2.Black Russian-母の葛藤-
――罪喰いとは、数世紀前にイギリスを中心とした欧州にかつて存在した風習である。
亡くなった人の罪を代わりに引き受け、その魂を浄化する。
その役割から、時に「穢れ」だと忌避され、時に「ペテン師」だと罵倒され。社会の片隅で生きることを余儀なくされていた、孤独な存在だった。
時代と共に消滅したとされるその存在は、形を変え、手法を変え、現代にまで続いている。
昔と変わらず、社会の片隅で、ひっそりと――――
*
「今日も冷えるな」
「そうだね」
都内には珍しく、雪がしんしんと降り注ぐ冬の夜。Bar Absolutionには今夜も客の“訪れ”を待つ二人の青年がいた。
「今日は来るのか」
「うん、きっとね。温かいおでんでも、用意しておこうか」
「ああ」
今日の来客は、どんな“罪人”なのだろうか――
*
「こんばんは、素敵な夜ですね」
すっかりと夜も更け、日付が変わる少し前。静かなベルの音と共に入店して来たのは、コートも着ず、疲れ切った顔をした一人の女性だった。
「ここは……?」
「ここはBar Absolution。何か、温かいお飲み物はいかがですか?」
迷子になった子供のように視線を泳がせながら、その女性――中村美和は、促されるままにカウンターチェアに座る。
「……ホットココアを……」
「かしこまりました」
程なくして美和の前に置かれたホットココアは、生クリームも添えられていない、昔ながらの素朴なものだった。
「……ぅっ」
その温かさに、甘さの中に感じるほんのりした苦みに、堰を切ったように溢れる涙。押し殺していた声も抑えきれず、次第に声をあげてわんわんと泣き始める。静かな店内には、しばらくの間美和の泣き声だけが響いていた。
「――どうぞ。よろしければ目元、温めてください」
美和が落ち着いたのを見て透が差し出したのは、温かいおしぼり。言われた通り目元に当てると、熱くなっていた目の周りにじんわりと優しい熱が沁みていく。
「……ありがとうございます」
「いえ。落ち着かれましたか?」
「はい……すみません、いきなり」
「涙を流すことは何も悪いことじゃないですよ。特に、声を出して泣くことはデトックスにもなりますからね」
初めて訪れた店で突然泣きわめいたことを恐縮する美和に、透はにこやかに応える。
「そう、ですね。最近は涙が出てくることがあっても、思い切り声を出して泣くなんてことできなかったから」
「大人になると、どうしても声を抑えることを覚えてしまいますからね。大人だって、泣きたい時は思い切り泣いてもいいと思うのですが。誰が『大人は泣いたらいけない』なんて言い出したんでしょうね」
透の穏やかな軽口に、美和の心が次第に解れていく。そんな時、ぐぅ、と腹の音が鳴った。
「お腹、空かれているんですか?」
「すみません……夜ご飯をあまり食べられなかったので」
「おでんは、お好きですか?」
「え?」
「おでん、お好きですか?」
そう聞かれたら、否定することは中々難しい。少し戸惑いながら頷く美和の前に置かれたのは、緩やかに湯気を上げるおでんだった。
大根、ちくわ、玉子と結び白滝にこんにゃく……と。
「お豆腐……?」
「おでんに入ったお豆腐って、美味しいですよね」
豆腐に気付いて、また顔を強張らせる。
「よろしければおでんに合うお飲み物をお作りしますよ。お酒はあまり飲まれないですか?」
「昔は好きでした。でも妊娠してからはずっと飲んでいないです。今は子供も四歳になったのでたまに飲みたいなって思うんですけど、上手に時間を取れなくて」
「では、せっかくなので少し飲まれませんか?ここはBarです。飲んでも誰も咎めたりはしませんよ」
「――っ! そうですよね! ビール、もらえますか?」
「かしこまりました」
カウンターに置かれた瓶ビールは、キンキンに冷えていて。透の酌でグラスに注がれたビールを、喉を鳴らしながら一気にあおった。
