5.Ice breaker-歪んだ愛情-
『罪』とは何だろうか。
『善』『悪』とは何だろうか。
その時代や背景によって変化してきたそれらに確立した定義はなく、ひと昔前の『善』が今の時代では『悪』にだって成りえる。
良心があれば何をしてもいいのか。
悪意がなければ、許さねばならないのか。
そうではないはずだ。
大切なのは、『人の心を慮る』ことなのだと。
どんなに近しい相手にも『心』があることを――忘れてはいけない。
*
「いらっしゃいませ」
春の大型連休が終わり、五月病という流行り病が蔓延しやすい季節。
今宵、Bar Absolutionの扉を開けたのは四十代ほどの落ち着いた雰囲気の女性だった。
「あら、ここはBarかしら?」
「はい。Bar Absolutionでございます」
「ふぅん」と、まるで品定めをするかのように女性は透を見る。
「あなたお一人? 店長さんは?」
「僭越ながら、私でございます。従業員は裏に一人、調理担当の者がおります」
「あなたが店長さん? 随分若いのね」
「若輩者ですが、心を込めておもてなしさせていただいております」
棘を含んだような言葉に、透はにこやかに応対する。裏で樹が不穏な空気を出していることに気づいてはいるが、表情を崩すことはない。
「そう。まずはブランデーをいただける? 銘柄は任せるわ」
「かしこまりました」
その注文に透は少し考えながら、チューリップ型のブランデーグラスを取り出し、氷を入れずにブランデーを注いだ。
「お待たせいたしました」
「マーテルのX.O.ね。いいセンスしてるわね」
「お客様をイメージしたものを選ばせていただきました」
透の言葉に、女性客――槇村冴子は気を良くしたようにブランデーの香りを楽しむ。
「……ねぇ、店長さんはいくつになるの?」
「今年で二十六歳になります」
「このお店は長いのかしら?」
「そうですね、お陰様でもうすぐ五年になります」
「そう。ご両親は、この仕事に就くことに反対はされなかった?」
「私に両親はおりません。代わりに私を育ててくれた祖父母は、応援してくださいましたよ」
思いもよらぬ答えだったのだろう。冴子が一瞬息を呑んだ。
「それは……不躾な質問をして、ごめんなさいね」
「お気になさらないでください。ですが、何故『反対』されると?」
「だってほら、こういうお仕事って浮き沈みがあるでしょう? もっと安定した仕事をして欲しいと思うのが親心じゃないかしら」
「……そうかもしれませんね」
賛同を得られたと思ったのだろう、嬉しそうにブランデーを口に含み、「おいしい」と呟きながら言葉を続ける。
「そうでしょう? あなたも、今は若いからいいかもしれないけどいずれ普通の仕事をしていれば良かったって思う日が来るわよ。今からでも何か考えてみたらどうかしら」
「その方がきっと、亡くなったご両親も喜ぶわ」
その時、裏から出て来た樹がドンッと乱暴に皿を置く。突然現れた長身の男に睨まれるように見下ろされ、冴子の顔が怯えたように歪む。
「な、何よ。随分と態度の悪い店員ね!?」
怯えながらも必死に訴える冴子の姿は、まるで大型犬相手にキャンキャン吠える小型犬のようだ。
その様子を見て、冴子の言葉に少なからず乱されていた透の心が、ふっと楽になる。
「お客様、大変失礼をいたしました。――ですが、私の人生は私が決めるものですので。お気遣いは結構でございます」
笑顔ではいるが明確な拒絶を示す透の言葉に、冴子が泣きそうな顔をした。
「何なのよっ私は良かれと思って言っているだけなのに! 何でそんな……っ」
そう、叫びながら。樹が置いた皿にあるナッツを掴み一気に口に入れ、ブランデーで流し込んだ。
「あなたも、あの子も、何でわかってくれないの……っ」
「あの子、とはどなたのことでしょうか」
チェイサーとしてのミネラルウォーターをカウンターに置きながら、透が尋ねる。
「うちの息子よ。頑張って一人で育てて来たのに、今じゃすっかり反抗期になって。おまけに今は大学受験に失敗して家で引きこもりよ?あんなに、塾や参考書にお金をかけたのに……」
「それは、大変ですね」
