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カラン、カランカラーン
扉を開けると音が鳴った。
「こんちはー。東都聖教会、洗濯係でーす」
マイラが店奥に声をかけると、小柄なおじさんが出てきた。
「おお、マイラか。しばらくぶりだな」
「ここんとこ掃除係に代理で頼んでたからね。在庫が結構少なくてさ、急ぐんだ。いつもの灰汁、いつもの量で頼みたい」
「明後日でいいかい? 朝イチで聖教会へ納品があるから合わせて持っていくよ」
「うん、明後日で大丈夫」
「伝票書くから待ってな……っておいおい! あんまり近づくなよ! 倒れたら危ないからな」
おじさんが慌てて言った。
「あ、す、すみません」
「もう、大人しくしててよ」
「すみません、見た事ないくらい大きな袋だったので気になって」
もう一度、シーナはおじさんに謝った。
「今さっき届いたばかりなんだ、麦稈だよ。きれいなのだけ分けてあるんだ、倒れても怪我はしないが、中がダメになるかもしれないから気をつけておくれ」
「バッカン?」
「知らないの? 麦、みたことあるだろ?」
呆れた顔でマイラがシーナを見た。
「……麦」
「お嬢さん、麦を知らないのかい?!」
「いえ、いえいえ、麦は知っています。毎日パンを頂いています」
シーナは顔をブンブン左右に振った。
同じ顔のままマイラが教えてくれる。
「藁の部分だよ。麦わら。小麦は上の穂を引くだろ」
「麦わら! なるほど、麦稈というんですね」
「随分変わったお嬢さんだな、いいとこの子なのかい?」
小さな目をくりっとさせて、おじさんが尋ねる。
「ワケアリってやつだよ。……いや、変な意味じゃない」
「あの、すみません、記憶が少々あやふやな部分がありまして」
「事故だよ。この間の、街道の。あれでちょっとね」
マイラが自分の頭にトントンと人差し指を当てる仕草をする。
数ヵ月前、シーナは気が付くと簡素な寝台の上に寝かされていた。
地方と東都をつなぐ大動脈である街道で、事故があったらしい。
連なって運ばれていた四十台超の荷車にむかって、突然、イノシシの軍団が突っ込んできた。荷車を率いた商隊の馬たちが暴れ、そのまま玉突き事故のように、後続の馬や馬車がどんどんぶつかり合ったと言う。
巻き込まれた中には大型の乗合馬車二台があり、たくさんのけが人が出た。
不幸なことに、荷馬車の中には油を詰めた樽があった。何かの拍子に火がついてしまった荷馬車はあっという間に燃え、炎は他の荷や車にも移った。
比較的東都に近い場所での事故だったため、けが人は東都の救済院へ運ばれた。
亡くなる人もいた。
けがを負った人たちは傷を縫われ、折れた手足の手当てを受け、火傷の治療を受け、煤と血にまみれた服を着替えさせられた。
頭を打ち、腕に十一針縫う傷を負ったシーナが寝かされていたのは、聖教会の敷地内に併設された救済院の寝台だった。
眼を開けると、霞がかった視界の向こうに映る人が、何かの芝居の衣装を着ていた。
口の中が切れ、血の味がした。
ズキンズキンと頭が脈打つ中、ぼんやりと意識が戻り始める。
ーーそうだ、芝居をしていた。これは時代ものだ。古い時代の、どこか別の国の衣装だ
ーーいや、ちがう
ーー春公演は戦時中の日本の芝居だった。戦争に向かう父親と見送る娘。その頭上に雪を降らせたじゃないか
「お父さん!」どこかから、子供の叫ぶ声が聞こえた。
「お父さん! いやっ!!」
芝居の最中なのだろうか?
父親を呼ぶ声だけが繰り返される。もしかしたら自分がセリフをいう順なのかもしれない。
ーー声が出ない
いうべき言葉が、セリフが、思い出せない。
モヤがかかったような頭をフル回転させた。
ーーちがう、劇場じゃない
そうだ、事故にあったのだ。トラックが突っ込んできて……いや、動物の群れだったか。
ーー芝居じゃない
そうだ、電柱に挟まれて……いや、バスのような、箱の中で頭を打った。血を流す人がたくさんいて、すぐ近くに炎が上がった。
ちがう、バスではない。馬車だ。「馬車から出せ」と誰かが叫んでいた気がする。
自転車は、荷物はどうしたのか。自分はどこにいるのだろうか。
鈍い痛みと混乱の向こうで、誰かが名を尋ねた気がした。
はじめは、言葉がうまく出てこなかった。
「しぃな」と答えた。
気を失い、再び目覚めた頃には「シーナ」と呼ばれていた。
大規模な事故だった。市井の人々の間では、何ヶ月か経ってもまだ話題に上ることがふつうらしい。
おじさんは合点がいった顔をした。
「そりゃあ、大変なことだったなぁ。それで聖教会にいるのかい?」
「はい。教会のご好意で雇っていただけることになりました。洗濯係第二班のシーナです、よろしくお願いします」
ぺこりと腰を折った。この世界で推奨されるお辞儀の角度は三十度くらいだ。
「そうか、じゃあ頑張って働かないとな。マイラは愛想はよくないが仕事はきっちりするよ、よく教えてもらうといい」
「余計なこと言わなくていいよ。今度からこの子も注文に来るから、よろしくしてやって。あ、字は読めない。いま練習中」
「自分の名前と洗濯係は書けます!」
「はっはっは! それだけ書けりゃこの店では問題ないな。よし、いま伝票持ってくるから待ってな。注文した人のサインもいるんだ。……シーナって言ったかな? お前さんの名前も書いてもらおう」
おじさんは店の奥へ入って行った。
「麦わらって、お店の中に搬入するんですね。外に置いてあるのしかみたことありませんでした」
「きれいなのを寄ってあるって、さっき店主が言ってたろ。長さがあって折れてないのは色々使い道があるし、季節を問わずに取っておける」
「使い道?」
「帽子や籠を編んだりさ。長さが揃わなきゃ格好がつかないだろ。あんた、四方八方から藁がピンピン飛び出した帽子を、金持ちが喜んで被ると思うか?」
「ああ、麦わらぼうし!」
「……あんたさ、もう少し自分で考えなよ。いくら記憶がないからって、何でもかんでもすぐ聞くな。自分の頭で解決できるようにしないとやってけないよ」
「す、すみません」
(主宰にも演出家にも、もっと自分の頭で考えろって、よく言われたもんな)
懐かしい二人の顔を思い浮かべたら、少し胸がすんとする。
マイラは、それ以上何も言わなかった。