「っあーーー! 美味しい! この冷え具合、最高ですね!」
「喜んでいただけて光栄です。ぜひ、おでんも温かいうちにどうぞ」
「はい、いただきます!」
先ほどと打って変わったように笑顔になった美和は、ビールを飲みながら美味しそうにおでんを頬張る。ただ、豆腐に手をつけようとはしない。
「お豆腐は、お嫌いですか?」
「嫌い、じゃないです、けど」
「けど?」
「息子が、好きなんです。おでんの豆腐」
「息子さん、四歳の?」
「はい。私はおでんに豆腐なんて考えたことがなかったんですけど、離乳食が始まった頃から息子が豆腐が大好きで。おでんにも豆腐が合うって聞いて、入れてみたら大喜びで食べてくれたんです。それから、うちのおでんには豆腐が必ず入ってるんですよ。それも、焼き豆腐じゃなくて、ここと同じように絹豆腐が」
そう話す美和の表情は、先ほどの強張ったものではなく。柔らかいような、痛々しいような、複雑な表情をしていた。
「焼き豆腐や木綿豆腐の方が崩れないんですけどね。私が絹豆腐派で」
「息子もです。あの焼き目が、どうも苦手みたいなんですよね」
「可愛い息子さんですね」
「かわいい、ですね。はい、かわいい子なんです。本当に」
言葉を反復させながら、ようやく豆腐に箸をつける。
「おいしい、ですね……最近はあの子におでん、作ってあげられてなかったな」
静かに呟き、皿とグラスを空けた。
「ごちそうさまでした。……もう、帰らないと」
「息子さんは、今ご自宅に?」
「はい。旦那が見てくれているはずです」
「そうですか。ところで――何故、この寒い夜にコートも着ずに外出されたのですか?」
透の問いかけに、美和はビクッと体を震わせる。
「それは……」
「お辛いですか?」
「辛い、なんてことはないです。息子はかわいいですし」
「では、何故ここに?」
「……Barに来る理由なんて、何だっていいじゃないですか」
透の、淡々としながらもどこか執拗に思える問いに気まずさを覚え、少し苛立ちを交えながら返答する。
「おっしゃる通りです。ですが、ここはBar Absolution。“赦免”……赦しを求める人にしか、見つけることができない店なのですよ」
「は……?」
「お客様には、何か忘れてしまいたい『罪』はありませんか?」
一瞬、何を言われているのか理解ができなかった美和の頭に入ってきた、“罪”という言葉。考えるよりも先に、心が反応してしまう。
「息子にイライラしてしまうことは、罪なのでしょうか」
「イライラ、ですか」
「はい。かわいいはずなのに、それと同じくらい憎く感じてしまうこともあって……今、仕事と家事・育児で全然自分の時間が取れないんです。大好きなお酒も飲めないくらい。旦那は仕事で遅い日も多くて、休日は『疲れているから』とずっと寝ているか自分の趣味ばかり。気まぐれに息子と遊んで甘やかすから、息子はパパが大好きで、小言を言う私にはイヤイヤして、っ毎日、一緒にいてお世話をしているのは私なのに……っ」
「それは、お辛いですね」
「今日も、何とか息子を寝かしつけてようやくホッとできた時に旦那が帰って来て。疲れ切った私を見て、『すっかり所帯じみたな』って言うんですよ。しかも半笑いで。もう、ぷっつん来ちゃって。スマホだけ持って家を出て来ちゃいました」
自嘲するように笑うその姿――化粧っ気のない顔に手入れの行き届いていない髪――は、実年齢よりも上に見られそうなほどに疲れ切っていた。
「捨ててしまいたいですか?」
「え?」
「あなたの心を濁らす感情を。その、『罪』を」
「捨て、られるんですか?」
縋るような美和の前に置かれた、綺麗な淡い黄色のショートカクテル。
「このカクテルの名前はConfession。あなたの心の内を、私に“告白”してみませんか?」
その言葉に頷くように、グラスを傾けた。
強めのアルコールの中に感じるレモンの風味が、喉をスーッと通り抜ける。と、そこで美和の意識が途切れた。
