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Bar Absolution ~罪喰いの夜~  作者: 依羽


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3/6

3.Negroni -気づかない喪失-

「くっそ……確かここらへんだって……」


 昼間の喧騒とは異なる、夜の陽気な賑わいを残す繁華街の、一本裏手の路地。

 そこには、陽気さの欠片もない一人の男が、焦ったように何かを探していた。


「罪喰いなんて胡散臭いもん、本当にあるのか?」


 問いかける相手もいないのに、白い息を吐きながらブツブツと独り言を言う男は、仕立てのいいスーツとコートを着て、有名ブランドの腕時計をしている。その余裕のない様子とは裏腹に、装いは一見"エリートサラリーマン"そのものだ。

 その時、男の前に突然現れた一枚の重厚な扉。その扉を見つけた途端、男は動きを止めた。

 そして、少し緊張したように。また、何かを決意したように。唾を飲み込むと、扉を開けて足を踏み入れた。

 


 *

「いらっしゃいませ」

 

 中に入ると、そこにいたのは一人の穏やかそうな青年だった。もっと厳かな雰囲気を想像していたのだろう。男は透の風貌に拍子抜けしたように息を吐き、カウンターチェアに座った。


「ご注文はいかがなさいますか?」

「なぁ、ここが罪喰いの店ってのは本当か?」

「――お客様。当店はBarでございます。何かお飲み物はいかがですか?」


 問いかけに答えず唐突に本題に入ろうとする男に、透はもう一度静かに問う。


「あ、ああ……じゃあ、ビールを」

「かしこまりました」


 注文を受け、コースターを置く。一見穏やかそうに見える透の表情は、その目の奥に冷酷さが宿っているようにも見える。男が一瞬見せた侮るような態度は、透の眼差しと交わった瞬間、音もなく消えた。


「お待たせいたしました」


 男は瓶ビールを受け取り、グラスに注ぎながら伺うように透を見上げる。


「あの……」

「ここは、罪喰いの店なのか、でしたね」

「っ! はい! 罪を食べてもらえるって聞いたんですけど」

「どなたに、聞かれたのですか?」

「あ、うちの会社の上役です。上役のおばあさんが、昔世話になったらしくて」


 罪喰い……人の罪を喰らうその存在は、決して表に出ることはない。罪を喰われた人間は、『罪』を忘れ、罪を喰われたことに気がづかず、罪喰いに関係する記憶が曖昧になる。――それ故、このBarを訪れた過去の客がもう1度ここを訪れることはないのだ。

 そうなると、その上役の祖母は何者なのだろう。先代の罪喰いと何かしらの関係があった人間なのだろうか。


「そうですか。――お客様は、何か消してしまいたい『罪』があるのですか?」

「そうなんです! 実は俺、婚約することになって。うちの会社のお得意様の、社長令嬢と」

「それは、おめでとうございます」

「ありがとうございます。それで、過去を精算したいなって思って」

「過去の精算、ですか?」

「はい。実は俺、地方の出なんですけど、幼馴染の女の子とずっと付き合っていて。でも、俺の仕事ぶりが認められて、縁談を持ちかけられたんです。社長令嬢ですよ? 地方出の普通の……っていうかちょっと地味めな?女なんて、比べるまでもないじゃないですか」

「それが、貴方の『罪』ですか?」


 悪びれることもなくそのようなことを言う男に、透は淡々と対応をする。


「そう。正直、俺は『罪』なんて思ってないんですけどね。だってそうでしょ? 条件のいい女がいればそっちを選ぶ。そんなの、自然の摂理じゃないですか。そりゃあ、ずっと一緒にいたから、情はありますよ? でも、情だけじゃあ……ねぇ?」

「罪だと思っていないのなら、何故こちらに?」

「いやさ、周りがうるさくて。家族ぐるみだったから、俺の親もあいつの親も。おまけに昔からの知り合いも、みんながあいつの味方をする。おかしくないですか? 俺の人生にとって、最大のチャンスなんですよ? でもそんなの、相手のご令嬢に知られたくないわけ。だからちゃんと精算して、祝福されたいんですよね」

