あの日見た虹を君と、もう一度。
BL初心者の方や初めての方でも読みやすいよう、甘さ控えめ、シリアスからのほのぼのブロマンス寄りに書いてみました。
楽しんで頂けますように……。
明け方から降り始めた雨は、予報通り夕方からその勢いを増し、深夜を回る頃には記録的な豪雨となった。地面を激しく打ち付ける雨は、この世の全てを闇に流し込んでしまうかのように降り続ける。慰め程度に点いた街灯の光がゆらりと揺れた。
日付の変わった深夜、本来なら街は寝静まっているような時間帯であるが、この豪邸の周りには黄色いテープが張り巡らされ、玄関から室内が見えないようにブルーシートが結界の如く覆い尽くしている。
パトカーの赤いライトと緊急走行のサイレン。現場を仕切る叫び声が、雨音と共鳴するかのように響き渡っていた。
二十五歳にして念願の刑事課に就任した途端、この事件である。耀修介は不安と緊張で押しつぶされそうになるが、それを無理やり飲み込んで抑え付けた。レインコートなど着ても意味を成さないであろうが、少しくらいはマシだろうと思い、腕を通す。薄らと水の膜が張られたアスファルトをバシャバシャと踏みつけながら、豪邸へと入って行った。
ブルーシートを潜り、室内へ一歩踏み入れた途端、異常な悪臭に思わず鼻を摘んだ。血生臭いとはこのことか。湿度の高さで余計に匂いが増しているような気がした。
現場は二階の寝室であると聞いているが、一階のリビングには、この家に出入りしている家政婦が気を失って倒れている。ちょうどその女性を救急隊員が数人がかりで担架に乗せているところだ。そして、その家政婦と対峙するように、この家の主人と見られる中年男性の遺体が横たわっていた。
『一家心中』
耀はこの残虐な現場を目の当たりにし、さっき飲み込んだ不安や恐怖も何もかもを全て吐き出した。
「こら、現場を汚すな。こんなんで狼狽えててどうする。二階はもっと酷いぞ」
「ゔっ……」
きっとそこは想像を絶する状態なのだろうと思うだけで、再び吐き戻しそうになってしまう。それをギロリと睨みつける先輩刑事に気付き、なんとか堪えたのだった。
「被害者は、高村肇の妻、美耶子と娘の奈津。三人は寝室のベッドで並んで寝ていた。高村肇はまず娘の心臓を一思いに刺した。妻とは相当揉み合った形跡があるが、まぁ、男の力に敵わなかったのだろう。何ヶ所も揉み合いの際に切られた傷口があり、最終的には心臓を刺された……」
二階に移動しながら捜査係長である影山は淡々とした口調で説明する。耀のような新人を何人も見てきたのだろう。彼は新人に気遣う時間など無駄だと言わんばかりの態度で、説明を続けた。
「耀は寝室以外の部屋を見て回れ」
そう言うと、影山は寝室へと向かう。殺害現場に入らなくても良いと分かっただけで、耀はほっと胸を撫で下ろした。それにしても開業医の自宅とはこんなにも豪華なのか。何部屋あるか数えるのも面倒だと思うほどドアが並んでいる。それはトイレだったり、収納だったり、書斎だったりもする。どこも綺麗に整えられていて、家政婦の手入れが行き届いているのが垣間見れた。
娘の部屋はまだ使われていないようだ。家具なんかは設置されているが使用された形跡はない。淡いピンクを基調としたこの部屋を、奈津も使いたかっただろう。そっと娘の部屋のドアを閉めるとその隣のドアに手をかける。中を覗くとそこは明らかに男の子の部屋だった。奈津の部屋とは打って変わってここは淡いグリーンを基調とした部屋で、勉強机の横には棚があり、ランドセルとサッカーボールがかけられている。部屋の壁際にはベッドがあり、床に投げ捨てられた布団だけが違和感を残す。
「使われている部屋だ。しかし、男児? そんなのは聞いていないぞ」
耀は音を立てないように慎重に部屋に入る。布団の他は特に変わった様子はない。ならばこの部屋の持ち主はどこかで隠れているのか、それとも ……。
さっきの影山の説明に男児が死んだとはなかったはずだ。一家心中ならなぜ男児だけ殺さなかったのか、まだ遺体が見つけられてないだけなのか、どうにか逃げ切ったのか……。この雨の中……?
