1.Mojito-救えなかった親友-
残業を終わらせ、家路を急ぐ氷雨の宵。
繁華街を歩く白石千尋が感じたのは、ひどく懐かしい香りだった。
「何の香りだろう……?」
懐かしい、だが何の香りかはわからない。それでも無性に気になり、香りに導かれるように路地へと歩を進める。
「何かのお店……?」
いつも仕事帰りに通っている道から一本入った路地に、一つのライトに照らされた木製の重厚な扉があった。看板があがっていないため、何の扉なのかもわからない。普段なら決して手を掛けることがないだろうその取手に、千尋は迷うことなく手を掛け、扉を開けた。
「こんばんは、素敵な夜ですね」
静かなベルの音を鳴らしながら足を踏み入れると、そこはカウンターのみのこじんまりとしたBarだった。二十代半ばほどに見える、白いシャツにギャルソンエプロンを着けた穏やかそうな青年が柔らかな笑みを向け、カウンターチェアに座るよう勧める。
「あの、ここは……?」
「ここはBar Absolution。外は寒かったでしょう。ホットワイン、いかがですか?」
「あ、はい。いただきます」
注文を受けた青年が、鍋に火をかけ、白ワインを温める。体が温まるようにシナモンや生姜を入れ、オレンジを添えて千尋の前に置いた。
「ありがとうございます。……おいしい」
「それは良かった。お仕事帰りですか?」
「はい。今日は少し時間がかかってしまって」
「遅くまでお疲れさまです。何か、お腹に入れるものをお作りしましょうか?」
「え、軽食があるんですか?」
「はい、ございますよ。どんなものが良いですか?」
そう問われ、千尋の頭に浮かんだのは、先ほど感じた香り。懐かしくって、何だか涙が出てきそうなほどに、優しくって――どこか寂しさを覚える、そんな香り。
「おばあちゃんが作った、かぼちゃの煮物……」
「かぼちゃの煮物、ですね。かしこまりました」
青年は頷くと、裏方にいる誰かに声を掛けた。
「え、いや、ごめんなさい!こんなお洒落なBarで煮物なんて……!」
「大丈夫ですよ。どんなものでも、とは言えませんが、今日はちょうどご用意できそうです」
にこやかに微笑む青年に、千尋は恐縮しながらも嬉しそうな顔をする。
「お好きなんですか?おばあさまのお料理が」
「はい……祖母はあまり料理が得意な方ではなかったんですが、かぼちゃの煮物だけはよく作ってくれたんです。子どもの頃、母が煮物を作るタイプではなかったので、祖母の作る優しい味がすごく好きで。……あの子も、好きだったな、おばあちゃんの煮物」
「あの子、ですか?」
「あ、と、何でもないです。少し、昔のことを思い出しただけで」
「そうですか。おかわりは、何にいたしましょうか?」
「じゃあ、せっかくなので煮物に合うものを」
「かしこまりました」
そう、返事をした青年が用意したのは一本の赤ワインだった。
「赤ワイン……ですか?」
「赤ワインです。かぼちゃには、意外とよく合うんですよ」
「お待たせいたしました」
裏方から顔を出したのは、穏やかな青年と同じ服装をした別の青年。意志の強そうな整った顔に、がっしりとした体格。寡黙な雰囲気を醸し出す筋張った青年の手には、出来立てのかぼちゃの煮物があった。
それを渡された千尋は、「ありがとうございます」と礼を言い、箸をつける。
「――っ!これ、おばあちゃんの味……?」
「今日は素材を生かした味付けにしたそうです。かぼちゃ本来の優しい甘さが際立つので、私も好きなんですよ、この味」
祖母が作ってくれていたあの優しい味が口に広がり、また頭に浮かぶのは“あの子”のこと。目頭が熱くなり、それを誤魔化すように赤ワインを口に含んだ。
「おいしい……」
「それは良かった」
