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Bar Absolution ~罪喰いの夜~  作者: 依羽


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4.Remember-思い出して-

 月峯(つきみね)芙美(ふみ)は、北関東でも指折りの旧家である月峯家の現当主、月峯 宗介(そうすけ)とその伴侶・(みやび)の長女として生まれた。

 自宅は伝統的な日本家屋の豪邸。他に弟妹が生まれず、両親の愛を一身に受けて、多くの使用人に甲斐甲斐しく世話をされながら育った。

 エスカレーター式の女子校に通い、高校を卒業すると同時に幼い頃からの許嫁である広瀬(ひろせ)昌宏(まさひろ)と結婚。婿養子となった昌宏は芙美より三歳年上だったため、当時大学四年生。

 学生結婚ではあったが、大学に通いながら月峯家の事業を手伝い、当主夫婦を支えた。

 穏やかで愛情深い昌宏とそんな昌宏にいつも笑顔で寄り添う芙美は、近所でも評判のとても仲睦まじい夫婦だった。


 そして、昌宏が大学を卒業した次の年。二人の間に待望の第一子が生まれた時には周囲はお祝いムード一色に包まれた。

 順風満帆を絵に描いたような幸せが、そこには確かにあったのだ。

 

 ――“それ”が顕現した、透が五歳の時までは。


 

 

「おねえちゃんはどろぼうさんなの?」


 ある日、透が突然、使用人の一人にそう声を掛けた。


「お坊ちゃま、いかがされましたか?」

 

 使用人は一瞬顔を強張らせたが、慌てて笑顔を作る。

 

「人を泥棒さんなんて言うのはいけないことですよ?」

「だっておねえちゃんのポッケにおかあさんのかみかざりがはいっているんでしょう? かってにもってきちゃったら、どろぼうさんなんだよ?」

「え? 何でそれを……あ、」


 透の言葉に驚いていたのは周囲の使用人も同じだったが、それ故に“泥棒”と呼ばれた使用人の声も届いてしまった。

 その場に居合わせた家令が前に出る。


「あなたは最近入ったばかりの人ですね。透様のおっしゃっていることは本当ですか?」

「いえ、私はそのようなことをしておりません。お坊ちゃまの勘違いかと」

「そうですか。では、身体検査をしますのでこちらに」

「私は何もしておりません!」

「ええ。ですが、身の潔白を晴らさずにいたら遺恨が残るかもしれないでしょう。何もやましいことがないのなら、素直に検査を受けなさい」


 観念したように連れて行かれる使用人は、最後に恨めしそうな目で透を見てその場を後にした。

 何故そんな目で見られたのかが理解できず、ただ『怖い』という感情を抱いた透の手を、ずっと隣で見守っていた樹が強く握る。


「とおるはなにもわるくないぞ」

「……ほんと?」

「ほんとだ。あの人がほんとうにどろぼうなら、あの人がわるい。ちがったら、いっしょにごめんなさいしてやる」


 樹の言葉に、泣きそうだった透の顔に笑みが戻る。

 

「ありがとう、いっちゃん」

「ん」


 二人が手を繋いで部屋に戻ろうとした時、家令が戻ってきた。


「あ、じぃ。あのおねえちゃん、だいじょうぶ?」

「透様。透様がお気になさることは何もありませんよ。それよりも――ご当主がお呼びです」

「おじいちゃんが? いっちゃんもいっしょでいい?」


 家令はチラッと樹の顔を見て、繋がれたままの二人の手に視線を移すと、ふっと顔を緩めた。


「よろしいと思いますよ。お二人は、手を繋いだままで」


 その言葉にホッとする。樹の手は、透にとってお守りのようなものだから。

 二人はもう一度ギュッと手を握り合い、家令の後をついていった――


――――――――

 

 