耀は思考回路をフル回転にしてあらゆる可能性を引き出す。部屋の隅々まで視線を送り、布団の他に違和感を感じる場所がないか神経を尖らせる。すると、ベッドの更に奥にもドアがあることに気が付いた。部屋のドアとは違い、こっちは横開きのドアだ。どうやらこの男児専用のクローゼットだと思われる。そしてこのドアが僅かに開いていると気付き、耀は忍足でこのドアに近寄った。
ドアの向こう側はやはりウォークインクローゼットだった。
耀は小さく咳払いをするとこの小部屋の奥に向かって「誰かいますか?」と、小声で話しかけた。返事は返ってこない。異様なほどに静まり返ったこの空間。もしかすると、高村肇はこの部屋にも来たのかもしれないと耀は思った。しかし息子が見つからず、一階へ降りた……とか……。
ともなると、やはり息子が外に逃げたとは考え難い。むしろこの部屋から出ること自体が危険である。ならば、やはりこのクローゼットに身を潜めていると考えるのが妥当だろう。
一瞬、立ち去ろうとしたが、そこまで考えて耀はドアの縁を握りしめた。
「僕は警察の耀修介です。君を助けにきました。もう大丈夫ですよ。もし、ここにいたら返事をしてください」
緊張している。喉がカラカラに乾いていて、たったこれだけ喋るにも咽せそうになる。やはり返事はないが、耀は諦めず再び声をかける。
「もし声が出せないなら、物音でいいので立ててください。助けに行きいます」
頼む、返事をしてくれ……。そう願い返事を待つ。
すると、体感二分ほど経ってから一番奥のキャリーケースのキャスターがガラリと音を立てて少し前に出てきたのだ。
(いた!!)
耀は肩をびくりと戦慄かせ、ふぅ……と大きく息を吐く。
「今、助けに行くからね。怖くないよ」
男児はかなり警戒しているはずだ。とにかく驚かせないようにと細心の注意を払いながら近寄り、キャリーケースの奥を覗き込んだ。
そこには膝を抱え込み、小さく丸まっている少年がいた。小学校中学年か……高学年だろうか……。膝と前髪の間から、今にも泣きそうな瞳をこちらに向けている。
「よく、頑張ったね。僕は警察の耀と言います。君を助け出したいんだけど」
直ぐに引っ張り出そうとはせず、少しだけ手を差し出す。少年は一瞬怯んだが、耀の手をじっと見つめ、この手を取るべきか悩んでいる様子だった。耀は少年から動くのを待つことにした。こんな残虐な状況の中、子供が一人で耐え抜いたなど、想像しただけでもその恐怖は計り知れない。きっと家の異変に気付き、ここに逃げ込んだのだろう。暗闇の中、いつ見つかるかとハラハラしながら。
耀は必要以上には声も出さず、少年から動き出すのを待つ。静かな時間が流れたが、それは決して張り詰めた時間ではなく、少年の緊張がゆっくりと解けていくために必要な時間だった。
そして、少年が「うっ……」と声を漏らすと同時に、耀の胸に飛び込んできた。耀はその勢いで尻餅をついたが、そのまま少年を抱きしめた。
「怖かったね、よく頑張った」と言うと、少年は声をあげて泣き出した。耀は何も言わず背中や頭を撫で、絶えず声をかけ続けた。「生きててよかった」「もう大丈夫だから」と。
少年は嗚咽を出して泣き続け、その声で他の捜査官が部屋を覗きに来たが、耀は手短に説明し、落ち着いてから署に連れて行くと言って二人きりにしてもらう。無理矢理移動させるのは無理だ。こんなにも震えている子供を、大人の都合でどうにかしていいものではない。少年は泣き止んではまた泣き……を何度も繰り返しながらも、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
どのくらいそうしていただろうか。クローゼットの小窓から朝を告げる光が差し込んだ。
「そろそろ、行かなくちゃ」
そう言うと、少年は不安そうに耀を見上げる。
「大丈夫、一緒に行こう。絶対に離さないから。歩けるかい?」
「———うん」
手を繋いで歩き始めた。できればリビングを避けたいと耀が言うと、裏口があると案内してくれた。
少年は自分の名前を「翼」だと教えてくれた。小学五年生なのだそうだ。高学年にしては華奢な体型である。翼は緊張が解れると、少しずつ話をしてくれた。きっと本当は社交的な子だと思われる。
しっかりと手を繋いだまま外に出ると、豪雨はいつの間にか止んでいて、眩しい朝日が街を照らした。
「虹だ」
翼が指差す。
「綺麗だな」
最悪の一夜を生き抜いた翼を讃えるような、見事な虹が空に架かる。
長い夜が終わった。
これから大変な日々が待ち受けているだろうが、そこは一先ず考えないことにした。
影山に連絡し、裏に公用車を一台回してもらい二人で乗り込む。車内でも繋いだ手は離さないでいた。
