を一緒にやろうって誘ったのも俺だし、小さい頃からずっとお世話してもらってばっかりだもん。樹なら、他の仕事だってできるのに」

「俺は自分の意志でここにいて、好きでお前の世話を焼いているだけだ」


 申し訳なさそうな透の言葉を、即座に否定する樹に透は驚いたように目を見開き、嬉しそうに笑う。


「じゃあ、お互い様だね。それに俺は、これ以上ないっていうくらい、樹に大切にされてるって思ってるよ」


 それこそ、物心つく前から、ずっと。


「それに、俺もいっちゃんが一番大切。何か問題あると思う?」

「いや……何もない」

「血の繋がりはなくても、いっちゃんは俺の家族だよ」

「……ああ、そうだな」



 

 誰よりも近い位置にいるはずの家族。

 だからこそ、互いを思いやる心が大切なのだ。

 『当たり前の愛情』なんて都合のいいものは、この世には存在しないのだから――

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも心に残るものがありましたら、下のブクマや評価【☆☆☆☆☆】、リアクションなどで応援いただけると、嬉しいです。

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