「そう、ですか」


 この男は、自分がどれほど身勝手なことを口にしているか、まるで気づいていない。裏の厨房では、樹が心底軽蔑した眼差しを向けているのだが。


「その件に関して、幼馴染の方は何と?」

「あいつはわかってくれていますよ。昔から、誰よりも近くにいた理解者なので。だから、厄介なのは周りの連中だけです」


 そう言ってヘラヘラと笑う男。言いたいことを吐き出してすっきりしたのか、随分と気が緩んでいる。ビール瓶の中身は既に半分以上空いていた。


「あの、何か食べるものありませんか? 今日はこの店を探すのに時間がかかっちゃって、夜食べてないんですよね」

「かしこまりました。ただ生憎、材料が限られていますので……こちらでご用意できるものでよろしいですか?」

「俺、好き嫌いないんで大丈夫です! あ、ビールもおかわりで」


 残ったビールをグラスに注ぎ、空になった瓶を透に差し出した。それを受け取り、新たな瓶の栓を開け。カウンターに置きながら、透は口を開く。


「罪喰いのご依頼に関してなのですが」

「お、やってもらえるんですか?」

「結論といたしましては、お受けすることは可能です」

「まじか、助かります!」


 男は無邪気に喜ぶ。きっと今、男の頭の中には自分の明るい未来しか見えていないのだろう。


「では、ご依頼料についての説明をさせていただきます」

「依頼料?」

「ええ、もちろんです。こちらは私の生業(なりわい)ですので、報酬はいただかなければ」

「あー、ですよね。いくらですか?」

「お客様のご依頼内容ですと――そうですね、五百万円といったところでしょうか」

「五百!?それはちょっと高すぎません?」


 予想外の高額な金額に、訝し気な目で透を見る。


「金額はご依頼内容によって変わるのですが、お客様の場合は幼馴染の方への『罪』ですので。その方との関わりが深いほど、金額も上がっていきます」

「そんなもんなんですか……」

「ええ。ただ、ご依頼料は完全前払い制となっておりますが、ご満足いただけない場合は返金対応もさせていただいておりますよ」


 返金、と聞いて男は考える。五百万円は確かに高額だが、今の自分には払えない金額ではない。むしろ幸せな将来のための投資だと考えたら安いくらいではないか。不満があれば返金してもらえるのなら、リスクもない。


「……わかりました。お願いします」

「かしこまりました。では、明日もう一度ご来店ください。お支払いいただけましたら、その場で『精算』を完了させていただきます」

「――お待たせいたしました」


 話がまとまった頃、調理を終えた樹が裏から顔を出す。


「煮込みハンバーグでございます。お熱くなっていますので、お気を付けてお召し上がりください」


 愛想も何もなく提供を済ませ、すぐさま裏に戻る樹。男は突然現れた高身長の店員に一瞬驚きはしたものの、今は何故か料理を凝視していた。


「お客様、いかがされましたか?」

「あ、いや。美味しそうだな、と思って」

「そうですか。では、ごゆっくりお召し上がりください」


 そう、言葉を残し、透は一旦裏に下がる。

 一人、黙々と食べる男は時折何かを考えるように箸を止め、ハッとしてはまた箸を動かし、最後は掻き込むように皿を空にした。


「お口には合いましたか?」

「え、ええ。美味しかったです」 

「それは良かった。こちら、食後のお飲み物をどうぞ」


 男の前に置かれたのはロックグラスに入った赤褐色のカクテル。


「これは……?」

「こちらはネグローニ。“初恋”という意味を持つカクテルでございます」

「初恋……」

 

 男は一口含み、顔をしかめた。

 