「そうなのよ! 将来食いっぱぐれることがないようにって思って進路を考えていたのに」
「誰が、ですか?」
「え?」
「誰が、その進路を考えたのですか?」
「私に決まっているじゃない。将来、息子が困らないように導いてあげるとこまでが親の仕事でしょ?」
きっと、冴子は本気で思っているのだろう。「当然でしょ?」と言わんばかりの表情で透を見上げてくる。
「息子さんは、それでいいと?」
「それはそうよ。最初こそ、『やりたいことがある』って言って反抗していたけど、説得したらわかってくれたわ」
「やりたいこと、ですか?」
「ええ。『絵本作家になりたい』って言っていたわ。でも、そんな先の見えない仕事はやめなさいって言ったの」
「とても素敵なお仕事ですが……確かに、狭き門ではあるかもしれないですね」
「そうでしょう? そんな不確かな夢を見るより、安定な職に就いた方が幸せじゃない」
それは、確かにそうなのだろう。親心としても、息子が苦労しない道に進んで欲しいという気持ちはわかる。だが。
「何故、その夢を持ったのかはお聞きになりましたか?」
「え?」
「何故、絵本作家になりたいのか。その夢に向けて、何か下積みはしているのか。そう言った、息子さんの“心”に、耳を傾けましたか?」
透の静かな問い掛けに、冴子は不思議そうな表情を向ける。
「息子は昔から絵を描くのが好きだったの。だから、趣味の延長でそんなことを言ってるんだと思うわ」
「“説得”というのは、相手の気持ちを聞き、その上でするものだと私は思っております。失礼を承知でお聞きしますが、お母様のされたことは、“説得”ではなく“押し付け”ではないでしょうか」
「な……っ何て失礼なことを言うの! 私たちのこと、何も知らないくせに」
「はい。存じ上げません。ですがお客様も、先ほど私に仰いましたよね? 『その方が両親が喜ぶ』と。私の家族のことを何も知らないのに」
「あっ――」
「いい気持ちは、しませんよね」
「ごめんなさい……先ほどの方も、怒って当然よね」
自分の何気ない発言が、相手にとってどんなものだったのか。何故、樹が威圧的な態度を取ったのか。身を持って理解し、申し訳なさでいっぱいになった。
「わかっていただけたなら幸いです。こちらこそ、無礼な態度を取ってしまい、申し訳ございませんでした」
「いえ、そんな」
頭を下げる透に、冴子が恐縮したように首を振る。
「ただ、これは“何も知らない相手”に限ったことではありません。親しい間柄でも、同じことなんですよ」
「親しい、間柄でも?」
「ええ。友人関係、恋人関係……親子関係でも、同じです」
そう、言葉を切ると、透はシェイカーを取り出しカクテルを作り始める。
そして、冴子の前に置くのは淡い黄色のショートカクテル。
「このカクテルの名はConfession。“告白”という意味です。よろしければ、お母様の考えや息子さんへの思いを、私にお聞かせいただけませんか?」
――――――――
私は、学生時代から働くことが好きで、部活動をすることなくアルバイトばかりしていた。下に弟妹が三人いたこともあって、性格は世話焼き。弟妹のお世話をして、アルバイトをして家にお金を入れて。両親に「ありがとう」と言ってもらえることが嬉しかった。
記憶にある両親はいつも弟妹を優先していて、私のことは後回しだった。覚えているのは、いつも感じていた「寂しい」という気持ち。
だからこそ誰かに何かを“してあげる”ことで、必要とされている気がしていたんだと思う。それが自分の存在意義な気すらしていた。――その影響が、恋愛面にも出てしまったのか。気づいた時には、所謂『ダメンズメーカー』になっていた。
恋人になる相手は、何故か仕事を辞めてしまい。私が働いたお金で生活することが当たり前だった。
空気を壊したくなくてNOとは言えず、子供ができてしまったのは二十三歳の時。息子――紬には申し訳ないが、最初は絶望した。高校を卒業すると同時に就職した職場では、少しずつ責任のある仕事を任されるようになり、これからっていう時に妊娠が発覚したのだ。