空腹だった胃に沁みていく美味しさ。赤ワインの酸味と相俟って、箸が進んでしまう。
「よろしければこちらもどうぞ。お米を入れた方が胃にも優しいと思いますので」
「あ、すみません。ありがとうございます、いただきます」
皿が空いた頃、青年がカウンターに置いたのは熱々のリゾット。ふわりと香るトマトとチーズの香りが食欲を刺激し、スプーンですくったそれをふーっと冷ましながら口に運ぶ。
「はふっ あ、これもおいしい。リゾットも大好きなんです」
「お酒を飲んだときのリゾットは一段と美味しく感じますよね。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
そう言葉を掛け、青年は一度裏の方に下がっていった。
一人、カウンターに残された千尋はリゾットとワインに舌鼓を打ちながら、物思いに耽る。
ふ、とした瞬間に思い出す幼馴染のこと。
一緒に過ごした楽しい時間。勉強が忙しくなって、自然とできてしまった距離。偶然再会したときの姿とその後一方的に告げられた決別。――人伝で聞いた、あの噂。
「……あの時、ちゃんと話を聞けていたら」
「聞けていたら?」
「――っ!」
「あ、不躾に失礼いたしました。先ほどから、何か思い詰めているようでしたので」
「いえ、そんなわけじゃ……。ただ、おばあちゃんの味を感じたら、どうしても思い出しちゃう子がいて。それだけ、です」
「それだけ、ですか?」
「え?」
「ここはBar Absolution。“赦免”という意味です。あなたの心に巣食うその『意識』はどのようなものなのでしょうか」
――『意識』とは。千尋は、ずっと心の中に燻りながらも、向き合うことが怖くて目を反らし続けていた過去。後悔し続けている“あの子”のこと。……それに初めて、『意識』を向ける。
「私は、……私は、あの子を救えなかった。救えたかもしれなかったのに、手を差し伸べられなかった。大切な親友だったはずなのに、私は、自分のことばっかりで。違和感を感じていたはずなのに、あの時、話を聞けていたら……っ!」
「後悔、しておられるのですね」
「後悔……そう、ですね、後悔しています。後悔と罪悪感で押し潰されそうで……正直、今まで向き合うことを避けていたくらい。薄情ですよね、親友だったはずなのに」
千尋が向き合った自分の『意識』。そこにあったのは、話を聞こうとしなかった『後悔』と、親友のSOSよりも自分を気持ちを優先した『罪』の感情だった。
「苦しいですか?」
「苦しい、です」
「忘れたいですか?」
「え?」
青年が紡ぐ言葉の意図が理解できず戸惑う千尋の前に、ショートカクテルが差し出される。
「このカクテルの名前はConfession。“告白”という意味です。今日は、お客様の心の内を告白していただけたら、と思いまして」
「心の内を……?」
「ええ。あなたの感じている『後悔』を。そして、『罪』を」
「聞いて、いただけるんですか?」
「もちろんです。――あなたの罪、私がいただきますね」
その言葉に促されるまま、千尋はグラスに口をつけた。
――――――――
――物心ついた時から、両親は共働きだったため、よく近所に住むおばあちゃんの家に遊びに行っていた。その頃、おばあちゃんの家の隣に住んでいた私と同じ歳の女の子、美愛と仲良くなった。
控えめで、言いたいことを上手く言葉にできない子だったけれど、笑顔の可愛い、優しい子だった。母子家庭でいつも一人ぼっちでお家にいたから、おばあちゃんの家で一緒にご飯を食べることもあった。かぼちゃの煮物も、「おいしいね」って喜んで食べていた。
私はどちらかと言うと何でもはっきりしているタイプだったから、美愛が言いづらそうにしていることも代わりに言葉にすることもあって。気付けば美愛はいつも私の後ろに隠れて、私のことをキラキラした目で見ていた。いつの間にか、美愛は「守る存在」になっていた気がする。