「透、起きろ」

「ん……あ、いっちゃん。おはよぉ」

「その呼び方はやめろ。……もう昼過ぎだぞ。どこか調子悪いのか?」


 ベッドの横に立ち透を見下ろす樹の表情(かお)は、一見機嫌が悪そうに見えるが実は心配している表情だということを透は知っている。


「ううん、大丈夫。春だからかな? 何だかすっごく眠たくて」

「……そうか。何か食べられそうか?」

「昨日のお鍋まだ残ってたよね? あれで雑炊が食べたいな」

「了解。用意しとくから、顔洗って着替えて来い」

「はーい」


 起き上がった透の頭にポンッと一度手を乗せ、樹が部屋を出ていった。

 透は大きく伸びをしてベッドから降りる。窓を開けると、すっかり春らしくなった気持ちのいい風が入ってくる。


 「何か懐かしい夢を見た気がするけど――まぁ、いっか。今日はお客さん来なさそうだし、いっちゃんとお花見とか行っちゃおうかな~」


 鼻歌を歌いながら着替えを済ませ、部屋を出る。


「あ、美味しそうな匂いだ」


 キッチンの方から漂ってくる、食欲をそそる匂い。途端に鳴り出す腹の音に急かされながら、顔を洗うために洗面台へと急いだ。



 *

「ねぇ樹」

「何だ」

「綺麗だねぇ」

「そうだな」


 あの後、雑炊を思う存分食べた二人は、腹ごなしに散歩へと来ていた。自宅――Bar Absolutionの上階――から歩いて20分ほどの公園は、近所の花見スポットとして人気の公園だ。


「美味しそうな屋台たくさんあるねぇ。ちょっと、食べられそうにはないけど」

「あんなにおかわりするからだ」

「だって美味しかったんだもん」

「そうかよ」


 言葉は単調だが少しだけ嬉しそうな樹の声に、透が微笑む。


「……何だ、その顔は」

「別に―?」


 フェンスに寄りかかりながら桜を眺める二人の後ろを、キャッキャッと楽しそうな子供たちの声が通り過ぎていく。


「元気だねぇ」

「そうだな」


 その時、「わっ」という声の後にドタッと誰かが転ぶ音がした。


「大丈夫かい?」


 振り向くとまだ小さな男の子が転んでいたので、透は慌てて膝をつき手を差し伸べる。男の子は泣くのをグッと堪えているような顔で、透を見上げた。


「お、泣くの我慢できた。すごいねぇ」


 そう言うと、差し出した手をそのまま男の子の脇に通し、優しく立ち上がらせる。


「痛くない?」

「だいじょうぶ、です」

「うん、血は出ていなそうだね。でも手はちょっと擦れてるから、ちゃんと消毒しなくちゃ駄目だよ?」

「はい」


 ちゃんと返事ができる男の子の頭を「偉いねぇ」と撫でながら、親を探すが見当たらない。


「今日は誰と来たの?」

「パパとママ……」

「はぐれちゃったの?」

「ちょうちょ」

「うん?」

「ちょうちょおいかけてたら、パパもママもいなくなっちゃった」


 一人で走っていた理由が判明した。きっと今頃、両親は必死に息子の行方を探していることだろう。


「ねぇ、お名前は何ていうの?」

「ぼく、ようたです!四さいの、あおぐみさん」


 あおぐみさん、というのは幼稚園か保育園のクラスなのだろう。しかし、“四歳の陽太”という名前は何だか聞き覚えがある気がする。


「ようた君、高いところは怖いかな?」

「ん? んーん、たかいとこ、すき」

「そっか。樹」

「ん」


 樹はいつも通り短く返事をすると、陽太を抱き上げ、自分の肩に乗せた。


「わーったかーい!」

「しっかり捕まっていろよ」

「はぁーい」


 百九十cm超えの樹の肩に乗った陽太は、目をキラキラさせて喜んでいる。


「ようた君、そこからパパとママを探せる?」

「んーっとねぇ……あっいたよ! パパー! ママー!」


 両親を見つけたらしい陽太は、大きな声で叫んだ。

 樹が陽太を肩に乗せた時点で既に目立ってはいたが――主にちびっこたちからの羨望の眼差しを浴びて――陽太の叫び声で更に注目を浴びる。ただ、そのお陰で、叫んだ方角を歩く人たちが左右に分かれ道を作ってくれ、すぐに両親と会うことができた。