「何か、ちょっと苦いですね」

「カンパリが入っていますので。その甘酸っぱさと苦みが、“初恋の味”だと言われています」

「初恋の味、か」


 ふっと笑うとそのままカクテルを全て飲み切る。


「ごちそうさまでした。明日、また来ます」

「ええ。お待ちしております」


 男が会計を済まして去った後も、透はしばらく扉を見つめていた。


「――駄目そうだな」

「そう、だね。少しは何かを感じているようだけれど……もう、戻れそうにはないかな」


 その行く末を案じる二人の声が、誰もいない店内に落ちる。

 “喪失”か“浄化”か――明日、本人の意思で選ばれるそれを。二人はただ、静かに受け入れるだけなのだ。



 *

「こんばんはー」


 翌日、街が夜の装いを纏い始めた時刻。

 静かなベルの音を鳴らしながら、男がやってきた。


「五百、現金で持って来ました!」

「いらっしゃいませ。――はい、確かに。五百万円ちょうど、頂戴いたします」


 透は男が鞄から出した紙袋の中身を確認し、裏にいる樹に渡す。そしておもむろにシャイカーを取り出すと、カクテルを作り始めた。


「どうぞ、こちらを」

「これは……?」


 昨日と同じ席に座った男は、突然出されたショートカクテルを不思議そうに見つめる。


「Confession。“告白”という意味を持つカクテルです。――最後にもう一度お聞きします。本当に、よろしいのですね?」

「……っはい。お願いします!」

「かしこまりました。では――あなたの罪、私がいただきます」


 その透の言葉が合図になったように、男はカクテルを一気に飲み干した。



――――――――


 俺は、地元があまり好きじゃない。実家は地味な農家で、近所に住む人たちとの距離が近く、プライベートなんてあったもんじゃなかった。

 幼馴染の桃香とも、物心がついた時から一緒にいた。親同士の仲がいいこともあって、いつも隣には桃香がいたように思う。

 あまり勉強が得意じゃなかった俺に、テスト前はいつも要点をまとめたノートを作ってくれて。落ち込んだ時は優しく慰めてくれたし、嬉しいことがあった時は自分のことのように喜んでくれた。

 小学生の高学年にもなると、二人でいることを冷やかしてくる奴もいたけど、それでも構わず一緒にいたら何も言われなくなった。

 中学生になったら、桃香がモテ始めて焦った。大人しいけどしっかり者の桃香は、気づいたらみんなの人気者になってて。その時に思ったんだ、“誰にも渡したくない”って。

 高校も、頑張って桃香と同じところに行った。受験勉強も桃香と一緒だったから頑張れたし、二人で合格できた時は本当に嬉しかった。

 大学は東京に行きたいって言った時も、桃香は何も言わずに頷いてくれた。桃香は学校の先生になりたかったみたいで、東京の教育大学に行きたいって。

 俺は特にやりたいことがあったわけじゃないけど、とにかく東京に行きたかった。次男だから家を継ぐ必要もないし、漠然と“大企業に勤めてやる”って思ってた。

 桃香への想いと、都会への憧れでいっぱいだったあの頃。高校を卒業すると同時に桃香と婚約をして、東京で同棲を始めて。大学は別々だったけど、帰る家が一緒だったからそんなに寂しくなかった。

 そんなにお金に余裕があるわけではなかったから自炊が多かったけど、桃香の作るご飯は美味しかった。特に、同棲して初めて作ってくれた料理。煮込みハンバーグは、俺の大好物になった。


 ――大好きだった。いつも隣にいた、初恋の女の子。いつも支えてくれた、優しい恋人。

 桃香との関係が変わって来たのは、俺が就職してから。大企業、とまではいかないけど、上場企業に勤めることができて、仕事が楽しくて。付き合いが増えて、家にいる時間が減った。桃香も、『小学校の先生になる』という夢を叶えて忙しそうにしていた。

 二人でご飯を食べる機会が減って。休日も、俺は取引先の人とのゴルフだったり、こっちでできた友人との遊びだったりで桃香と過ごそうとしなかった。それでも桃香は、文句ひとつ言わなかった。

 そんな時、大手取引先の社長から一人の女性を紹介された。社長の娘だと言うその女性は、とても華やかな人だった。

 黒髪ストレートの桃香とは違い、明るい髪をふわふわさせて。笑顔でハキハキ話してくれるから、一緒にいるのが楽しかった。桃香とは違う魅力がたくさんあって、すべてが新鮮で刺激的で……桃香のことなんて、気にかけていられなくなった。


 何度か会っているうちに、結婚の話になって。俺は、迷うことなく頷いた。

 まだ桃香と同じ家に住んでいたから、久しぶりに顔を合わせた時にそのことを話すと「そっか」とだけ言って、それ以上は何も言われなかった。

 だけど、両親や地元の友達は違った。何でかすごく怒られて、桃香と婚約破棄なんてしたら絶縁だ、とまで言われた。桃香は何も言わないのに、何で周りにそんなことを言われないといけないんだ?