――――――――
元々私は、結婚願望も子育て願望もなかった。大学を卒業してそのまま就職をし、順調にキャリアを積んで。大変なこともあったけれど、やりがいはあったし仕事の後に同期と飲みに行くことも楽しかった。
そんな毎日に何の不満もなかったはずなのに、三十を過ぎた頃にあの人と出会って。気の合う友達から、自然と恋人になって、当然のように結婚することになった。
妊娠して、お酒が飲めなくなって、産休に入ったら社会から放り出された気がして……漠然とした寂しさを感じながらも、息子が生まれてくれたときは素直に嬉しかった。
小さな頭も、手も足も、すべてが可愛くて。初めて笑顔を見せてくれた日、初めて「ママ」って呼んでくれた日、初めてたっちできた日……幸せな“初めて”がいっぱいあって。明るく元気な子になってほしいと思って付けた『陽太』という名に負けないくらい、いつも笑っている太陽みたいな子に育ってくれている。――だけど、いつからだろう。“何で私ばっかり”なんて、思ってしまうようになったのは。
育休明け、数年ぶりに復帰した職場は、以前と変わっていなくて。上司も同僚も、温かく迎えてくれた。保育園から呼び出された時も、お迎えがあるから残業ができない時も、嫌な顔をひとつしないで見送ってくれた。
でも、その優しさが反対に心苦しく感じて。申し訳なさに潰されそうで、とにかく仕事を頑張った。そうしたら、すごく疲れてしまって、家事が疎かになり、自分の身なりに気を遣う余裕がなくなった。
何で私ばっかり。私だって、疲れているのに。旦那は飲み会があるからって遅くなって、二日酔いで昼まで寝て。私も寝たいのに。ご飯の用意があるから、起きないといけなくて。洗濯物を干して、畳んで、食器を洗って、掃除機をかけて……何で、私ばっかり。
不思議と、同僚たちは子供がいてもちゃんと綺麗にしている。SNSを見るとキラキラしたママたちばかりが目に入る。こんなに苦しいのは私だけなの?私が駄目なの?私に育てられている陽太は、もしかして可哀想な子供なんじゃ……そんな、自己嫌悪に陥ってしまう。
些細なことでイライラするようになった。陽太のペースに合わせる余裕がなくなった。“母親なのに”、母親でいることが苦しくて。そんなことを考えている私に見せてくれる陽太の笑顔に、余計苦しくなって。
今日は、どうしても耐えられなくて陽太を置いて出て来てしまった。これ以上この感情が溜まったら、陽太に酷い言葉を言ってしまいそうで怖い。あんなにも無邪気で可愛い子なのに。――私は、母親失格なのかな……。
――――――――
「――あれ、私は……」
「ご気分はいかかですか?」
「ここは……あ、もしかして私寝てました?」
「ええ。一時間ほど。ご気分、悪くないですか?」
「いえ、むしろ何だかすごく元気です! あれ、何で私ここ来たんでしたっけ? っていうか今何時?うわ、もうこんな時間なんですね。すみません、遅くまで」
「とんでもございません。お元気なようで、安心いたしました。よろしければ、こちらをどうぞ」
そう言って透が置いたのは、氷がたっぷりと入ったロックグラスに、コーヒーのような色をしたカクテル。横にはビターチョコレートが添えられている。
「これは……?」
「こちらのカクテルは、ブラック・ルシアン。コーヒーリキュールなので眠気覚ましにピッタリかと。ちなみに、カクテル言葉は『敵』です」
「敵……」
「子育てに奮闘するお母様方は、日々たくさんのものと闘っておられます。それは、社会であり他人であり、時に身内であり……自分自身の場合もあるかと。私には想像もできないくらい、辛いことも苦しいこともあるでしょう」
美和は、透の言葉に耳を傾けながら、静かにグラスを見つめた。
「“母”というのは、この世の中では数少ない、“代わりのいない”役割です。だけどそれは、自分を犠牲にしなければならない理由にはなりません。母であると同時に、一人の人間なのですから」