「陽太!」

「良かった、陽太……っいきなりいなくなって心配したんだから!」


 肩で息をしながら走って来た両親は、安堵したのかその場にへたり込んでしまう。

 樹の肩から降りた陽太はそんな両親に駆け寄り、「ごめんなさい」と言いながら母親に抱き着いていた。笑顔でいたものの、心細かったんだろう。


「あの、ありがとうございました」

「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませ……ん?」


 父親と母親が、それぞれ二人に頭を下げながら礼と謝罪を口にする。が、母親の方が透の顔を見て不思議そうな表情(かお)をした。


「どうかされましたか?」

「いえ。何だかお兄さんに会ったことがある気がして……いやだ、こんな綺麗な人なら一度会ったら忘れるわけがないですよね。すみません、お世話になった上に失礼なことを言って」

「いえいえ。僕たちもこの近辺はよく散歩をしているので、もしかしたらすれ違ったことがあるかもしれないですね。何はともあれ、無事に見つかって良かったです」


 にこやかに応えた透は、膝を曲げ、陽太と向き合う。


「パパとママに会えて良かったね。もう、手を離したら駄目だよ?」

「はぁい。おにいちゃん、ありがとうございました。おおきいおにいちゃんも、たかいたかいしてくれてありがとう」

「ああ。これからは気をつけろよ」


会釈をする両親の隣で「バイバイ」と大きく手を振る陽太に、手を振り返しながら。二人の頭によぎるのは、数ヶ月前のまだ寒い冬の日のこと。


「元気そうだな」

「うん、楽しく過ごせてるみたいで良かったよ」


 美和は覚えていない。あの夜、あの店に来たことを。

 いや、覚えているのかもしれない。“どこかの店にいた”ことは。

 だが、そのカウンターに立っていた穏やかなバーテンダーのことも。とびきり美味しい料理を作る料理人のことも。思い出すことはないだろう。ほんの少しの、既視感だけは残して。


「帰ろっか」

「もういいのか?」

「うん。思いがけず嬉しい出会いもあったし、もう満足」

「そうか」


 その時――帰ろうとした二人の目に映ったのは、ひと組の家族。

 四十代ほどの夫婦に、小学生だと思われる女の子。優しい笑顔を向ける両親と、嬉しそうにはしゃぐ女の子の姿は、まるで“理想の家族”のようだ。


「透、行くぞ」

「あ、樹……っ」


 その家族とは反対の道を、樹は透の手を取り足早に歩く。透の手を握る力は、普段にはないほど力強かった。


 

 *

「今日は店、休むんじゃないのか?」

「んーそれがさぁ、来そうなんだよね、お客さん」

「そうか。お前は、大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ」

「キツかったら言えよ」

「うん。ありがとう、いっちゃん」


 そんな、二人の会話が交わされるBar Absolution。

 夜の帳が下りた頃、小さなベルの音を鳴らし一人の客がやってきた。


「こんばんは。夜のお散歩が楽しい季節になりましたね。夜桜のライトアップは見て来られましたか?」

「え? あ、はい。通り道の桜、綺麗でした」

「それは素敵ですね。何かお飲みになりますか?」

「いいんですか? ここ、俺が何か頼んでも」

「もちろん、ノンアルコールに限ります。さっぱりしたものをお出ししますので、こちらに座ってお待ちください」


 着席を促された客――佐久間(さくま)(みなと)は緊張した面持ちでカウンターチェアに座る。

 Barに来たのは初めてなのだろう、物珍しそうに店内をキョロキョロと見回していた。


「お待たせいたしました」

「あ、ありがとうございます。これは……」

「フロリダというカクテルになります。本来は微量のアルコールを入れるのですが、こちらはノンアルコールでお作りしましたのでご安心してお飲みください」


 本来、ショートカクテルで作られることの多いフロリダ。今回はあえてロングカクテルで提供したが、カクテルグラスで提供するのも一興だったかな、と恐る恐る口にする姿を微笑ましく見守りながら思ってしまう。


「部活帰りですか?」


 ジャージ姿にスポーツバッグ、という出で立ちを見て、透が問う。

 