だけどその関係が変わってきたのは中学生の頃。私は市内にある進学校に受験するため、勉強で忙しくなってあまり美愛と一緒にいられなくなっていた。美愛は勉強が得意な方ではなくて、自然と距離ができていた。
私は進学校、美愛は定時制の高校。おまけに、美愛の家はあまりお金に余裕がある感じじゃなかったから、年齢を誤魔化して夜の仕事をするようになったって聞いた。……そんな時、偶然すれ違って。夜の仕事をしているからなのか、雰囲気の変わった美愛の姿に、少し気後れしてしまって。
勝手に距離を感じて、そっけない態度を取ってしまった。今思えば、あの時の美愛の表情は昔と何も変わっていなくって……あの、“何かを伝えようとしている表情”をしていたのに。
あの子が伝えようとしていたことが“SOS”だったんじゃないかって気付いたのは、結構時間が過ぎてから。一方的とも言える別れの言葉が書かれたメッセージが届いて、最初は意味がわからなくて。理解をした時にはもう遅く、美愛と連絡が取れなくなっていた。
その後。あのメッセージが届いた頃、子供ができて高校を中退していたこと。当時美愛が付き合っていた彼氏が半グレのDV男で、その男から逃げるためにすべてを捨てていったことを、噂で聞いた。周りに迷惑を掛けないように、連絡先もすべて消して。
“あの時”、もし私が話を聞けていたら。何か、変わっていた?
何か、できたのかな?私は、何の力もないただの高校生だったのに。
それでももし、少しでも寄り添えていたのなら。守りたかったあの笑顔を、守れていたのだろうか。
そんなことばかり考えてしまって、苦しくて、考えたくなくて。
強い、と思っていた自分はこんなにも弱くて、無力で。大切だったはずの友達を守れなかった。“親友”だと思っていた子が、本当に辛い時に何もできなかった自分が、情けなくて、申し訳なくて。――それが、私がずっと目を反らしてきた、自分の罪。
――――――――
「――あれ、私寝ちゃってましたか?」
「ええ。でも、ほんの三十分ほどですよ。お疲れだったのでしょうね」
確かに疲れてはいたが、眠ってしまうほどではなかったはずだ。懐かしい味のする煮物と美味しいリゾットを食べて、ワインを飲んで……その後、何かカクテルを出されたような。それが効いたのだろうか、だけどやたらと心がすっきりしている。
「気分はいかがですか?」
「すみません、ご迷惑をお掛けして。でも、すごく軽い感じがします」
「そうですか、それは良かった。では、眠気覚ましにこちらをどうぞ。サッパリすると思いますよ」
そう言って青年がカウンターに置いたのは、チョコレートを添えたロングカクテル。
「モヒートのカクテル言葉は『心の渇きを癒して』。ミントは癒しを。ライムは心の浄化に適しているので、きっと今の気分にはちょうどいいカクテルかと」
言われるがまま、モヒートを口に運ぶ。ほんの少しの甘さにミントとライムの清涼感、強すぎない炭酸が喉を通り、潤いを与えてくれる。
「すごく、さっぱりしていておいしいです。前に飲んだことのあるモヒートよりも優しくて、飲みやすいです」
「少しお酒が進んでしまった様子だったので、ラムを少ししか入れていないんです。ラムは中々主張の強いお酒ですからね。それがまた美味しくもあるのですが」
「そうですね。でも、私はこっちの方が好きです。お気遣いくださって、ありがとうございます」
「いえいえ。そう言っていただけて、私も嬉しいです」
ゆっくりとモヒートを味わいながら、先ほどまで感じていたモヤモヤした気持ちがなくなっていることに気付く。――何を考えていたんだっけ?
