5-1
「はっ、やばい!」
いつもの洗濯場で、シーナは大きめのひとりごとを発した。
「やばい」はこの世界には存在しない言葉なので、なるべく使わないようにしていたが、焦るとつい、出て来てしまう。
はじめ、同僚に言葉の意味を聞かれた時は「よくわからないけど、急に口から出てきた。方言かな?」と、あわてて誤魔化した。
彼女はしばらくの間「やばい」という方言がある地域を知っているかどうかを、いろんな人に尋ねてくれていた。申し訳ないことをした。
私物を洗濯して良い日なので、他の人のものと共に、シーナもここ数日の自分の洗濯物を洗っていた。お仕着せの前掛けを洗おうとしたら、ポケットの中から見慣れない布が出てきたのだ。
一昨日、あの迷路のような建物でイーサンに首を切られかけた時、リヒタインが貸してくれたハンカチだった。
(うわーマズイなぁ、すっかり忘れてた。どうしようコレ)
やたらと手触りの良いハンカチだ。あの時の血が、ほんの少しついて乾いてしまっている。
(落ちるかな)
手洗い用の小さなタライに冷たい水をたっぷり入れてハンカチを浸ける。しばらく置いてからもみ洗いしてみよう。
他の洗濯物を選り分けながら、シーナは一昨日のことを思い返した。
マイラと共にあの場を去った後、迷路のような建物をくねくね曲がり、いくつかの階段を登り、無事に客室のある場所へでられた。マイラは建物を熟知しているようだった。
シーナとマイラは、札に書かれた番号の部屋の前へ、元置いてあった通りに籠を置くと無言のまま歩いて洗濯室へ戻った。
同僚たちは籠を持って行って帰って、また籠を運んでいた。部屋の中に人はいなかった。
マイラは洗濯室の奥の小部屋の方へずんずん進む。シーナも続いて入った。
初めて入った小部屋には、備え付けの棚と、小さな机と椅子があり、壁際には小ぶりの長椅子もあった。何かを書き付けることができるような筆記用具が、机の上に置いてある。
班長のベラや、マイラのように在籍の長そうな者が何か書き仕事をするための部屋のようだった。
椅子に座るよう、マイラが視線で指示を出す。
シーナは大人しく長椅子に座った。
マイラは棚から箱を取り出すと、小瓶やピンセットを取り出して手早く準備した。小瓶から何かを出して、綿に染み込ませるとシーナの首筋を拭う。
血はとっくに止まっていた。薄皮とその先がほんの少し切れただけで済んだ。綿に染み込ませた何かが、ピリリと染みる。
それからマイラは、手早く軟膏を塗って包帯を巻いた。慣れているようだった。
「はい、おしまい」
それだけいうと、片付け始めた。シーナは座っていた。
「……聞かないんですか、何があったのか」
シーナが問いかけた。
「さっきリヒタインって人が言ってた。あんたが迷って、なんか無愛想なあいつを勘違いさせて怒らせたんでしょ。違うの?」
「ちがわ、ない、ですけど……」
「で、あたしの方は、あんたが待てど暮らせど帰ってこないから、こりゃ迷子だなと思って迎えに行った。そしたらあの場に居合わせた。あそこの建物はよく新人が迷子になるんだ」
やはり、迷子スポットなのだ。
「……でも」
「あんたは新人らしく迷子になった。あたしが迎えに行った。ちょっとだけ怪我したけど死ぬわけじゃないし問題ない」
「……」
「ってことで、おしまい」
「……なんなんですか」
「何が」
シーナは身体の芯が熱くなるような気分になった。
今になって、怒りが湧いてきたようだった。
「なんなんですかあの人、急に、勝手に、決めつけて、勘違いして、切ってきて、なんなんですか本当に!」
マイラに言っても仕方のないことだったが、口から出てしまう。
「人のこと、人のことを、人として扱わないっていうか、本っっっ当に! 何だあいつ! 失礼なやつ! やなやつ!」
一度言葉にすると、するする文句が出てきた。
うっかりちょっぴりカッコいいと思ってしまった気持ちを返して欲しいくらいだ。悔しい。
何度か肩でふうふうと息をして、それから大きく息を吸い込むと、長く細く息を吐いた。
心を落ち着かせる呼吸法だ。舞台の本番前によくやった。
「はい、ダメ」
マイラが片付けながら言った。
「……だめ?」
「ダメ。あの人たちは王都から来た。近衛騎士団で役職は師団長。あの歳で師団長を任されているなら、相当の実力者。それから、良い家の人たちだよ。司祭や巫女の護衛は、強さと出自の良さと両方が求められる」
良い家、家柄。そうなんだ。
言われてみれば、二人とも動作の一つひとつが折り目正しかった。リヒタインは口調こそ崩していたが、物腰は丁寧で紳士的だった。
サラも良いお家のお嬢様のようだったし、そのサラと結婚するくらいだから、イーサンが良い家柄の人なのは当然なことのように思えた。やなやつだけど。
「私たちは、東都聖教会っていう、お堅い場所に勤めてはいるけど所詮ただの使用人。使用人の中でも身分が低い人間しかいない、洗濯係。下女。違うでしょ、全然。月とスッポンくらい違うでしょ、あの人たちと」
マイラは続けた。
「同じ人間だと思ったらダメ。向こうは私たちを、同じだと思ってないから。いつでも代えが効く道具、いくらでも生まれてくる家畜と同じ。都合よく使って、思い通りにならなければ捨てていい。殺したって、誰かからちょっとくらい怒られるかもしれないけど、それだけ」
マイラは棚のガラス戸を閉めると、そのままそっちを向いてしゃべった。
「私たちがあの人たちに文句を言えば、それを不敬だと言われれば、簡単に首が飛ぶ。いや、理由なんかなんでもいいだよ本当は。あの人たちの、身分が高い人たちの気分を損ねたら、終わる。だから関わらないのがいいの。名前を覚えられないくらいの距離で、あの人たちの記憶に残らないよう、地味に、無難に、その他大勢でいるのが安全なの」
「わかった?」
問いかける語尾だったけれど、有無を言わせない力を感じた。