『女の子は勇気を振り絞り、悪い人たちに立ち向かいます。するとどうでしょう。騎士様も、街の人も、みんな女の子の味方になってくれました。
悪い人たちは去りました。
街に平和が戻ったのです。
それから女の子と騎士様は、いつまでも、いつまでも、幸せに暮らしました。』
「……おしまい」
「もっかい! おかぁさん、もっかいよんで」
「ふふふ。しいちゃんはこのお話が大好きねぇ」
『むかしむかしあるところに、強くて、礼儀正しく、とても真面目な騎士様がいました……』
* * *
「お父さん……お父さん! いやっ!!」
牡丹雪が、津々とつもる。
女学校の制服を着た少女が柵の前で手を伸ばすが、その先へは届かない。
一瞬立ち止まった父親は、しかし、大きくない荷物を担ぎ直すと列車の方へ走っていった。少女を振り切るように。後ろ髪をひかれないよう、前だけを向いて。
少女の泣き声は列車の汽笛とともに、雪の空に吸い込まれていった。
「……っはい!!」
「おつかれさまでしたー」
「おつかれさまでーす」
「いま二十一時半です、役者は衣装脱いで帰る支度して! ダメは楽屋回りまーす」
「舞監さーん、ごめんなさいここ明かりほしいです!!」
「照明、修正作業入ります」
一気に空気が変わって時間が流れていく。四方八方から声が飛び交い、たくさんの身体が動きだす。舞台上ではスタッフが、先ほどの雪を大急ぎで回収しはじめた。
(さぁ、私もやらなきゃ)
ポニーテールをぴょこんと揺らしながら、椎奈は軽やかな足取りでキャットウォークを駆け降りる。
女性にしては背が高く、身長は172㎝。艶やかな黒髪には染を入れておらず、ライトに当たると少し茶味がかって見える。瞳は濃い黒で、暗いところでも視力が利くタイプだ。薄い身体に長い手足、全身真っ黒の服をまとっているので、髪が短ければ少年に間違われてもおかしくないだろう。
「っコラぁぁ椎奈!」
大きなホウキを持って舞台へ上がると、演出家の怒号が轟いた。肩がびくっと跳ね上がる。
「お前、雪降らせるのへたくそなんだよ! 最初ばっか降って最後は全然残らなかったじゃないか!」
「ハイ! すみませんっ!」
あぁ、また叱られてしまった。たしかに、ラストシーンのはじめは猛吹雪だったのに、最後の方は雪が足りずにチョロチョロになってしまっていた。
「照明の修正が終わったら練習しとけよ。明日のゲネまでに均等に降らせられるようにならなきゃ、女学生その六の役、けずるからな」
「っはい、やります! あの……」
「なんだ」
「えっと、コツとかありますか?」
「……お前なぁ、少しくらい自分で考えろよ。何でもかんでもすぐ聞いて。自分の頭で解決できるようにしないと、どこだってやってけないぞ」
「あ……はい、すみませんでした」
去っていく演出家の背中にむかっておじぎをする。
(はぁ。また雪の練習か)
練習が嫌なわけではない。だけど、椎奈がなりたいのは雪を降らせるような演出部ではなく、プロの役者だ。
椎奈は中規模な劇団に所属している。劇団は、明日から始まる春の公演にむけて、舞台での最終稽古をしていた。
自分はまだその他大勢の役しかもらえていない。だからその分、出演シーンではない場所では裏方としても働いている。
稽古中に欠席をした役者の代役はもちろん、プロンプ、小道具の修理、衣装の直し、転換時には大道具小道具の出し入れ、そして身体が空いていれば雪を降らせる。
舞台は役者だけでは創れない。たくさんの仕事を手伝う中で、それぞれのポジションから舞台にかかわることを学び、それをこれからの演技に生かす。
それは分かる、分かっているが……。
(芝居の練習したいのに、なんで雪ばっか)
さきほど降らせた雪をホウキでかき集め、きれいなごみ袋へ詰めていく。このあと、広いロビーでゴミを振り分ける。再利用するのだ。