「そう、言われても……」
「まずはそちらを一口、飲んでみてください」
「はい……あ、意外と甘いんですね。おいしいです」
少し戸惑いながらも、その甘さに頬を緩める。
「では、お次はこの生クリームをグラスに入れて飲んでみてください」
「え、生クリームですか?」
「はい。ブラック・ルシアンに生クリームを入れると、ホワイト・ルシアンになるんです。カクテル言葉は、『愛しい』・『守りたい気持ち』。――お客様は、息子さんのことを愛していらっしゃいますよね」
「もちろんです!あの子がいるから、毎日頑張れるんです」
「では、ピッタリですね。お客様の人生に不要な雑音……『敵』を甘さで覆い、息子さんを『愛しく』想う気持ちと『守りたい気持ち』を大切になさってください」
この店の扉を開けた時に抱いていた感情を、今はもう思い出せないけれど。目が覚めた時に何処かにあった、ぽっかり穴が開いたような感覚……その穴が今、塞がった気がした。生クリームを入れたホワイト・ルシアンを飲んで、ビターチョコレートを口に含む。その、甘さと苦さに、何故か涙が頬を伝う。
「すみません、突然、こんな。ごちそうさまでした。そろそろ、帰りますね」
「かしこまりました」
慌てて涙を拭い、会計……となったところでスマートフォンの電源を切っていたことを思い出し、電源を入れる。その途端、着信音が鳴った。
「うわ、え、電話? はい、もしもし。……うん、ごめん。電源切っちゃってた。ううん、私こそごめん。うん、うん。陽太は? ……そっか、良かった。うん、そうだね。聞いてくれるの? ふふ、そっか。うん、今帰る。え? あ、じゃあ、お風呂沸かしててほしいな。コートも着ないで出て来ちゃったから、凍えながら帰ると思うから。ほんとだよね。ははっうん、ありがとう。じゃあね」
随分と心配していたのだろう。慌てたような声が漏れていた。
「わ、着信もメッセージもすごい来てる。面倒だから電源切っちゃってたんだよなー。ちょっと、申し訳ないことしちゃったかな」
「素敵な旦那様ですね」
「ええ。すごく優しくて……まぁ、ノンデリだったりもするんですけどね。本人に悪気はないんですよ、たぶん」
「悪気のない言葉が、逆にタチが悪かったりもしますからね」
「そうなんです……! でも今日は話を聞いてくれるって言っているので、これから話し合いです。あの言葉だけは許せないので、しっかりと謝らせます」
冗談めいた笑顔を見せる美和からは、もう憂いを感じない。息子へ向けてしまっていた負の感情を忘れ、旦那に言われた“あの言葉”はしっかりと覚えている。それでも、もう大丈夫なのだろう。家族への愛は、確かに感じられるのだから。
「外は寒いので、どうかお気をつけて。気休めにしかならないかもしれませんが、よろしければこのカイロ、使ってください」
「暖かい……本当に、いろいろとありがとうございました。ご面倒ばかり掛けてしまってすみません」
「とんでもございません。お客様が、この店を出る時に笑顔でいてくださるのなら。それだけで充分です」
その言葉に少し照れたような、だけどとても嬉しそうな笑顔を見せて、美和は店を後にした。
「――今日は、随分と口数が多かったな」
「ちょっとね。子供を愛するお母さんには、自分の幸せも大切にしてほしいよね」
「そうだな。……片付けしとくから、少し休んでろ」
「うん、そうする。いつもありがとうね、いっちゃん」
「ああ」
静かな夜に、二人の時間はひっそりと過ぎていく。
犯す前の“罪”を喰らうことも、罪喰いは厭わない。
――“悪”には喪失を、“善”には浄化を。
それが、罪喰いの流儀であり。弱き者を慈しむこともまた、それと同じなのだから。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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