「はい。俺、サッカー部で。向こうの通りにある高校なんですけど……補導されちゃったり、しないですよね?」

「ふふ、大丈夫ですよ。まだ早い時間ですし、お酒の提供もしていないので。そんなことになったら、この店が営業停止になってしまいます」


 透の軽口に、湊の表情が少しだけ解れた。


「ですが、帰るのが遅くなったら親御さんは心配されませんか?」

「……大丈夫です、たぶん」

「そうですか。でも一応、連絡だけ入れておきましょう。夕飯を用意して待っているかもしれませんし」

「はい……」


 あまり気が進まなそうではあるが、律儀に連絡を入れるところを見ると、きっと真面目な子なのだろう。そんな子が、ここに来た理由は何なのか。


「何か、食べたい物はありますか?」

「え?」

「お腹、空いているでしょう?」


 部活帰りですし、という透の言葉に反応するように、湊の腹の音が鳴った。


「あの、これってカレーの匂いですよね?」


 腹の音が鳴ったことに恥ずかしそうな顔をしながら、これ、と裏にある厨房を指さして湊が尋ねる。


「ええ。今日の賄いがカレーライスでして。すみません、やっぱり匂いが強かったですね」

「いえ、そういう意味ではなくて……そのカレー、辛いですか?」

「え? ええ、かなりスパイシーだと思いますが」

「注文することは、できますか?」


 来店した時の緊張感はどこに行ったのか、前のめりで「食べたい」を伝えてくる湊に、思わず苦笑してしまう。


「はい、できますよ。というかもう、よそってますね」

「お待たせいたしました」


 湊の声が聞こえていたのだろう。注文を伝える前に、樹がカレー皿を手に裏から顔を出した。置かれたカレー皿の横に、ライムを搾った炭酸水を添える。


「これ、食べていいんですか?」

「ええ。どうぞごゆっくりお召し上がりください」

「ありがとうございます!いただきますっ」


 湊の体格を考えてなのか、透が食べる時より多めに盛られたカレーを、湊は嬉しそうにスプーンで掬い、大きな口を開けて頬張った。


「おいしい……っめっちゃおいしいです、これ!」

「辛さは平気ですか?」

「はい! むしろこの辛さが最高っす!」

「それは良かった。おかわりも、ありますからね」

「ありがとうございます!」


 ――元気に返事をした湊はその後、二回おかわりをして、満足そうにスプーンを置いた。


「ごちそうさまでした」

「たくさん召し上がりましたね。お口に合いましたか?」

「そりゃあ、もう! ずっと食べたかったんです、こういうスパイスの効いたカレーを」

「ご自宅のカレーは甘口なんですか?」


 空になったカレー皿を下げ、炭酸水のおかわりをカウンターに置きながら透が問うと、湊の笑顔が歪んだ。


「え、っと、元々は辛口だったんですけど、今は甘口ですね」

「そうなんですね。確かに、辛口で慣れちゃってると、甘口は少し物足りないかもしれませんね」

「そうなんです! ……でも、弟がまだ小さいから。仕方ないんですけど」


 そう、答える湊の力が抜けたような笑顔には、はっきりと“諦め”が滲んでいる。


「家に帰りたくない理由は、弟さん?」

「あ、そう、ですね。帰りたくない……わけじゃないんです。でも、ちょっと居心地が悪くて」

「弟さんはいくつなんですか?」

「今、三歳になったところです。――俺が小さい時に、母さんが病気で亡くなっちゃって。ずっと親父が一人で育ててくれてたんですけど、四年前に再婚して、弟が生まれて」


 四年前、突然できた新しい母親と弟……中学生の多感な時期にそれは、と思わずにはいられない。


「それは……大変でしたね」

「そうなんです。やっぱり、気ぃ遣うし。しかも弟が生まれたの、俺が受験生の時ですよ!? サッカーの推薦が決まってたから良かったけど、全然勉強に集中できなくて」

「スポーツ推薦なんて、すごいですね」

「ありがとうございます。正直、サッカーがあるから何とかやっていけてる状態です。これがなかったらグレちゃってたかもしれません」


 明るく振る舞いながらも、その姿には隠しきれていない寂しさが見えた。


「俺の推薦入学が確定した時も、いざ入学した時も。高校で初めてレギュラー取った時だって、まともに祝ってなんてくれなかった。それよりも、弟が初めて寝返りしたとか初めて立った、とか。弟のことばっかり喜んで。……俺のことなんて興味ないんですよ。親父も、あの人も」