(えーっと、自分の頭で考える、か)
シーンの初めの方で、文字幕を思いっきりゆすってしまったのが失敗だった気がする。力加減だろうか? 時間を測って、まんべんなく散らせるようになるまで練習しよう。こういう作業は、感覚をつかんでしまえば身体が覚える。今日はホールの利用を延長しているから二十三時までは使えるはずだ。
本当は殺陣の動きも確認したかったが、帰り道のいつもの公園で練習するしかない。万が一の時の代役として覚えている祖母役のセリフは、家に帰ってから一通り流そう。きっともう、出番はないけれど。
(よし、とにかくやってみなきゃ)
夕飯に出たお弁当は持ち帰らせてもらおうと決めて、雪が詰まったごみ袋を三つ担いだ。
「夜はまだ寒いなぁ」
自転車を漕ぐと、冷たい風が容赦なく手と顔から体温を奪っていく。
(分厚いコートにして良かった)
三月の頭は、まだ冷える。
結局、退館時間ギリギリまで雪の練習をしてしまった。明日の朝一番に、雪とゴミの仕分けをしなければ。
「あーあ……もっと芝居したいなぁ」
劇団に入って二年が経った。高校を卒業後、居酒屋や引越し、スタントなどのアルバイトを掛け持ちしながら稽古と公演の日々。椎奈の下積みは続く。
「お父さん!」と叫んでいたのは劇団の同期だ。今回の公演でヒロインを演じる。高校演劇の有名な学校で三年間主役を演じてきた実力者で、小さい身体からは想像できないほどの大きな声と、存在感をもつ。
反面、椎奈は172cmと女性にしては大柄にも関わらず、今ひとつ存在感がない。いつだって「その他大勢」の中に紛れていた。昔からのコンプレックスだった上背のせいか、「女性」を演じると気後れしてしまうのだ。
男性の代役をする時はいつも褒められる。けれど、いくら褒められたところで、女性の椎奈には男性の役を演じる機会など巡ってこない。舞台の中央に立つには、ヒロインを射止めるしかなかった。
(いいなぁ、さっちゃんは。小さくて可愛くて、ヒロインのために生まれてきたって感じで。私も、もっと小さければ……)
ーー大きいくせに
ーー似合わないくせに
女性を演じる時には、いつも、この言葉で頭がいっぱいになった。誰もそんなこと言わない。思ってない、きっと。
だがなぜか、心の中の自分が言う。
いつか自分にも、「ハムレット」のオフィーリアや「ロミオとジュリエット」のタイトルロールを演じられる日が来るのだろうか。
椎奈は道路の端へ寄って、ペダルから足を外した。風で散らばった髪の毛をマフラーの中にしまう。髪は長め、背中の中央付近まであった。いつでも、何の役でも演じられるように伸ばしている。
(もう、活用できそうもないから切っちゃおうかな)
自転車のグリップをにぎり、再びペダルに足を置く。漕ぎだそうと力を入れた瞬間、目の前に強い光が差し込んできた。
(トラック……)
まぶしい。大きい。
(あ、こっち突っ込んでくるのか)
そう認識したものの、身体が動かない。
一瞬の出来事だった。それでも、椎奈にとっては幾分か時間があったようにも思える。
残念ながら、走馬灯のようなものはないらしい。頭は冷静だ。
明日行かれなくなったら雪とゴミの振り分けは誰がするのだろうか。そもそも自分が事故に遭ったことは劇団にちゃんと伝わるのか。
光が迫る。
もしかして、隣に立ってる電柱が自分を守ってくれないだろうか。
(いや無理、折れる。曲がる)
自分は挟まれるのだ、電柱とコンクリートに。
タイヤの擦れる音が、夜のシンとした空気に響く。東京の空は、星が見えない。爪の先のような細い月だけが浮かんでいる。
突然、頭の中で何かの音がした。
誰かが叫ぶ。
『……っ!』『……ん……うさん』『いやっ!』
そのまま、椎奈の思考はぷつりと消えた。