その後の捜査で高村肇は、家政婦と不倫の関係にあり、妻の美耶子とは離婚の話が進んでいることが判明。美耶子は弁護士を通じてとんでもない額の慰謝料を請求していたそうだ。勿論、話は収まるはずもなく難航を極めていた。そんな中、高村の病院で医療ミスが発覚。全国のニュースで取り上げられた。それから高村総合病院は患者の減少が激しく、仕事を辞める従業員も後を経たない。自宅には嫌がらせの電話や張り紙、ゴミを投げつけるなどの嫌がらせ行為が続き、まさに踏んだり蹴ったりな状態だったそうだ。
気を病んだ高村は一家心中を決断する。
想定外だったのは、この日、本来なら仕事を終えて帰宅するはずの家政婦が豪雨で帰れなかった。美耶子との関係は最悪ではあるものの、肇の独断で一階で休むことになる。
肇はそれでも計画を実行に移した。自分がこうしてでも家政婦は一緒に逃げてくれるとでも思っていたのか、奈津と美耶子を刺し、息子である翼の部屋へと向かった。しかし寝ているはずの翼がいない。クローゼットも覗いたが姿は見当たらず、家政婦のいる一階へと降りる。
翼を探しに行ったのだが、何事かと和室から出てきた家政婦と鉢合わせしてしまった。
家政婦は返り血の浴びた肇を見て腰を抜かすが、警察を呼ぼうと尻餅をついたままの状態で自分のスマホを探り寄せた。
肇はそこで家政婦は自分とは一緒になってくれないと悟り、家政婦も殺そうと持っていた包丁を振り翳した。家政婦と取っ組み合いになり、足を滑らせた肇は自分の腹に包丁を突き立てた状態で倒れ込んだ。
家政婦もそのまま気を失ったが、スマホは警察に繋がっていた。
翼だけが助かった。耀が担当した事件で、その後にもこれだけ残虐な事件はない。
耀はこの日のことを決して忘れないだろうと思った。
その事件から三年後、耀は別の署に移動が決まりこの地を離れることが決まった。翼は施設で暮らしている。最初こそ塞ぎ込んでいた翼であったが、徐々に持ち前の社交性を取り戻すと、施設内でも友達を作りいつしか笑顔も見られるようになっていた。耀も頻繁に会いに通っていたがそれも終わりを告げる。
「また、会えるよね」
「あぁ、勿論だよ」
「久しぶりに会った時に禿げてたら嫌だからね」
「んなもん、神様しか知り得ない。たとえ禿げてても、会いに戻ってくるからな」
翼が「えぇ……」と苦笑いをした。
耀はわざと不貞腐れた顔をしたが、もう翼は大丈夫だと思った。この子は色んな人から愛されている。耀がいなくても、きっと幸せに暮らしていけるだろうと。
翼とはそれ以来、音信不通になってしまった。当時まだスマホも何も持っていなかった翼と連絡を取り合うには、施設への電話か手紙しかなかった。筆マメでもなく、用もなく電話もするようなタイプではない耀は、翼を思い出すことはあってもそれ以上の行動にはでなかった。
最後に写真くらい撮っておけばよかったか……と思ったことは何度かあったが、男のツーショットなど、思春期の男子が撮りたいなど思わないだろう。元気でいてくれればいい。
移動先から地元に帰るには、県内とはいえ日帰りなら丸一日を潰してしまう距離にある。正直、常に仕事に追われている耀は休日には少しでも体を休めたい。そうして翼への連絡を先延ばしにしているうちに、記憶の奥へと流されていったのだった。
それから更に十年という時を経て、耀は三八歳になっていた。あの事件から十三年、またこの地に戻ってきた。
社宅には住まず、広めのマンションを借りた。猫を飼っていたからだ。この黒猫は、あの夜と同じような豪雨の夜に拾った。『翼』と名付けようかと本気で悩んでやめた。猫の名前は『くつした』だ。片方だけをよく失くす。もう、何も失くしたくない。
耀はこの十年の間に、結婚と離婚を経験していた。仕事で殆ど寝に帰るだけの生活を送っていた耀が、ある日帰宅すると、マンションはもぬけの殻だった。人の気配のない暗い部屋は異様な静寂に包まれていて気持ち悪い。ドラマで見たような場面にゾクリと冷や汗を掻いた耀がキッチンへ移動すると、妻からの置き手紙と離婚届が置かれていた。あとは自分がサインするだけの状態。妻との間に子供はおらず、マンションも賃貸。慰謝料も何もいらないから、とにかくサインしろという旨が手紙に記されている。妻にはすでに新しい恋人がいた。浮気をされていたのも全く気付かなかった。
情けない。耀は頭を抱えてしゃがみ込む。もう、恋愛はしないと心に決めた瞬間でもあった。自分に恋愛など向いていない。
くつしたと出会ったのはそのあと直ぐだった。移動が決まるまではマンションに隠して飼っていた。次に引っ越す時はペット可のマンションを探そうと決めていた。くつしたとは、かれこれ五年の付き合いになる。
「じゃあ、仕事行ってくるな。くつした」
ニャアンと可愛らしい声で鳴き、耀の足に胴を擦り寄せる。喉を指で撫でるとゴロゴロと小気味よい音を立てた。
新しいマンションにも戸惑うことなく、馴染んでくれている。
