感情表現が苦手な妻は夢の中で本音を呟いていた。
初夏の日差しが眩しく輝く日の朝、ハリソン伯爵家当主ジュノ・ハリソンはノーライト子爵家の次女エレインを妻に迎えた。三十二歳と十八歳という歳の差を考えても、これが単なる政略結婚ではないことは明らかだった。
事業に失敗して財政難に陥ったノーライト子爵家には息子と二人の娘がいた。跡継ぎ息子のフレッドはまだ十六歳。長女のアナスタシアはすでに他家に嫁いでいる。その嫁ぎ先からはすでに多額の支援を受けているので、新たな支援を探し求めて見つけた先がハリソン伯爵家だった。一度の結婚と離婚を経験している中年男ならば、若い娘を差し出せば金を出してくれると思ったのだろう。分かりやすく浅はかな考えに嫌気がさしたが、紹介されたその娘はある日の夜会で目を奪われた一輪の壁の花だった。
優雅で華やかな空間の片隅で見かけたその娘は、侍女も連れず一人壁際に佇んでいた。長いダークブラウンの髪を結って片方に流し、まだ熟れきっていない身体は華奢で折れそうなほどに細い。酒が苦手なのか、壁に向かって甘い果実酒をちびちびと舐めている後ろ姿が印象的で、遠目に見ても若い娘だと分かった。
近付きたくても己の歳を考えれば声をかけるのは憚られ、結局遠くから見つめることしかできなかった。
「妻として精一杯お仕え致します。どうぞよろしくお願い致します。」
初夜のベッドの上でエレインは膝を折り、背筋を伸ばしてそう言った。頬を染めることも、不安に怯えることも無く、切れ長の大きな瞳を真っ直ぐにジュノに向けて言い、そして目を伏せた。
妻として仕える。それはジュノにとって『愛しているわけではない』と宣言されたも同然だった。
夫婦として共に暮らすようになってから、ジュノは時間がある時は必ずエレインと一緒に過ごすようにした。仕事を詰めてでも休暇を取って遠出をし、わずかな時間も庭の散歩やティータイムにあてる。家にいる時の食事は小さめのテーブルで互いの顔を見ながら食べた。そうやって少しずつ共有する時間を増やせば、互いのことを知ることができるようになる。そう信じた。
「あの…旦那様。」
「うん?どうした?」
汗だくになった身体を起こし、クッションの上で頬杖をついてエレインを見下ろす。エレインは天井をじっと見つめながら身体に掛けたシーツをキュッと握り、ポツリと呟いた。
「私…つまらないですよね。」
「何が?」
「旦那様が…とても気を使って下さっているのは気付いていました。そして私が上手くできなくて…呆れてらっしゃるのも。」
「それは誤解だ。俺は君に呆れたことなど一度も無い。」
「いいのです。自分でも分かって…いえ、余計なことを申し上げました。申し訳ありません。」
「いや…」
「そろそろ寝ないといけませんね。では…お休みなさいませ。」
「あ、あぁ。お休み…」
翌朝からも、エレインはいつもと同じように振る舞っていた。同じように、というのは表情を崩さないことだ。花を見て『綺麗だね』と言えば頷き、食事中に『美味いか』と聞けば頷く。それ以上は何も言わないし、何も聞いてこない。ニコリとも笑わないし、嫌そうな顔もしない。耳元で愛を囁き、肌を重ねればそれなりの反応はするが、それでも終始目を閉じて黙っているだけだった。
そんな生活が二か月間続き、心が折れそうになっていた日の夜だった。知らぬ間に心に積もった不安と寝苦しい暑さで夜中に目が覚めてしまい、ジュノは深い溜息をついて額に手を乗せた。目の前の暗闇が今の己の心を映しているようで、目を背けても追いかけてくる絶望に自然と心も重くなった。
----やはり、今回もダメなのだろうか。
一度闇に呑まれた心はどこまでも落ちてゆき、支えを失った身体は底無し沼にズブズブと沈んでいく。隣から聞こえてくる息苦しそうな寝息が耳に触れた瞬間、ジュノの胸の奥に残されていた小さな光が弾けて消えた。
----別れた方が…解放してやった方がいいのだろうな。
静かに身体を起こしてエレインの寝顔を見つめる。己には生涯縁が無いと思っていた一目惚れだった。しかしエレインにとっては親の支援目的で用意された婚姻だ。歳も離れている。他に好きな男がいたかもしれない。きっと歳の近い青年だったのだろう。考え出したらキリが無いが、止められなかった。
明日にでも離婚を切り出すことを心に決めて頬に触れようとした時、エレインの小さな口がパクパクと微かに動いた。
----なんだ?口が…
「う…旦那様…旦那…様…」
----俺を呼んでいるのか?
