18-1
腐臭が漂っていた。
万年床に寝る人と、寝台が足りずにむしろに転がる人がいた。一日二回配られる、いくばくかの食べ物を口に詰め込む以外、することはない。あちこちから咳が聞こえ、もはや泣くものも居ない。生を諦めた人たちが、そこにいた。
新しく放り込まれたものは空いている場所を探す。そこが空いているのは先客がいなくなったからで、なぜいなくなったのか、わかっていてもそこに寝た。己の居場所を定めないと殻に閉じこもることもできない。
東都の街のはずれ、鬱蒼とした場所に救済院は建てられた。建てられたと言っても、掘建小屋のようなものだ。
小屋の外には自由に歩ける庭のような部分があり、用を足すときは裏の川へ行った。
川以外の三方向には竹でできた簡易塀が建てられ、逃げ出すものを確実に捉えるために、空たかく伸びる先端を鋭く尖らせていた。
入り口は1箇所だけあり、その前には常に監視する人間がいた。
掘建小屋には雨風が凌げる壁と屋根があり、剥き出しの土の上に何台もの寝台が直接置かれている。はじめは整然と並んでいたのだろうが、中の住人により動かされた形跡があった。寝台のないところは、雨漏りがするらしかった。
寝台の隙間を縫うようにむしろが敷かれた。今は少し減ったようだが、満員の時は小屋の外で寝起きしたものも居たそうだ。雨の夜を、木陰で過ごした男は二、三日で出て行くことになったから外では寝るなと、入る時に監視員から言われた。
(……やばい。これは、想像以上に、やばい)
シーナは顔を引き攣らせた。
掘建小屋の入り口にかかった布切れをめくり、その腕を下ろし、まためくり、やはり腕を下ろした。
竹壁の近くまで戻りもたれかかるように体を預けたが、竹が倒れそうな気がしたのでしゃがみ込む。入って早々壁を壊したら、怒り狂った民に殴り殺されるかもしれない。
(くさい。本当にくさい。あんな小屋で寝たら、一晩で具合が悪くなる)
幸い今日は曇りだ。外で時間を潰して、どうしても入らなければならなくなったら小屋へ入ろう。とはいえ、まだ昼前だ。何も持たずに、着の身着のまま連れてこられたシーナは、これからの長い時間をどうやって過ごそうか考えた。
無事にここを出るにはどうしたら良いのだろうか。
ベラは『全員が治るまで』出られないと言っていた。と言うことは、まずは自分が病に罹らず、かつ、ここにいる者の大多数が回復する必要がある。そんなことが可能だろうか。
(治る……治るの定義を考えよう。外の皆が納得する『治った状態』ってなんだ)
今と反対の状況になれば良いのだ。
咳をしなくなる、熱が下がる、元気になる。生き生きとここで生活できるくらいになれば、それは『治った』と認めてもらえそうだ。
(できるのかな、そんなこと)
その状態にするためには、何をしたら良いのだろうか。
シーナは自分が病気になった時のことを思い返した。元の世界を知っているからこそ、シーナだからこそ知っている当たり前が、何か、見つかるかもしれない。自分にしかわからないことを、何か……。
(病院へ行って、薬をもらった。薬を飲んで、寝たら何日かで治った)
ここは一種の病院だ。薬は、物理的にない。一応、横になれる環境ではある。
(抗生剤とかないもんなぁ。軽症の人なら、点滴を打ってもらって寝てたら一晩で治りそうなのに)
シーナはもう一度、そもそもの自分の状況を整理することにした。
もしも自分が自分の身体ごと元の世界からここへやってきたのなら、子供の頃から打った様々なワクチンで、ある程度は免疫がありそうだ。元の世界にも存在する病なら、ここにいても罹患せずに済むかもしれない。
しかし、自分の中身ーー魂のようなものーーだけが飛んできて、こちらの世界のそっくりな人の身体に入り込んだ状態なら、今の前提は崩れる。早晩、小屋の中にいる人たちと同じ症状が出るだろう。
(てゆーか、そもそもなんの病気なんだろう?)