「弟さんがお嫌いですか?」

「え?」

「ご自分の生活を乱す弟さん……そして、新しいお母様のことが」


 お嫌いですか、と、透は静かに問い掛けた。


「嫌いじゃないですよ! そんなんじゃなくて、ただ……」


 言葉を詰まらせ、残った炭酸水を一気に飲み切る。

 それを見た透が、シェイカーを取り出しカクテルを作り始めた。


「こちらをどうぞ」

「……?」

「Confessionというカクテルになります。普段はウォッカをベースにお作りするのですが、こちらはホワイトグレープジュースをベースにした、ノンアルコールカクテルになっております」

「はぁ……」

「Confessionのカクテル言葉は“告白”。よろしければ、お客様の心の内を私にお聞かせいただけませんか?」

「心の内、なんて……俺は何も」

「私は、お客様のお名前も知りません。学校、は聞いてしまいましたが、ご家族のことも友人関係も知らない。――何も知らない相手だからこそ、気兼ねに話せることもあると思いませんか?」


 戸惑う湊を、透が優しく諭すように尋ねる。

 

「そういうもの、ですか?」

「そういうもの、です」


 穏やかに言い切られて、湊がカクテルに口をつけた。


「……“いいお兄ちゃんになってね”って言われたんです」

「いいお兄ちゃん、ですか」

「そうなんです。いいお兄ちゃんって、何ですかね」


 ため息をつきながら、小さくボヤく。


「よくわからないから、とりあえず笑顔でいるようにしました。不満があっても、何も言わずに。弟のお願いだって聞いてやるし、嫌なことをされても怒ったりしなかった。そうしたら、“いいお兄ちゃんね”“優しいね”と褒められるんです。でも、全然嬉しくなんてなかった」


 次第に大きくなり、震える声。


「俺は、なりたくて“兄”になったわけじゃない。いきなり“家族”だって言われても、あの人を母親だなんて思えないし。“弟”だって、何で全部合わせなきゃいけないんだ? 俺だって、俺の気持ちは? 何で誰も考えてくれないんだよ……っ」


 それは、悲痛な叫びだった。ずっと一人で抱え込んでいたのだろう。高校生の男の子が、誰にも相談できずに。

 父親と二人だった生活に、突然現れた“母”になる他人。そこに馴染む前に更に増えた、“弟”という名の家族。赤ん坊が生まれたら、生活の中心がそこになってしまうのはどこの家庭でもあることだ。一番弱く、守られなければ生きられない存在なのだから。

 だが、その『事実』と。関わる人間の『感情』は、別のものだ。特に、年長者と言えどもまだ高校生の彼に、それを簡単に受け入れろと言う方が酷というものだろう。


「よく、頑張っておられましたね」

「え……?」

「一人で我慢して、求められる“兄”を演じていた。お辛かったでしょうに、よく頑張りましたね」


 その透の言葉に、湊の瞳からは大粒の涙が溢れた。


「俺……ちゃんとしなきゃって。薄情なやつだって思われたくないから、誰にも愚痴れないし、でも、しんどくて」

「薄情なんかじゃ、ないと思いますよ」

「本当ですか……?」

「ええ」

「俺、悪くないですか……?」

「悪くないですよ。貴方は、何も悪くない」

「そっ……かぁ……」


 安堵したように息を吐き、湊が脱力する。涙を流してこそいるが、その表情(かお)は晴れやかだ。


「思うままの気持ちを、お父様に伝えてみませんか?」

「いや、でも……」

「お父様のことが、信じられませんか?」

「――っ」

「お父様と二人で生きてきた時間は、辛かったですか?」

「そんなことないです! 親父はいつも、俺のことを考えてくれて……」

「では、問題ないですね」


 でも、と言い淀む湊に、透は言葉を重ねる。


「今のお二人に足りないのは、会話ではないでしょうか」

「会話、ですか?」

「ええ。会話をしないから、お父様はあなたの気持ちに気づけないし、あなたもまた同じです。どんなに長く一緒に過ごした相手でも、言葉にしないと伝わらないものはたくさんありますよ」