その時、インターホンの音が響いた。モニターを見ると宅配業者が映っている。そう言えば、くつしたの生活用品をまとめて注文していたのだ。オートロックを解除し、到着を待つ。まだ出勤時間には余裕があった。くつしたは耀に抱かれ、今朝はラッキーだと思っているように頬に顔を寄せる。
「今だけだぞ。今日も帰りは遅くなるからな」
そんな風に言いながらも、ちゃっかりと『猫吸い』を堪能していると、今度は玄関のインターホンが鳴った。
「はい、今開けます」
ドアを開いた瞬間、宅配業者と目が合った。
「やっぱり、耀さん……? 警察の」
「は……なんで……俺のことを知って……」
青年は耀を見るなり感嘆の声を上げた。しかしこんな若い知り合いはいない。まだ二十歳そこそこに見える。仕事で会ったなら覚えているはずだが……。そう思いながら、胸元の名札に視線を落とす。そこには『高村』と書かれてあった。
「あっ!! もしかして、翼君?」
「そうです。僕は名前見て直ぐに分かったけど、耀なんて名字、珍しいし」
翼の笑顔はあの頃の面影が残っている。しかし小学五年生にしては小柄だった翼が、今や耀のほうが視線をぐいと上げる背丈である。「大きくなって(いや、なりすぎだ)」と、親戚の叔父さんになったような気持ちが芽生えた。あの時は、耀に包み込まれて泣いていたが、今なら耀のほうがすっぽりと覆われるだろう。それにしてもこんな再会があるのかと、驚きを隠せない。
「あ、禿げてないだろう?」
咄嗟に自分の頭頂部を見せる。翼はずいっと押し出された耀の頭を見て、あの日、自分が言ったことを思い出したようだ。
「あはは!! 本当に、ふさふさだ!!」
肩を揺らして哄笑した翼に、いい歳をしたおじさんが何をしているんだと、頬を染める。
「ほら、サインするから」
バツ悪くこの場をさっさと切り上げようと思った耀だったが、翼から「今度ご飯でも行かないか」との誘いを受ける。
「それはいいな。もう酒も飲めるんだろう? 再会の記念に奢るよ」と言うと、翼は「やったー」とスマホを取り出し連絡先を交換した。
「耀さんのマンションでもいいよ。猫ちゃんもいるし、どうせ殆ど仕事で放置してるんでしょ? 僕がなんか作るし」
「あぁ、翼君がそれで良いなら。どうせ独り身だし、気兼ねなく来てくれて構わない」
「じゃあ、僕からしつこく連絡するよ。耀さんからの連絡を待ってたら、きっと一生来ないから。ね、猫ちゃん」
くつしたがニャアンと鳴いて返事をする。確かに、図星である。
「猫ちゃんの名前、なんていうの?」
「くつしただ」
「え? 名前、が……くつした?」
「———そうだ」
もっとオシャレな名前にすれば良かったと思っても遅い。この猫は耀にとって『くつした』以外の何者でもなくなっている。翼は間をおいて再び哄笑した。「耀さんっぽい」と言いながら。
耀っぽいとは、なんだ。と思いながらも反論はできなかった。翼は「今日はいい日になりそう」だの喋りながら、仕事へと戻って行った。翼を見送ると、耀も今度こそくつしたに「行ってきます」と言い、マンションを出た。
色々と恥ずかしい再会になってしまったが、自分が浮き足立っているのが分かる。ずっと気がかりだった翼との再会を、地元に帰って来て早々果たすとは思いもよらない。そして宣言通り、翼はしょっちゅうメッセージを送ってくるようになる。耀が多忙で返信できなくとも気にしてないかのように、ご飯の誘いだったり、自撮りの写真だったり、美味しいラーメン屋の情報だったりを送ってくる。
『早くマンション行かせて!!』
その言葉が三回目に送られてきた時、ようやく『今夜なら時間が取れそうだ』と返信できた。一つ、大きな事件が片付いたのだ。
ふとトイレの鏡を見ると、ヨレヨレになったシャツ、ボサボサの頭、伸びた髭。普段は若く見られる耀であったが、流石にこれでは年相応……いや、それ以上だと伸び放題の髭を撫でる。部屋も掃除が行き届いていない。自分一人ならそれほど散らからないが、強敵くつしたの洗礼を受けている。猫タワーからダイブでもしたかと思われる惨事を、仕事を理由に見て見ぬふりをして数日経っていた。一刻も早く帰って自分も部屋も綺麗にしなければ……。署員への挨拶を済ませ、足早に警察署を後にした。
翼が来るまでにと急いで帰宅したが、マンションに着くと翼は既に自動ドアの前で待っていた。
(遅かった)焦る耀。三日ほど風呂に入っていない。こんな姿は見られたくなかった。新婚の頃、妻によく『シャワーくらい浴びに帰ってこい』と叱られたものだ。けれども翼はこんなボロボロの耀を見て、「お疲れ様」にっこり笑って声をかける。一気に肩の力が抜けた。
「あぁ、悪い。こんな汚い格好で」
「なんで? 忙しかったんでしょ? 今日はスタミナの付くご飯、いっぱい作るから」
翼は手に持っているスーパーの袋を持ち上げて見せた。ニラが袋から飛び出している。中華か……と想像しただけで腹の音が鳴りそうだった。
「今日やっと事件が片付いたんだ。仕事は片付いたが部屋は片付いていないからな。先に言っとくけど」
