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【小説】キックスタートビスケット

掲載日:2025/12/15

 インターホンが鳴らされた。

 たった今、おれが部屋の電気を消して、向かいのマンションに棲む人妻の着替えを覗きながら、おれ自身のエンジンを何度も手でキックしていたタイミングでだ。

 

 この人妻はおれに限らず他人に覗かれているのを知った上で、部屋中の灯りをつけたまま着替えをしている。

 たまに下着をつけずにゴミ出しをしているのも見た。

 欲求不満な露出狂だろうか。

 頼めば一度くらいセックスさせて貰えるかも知れないなと思うが、いくら勃起不全の旦那とは言えあの風体の男と揉めるのは誰しもが厭がるところである。

 よってそのような噂は聴かない。

 だから結果的にその着替えを覗きながらそれぞれのエンジンをキックして終わる。

 それにしても。

 

 インターホンが鳴らされた。

 おれはアイドリングが不安定な心臓を宥めてからジャージを腰まで引き上げて煙草に火をつける。

 咥え煙草で玄関に立って覗き穴から外を伺うと、隣に棲む女子大生が白衣を着て立っていた。

 おれのエンジンが沈静化したのを確認してからドアを開けると

「あのこれ、作り過ぎちゃって」

 煙草の臭いとなにか薬剤の匂いをさせた女子大生が寸胴をおれに差し向けた。


 細いメタルフレームにオーバルレンズの眼鏡から細いチェーンが下がっている。

 おれはその眼鏡の奥に鈍く光る女子大生の薄茶色をした吊り目を見てから寸胴のフタを取ると、そこにはぎっしりと小ぶりなホムンクルスが詰まっていた。

「よかったら要りませんか」

 女子大生は薄い唇を面倒くさそうに動かすと、鍋から立ち上る湯気の様な曖昧然とした距離感でおれに訊いた。

 おれはフタを戻して「ありがとうございます」と礼を述べて寸胴を受け取った。

 重いな、と呟く。寸胴は重かった。

 女子大生は反応せずに、寸胴を掴んでいた両手を白衣でゴシゴシと拭うと、続けて短く切ってある黒髪をガシガシと掻いた。

「急がないので返す時は適当に洗って玄関脇に置いて下さったら大丈夫です」

 丁寧だが微妙に間違っていそうな日本語で言うと白衣を翻して隣にある自分の部屋に戻って行った。


 がちゃん、と重い音をたててドアが閉まると続けて鍵をかける音が聞こえて、最後にチェーンをする音がした。

 おれは女子大生からもらった寸胴を持ち上げて部屋に戻り、女子大生が作り過ぎたホムンクルスをひとつ寸胴から取り出すと風呂場に投げた。

 浴槽の中の鰐が水しぶきを上げて飛び出したかと思うと、新聞紙を丸めるかの様な軽い音で女子大生が作り過ぎたホムンクルスを咀嚼した。

 確かに別れた恋人が堕胎した赤子のストックもそろそろ切れて無くなるところだった。

 また適当な女を捕まえなきゃならない、と思っていたタイミングなので行幸といえる。

 これでしばらくは鰐の朝に困る事も無いと思うが、ホムンクルスは冷凍保存をしても平気なのか女子大生に訊くのを忘れた。

 しかし女子大生がドアにチェーンをかけたことを思い出して、おれは上げかけた腰を再び下ろした。


 とりあえず一服しよう。

 おれは立ち上がって押し入れの中に並んだ鉢に植わった緑色の手を確認した。

 赤い産毛が細かくビッシリと生えている。

 設置したメーターを見て、ライトだとか暖房だとかを調整しながら、今度はおれが彼女にお裾分けする番かも知れないと考えた。

 パイプか巻紙も一緒に渡した方が良いだろうか。それとももっとマシな設備をすでに整えているか。

 彼女からそれの臭いがした事は無い。

 何度かすれ違ったり挨拶をした程度だがおれは彼女を魅力的だと思う。

 いつもどこかに汚れのついた白衣、その下に見えるシルエットを覆い隠す緩いラインの服。

 辛うじて見えるふくらはぎは筋肉質に見えるから何かしら運動をしているのかも知れない。



 そこでおれ思い出したように窓辺に戻った。

 まだ途中だったのだ。

 しかし向かいのマンションに棲む人妻の着替えはとうに終わっていた。

 だが今夜は余興が続いていた。

 その人妻は、まだ旦那か勃起した頃に下げていた陰茎を3Dプリンタで出力したと言う張型で遊んでいるところだった。

