ある指輪と聖人の誕生
その日ゾーイは、前日に突然入ったベラの悲報が信じられず、学園を欠席し遺体が安置されているという聖ロムール教会へ向かった。
間もなく雪が降るだろうと思われるほど寒い日だった。
聖ロムール教会は、ゾーイの義父、レフェーブル伯爵が統治する領で最も栄える街ノーヴルと、王都ノアの間の小高い丘の上にある。
教会の遺体安置室は地下にあり、降りていくと更に気温が下がったようだった。
白い厚手のコートの前をグッと閉じ、開きかけた安置室の扉に近付いた。
中から、聞き慣れた男性の聞き慣れない嗚咽が漏れ聞こえた。
「ベラ…目を開けてくれ…俺を見て。嫌だ、ダメだよ。俺を置いて行かないでくれ。」
トーマスだ、とゾーイの体は固まった。
トーマス・マイヤーは、マイヤー伯爵家嫡男だ。
トーマスとはゾーイの母が健在だった頃から旧知の仲であり、初恋の人だった。
「トーマス…。」
扉をゆっくりと開き、小さく言葉を掛ける。
トーマスは横たわるベラに覆いかぶさり、サラサラとした漆黒の髪をベラの顔の上に落としている。
彼の大きな手は、へその位置で組まれたベラの手を握っていた。こちらを向くこともない。
「何しに来たんだ。」
「ベ、ベラが亡くなったと聞いて…信じられなくて…。」
突然トーマスが体を起こし、顔を伏せたままツカツカとこちらに歩いて来る。
パシン!
気が付いた時には思い切り頬を張られていた。
「白々しい!誰のせいだと思っているんだ!!」
真っ赤に充血し涙を溜めた漆黒の目で見下げてくる。
その目には憎悪が宿っていた。
その恐ろしさに、頬の痛みを忘れ言葉を失うゾーイ。
「お前のせいでベラは…!厚顔無恥も甚だしい。よくも顔を出せたな!」
まるでゾーイのせいで死んだような罵詈雑言に呆然とする。
「な、何故そんな…。数日前まで一緒にいて元気だったのに、死んでしまうなんて理解できないに決まっているでしょう。」
ゾーイは張られた頬に手を添えながら、震える声で言った。
「ベラの死を誰よりも喜んでいるんだろう。これで満足なのか。」
(なにを…。)
「帰れよ。顔も見たくないし声も聞きたくない。…いっそお前が…。」
下唇を噛むトーマスは、言おうとした言葉を飲み込んだ。
ゾーイは息を飲み、心臓が一度止まったのではと感じた。
鋭い刃物のような言葉達が胸に突き刺さり、ズキズキと痛む。
いっそお前が…“死ねば良かった…?”
それ以上トーマスの前にいることができず、逃げるように階段を駆け上がった。
教会の聖堂には誰もおらず、ひっそりと静まり返っていた。
整然と並ぶベンチの間を進み、ステンドグラスに照らされ七色に光るリネー像の前に立つ。
リネーとは、ゾーイの住むルシニョール王国で信仰される宗教、リネー教における神だ。
歴史書によれば、かつてはもう一つの教派と勢力を二分していたが、ある時からリネー教のみになったという。
真っすぐな長い髪を右肩から前に流し、身に付けている布からは、引き締まった男性の上半身が半分覗いている。右手には聖典を持ち、その中指には指輪が嵌められていた。
(リネー様…なぜベラが。どうして、また私では無かったのですか。)
ゾーイは目を伏せ、外に出て何気なく墓地に足を運ぶ。
教会から望むノーヴルの街は、今も多くの人で賑わっているだろう。
きっと何の憂いもなく、幸福に満ちた目で。
その全てが恨めしく、ドロリと真っ黒な感情が溢れてきそうだった。
ゾーイは、必死にザワザワと波打つ心を落ち着けようと目を瞑り、下を向いた。
閉じた目から、ポロリと一粒涙が流れた。
「こんにちは、レフェーブル伯爵令嬢様。」
突然後ろから声をかけられ、慌てて振りかえる。そこには、顔見知りの牧師が立っていた。