「いいよ。耀さん、すぐにお風呂入ってきてよ。僕がその間に軽く掃除もしておくし」
「そんなことまで、させられないだろ」
「良いの良いの、僕、高校卒業してすぐに施設を出て、一人暮らしも長いから。家事は得意なんだ」
翼はきっと苦労したのだろう。それを感じさせない笑顔の裏の努力を思うと、少しでも力になってやりたかったと後悔の念が生まれる。
離れていた十年間の話を聞きたいと思った。
「じゃあ……頼む」
マンションのドアを開けると、くつしたが玄関で座って待っていた。猫なのに、犬みたいな性格をしている。翼がしゃがみ、顎を撫でると、喉をゴロゴロと鳴らして手のひらに頭を擦り寄せた。
「耀さん、キッチン借りるね。ビールも買って来たから冷蔵庫に入れておく」
くつしたを抱き上げ、奥の部屋へと移動する。
「一人暮らしなのに、広いね」
「くつしたもいるし、一人だからこそ窮屈だと余計に寂しくなる気がしてな。まぁ、一人だし、気楽なもんだよ」
“一人”を強調してしまう自分に自嘲する。身の上話を聞いて欲しいのは自分の方かもしれない。翼は気遣うでもなく「結婚しなかったの?」と聞いてきた。
「したけど、離婚した。仕事から帰ったらいなくなってた。置き手紙と離婚届けがテーブルに置かれていて、あとは弁護士を通して争うでもなくすんなりと……」
「え、耀さんは仕事を頑張ってたのに?」
「殆ど帰らなかったからな。浮気されても文句も言えなかったよ。それどころか、相手の男に少し感謝したくらいだ。妻の寂しさを、埋めてくれていたのだから」
「そんな……」
翼は耀よりも寂しそうに眉を下げる。本人でも、寂しさや悲しみや後悔などという、込み上げるような感情は持たなかった。なのに翼が自分のことのように感じてくれているのが嬉しくて、心が満たされる。こんなことで喜ぶなど、余程寂しかったのかと一層悲観してしまう部分もあるが、聞いてくれたのが翼だったことがそうさせたのだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて、風呂に入ってイケメンに戻ってくるわ」
翼の肩をポンッと軽く叩き、風呂場に行く。翼も「はい。え? イケメン?」なんて、しっかりとツッコミを入れてくれた。
念入りに髪も身体も洗い風呂から出ると、脱衣所にまで美味しそうな匂いが漂ってきた。
「餃子に違いない」
ごくりと生唾を飲み込む。ビールを買ってきてくれたと言っていた。シュワシュワと弾ける喉越し、ニンニクの効いたジューシーな肉汁、想像しただけで食欲が湧き出る。何より、手料理なんていつぶりだろうか。結婚していた間も殆ど食べた記憶はない。それこそ、十三年前に地元を離れる前の実家で食べた以来か……。自炊もせず、外食や弁当で済ませていた耀は、誰かの手料理を食べるだけで物凄く幸せなことのように思えた。
急いで着替えを済ませ、ダイニングへと飛び込む。
あれだけ散らかっていたのが嘘みたいだ。大掃除をしたような綺麗な部屋になっている。テーブルには焼きたての餃子や野菜炒めが並べられていて、キッチンカウンターの上では炊飯器から蒸気が立ち昇っている。目の前に広がる状況に、言葉を失った代わりに腹の虫が盛大に鳴った。
「流石にご飯はまだ炊けないから、乾杯しましょう!」
「そ、そうだな」
恥ずかしさに前髪を弄り席に着く。今まで必要のなかった二脚の椅子。今日ほど買っておいて良かったと思った日はない。プルタブを音を立てて開けると「乾杯」と言いながら翼が缶ビールを差し出す。
「乾杯」と、耀からコツンとその缶に当てた。
翼の作った料理は美味しかった。
「餃子は焼くだけだし、ニラ玉スープなんて手間もかからない。ご飯は無洗米だし、野菜はカット済みのやつ買ってきたし、本当に簡単なものしか作ってないよ。耀さん帰ってからだと、そんなに作る時間は取れないと思ったから」
それでも野菜炒めの豚肉には下味をつけて片栗粉がまぶされているから周りがカリカリだ。濃いめの味付けもビールに良く合う。スープは胡麻油の香ばしい香りが湯気と共に鼻から体内に広がり、餃子はこんがりとした焼き色に羽付き。その上、ご飯を炊いていて……部屋の掃除だって……耀が風呂に入っている間に、一体どんなふうに動けばここまで出来るのか全く想像ができない。二人に分裂できますと言われれば、容易く信じてしまいそうなほどの仕事量だ。
翼はご飯中、耀を一度たりとも席から立たせず、テキパキと動いてビールは気付けば三本開けていた。作ってくれたご飯は残さず全て平らげ、満腹になるということが、実は最大の幸せなのかもしれないなんて、冗談でもなく感じた。
「ご馳走様」という頃には、テーブルの上の皿は既に流し台に移されている。
「魔法を目の当たりにしたみたいだ」ついポロリと零してしまう。