おまけに、臨月が来る前に恋人は行方をくらまし、『未婚の母』になることを余儀なくされた。腹の中にある命に恨めしさすら覚えたこともある。……すべては己の浅はかさが原因なのに。
だけど、いざ出産となった時。紬は中々出て来てくれなくて。予定日よりも一週間遅れた上に、一度目の破水からほぼ丸一日かかって、ようやく会う事ができた。その時は正直、生まれてくれた喜びよりも苦しみからの解放への安堵が大きかったと思う。
出産後すぐに芽生えなかった愛情は、数日後に見た夢のおかげで自覚することができた。何故か泣き叫ぶ息子と、その息子を攫おうとする男。夢の中で私は、今までに感じたことがないほどの怒りを感じていて。
この時に芽生えたのは、『母性』というよりも“この子を守らなきゃ”という『使命感』だった。きっと私は、息子のためなら人を殺すことも、自分の命を差し出すことも躊躇わないだろう。それほどに、息子は私のすべてになっていた。
だから、苦労させたくなくて。私自身が高卒で苦労したこともあったから、絶対に大学には進学して欲しくて。就職に困らないように、少しでもいい大学に。そのためなら授業料の高い塾に通わせることも迷わなかったし、そこで勧められた参考書も買った。
私は、紬のために生きているから。紬のために、必死になって働いているから。紬の教育のため、未来のためになら、いくらでも頑張れたの。
それなのに。
紬は反抗期になった。高校生になって、笑顔を見せてくれなくなって、会話が減った。最後にまともに会話をしたのは確か……高校受験の前。「絵本作家になりたい」と打ち明けてくれた時。
だけどその時はもう都内の進学校に受験することが決まっていたから、一蹴してしまった。「そんな夢みたいなこと考えていないで勉強しなさい」と言った時――紬はどんな表情をしていた? 思い出せない。
その後、何とか高校は卒業できたが、大学受験は失敗。今は自分の部屋から出て来てくれなくなった。私がいない間に食事をした形跡はあるが、もうどれだけ紬の顔を見られていないんだろう。
もしかして、私は間違ってしまったのだろうか。でも、全部全部紬のためなのに。
どうしてわかってくれないの? 私はただあなたに幸せになって欲しかっただけなのに――
――――――――
「――あら?ごめんなさい、私寝ちゃってたのかしら」
「ええ、ほんの一時間ほどですが。ご気分はいかがですか?」
「気分は……そうね、問題ないわ」
「それは良かった。何だか、うなされているようでしたので」
「あー……ちょっと、夢見が悪かったのかもしれないわ」
冴子は表情を曇らせ、何かを考えるように黙り込む。
「……ねぇ。私は、間違っていたのかしら」
「何を、でしょうか」
「息子のためを思ってやって来たこと。すべてが」
透に尋ねるその声は、絞り出すようにか細く、震えていた。
「すべてが、と言われるとお答えしかねますが。干渉のし過ぎは、確かに良いことではないかもしれません」
「私は、干渉し過ぎたのかしら」
「息子さんを思うお母様の気持ちは、本物なのでしょう。私にも伝わるくらいなので、息子さんにもしっかりと伝わってはいると思います。ですが――息子さんは、あなたの所有物ではありません。意思のある、一人の人間なのです」
「所有物だなんて……っ私はただ、あの子の幸せを思って」
「息子さんの幸せを決めるのは、あなたではありません」
「……っ!」
ショックを受けたように、冴子が言葉を詰まらせる。
「それなら、私は……?私の思いはどうなるの……?」
「息子さんの、好きな食べ物は何ですか?」
突然の質問に、「え?」と呆けたように返事をし、思いを巡らせた。
「オムライス……かしら。いつもケチャップで可愛い絵を描いてくれていたのよ」
「息子さんは、よく絵を描かれていたのですか?」
「ええ。小さい頃からよく絵を描いて見せてくれていたの。親の贔屓目かもしれないけど、なかなか上手だったのよ?」
思い出したのか、冴子の顔に笑みが浮かぶ。その表情は、紛れもなく“息子を思う母の顔”だった。
「最近はいかがです?」
「最近は……何も。あの子の描いた絵なんてずっと見ていないし、ご飯も一緒に食べていないわ」