咳が強いのは特徴的だと思った。熱もでる。割と高熱になる患者が多かった。季節柄もあるかもしれないが、サリアは熱が高い間は「寒い」と震えていた。死ぬ前は特に高熱になり逆に咳は弱まるようだと聞いた。
血は吐いていないので、結核ではないだろう。アザや斑点は見当たらない。少なくとも、目に見える範囲は。おたふくのように顔が腫れてもいないようだった。昔、本で読んだペストとも違うような気がする。
(あと何? 何があったかな、病気、病気、病気……インフルエンザ?)
冬に流行るアイツだ。確かに感染力は高く、シーナも子供の頃から何度か罹った。
(んーでもなぁ、サリアさんを見てると、インフルにしては長引くんだよな)
薬を飲んでいないから、かもしれない。あとは「ただの強めの風邪」という説もある。
(むり、これ以上出てこない。よし、インフルか強めの風邪と仮定して考えよう)
インフルエンザであれば空気感染か飛沫感染か……思い出せない。
けれど、とにかく感染力が強く、学生時代はクラスで何人か罹患すると学級閉鎖になった。強めの風邪だとしても、同じことだろう。罹患者を一箇所にとどめ置き、健常者と隔離すること自体は、やはり理にかなっている。
(私をここにぶち込んだのは許せないけど、健康な人から見たら筋の通った対処法だよな)
抗生剤はない。インフルエンザの飲み薬もない。自力で治すしかない。
となると、大事なのは自身の体力。ただでさえ長引く体調不良と上がらない気温、使節団への対応のせいで、患者の多くは体力が削られている。休んで、食べて、体力を取り戻す。それが『治療』だ。
ここでは、休むことはできる。環境は最悪だが、働かなくて良いし、横になれる。では、『体力を取り戻すために休む』ことを目的とした時に、今のこの救済院に足りないもの、必要なものは何だろうか。
「あれ、君、シーナさんかい?」
竹壁の向こう側に見知った顔がある。事故の時にずっとシーナの面倒を見てくれていた医者と看護婦だった。
「先生!」
「き、君も疫病に……」
「あ、違います、違うんです」
竹壁からサッと離れた医者にむかって言った。
「私は至って健康なのですが、実は……」
シーナは今朝方の出来事を医者に説明した。迷信とくだらない思い込みのせいでこんなところへ入れられたことに同情してくれた。医者と看護婦は、そこらへんの人たちに比べれば、多少は論理的に考えられるようだった。
「不本意ですが、入れられてしまったからには、ここにいる人たちの面倒を見ないといけません。で、先生、お願いしたいことがあるのですが、可能な範囲でご協力いただけませんか?」
やりたくない。ど素人の身で重病人の看病なんてやりたくない。だが、やらなければならない。
「なんだなんだ」
「騒がしいな、何やってんだ。誰か暴れてんのか?」
救済院の竹壁から離れたところに、監視員の常駐する小屋が置かれていた。入り口に立つ以外にも、脱走者がいないかどうか、定期的に見回りをする必要がある。
「いや、医者が何かしてるらしい」
「ほう……なんか治療法でも見つかったのかいね」
「まさか。いいとこ実験台だろうよ」
救済院の入り口には様々なものが置かれていた。
布、ハサミ、裁縫道具、ロープ、椅子、大きなタライに灰汁、その他細々したもの。監視員も立会いのもと、医者からシーナへ順番に渡される。最後に火打石を手渡された。
「では、残りは夜の食事の時間の時に」
「できるだけ集めるが、あまり期待はしないでくれ。とにかく一度に全部は無理だ」
「何組くらいイケそうですか?」
「三組は確保できる」
「三組……」
「わかっている。すまん、全て入れ替えられるよう手配するから、待っててくれ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
医者と看護婦にお礼を言うと、シーナは庭にそれらを運んだ。
「よぉーし、やるぞ!」