 桃香とは別れても変わらず友人でいるつもりだし、俺は社長令嬢と結婚して出世の道を歩ける。何も不都合なんてないじゃないか。

 だから、この罪を消して。俺は、何のしがらみもなく幸せになるんだ。出世して、金持ちになって、華やかな人生を――――


――――――――


 

 男が気を失うように眠りについて、二時間が過ぎた頃。“罪喰い”をするために瞑想に入った透が、ようやく目を開けた。


「――長かったな。大丈夫か?」

「ちょっと、しんどかったかな。この人は……どうなってしまうんだろう」

「そんなにか」

「うん。二人の関係はあまりにも、密過ぎた」

「それなのに、か」

「言ったでしょ?人とのつながりに、上限なんてないの。深ければ深いほど脆かったりもするんだよ」


 透は皮肉げに笑う。だがその目に宿る寂しさを、樹が見逃すことはない。


「俺は、大切な人間を蔑ろにしたりはしない」

「知ってるよ」


 ふふ、と嬉しそうな笑みを浮かべ、男へ視線を向ける。その時、男が目を開けた。


「あれ……ここは……?」

「お目覚めですか。ご気分はいかがでしょうか」

「気分は、特に……? 俺は何をしていたんですか?」

「お疲れだったんですね。ご来店後、一杯カクテルを召し上がられて、お眠りになられていましたよ」

「え!? すみません、俺…………」

「いえ。ご気分を悪くされていないのなら良かったです」


 透は、男を安心させるようににこやかに応える。


「ところで、ここは……Bar?」

「はい。ここはAbsolution。ひっそりと営んでいるBarでございます」

「そうなんですね。すみません、一杯飲んだだけで寝ちゃって。……あの、せっかくなので何か作ってもらえますか?何だか頭がモヤモヤしているから、眠気覚ましになりそうなのを」

「かしこまりました」


 注文を受け、透がシェイカーを取り出す。手際良く作られたカクテルを、カウンターに置いた。


「どうぞ。スーズギムレットでございます」

「スーズ……? ギムレットは知ってるけど、スーズって何ですか?」

「ギムレットはジンをベースにしライムジュースを入れたものですが、こちらはジンの代わりにスーズというリキュールをベースにしたものになります。カクテル言葉は『悲しみを乗り越えて』。苦味と酸味があるため、眠気覚ましにも良いですし……お客様の、“これから”に添えさせていただきたく」