立襟を上までボタンで詰め、長い黒の外套を着た彼は、白髪の優しげな目の男だ。
「こんにちは、牧師様。」
ゾーイは気まずそうに涙をぬぐいながら返事をした。牧師は一拍置いて呟いた。
「親しい者との離別は、とても辛いものですね。」
「…ええ。」
この牧師は、ゾーイとベラが特別仲良かったのを知っていた。
しばらく黙って墓地の方に視線をやっていた牧師は、おもむろに口を開いた。
「あなたならば、あるいは悲しみに暮れる人々を救う事ができるかもしれません。」
そう言うと、袖口から黒い小箱を取り出した。
ゾーイは差し出された小箱を怪訝そうに見る。
目を向けると、牧師は静かにうなずいた。
ゾーイは思わずそれを手に取ってしまった。
「リネー様のご慈悲があらんことを。」
小箱から目を上げると、そこには誰もいない。
ゾーイは慌てて牧師を探すが、まるで始めから誰もいなかったように、忽然とその姿は消えてしまったのだった。
「牧師様?どこへ?これはどうすれば…?」
視線を再び小箱に落とす。
恐る恐る小箱を開けると、中にはシンプルな銀の指輪が入っていた。
「これは…魔道具?」
この国で魔力を持つ者は、自分に合った魔道具に魔力を乗せ、力を行使する。
合うか否かは、直感で分かるのだ。ゾーイにとって最も慣れ親しんだそれは、左手人差し指に付けている金の指輪だ。
その時ゾーイは、この銀の指輪が自分に馴染むと感じた。
何かに促されるように指輪をそっと手に取り、右手の中指に嵌めてみる。
それはまるで、リネーのようだった。
ゾーイが指輪に魔力を込めたその瞬間、目の前が真っ暗になったのだ。
* * * *
ゾーイはベッドから体を起こし、右手の指輪を見つめる。
あれは確かに魔道具を使う時の感覚だった。
(どう考えても正気では無かったわ。あんな言葉を信じて…。名前だって聞き取れなかったし…。それとも、リネー様が与えた魔道具だったとでもいうの…?)
神すらもベラの生を望み、ゾーイの死を願ったのか。
“いっそお前が…”
そう言ったトーマスの目は、紛れもなくゾーイの死を望んでいた。
ゾーイはズキズキと痛む胸に左手を当てる。
命を差し出してベラの蘇りを願ったのに、いよいよその時が来ると、死にたくないと願ってしまった。
この期に及んでまだ生きたいと願った自分が、酷く卑しく感じた。
ゾーイは銀の指輪を取ろうと力を籠めるが、ビクともしない。
「くっ、どうして…。…そういえば、最後に聞こえたあの声は、何だったのかしら。」
その夜、一向に呼び出さない主に痺れを切らしたように、アンナが部屋を訪れた。
出て行った時と変わらない姿勢でいるゾーイを見て、不安そうな目を向ける。
「お嬢様、リゾットをお持ちしました。少しでも召し上がって下さい。」
渡された皿を手に持ち、静かに口に運ぶ。
「私が意識を失っている間、ベラやトーマスは…来たの?」
ゾーイは恐る恐るアンナを見た。アンナの表情が固まったのを見て、そうか、と理解した。
リゾットを半分食べ終えると、「眠いから」と言って背を向けて横になった。
アンナは暖炉の薪を追加し、静かに部屋を後にした。
静まり返った部屋で、ゾーイの目は冴えてしまった。
“200年ぶりの聖人の誕生”アンナはそう言った。
学園の授業で習ったことを思い出す。
言い伝えによると、聖人は“死をも凌駕し、国の安寧に寄与する尊い存在”である。
歴史に残っている最も古い聖人は、ルシニョール王国になる前、この国がルビン王国と呼ばれていた頃。今から2000年も前の話だ。
聖人の蘇りについては、死んで蘇るという事以外、神秘のヴェールに包まれ詳しく分かっていない。
(聖人…?指輪とは関係ないの?…でも。)
遠く、ノーヴルの街の時計台の鐘が鳴る音が聞こえた。