「じゃあ、耀さんにも魔法をかけようかな」人差し指をくるくると回しながら魔法をかける振りをする。その目は少し潤んでいて、彼もほろ酔いだと分かると余計に気が緩んだ。
「どんな魔法だ?」ノリで尋ねると「耀さんが、僕と一緒に住みたくなる魔法」だと答えた。
「うん、いいね。毎日こんなご飯が食べられて、掃除も……って、これじゃあ、まるで家政婦扱いだ。すまない。忘れてくれ」
「ううん。忘れない。耀さんこそ、今言ったの忘れないでよ」
「何を?」
「僕と一緒に住んでもいいって言ったの」
本気なのか冗談なのか判断がつかない言葉に考え込もうとしたが、仕事の疲れと満腹とほろ酔いで何も考えられなかった。本能のまま返事をすれば、迷いなくOKなのだが。それでは翼に頼り切った生活になるのも目に見えている。離婚のトラウマは自覚していたよりも深いようだ。
「……寝る」
自分から発せられた言葉はあまりにも素っ気ない気がした。それでも「泊まって行くか?」と尋ねると、即答で「うん」元気に頷いた。
「そうだ、でも 客用の布団なんてないな」
誘ってから肝心なことに気がついた。春先の夜は冷える。どちらかがソファーで寝るわけにもいかない。
「一緒のベッドでいいよ」と翼は言うが、四十前のおじさんとまだ二十三歳の若者が同じベッド……。どう考えても申し訳ない。とは言えこれだけもてなして貰っておいて、タクシーを呼ぶなど失礼すぎる。大人になった翼と乾杯できた喜びと、その余韻を自分も味わいながら眠りにつきたい。
同じベッドで寝る以外の手段も思い浮かばない今、これはいよいよ大の大人が二人肩を並べて寝るしかないように思えてくる。
目の前で大きな欠伸をしている翼と寝室へと移動すると、セミダブルのベッドを見るや否やダイブしてどっさりとマットに体を埋めた。
「あぁ、すぐにでも寝られそう」
目を眇めて呟く。
「いやいや、まだ風呂に入ってないだろう」
「無理、もう動けない。明日の朝シャワー借りてもいい?」
「まぁ、良いけど……」
翼も仕事だったはずだ。その後、買い出しに行って掃除と料理、片付けまで一人でこなした。疲れていても当然だ。
「明日は仕事なのか?」
「休みだから大丈夫」
「そうか、俺も休みだからゆっくり寝ると良い」
耀も疲労が溜まっている。翼の隣に沿うように横になると、五分も経たないうちに深い眠りについた。
朝、目が覚めると目の前に翼の寝顔がある。大人になったとはいえ、寝ているとまだあどけなさが残っている。耀は小さく寝息を立てている翼を起こすのも可哀想な気がして、もう少しのんびりすることにした。スマホをそっと手に取り、読みかけだった小説を読んで過ごす。
時計は既に九時を過ぎていて、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいた。
翼が起きた頃には十一時近くになっていて、耀がちょうどその小説を読み終えた時だった。スマホを閉じ、翼を見ると薄っすらと目を開いた翼と目が合う。
「起きたか」
「ん……今、何時?」
「もうすぐ十一時だな。シャワーして着替えたらお昼か……外に食べに行こうか。前に言ってた美味しいラーメンが食べたいと思ってたんだ」
翼は頭を抱えて唸っている。どうしたのかと思えば、今朝は耀よりも早く起きて、朝ごはんを振る舞う予定だったのだと言う。
「フレンチトーストの下準備をしてたのに……」
「そっか、じゃあ今度は俺がそれを焼いておくよ。昨日のお礼にはならないけど、そのくらいなら食べた後でラーメンも食べられるだろう」
翼も食欲旺盛な盛りだ。うんうんと頷き、ベッドから降りた。風呂場に向かったのを背後から見送ると、冷蔵庫から昨日翼が仕込んだパンとバターを取りだしフライパンを火にかける。
ジュワッと広がるバターの芳ばしい香り。卵液の染み込んだバゲットを溶けたバターの上に乗せると、その音だけで美味しいと伝わってくる。こんな仕込みまでしていたのかと感心しながら、焼けた物から皿に盛り付ける。オシャレとは程遠い盛り方ではあるが、見た目は悪くない。コーヒーを淹れ、テーブルに並べると、翼がタイミングよくシャワーを済ませてダイニングに戻ってきた。
「いい匂い」
鼻から思い切り息を吸い込む。
「君が仕込んだんだろう」
「そうだけど、耀さんが作ってくれたってだけで特別な気がする」
「大袈裟だな」
照れ臭さを隠しきれず、鼻を掻く。同時に手を合わせ「いただきます」と言うと、一口頬張った。
「美味い!」
「本当に、美味しい。焼き加減最高だね」
「いや、翼君の仕込みのおかげじゃないか」
褒め合いが続くのをどうにかやめないとキリがなくなってしまう。耀は無理矢理、話題を変えた。
「昨日はよく眠れたみたいで、良かったよ」
「うん、耀さんと一緒だったら寝られるかなって思ってたんだけど、やっぱりそうだった」
「俺と一緒だったら?」
少し引っかかる言い方を無視できなかった。
すると、翼はあの夜から不眠に悩まされてきたのだと話始める。