 最後の言葉の意味がよくわからなかったのだろう。男は不思議そうな顔をしてグラスに口をつけた。


「お、初めて飲む味。何かこう……苦味もあるけどさっぱりする感じですね」

「スーズはハーブリキュールですので。よろしければ、こちらのチョコレートと一緒にどうぞ」

「ありがとうございます。ん、このチョコレートも苦いですね。でも、この苦さが逆にいいかも」

「お口に合ったのなら良かったです。頭のモヤモヤは、なくなりましたか?」

「あ、はい。何だかすっきりしました」

「そうですか、安心いたしました。あまり、ご無理をなさらないでくださいね」


 笑顔を崩さずに男を労わる透の声は、とても慈悲深く聞こえる。――実際、憐れんではいるのだろう。男の、“これから”に。


「ありがとうございます。こんな一見の客相手に気を遣ってくれるなんて、バーテンさんは優しいですね」

「とんでもございません。お客様の笑顔が、我々の糧になりますので」


 だけど男はその憐れみに気づかない。何故なら、何も“気づいて”いないのだから。


「じゃあ、そろそろ帰ります。ほとんど寝に来ただけになっちゃってすみません。いくらですか?」

「本日のお代は結構でございます」

「は? いや、払いますよ!迷惑もかけちゃったし」

「迷惑なことなど、何もされていませんよ。お疲れのお客様への、私からのサービスとさせてください」

「えー……すみません、ごちそうさまになります」


 透の笑顔に、これ以上の押し問答は無駄だと感じたのだろう。男が折れた。それに透はひとつ頷き、扉まで見送る。


「では、お気を付けて。――お客様の未来に、幸があらんことをお祈り差し上げます」

「ははっありがとうございます。ごちそうさまでした!」


 最初の傲慢そうな様子とは違う、人懐っこい笑顔を見せて男は帰って行った。

 純朴で一途だった少年を変えてしまったのは、何だったのだろう。都会に憧れなければ、東京という街に流されなければ、平穏な幸せが約束されていただろうに。


「お疲れさん」

「お疲れさま、いっちゃん」


 先ほどまで顔に貼り付けていた笑みを剥がし、ふにゃっと笑う透の顔は見るからに疲れていた。客の前では絶対に見せることのない、気の抜けた顔だ。


「ふふ」

「何だ?」

「樹はさ、普段は「いっちゃん」って呼ぶと「その呼び方はやめろ」って眉間に皺を寄せるのに、俺が本当に疲れてる時とかは何も言わずに応えてくれるよね」

「ああ……まぁ、弱ってる時くらいはな」

「本当に俺に甘いよね、いっちゃんは」

「嫌か?」

「ううん、うれしい」

「そうか」


 そう、この幼馴染は生まれた時から傍にいて、ずっと透を甘やかしてきた。

 透の家がちょっと特殊な家系だと知った時も、透が初めて罪を喰って“しまった”時も。

 いつだって傍で、透の味方をしてくれた大切な幼馴染。きっと、この存在を失ったら透の心は壊れてしまうだろう。――あの男は、どうなるのか。

 他人事とは思えなかった、あの男と幼馴染の絆。

 だけど、透は決して樹の優しさに慢心したりはしない。蔑ろにしたりしない。

 だから、大丈夫。大丈夫、だと、思いたい。


「いっちゃん。俺から離れないでね?」

「頼まれても離れてやらねぇよ」


 戯れのような、心からの懇願。


「今日は疲れちゃった。もう、帰ろっか」

「ああ」


 今日も二人の一日が終わる。明日は、どんな罪人が来るのだろう――



 *

 自宅に帰った男は、何とも言えない違和感を感じる。

 いつも通りの玄関、いつも通りのリビング、なのに何かが足りない気がするのだ。


 「この部屋、こんなに広かったか……?」


 男は気づいていない。つい数日前まで、この部屋にもう一人の“住人”がいたことを。

 男は忘れている。かつて、誰よりも一緒の時間を過ごした相手を。


 「……? まぁ、いいか」


 男は、これからの人生で幾度となく感じていくことになる。

 今まで当たり前にできていたことができなくなる不安を。

 魅力的だと思っていた女性が、「何か違う」ことを。

 己のアイデンティティが、崩れていく感覚を。

 ――何故ならそれはすべて、桃香と過ごした時間に築いてきたもので。桃香の影響は、その存在は、男にとってあまりにも大きすぎたのだ。


 一方で桃香は。

 幼い頃から共に過ごした幼馴染であり婚約者だった男から告げられた、あまりにも身勝手な申し出に心底呆れていた。百年の恋も冷めるとはこういうことを言うんだ、どこか他人事のように感じるほどに。

 すぐに一人で住める部屋を探し、引っ越しを済ませ。家族にも報告をして、普段通りに生活をしていた。

 ここ数年はほとんど一人で暮らしているようなものだったので寂しさはない。むしろ、“自分以外”の世話をしなくても良くなったのだから、楽になったとも言える。

 掃除も洗濯も、自分の分だけ。無駄に気を遣うことも、何かを考えさせられることもない。人生で初めて手に入れた“自由”を、謳歌しているその表情(かお)には、一切の憂いもなかった。

 

 そして、家を出て数週間後、口座に三百万円の振り込みがあった。

 名義は元婚約者だから、慰謝料のつもりだろうか。最後の最後で、少しだけ男の誠意を感じられた気がした。

 桃香は、男を嫌いになったわけじゃないのだ。一緒にいた時間は楽しかったし、幸せだった。ただ、長く共に歩いて来た道が分かれただけ。

 少しも悲しくなかったのかと言わると嘘にはなるが、恨んでもいないし、素直に相手の幸せを願っている。

 だって、桃香にとってのあの男は――初恋の人であり元婚約者であると同時に、大切な幼馴染なのだから。

 


 

 例え失っても、無くならないものがある。

 人が生きてきた軌跡を、思い出を、罪喰いが喰うことはできない。

 だが、「喪失」の大きさは、それに比例するものである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

もし少しでも心に残るものがありましたら、下のブクマや評価【☆☆☆☆☆】、リアクションなどで応援いただけると、嬉しいです。

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