 それが嘘か本当か誇張されたものなのかは知らない。

 だがやはりあんなものをぶら下げている男とは揉めたくない。

 あの人妻にセックスしませんかと言うのはまだ先、それこそ引っ越す前日くらいでいいだろう。

 揉めごとはごめんだ。


 おれは人妻の自慰を覗きながら再び熱を持ち始めたおれのエンジンを軽くキックする。

 人妻の絶頂に合わせるようにコントロールした煩悩キックで、おれのマフラーから白い煙が飛び散った瞬間に寸胴の中で物音がしておれは振り向いた。


 被せたはずの寸胴のフタが少し動いている。

 まだ生きているのか、それともバランスが崩れただけなのか。

 そもそもあれは誰のホムンクルスなのか訊く事も忘れていた。

 厭な静寂が電気を消した部屋に満ちる。

 仮にホムンクルスがまだ生きていて成長するとすれば、それを飼ってみるのも良いかも知れない。

 女子大生が元なのだとしたら育ててから遊んでみるのも良いし、嬰児を量産して鰐の餌にするのもありだろう。

 待てよ、と思う。

 あのマンションの人妻もセックスは無理でも陰毛や唾液くらいなら分けてくれるんじゃないだろうか。

 それを隣の女子大生に頼んでホムンクルスにして貰えば、あの”馬並み勃つ身”の旦那と揉めずに済むだろう。

 陰毛や唾液程度ならギリギリでセーフな気がする。

 バレたところで陰毛や唾液だ。旦那も精々が殴る程度で済ませるだろう。唾液や陰毛で殺したとなると情状酌量の余地だって無いに違いない。


 おれはウキウキとした気分で窓辺を離れて風呂場に向かった。

 ホムンクルスを食べ終えた鰐は湯舟に戻って鼻先と目だけを水面から出している。

 おれもああして餌を待って過ごしたいものだ。

 何が好きで向かいに棲む人妻の着替えを見てエンジンをキックする日々を過ごさなきゃならないんだ。

 呪詛と白いオイルを洗い流したおれは再びジャージを着て部屋を出た。


 冷たい風が吹く夜だった。

 眠そうな半月が青黒い空に張り付いている。

 カジキマグロだとか巨大な人面カマドウマが車道を勢いよく走り去って行くのを見送ってから左右を確認して道を渡る。

 長いあいだ整備されていない道路は酷く歪んでいた。コンクリートから人へ?人はそのコンクリートに棲んでるんだ。



 おれはスキップをしながら向かいのマンションまでたどり着くと、外から人妻の部屋を確認する。

 相変わらず旦那の張型で遊んでいた人妻を見て、彼女が棲む部屋の窓を叩こうとしたその瞬間だった。

 その部屋の中、人妻の奥に風体の怪しい男がビデオカメラを構えて人妻が自慰遊びをひてる姿を撮影しているのが見えた。

 勃起不全の男が女にセックスの質問をするビデオを撮る映画を見た事があるが、これはその亜種なのかも知れない。

 とにかく、そこに旦那がいるとなると話は違ってくる。

 おれは静かに踵を返してきた道を戻った。



 自分の住んでいるマンションを見上げると、女子大生がベランダを伝っておれの部屋から自分の部屋に戻っていく最中なのが見えた。

 相変わらず白い白衣を着ており、その白衣は風にあおられて巨大な蛾が羽ばたこうとしているようにも見えた。

 別れた彼女だとか自分の子どもだとかを鰐の餌にしている自分の事を考えると、彼女がしている事を責める気にもならない。

 ましてや貰ったばかりのホムンクルスをさっき鰐に食わせた事を思い出せば、なにか注意できる身分だとは思えない。


 

 彼女に頼んだら彼女自身のホムンクルスくらい作ってくれるだろうか。

 やはり薄茶色の鈍い眼光を放つに違いないが、眼鏡をかけさせるべきか否かで宗教が分かれるとも思う。

 肉体はどうあれ育て甲斐がありそうだ。

 おれの直感だと彼女は陰毛を生やしていないタイプだ。根拠は無い。

 抱き心地はどうだろう。

 そんなことを考えながら一歩踏み出した瞬間に排気量25000CCのゲンゴロウがおれに向かって走ってきているのが見えた。


 冷たい車道に横たわって見上げた夜空に浮かぶ半月だと思っていたのは、単なるアメリカ製のビスケットだった。

 今夜は雨らしい。

 彼女はおれのホムンクルスを作ってくれるだろうか。

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