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1−4

 

 事故に遭ったシーナは女性用の大部屋に寝かされていた。


「あの……鏡を、見せていただけますか?」


 おぼろげだった思考がはっきりしてきた頃、看護婦に頼んだ。少しぼやけて映る鏡の中の自分は、二十年付き合ってきた己の顔のように見える。


 目印になる黒子などは、もともと持ち合わせていなかった。

 どんな役柄を演じるのにも支障のない肌を喜ばしく思っていたが、逆に己を示す証拠が何もないのと同義になってしまった。


 今の身体を調べてみても、怪我だらけだったのでよくわからない。自分のような気がする、違うような気もする。


 包帯をまかれた頭が痛い。

 腫れ上がった顔も、縫ったらしい腕も、捻った足首も、途中で数えるのをやめた多くの打身も、全てが痛かった。


 痛かったのに、どこか現実でないようにも感じられた。


 荷物や、着ていた服はどうなったのか尋ねてみたが、「荷物はおそらく燃えた。服は治療が必要だったために鋏で切った。(すす)と血にまみれ不衛生だったので処分してしまった」と言われた。



「ズボンでしたか? それとも、スカート?」

「女性が身につけるにはずいぶんと厚手のズボンでしたね。おそらく旅の途中だったのではないでしょうか?」



 今まで生きてきた世界の格好のまま、「椎奈」の身体ごとこの世界へ来たのだろうか。

 それともこの世界にも「椎奈」に似た誰かがいて、事故の時にでも、その意識の中に入ったのだろうか。



「名前は?」

「『シーナ』です」

「どこから来たのかな、出身は?」

「わかりません」

「ご家族のことは覚えているかい?」

「……わかりません」

「東都まで、何をしに来たのだろう?」

「……わかりません」



 色々と質問されたが、ほとんど全てを「わからない」で通した。医者からは「記憶喪失」と診断された。


 事故のケガによる外的要因、精神的な衝撃。


 騙すようで心苦しかったが、周りが勝手に気の毒がってくれたので助かった。


 彼らの話す言葉は理解できたが、文字は読めない。アルファベットのような文字と、少し違う文字が組み合わされているように見えた。同室の女性に「自分の話す言葉がおかしくないか」と、念のため確認したが、どうやら普通に話せているらしい。

 文字が読めないことを訝しがられるかと思ったが、田舎の識字率は五割に満たないということで、なんとも思われなかったようだ。


 聖教会に併設された救済院は少しの国税と寄付で成り立っており、おいそれと治療を受けられない者たちの受け皿となっていた。今回のような事故や、伝染病が起こった時などに限り、臨時に、しかしながら間口は広く開かれるとのことだった。



「幸運だったんだよ、シーナさんは。お金持ちなら医者にかかれるけれど、庶民にはなかなか高価だからね。救済院が開かれていて、よかったよ」



 医者が言った。幸か不幸か大規模な事故だったおかげで、名前しかわからない、身分もお金も何もないシーナも、ある程度回復するまで治療してもらえたのだ。


 何もわからないまま、時と共に外傷だけが癒えていく。

 打ち身の痕が減り、捻挫が癒え、十一針縫った腕の抜糸が済んだ頃、シーナの身の振り方についての相談会があった。


 誰のせいでもない事故で記憶を失った、身寄りのない不幸な女性。


 聖教会が面倒を見ることになるのは自然の流れだった。


 文字が読めればもう少し別の道もあったかもしれないが、学の必要な仕事は適当ではないと判断された。

 あとできることといえば、肉体労働しかない。炊事を担うには身元が不確かすぎたため、洗濯係に収まった。


 洗濯機も乾燥機もないこの世界では、当たり前に重労働で不人気らしいが、シーナはありがたく洗濯係の下女として働かせてもらうことにした。

 洗濯ならしたことがあるし、今までの経験と大きくずれることはない。多くの人と触れ合うこともないので、記憶喪失の「フリ」をしていると、ボロが出る心配が少なくて済むだろう。


 シーナの行き先が洗濯係に決まったころ、医者と看護婦は自身の通常業務へ戻り、救済院は閉じられた。


 別の国……いや、別の世界かもしれない場所から来たことを、シーナは誰にも話さなかった。

 変人扱いを受けるか、何か良からぬことを企んでいると疑われるのが怖かった。何より自分自身が「別の世界から来た」という説を信じきれなかった。




「シーナ! お前さん、また一日中部屋にいたのかい?!」


 働き初めて三回目の休みの日に、びっしり書き込んだ反故紙を焼却炉に運ぶシーナを見つけて、ベラが叫んだ。

 「字の練習をしたい」と言ったら、宿舎のおばさんが反故にする紙を、ベラが古くなったペン軸と先の割れたペン先をくれたのだ。定期的にシーナを診察をしてくれていた医者は、最後の診察の時に「快気祝いだ」と言って、半分残っているインク壺をくれた。書き取りの教本は図書室から借りた。

 すべてが、ありがたかった。


 そんなわけで、働き始めてもしばらくの間、シーナは聖教会の塀の中にいた。


 聖教会では雇用者の全員に、定期的に休みが与えられる。行き先を知らせれば、外に出るのは自由だ。

 だが、シーナは外出しなかった。知らない街へ一人で出るのは怖かったし、出たところで何をしたら良いかもわからない。


「いいかい、毎日まじめに働く。その分、休みの日には外出したり、友達や家族に会って楽しむものなんだ。それが聖教会の教えだよ」


 次の休みは二人同時になるよう調整され、ベラが街を案内してくれた。


 教会から街の中心へは、ほぼ道なりで一本だ。できるだけ道の真ん中を歩くこと。馬車や馬が通る時は傍へ避けること。側溝が深いので気をつけなければならないことを教えてくれた。

 東都の中心部であるこの街は比較的安全だが、一人で裏道へ入ってはいけない。陽の出ているうちに帰って来なさいと、しっかり言い含められた。


 初めて出た給金で、新しいペン先と少し良い紙を買った。その夜、ベラにお礼の手紙を書いた。


 『ありがとう。街、楽しい』


 書写用の見本を見ながら写す。助詞も過去形もわからない。


 これしか書けなかったがベラは喜んでくれた。バイト先でもらった初給料でケーキを買って帰った時の、母の顔と同じだった。




 元の世界の過去の時代の知らない国に飛ばされたのか、はたまた全く違う世界に飛ばされたのか、シーナにはわからなかった。


 聞いたことがあるような無いような古臭い名称。食べ物は知っているものが多かった。生活習慣も、馴染みがなくて使い勝手がわるい部分もあったけれど、さほど違和感はない。時代感からすると納得だ。


 同じような部分と違うような部分。はじめの頃はそれらを並べ立ててこの世界について検証しようとしたが、今は止めている。

 戻れるかどうかわからないのだ。


 役者になる夢は叶わなかった。


 けれど、こうして命があるだけでありがたいことだ。ここの生活に少しでも早く馴染んで生きていくことが、シーナにとっての最優先事項になった。


少し長めの1話にお付き合いくださいましてありがとうございました。

次回から2話目、3話目と進みます!

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