ジュノは眉間に小さな皺を寄せるエレインの表情を食い入るように見つめた。たとえ苦しそうな表情でも、エレインが感情を表に出していることに代わりはないからだ。とても新鮮で、幼くて、魅力的だった。しかし見ない方が良かったかもしれない。もうすでに別れを告げるのがつらくなってしまった。
「エレイン…」
「旦…様…私…私…」
「どうした?どこか、」
「私…生の玉ネギ…嫌い…臭い…」
「苦しいの…うん?玉ネギ?」
エレインを起こそうとする手をピタリと止めて、じっと見下ろす。ジュノはうんうんと唸るエレインの顔を見ながら、『玉ネギ?』と首を傾げた。
----玉ネギ?生の玉ネギ…あっ!
そうだ、と今朝の食事を思い出してハッとした。朝食のパンにスライスされた玉ネギが挟んであったのだ。そして、エレインはそのパンを食べるのにとても時間をかけていた。一口食べてはジュースを飲み、一緒に飲み込んでいたような気がする。
----そういえばそうだった。急に食べるのが遅くなって…あれは玉ネギのせいだったのか!
「ブフッ!」
途端に笑いが込み上げ、慌てて手で押さえる。好き嫌いを言ったり、皿の隅にそっと置いたりしてはいけないと思い、我慢したのだろう。朝食の後ますます喋らなくなったのも、口から独特の臭いがすることを気にしてのことだったとしたら。
----恥ずかしくて言えなかったのか。うわ…可愛い!
ジュノからしてみれば、エレインが玉ネギ臭かろうが何だろうがまったく気にはならないが、それが女心というものなのだろう。ジュノは朝起きてすぐに執事を呼びつけ、今後の料理には生の玉ネギを一切使わないようにと厨房係に伝えさせた。
「あら?」
「どうした?」
「いえ…今朝のパンには生ではなく茹でた玉ネギが挟んであるので、どうしてかと…。」
「嫌だったか?」
「いえ、嬉しいです。」
「嬉しい?」
「あ!いえ、なんでもありません。い、いただきます。」
顔を真っ赤にしてパンを頬張るエレインを見つめる。昨日の朝とは違い、あっという間に平らげてしまった。まさか玉ネギ一つでこんなに表情が変わるとは。
----もしかして…起きている間は上手く感情が出せない分、寝ている間にああやって無意識に表に出していたのか?
そうなれば確かめるしかない。その日の夜、ジュノは再び夜中に起きてエレインを見つめていた。仕事があるので長くは起きていられないが、それでも何か聞けるかもしれないという期待の方が大きい。期待が大きい分、起きるのも苦にはならない。
----さすがに毎日は無いか…?