何かあったような気がするけれど、思い出せない。
そんなことを考えながら添えられていたチョコレートを口に入れると、少しビターな甘さが広がる。その甘さにホッとしているうちに、「何か」はすっかりと頭から抜けていった。
「ごちそうさまでした。長居してしまって、すみません」
「とんでもございません。お客様にゆっくりくつろいでいただくために、この店があるのですから」
「ご飯もお酒も、どれも本当においしかったです。何だかすごく祖母に会いたくなってしまったので、今週末にでも久しぶりに会いに行こうと思います」
「――それは、おばあさまも喜ばれますね」
「はい。かぼちゃ、買って行っちゃおうかな」
「そうですね。きっと、素敵な時間になると思いますよ」
提示された会計金額の安さに驚き、恐縮しながらも支払いを済ませ店を出ると、相変わらず空気は冷えているが雨は止んでいる。千尋は軽くなった心のまま、家路を急ぐのだった。
*
「――今日は、どうだったんだ?」
千尋が去った後の店内で、裏から出てきた寡黙な雰囲気の青年――御影樹 は、穏やかな青年――月峯透に問いかける。
「優しい子だったよ。“罪”とも言えない“罪”だった。世の中にあるのが、これくらいの罪だけならいいのにね」
「……そうだな。少し横になるか?」
「ううん、大丈夫。それより、少し付き合ってよ。僕も、大切な幼馴染との交流をもっと深めたいなって思ってさ」
「これ以上か?」
「人とのつながりに、上限なんてないんだよ?」
「そうかよ。まぁ、お前が眠くなるまでなら付き合ってやる」
「ふふ。ありがとう、いっちゃん」
「……その呼び方はやめろ」
二人だけの店内で、気安げな会話が交わされる。千尋が出て行った扉は、外からはもう誰の目にも留まらなくなっているのだろう。
「……素敵な再会になるといいな」
*
「おばあちゃーん」
土曜日、千尋は祖母の家を訪ねていた。近所のスーパーで買った差し入れの中にはしっかりとかぼちゃも入っている。
「はいはい。ちーちゃん、いらっしゃい。元気そうで良かったわぁ」
「おばあちゃんもね。お邪魔しまーす、ってあれ?誰か来てるの?」
「ええ。ちーちゃんは覚えているかしら?昔仲良くしていた美愛ちゃんが来てくれてるのよ」
「え、美愛が?」
千尋は驚き、靴も揃えないままリビングへ駆け込む。
「美愛!」
そこには、落ち着いたメイクをした美愛と、その隣に四・五歳くらいの女の子がいた。
「あ、千尋ちゃん。久しぶりだねぇ、元気だった?」
「元気だった?じゃないよ!今までどこにいたの!?」
「えへへ、ちょっとね。ずっと連絡もできなくてごめんね」
「本当だよ、心配したんだから……っ」
「うん、ありがとう」
思わず視界が滲んだが、女の子の視線に気付いて顔を振る。
「初めまして、こんにちは。お名前聞いてもいい?」
「まひろ、です。佐伯真尋」
「真尋ちゃんかぁ。私は千尋っていうの。ちーちゃんって呼んでね」
「ちーちゃん!ママがよく、ちーちゃんのお話をしてるの。まひろの名前、ちーちゃんとおそろいね」
千尋の名前を聞いて、満面の笑みを見せてくれる真尋に、出会った頃の美愛の笑顔を思い出す。
「千尋ちゃんは、ママの憧れの女の子だからねぇ。千尋ちゃんみたいな女の子になってほしくて、つい」
照れたように笑う美愛と、その言葉にまた視界を滲ませる千尋。二人の間にあるのは、再会できたことへの喜びと、変わることのない友情だけだ。
「あ、おばあちゃん!かぼちゃ買ってきたから煮物作ってほしいな」
「はいはい。二人とも大好きだったものね。真尋ちゃんのお口にも合うといいけれど」
「やった!私も昔を思い出して時々作るんですけど、おばあちゃんの味は出せないんですよね。真尋にも食べさせてあげられるの、嬉しいです」
幼い頃の記憶を辿るように、あの頃に戻ったように、二人は笑う。二人の笑顔を見て、真尋も笑っていた。
“罪”と呼ぶには、あまりにも優しい、友を思う気持ち。
“罪”を忘れ、その気持ちだけを残す。
――“悪”には喪失を、“善”には浄化を。
それが、罪喰いの流儀なのだから。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
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