「そう、ですね」

「そんなお客様に、こちらを」

 

 そう言って透がカウンターに置いたのは、薄く切ったりんごがグラスの縁に添えられているショートカクテル。


「Rememberと言う、創作カクテルになります。カクテル言葉は……その名の通りで」

「Remember……」


 その意味を噛み締めるように、湊はゆっくりとグラスを傾ける。


「りんごジュース……? この、底にある赤いのは何ですか?」

「そちらはクランベリージュースになります。『家庭の平和』のシンボルとされているりんごのジュースに、底に沈めてしまっていたお客様の本音を溶け込ませて、一緒にお飲みになってください」


 カクテルグラスを静かに揺らし、ゆっくりと混ぜ合わせて。そのまま、一気に飲み干した。


「ぷはっ ……飲みました。おいしかったです」

「それは良かった」

「何か、何を拗ねてたんだろうって思います。そんなことしないで、素直に伝えれば良かったんですよね」

「頭では理解できても、思い通りにいかないのが人の感情というものです」

「感情って厄介ですね。……カレー、本当は甘口もおいしいんですよ。たまには辛いのも食べたいですけど」


 カレーは、たくさんある不満の中のひとつではあったのだろうが。たまたま、今回のトリガーになってしまっただけなのだろう。

 へへっと笑う湊に透は、香辛料の瓶を見せる。


「辛さが欲しくなったら、こういった辛味調味料を加えるのもいいかもしれません。ただ、せっかく作っていただいた料理の味を楽しむことも忘れてはいけませんよ」

「え、こんなのあるんですね」

「辛味調味料はたくさん種類がありますが、これは料理の味を邪魔せずに辛さを足してくれるので、イチオシです」


 いたずらっ子のような笑顔を見せる透に、湊も釣られて笑ってしまう。


「今度探して買ってみますね」

「ふふ。そちらは差し上げますので、使ってみてください」

「え、ありがとうございます。楽しみです」


 ほんの、ちょっとしたことでも。どこかで『自分』を通せたら、それだけでも気持ちは楽になるはずだ。


「俺、そろそろ帰りますね。あまり遅くなると、本当に補導されちゃう」

「あ、そうですよね。遅くまで引き留めてしまい、申し訳ありません」

「とんでもない! 話を聞いてもらえて、すごく嬉しかったです! お会計、お願いします」

「そう言っていただけると、私も嬉しいです。お会計ですね、五百円になります」

「え!? いやいや、俺カレーいっぱい食べたし、飲み物もいろいろ作ってもらいましたよ?」


 いくら高校生の湊だってわかる。飲み食いした金額と会計が全く釣り合っていないことが。

 Barという初めて敷居を跨いだ店、店内の雰囲気。出された料理や飲み物のクオリティを考えても、決して安くはない店のはずだ。正直、カレーのおかわりをしすぎて財布の中身で支払いが間に合うか内心でヒヤヒヤしていたくらいだ。