しばらく待ってみたが、まったく動く気配が無い。溜息をつき、諦めて寝ようと身体を倒した時だった。
「う…うぅ…」
「ッ!?」
勢いよく身体を起こしてエレインを見つめる。愛らしい口元が動いているのを認めると、息を殺してそっと耳を近付けた。
「旦那…様…」
「…。」
「今日も…素敵…」
「!?」
今度は弾け飛ぶように起き上がり、両手で口を押さえる。バクバクと暴れる心臓を押さえることまではできず、急速に顔に熱が集まるのを感じて慌てて深呼吸を繰り返した。
----す、素敵!?今日も!?つまり、普段から…
エレインから視線を外して背を向ける。これ以上考えては寝ているエレインを抱き締めてしまいかねない。ジュノは背を向けたままソロソロと隣に横たわり、身を固くしてギュッと目を閉じた。今エレインの方を向いてしまっては確実に抱いてしまう。絶対に嫌われたくない。
しばらく目を瞑り、気が付けば朝になっていた。隣から衣擦れの音と共にエレインが起きた気配が伝わってくる。ジュノはクルリとエレインの方へ身体を向けて、細い身体を思い切り抱き締めた。
「え!?だ、旦那様!?」
「おはよう、エレイン。」
「あ、お、おはようございます。」
「急なんだが、聞いてもいいかな。」
「はい?あ、はい、なんでしょうか。」
「俺のこと好きか?」
「えッ!?」
腕の中のエレインが上擦った声を上げる。ジュノはそれを胸元で聞き、エレインの頭に口付けを落としながら続けた。
「よく考えたら、一度も聞いたことなかったなと思ってね。あ、もちろん俺は君のこと心から愛してるよ。実はご両親に紹介される前から君に惚れてた。」
「えぇッ!?」
「驚いたか?ハハ、さすがに『ずっと前に一目惚れしてました』なんて恥ずかしくて言えなかったんだ。で、君は?俺のことどう思ってる?面と向かって言うのが恥ずかしかったらこのままでいいから言ってくれ。」
ピッタリとくっつけたエレインの胸から激しい鼓動が伝わってくる。ジュノは待っている間もエレインの頭に口付けを落として背中を優しく撫でた。
「…き、です。」
「うん?聞こえない。」
「す、好き、です…!あ、あああい、あい、愛してます…!」
「〜〜ッ!!エレインッ!!」
「きゃあっ!」
身体を起こしてエレインを上から見つめる。羞恥で顔を真っ赤にするエレインに愛しさが込み上げ、ジュノは顔中に口付けを落とした。軽いリップ音を鳴らして滑らかな肌を啄んでいく。エレインは堪らず吹き出し、身をよじった。
「フフフ、くすぐったいです…。」
「笑ってくれた。うん、やっぱり可愛い。」
「え?」
「君の笑顔はとても可愛いのだろうなとずっと思っていた。もっと笑ってくれ。君の言っていた通り、俺は無意識に…過度に気を使っていたのかもしれない。決して無理をしていたわけでは無いが、それが知らないうちに君に負担や不安を与えていたのだろう。だから俺はもう君の前で大人ぶるのはやめた。」
「大人ぶる?」
「あぁ、本当の俺はいい歳してすっごくガキなんだ。君の前では格好付けてた。」
「そんなこと…」
「あるさ。実は酸っぱい食べ物が大の苦手だ。あと、野菜自体があまり好きじゃない。いつも嫌々食ってる。それから木登りは得意だが降りるのは苦手だ。なぜか足がフラつくんだよなぁ。」
「そうなのですか!?…フフ、フフフ、全然知らなかったです。」
ジュノはエレインを抱き締め、耳元で囁いた。
「これからは何でも話し合おう。言いたくないことや、話したくないことは無理に話さなくても…いや、違うな。全部俺に話してほしい。俺は君の全てを受け止めたいんだ。だからもっと甘えてくれ。」
「…はい。」
「いい子だ。よし、それじゃあそろそろ起きるか…うん?どうした?」
「あの…もう少しだけ、このまま一緒にいて下さい…。」
エレインの真っ赤になった顔が胸元に押し付けられている。ジュノは背中に回された小さな手の温もりに目を細め、愛しい妻を優しく抱き締めた。