「夜になると思い出すんだ。あの日のことを。気を紛らわせるために、耀さんのことを意識的に考えるようにしてきた。僕を助けて抱きしめてくれた時の感触や温もり、今も忘れてないよ。耀さんを思うと、少しは眠れていたんだけどね、それでも雨の日はダメだった。お父さんとお母さんの叫び声や、物がぶつかる音、家政婦さんの叫び声。それが豪雨の音に混じって余計に大きく響いてた。夜は雨音が妙に大きく聞こえて、あの日が蘇る」
耀が移動でこの街を離れてからも、ずっと心の支えになっていたと知り、嬉しくないわけがない。翼は、この夜が明けると、耀と一緒に見たあの虹が見られるんだと自分を励まし、眠れぬ夜を超えていたのだと言った。
「翼……く……」
目頭が熱くなる。耀とて翼を忘れたことなどなかった。ずっと気にかけていたが、自分の行動力が足りなかったと大いに反省した。
「でもね、耀さんと再会できた時、大人気ないけど耀さんが隣にいれば眠れるかもしれないって思って、無理矢理そういう流れに持っていったんだ」
「そしたら、眠れたと……」
「うん。僕にとって耀さんは何よりも安心できる要因だから」
そこまで言って、翼は突然言いにくそうにもじもじし始める。
「どうしたんだ? 他にもあるなら話してくれないか。君のことなら、なんでも知りたいんだ」
「あの……昨日言ってた、その……一緒に住むって話」
「あぁ」
覚えていたのかと、驚嘆した。お互い酔っていたから、ただの話のネタだと思っていたが、翼はどうやら本気だったようだ。
「耀さんが迷惑なら諦めるけど、ここ広いし、僕、家事全部できるし、ほら、くつしたの世話もあるし……繁忙期以外はの話だけど。でも、昨日みたいにご飯食べたりできたらなって……思って……」
ご飯を食べながら、十年前に耀が引っ越してからの話を根掘り葉掘り聞いた。
施設に入ってからも、友達は出来て最初は楽しかった。周りの子供たちも理由はそれぞれだが、翼と同じように身寄りがないという共通点がある。
施設の職員もみんな親切で、時に本当の親のように接してくれる。中学校を卒業したらすぐに働こうと思っていた翼に「高校には行きなさい」と言ったのも施設の職員だ。幸い、翼は母の熱心な教育により、子供の頃から習い事と塾に明け暮れた生活を送っていたため勉強ができた。あれだけ嫌だった母の強制的で抑圧的な教育方針も、高校受験の時は良かったと思えた。それに、施設に入っている子供の中には、それだけで虐めの対象になる子もいたが、翼は勉強もスポーツも出来たし、おまけに成長期に一気に身長も伸びた。虐められるどころか、耀が引っ越した後からは周りから一目置かれる存在になっていた。
しかし高校生になってから、突然、翼の家庭の事情が施設内で噂になり、それが高校にも広まる。二年生になった直ぐの頃だったと言った。翼に告白をした女子学生が、振られた腹いせにした行為だったらしい。女子学生は偶然母親から高村事件の話を聞いた。施設で住んでいるとは知られていたが理由まで知る人はおらず、女子学生は自分だけが得た翼の情報を得意気に広めた。それからは肩身の狭い思いをしたと言う。耀にも会えず、夜も寝られない。何度も非行に走りたい衝動に駆られたが、「絶対にまた会う」と言ってくれた耀を思い出すと、耀を裏切ることはしたくないと自暴自棄にはならずにいられたと翼は言った。
高校の先生は奨学金制度を利用し、大学への進学を進めたが、翼は頑なに断った。早く働きたかった。卒業とともに一人暮らしをすることだけを目標に過ごした。
しかし一人になると楽になれると思っていたがそうではない。トラウマによる恐怖は常に隣り合わせで、その上、孤独も付きまとう。念願の一人暮らしを始めても、それが不眠の治る要因にはならない。むしろ悶々と考え込み、余計に症状は酷くなっていった。宅配業を仕事に選んだのは、疲れて眠れるほど体を動かすからだそうだ。
「耀さんしか頼れないと思った。いつまでも子供のままだって笑われるかもしれないけど、自分の中に刻み込まれた安心感は耀さんにじゃないと感じられない。今日起きて、こんなにもぐっすり眠れた自分でびっくりしてる。僕は……」
「翼くん」
話の途中で口を挟んだ。もう十分だ。これ以上翼の話を聞いても、耀が出した答えが変わることはない。耀は翼の正面から視線を逸さなかった。
「ここにおいでよ」
「耀……さん? いいの? そんなすぐに決めちゃって」
「俺もずっと翼くんを気にしてた。なのに地元を離れてから全然会いにも来なくて、今すごく後悔してる。帰ってきてすぐに再会できたのは本当に奇跡だし、作ってくれるご飯は美味しいし、くつしたも懐いてるし、何より、俺もよく眠れたから」
「耀さんも?」
「まぁ俺が寝られない時って言っても仕事が忙しすぎたり、離婚した後のしばらくだけだけど。人の温もりがこんなに安心できるんだって、びっくりしたのも本当。あ、でもこれからも同じベッドで寝ようなんて烏滸がましいことは……」