「お待たせいたしました」
顔を曇らせる冴子の前に置かれたのは、綺麗に巻かれたオムライス。そこに描かれている絵は……何かの動物だろうか。少し判別が難しいが、不思議と愛嬌がある。
「先ほどは失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした。こちら、よろしければお召し上がりください」
少し屈むように冴子と視線を合わせ、謝罪の言葉を口にする樹の顔は、反省中の犬のようだった。
「ぷっ あはは。いいのいいの。あれは私が悪かったから。それより、この絵はあなたが描いたの?」
「はい……。絵を描くのは、少々苦手で」
「可愛いわよ、とっても。初めて息子が描いてくれた絵を思い出しちゃった」
それは、樹の絵が幼な子の描いた絵と同じくらいのクオリティということだろうか。思わず緩みそうになる頬を、透はさり気なく抑えた。もちろん樹には気づかれている。
「いただきます。……ん、美味しい。何だか懐かしい味ね。――あら、何でかしら」
ほろほろと、冴子の瞳から涙が溢れた。
「おかしいわね。美味しくて、嬉しいのに」
止まらない涙を流しながらスプーンを進める冴子に、樹はそっとおしぼりをカウンターに置き、裏に戻る。
そのおしぼりで時折涙を拭きながら、冴子はオムライスの味を噛み締めていた。
*
「ご馳走様でした。とっても美味しかったわ」
「ありがとうございます。新しいおしぼりをどうぞ。目元に当てると気持ちがいいと思いますよ」
「ありがとう。冷たくて気持ちがいいわ」
「こちらも、食後のドリンクにどうぞ」
そう言ってカウンターに置かれたのは、ロックグラスに入れられた薄いピンク色のカクテルだった。横にはチョコレートを添えてある。
「これは?」
「アイスブレーカーというカクテルになります。カクテル言葉は『冷静に』。そして、『打ち解ける』です。お客様が、息子さんとまた一緒にオムライスを食べられますように、との思いを込めさせていただきました」
透の言葉に、冴子は嬉しそうに破顔した。
「ありがとう。本当に優しいわね、あなた達二人とも。……さっぱりしていて、美味しい」
「ふふ。ありがとうございます」
「……学歴社会だからって勉強勉強言っちゃってたけど、勉強がすべてではないのよね」
「ええ、そう思います」
「人としての優しさ、誠実さ。そんな人間になるためには、紬自身が幸せでいなければいけなかったのに」
「そうですね」
「まだ、間に合うかしら」
「間に合うと思いますよ。お二人は、言葉を交わせるのですから」
どこまでもにこやかに。慈愛すらも感じさせるその笑顔に感じるのは、不思議なほどの安心感。
「あなたに言われると、本当に大丈夫そうな気がするわね」
「すべてはお客様と、息子さん次第ですよ」
「……よし、帰るわ。紬と話をしないと」
気合いを入れたように立ち上がり、心を落ち着かせるように、添えられていたチョコレートを口に放る。
そして、想定よりも安かった会計金額に納得ができず、五千円札を一枚置いて颯爽と帰って行った。
「……元気な人だね」
「そうだな」
来店した時に感じた落ち着きは、気づけばどこへ行ったやら。帰る頃には肝っ玉母ちゃんのような、頼もしい顔つきになっていた。
「何で、喰わなかった」
「ふふ。樹はもう、わかってるでしょ? あの人の中に、忘れてもいい記憶なんてなかった。息子さんへ向ける、歪んでしまうほどの強い使命感だって、大切な愛情だもの」
「……そう、だな」
「大丈夫だよ、きっと。気づけたんだから」
「そうか」
強すぎる思いは時に人の心を歪ませ、過ちを犯してしまうことがある。
それが『罪』へと繋がってしまうこともあるだろう。
そのせいで、人を傷つけてしまうこともあるだろう。
忘れてはいけない。愛情を向ける先にも、『心』があることを。
身勝手で一方的な感情は、『愛情』とは言えないことを。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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