「カレーは賄いですしね。飲み物も私が勝手にお出ししたものがほとんどですし……むしろ、お会計は発生しないのでは?」

「いえ! 発生します! すみません、ありがとうございます!」


 まさか、これだけ世話になって金を払わないなんて許されるわけがない。慌てて五百円玉を財布から出し、頭を下げて礼を言いながら透に差し出す。


「はい、確かに。五百円ちょうど、頂戴いたします」

「本当にありがとうございます。俺、今日のことは一生忘れません!」


 眩しいくらいの笑顔で感謝を伝えてくる湊に、少しだけ、透の表情(かお)が一瞬曇り、すぐにまた笑顔を貼り付ける。


「お気になさらないでください。あ、こちらよろしければどうぞ。帰り道のお供にでも」

「チョコレートだ。ありがとうございます。……何度言っても、感謝が足りない気がしますね」

「そんなことありませんよ。お客様がこれから先、幸せでいてくださればそれで充分です」

「へへ。何だか照れちゃいますね」


 ほんのり顔を染めながら、湊が扉を開ける。


「本当にお世話になりました! 失礼します!」

「ええ、お気をつけて」


 最後にもう一度頭を下げ、何度も振り返り手を振りながら、湊は夜の街に溶けて行った。


「お疲れさん」


 その姿が見えなくなるまで見送った透は、店に戻り、カウンターの外まで来ていた樹の胸へと体重を預ける。


「疲れたか」

「うん、ちょっとね。今日は“喰べて”ないんだけど」

「誰かの話は、聞くだけでも疲れるもんだ。特にああいう話はな」


 自身に寄りかかってくる透を受け止めながら、背中を優しくさすり労う。


「あの子、大丈夫かな」

「あの感じだと大丈夫だろ」

「チョコレート、食べてくれるかな」

「それはどうだろうな」


 いつも、最後に客へと提供するチョコレートには、この店の記憶を曖昧にする作用がある。今回は罪を喰っていないため、あのチョコレートを食べてくれないと湊の記憶が消えることはないのだ。


「まぁ、どうせもう扉は見つけられないだろ」

「うん、そうだといいな」


 罪のない人間、罪喰いを必要としない人間の前に扉は現れない。

 それほどひっそりと罪喰いは存在しているのだから。


「ありがとう、いっちゃん。少し楽になったよ」

「そうか。カレー、食べるか?」

「食べる! まだ残ってる?」

「ああ、まだたっぷりある」

「じゃあ明日のお昼はカレーうどんだね」

「はいよ」


 樹特製のカレーは、大量に作るため三日三晩は続く。

 様々な料理に形を変えながら食べるカレーは、透の好物のひとつである。



 *

「ただいまー」

「おかえり。遅かったな」


 湊が自宅に着いた時、父親もちょうど帰宅した所だった。


「二人は?」

「蒼の寝かしつけをしたまま寝てしまったらしい」

「そっか。……なぁ、親父」

「どうした?」

「久しぶりに、ゆっくり話がしたいんだけど」


 最近、口数が少なくなったと思っていた息子からの突然の誘いに、父親は驚き、目を開く。


「ああ、珍しいな、お前がそんなことを言うなんて。じゃあ、父さんこれから一杯飲むから、話し相手になってくれ」

「おお。あ、でも先に着替えてサッとシャワーして来るわ」

「おう。父さんは軽いつまみでも作って待ってるぞ」


 父親は喜んでいた。顔には出さないが、とても浮かれていた。

 男手ひとつで育てた息子が、好きなことを全力で頑張っている姿を見て誇らしく思いながらも、少しだけ寂しかったのだ。

 再婚し、新たな子宝に恵まれて幸せだったが、それと同時に長男が反抗期に入った気がして寂しかったのだ。

 だから、嬉しい。昔、息子とよく食べた一品を鼻歌混じりで作ってしまうほどに。


「あ、もやしナムルだ。唐辛子入ってんじゃん」

「好きだろ? ピリ辛の」

「……うん、好き。あ、これ貰い物なんだけど、辛さ足せるんだって。使ってみる?」

「ああ、いいな。お前は?」

「今日は親父が作ってくれたのをそのまま食べたいかな。……ああ、やっぱりうまいな」


 親子の会話は続く。夜が更け、喜びのあまり父親が飲みすぎて酔い潰れるまで。

 次の日、二日酔いで具合悪そうにする父親に継母が呆れたように薬を渡す姿に、湊が苦笑する。何があったのかはわからずとも、弟も笑う。

 まずは、同じ空間で、自然と笑い合えること。

 最初はぎこちなくても、一歩ずつでも。歩み寄り、家族になっていけるだろう。互いを思いやることができるのならば。



 

 人間が抱いてしまう負の感情は、罪だけではない。

 だが、罪喰いが“喰う”のは、罪だけである。

  『罪』とは言えない、自分でコントロールできない感情。それは、ある意味では何よりも“人間らしい”と言えるのではないだろうか。 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも心に残るものがありましたら、下のブクマや評価【☆☆☆☆☆】、リアクションなどで応援いただけると、嬉しいです。

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