「ダメです。一緒に寝ないと、僕が眠れません」
「あ、は……い……」
身を乗り出して顔を近付けた翼に、耀は座ったままたじろいたが、願ってもない展開に心が躍る。
翼はちょうどマンションの更新時期だったようで、今日から早速荷物を運んでくることにした。とんとん拍子に同居の話が進み、数日後には完全に耀の部屋で住み始める。
いきなりの二人(と猫)の共同生活、どうなることかと多少の不安もあったが、そんなものは杞憂に終わり、毎日が楽しくて仕方ない。
翼はいつの間にか耀のことを「修介さん」と呼ぶようになっていた。そこは気にしてないふりをしても、内心喜んでいる。二人の間に壁がなくなったような気持ちになれた。
相変わらず翼の作ったご飯は美味しくて、帰るのが楽しみになった。恋愛などしなくても、幸せになれると教えてくれた翼には感謝してもし切れない。……と、思っていたのは耀だけで、翼は想像の斜め上から耀を意識していたと判明する。
一緒に住み始めて二ヶ月が経った頃、翼は耀にしがみついて眠るようになっていた。それは構わな……くはないが、百歩譲って構わないとして、背後から耳元にかかる息はくすぐったいし、背中の全面が翼に引っ付いている。触れてるなんてもんじゃない。隙間なくみっちりと密着しているのだ。そしてついには寝言で耀に告白してきた。
「修介さん、好き……」
ただの寝言かもしれないが、耀は込み上げてくる感情を抑えることはできなかった。ありふれた言葉のようだけれど、早々に聞けるもんじゃない。特に耀はそういう類の感情にしっかりと蓋をして避けてきたため、その感情をこんなにも容易く開けられるのかと若干の悔しさもあった。
「俺もだよ、翼」
観念したように呟いたが、聞こえていないと思った。翼は眠っていると、そう思っていた。
「へへ……ありがとう」と聞こえた瞬間、耀は抱きしめられている腕を振り解き、大きく体を反転させ、翼と向き合いになった。そこにはしっかりと耀を見据えている翼がいる。
「起きていたとは……」
前言撤回などできないことくらい流石に分かる。寝言のふりをして告白など、それはズルいと翼を責めた。本心で翼が悪いと思ったのではない。四十前の中年の自分が青春を気取って愛の告白を間に受け、陶酔していたのが恥ずかしすぎたのだ。翼のせいにでもしなければ、気持ちのやり場がない。
「言っておくけど、俺は、そう言う意味で言ったんじゃないからな」
慌てて言い訳をしても遅い。ここまで過剰なリアクションが本心だと表しているも同然だ。しかし翼は「どんな種類の好きでも嬉しい」と、顔を綻ばせる。
「修介さんの好きなものの一つに僕が当てはまるなら、こんなに嬉しいことはないよ」
「嫌いなわけないだろう。好きじゃなけりゃ、一緒に住もうなんて言わないさ」
「うん。そうだね。でも、修介さんの口から聞けて良かった」
いつの間にか手を握られている。耀よりも大きな手。もう子供じゃないと思い知らされる。
翼は目標を決めたと言い出した。
「いつか僕と同じ種類の好きにさせてみせるからね」
それが恋愛の類のものだとは言わなかったが、耀を捉える双眸がそう訴えている。
耀は「うぅん」と曖昧な返事をした。
翼はまだ若い。もう中年の仲間入りを果たした自分の許にずっといてくれるとは思っていない。けれども耀は知ってしまったのだ。翼と一緒だと暖かくてよく眠れること、二人で食べるご飯が美味しいということ、他愛無い会話が楽しいこと、くつしたが、自分よりも翼に懐いているということを。
同居を始めてからたったの二ヶ月で、耀にとって翼はなくてはならない存在になっていた。
「俺に愛想尽きたら、いつでも言ってくれ」なんて言葉は毛頭言うつもりもない。身体に擦り込まれたこの日々を、他の誰かに渡してなるものかと考える。
もしも将来、翼に良い人が現れて、その人の所に行くと言われたとしても、快く背中を押してやれないだろうと思ってしまうのだ。できればずっとここにいて欲しい。その複雑な心境が、耀の自信を奪っていく。
『自分があと十歳若かったら……』なんて言葉を考える日が来るなんて、思いもよらない。それでも少しでも長い時間を翼と過ごせればいいと思う。
翼がベッドから降り、カーテンを開ける。昨夜は雨が降っていたが、それでも二人で熟睡できた。
「雨、上がってる」
翼がベランダに出ると耀を振り向き「修介さん、虹!!」指差して呼び起こす。
耀もまだ布団の上で丸くなっているくつしたを抱き上げ、翼の隣に立ち空を見上げた。あの朝ほど立派ではなかったが、それはとても特別なもののように感じた。きっと翼と二人で見ているからだ。
「綺麗だな」
虹はあの日と変わらず、二人を讃えるように輝いていた。
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