第8話
レックスとヘルガは目前に現れたそのモンスターに腰を抜かしていた。
「く、クソ! なんで、なんでまたコイツがいるんだ……!」
レックスたちが出会ってしまったモンスター。それは、先程彼らが命からがら逃げおおせたモンスター、スティノドンの別個体だった。
先ほど戦った際にレックスたちは思い知った。目前の敵が自分たちよりも強いのだ、ということを。故にレックスたちは、スティノドンが現れたその瞬間、恐怖で動けなくなってしまったのだ。
レックスたちは確かにS級という上位のランクにいる冒険者だ。2人は紛うことなく強者であり、これまであらゆるモンスターに対し“負け”を知らなかった。
だが、それ故に彼らは恐怖を知らなかった。
自然の世界において、モンスターに負けるとはすなわち死を意味する。着実に経験を積みランクを上げた冒険者であれば、それは幾度となく味わった恐怖であろう。故に彼らはその状況下であっても動くことができる。
しかしレックスたちは違う。彼らは己の才能だけを武器に、上位のランクまで登り詰めてしまったのだ。
ギルドからは破格の扱いを受け、並大抵の冒険者なら打ち倒せる。当然彼らは増長した。過剰なまでの自信は油断を生み、それは盤石とも言える彼らの強さに1つの歪みを生んだ。そしてその1つの歪みが、死への恐怖という濁流により巨大な穴となり、彼らの生命を脅かしたのだ。
通常冒険者は、工夫を凝らせば2つ上のランクまでのモンスターなら打ち倒すことができると言われている。逆を言えば工夫なしでは同じランクの敵を相手取るのが精一杯なのだ。
彼らの不運。それは、冒険者としての才能を有し、経験を積む以前からもてはやされたことであろう。その才能故に経験値が足りず、冷静さを失い、この状況下において「ただ足掻く」という選択肢さえも消え失せてしまったのだ。
スティノドンが一歩踏み出す。レックスたちは「ひい、ひいいいっ!」と叫び後ろへ下がる。
が、直後。ザン、という感触が空気を振動させたかと思えば、スティノドンの体が縦に両断され、そして果実を割ったかのように体が開き、血しぶきをあげた。
レックスたちは目を見張った。突如なんの脈絡もなく、獰猛なモンスターが死んだのだ。当然の反応と言えよう。だがレックスたちは、血しぶきの中からゆっくりと現れた人物を見て、さらに驚きを隠せなくなった。
ハクだ。刀を腰の鞘に納め、わずかに下を向いたハクが、ゆっくりとこちらへと向かってきていた。
「な、なんでてめぇがここに――!」
レックスは腰を抜かしたまま言う。しかしハクは答えず、黙って彼らに近づくのみだった。
「――は、ハッ! 別に、お前が殺さなくても俺だけで殺せたんだよ! ったく、勝手なことをしやがって」
「……」
「な、なんだよその態度は。う、うぜえんだよ。舐めてんのかてめぇ!」
「黙れ」
レックスはこれまでに見たことのない雰囲気を醸すハクに一瞬たじろいでしまった。しかしレックスはそれを認められず、顔をぶんぶんと横に振る。
「黙れだと!? 生意気言うんじゃあねえ! この、黒髪の、劣等種のくせによぉ!」
レックスは立ち上がり、ハクに向かって走り拳を握った。勢いよく放たれたパンチは、しかし、いとも容易くハクにいなされ、逆に彼は強烈なパンチをレックスの頬へとぶつけた。
「グアバっ!」
レックスは地面に手を着け、鼻から血を出した。しかしハクはそんなレックスの状態を意にも解さず、彼を無理強引に自分の方へと向けさせると、胸倉を掴みひねり上げるように彼を持ち上げた。
「は、ハクさんっ!」
と、ハクの後方から3人の女性が現れた。
金髪の女と、黒髪の女。2人は知らない人間だった。しかしもう1人のことは知っていた。先ほど自分たちが見捨てた、魔法使いの女――コニーだった。
「は、ハクさんっ! なにがあったんですか、一体!」
金髪の女がハクに話しかける。しかしハクは「止めるな、アリス」と即座に返し、そしてレックスの眼をギラリと睨みつけた。
「――おい」
レックスはぞくりと、その目から放たれた殺気に心臓を掴まれたかのような気分が湧き出た。
「貴様、自分が何をしたのかわかっているのか?」
「な、なにをって……なにがだ!」
レックスの返答を聞きハクは舌打ちをし、そしてまた怒りに任せたかのようなパンチをレックスの顔面にぶち当てた。
「自覚もないのか? おい、ふざけているのなら頼むから真剣になってくれ。僕は本気で怒っているんだ」
「だ、だからなにがなんだよ! 俺が一体何をしたって――」
言葉を言い切る前に、ハクはまたレックスの顔面を殴りつけた。レックスは「グアッ」とまた鳴き、ハクの胸倉を掴む手がさらに強くなった。
「どうやら心底救いようのないバカみたいだな。
いいか、貴様らはコニーという大切な仲間を見捨てたんだ」
「な、何言ってんだお前!? バカじゃねえのか! いいか、冒険者ってのは遊びじゃねえ! 時には仲間を見捨てる選択だってしなくっちゃあならねえんだよ!」
「それはもっともだ。貴様の言っていることは正しい。だが、こと今回に関しては違う。
いいか、貴様らは自分が無知故に、コニーのことを考えもしなかったが故に彼女を危険な目にあわせたんだ。ここに来るまでにいくつ木に彫られた警告を見た? ギルドからの連絡は覚えているのか?」
「れ、連絡? ああ、強い奴がいるって話だろ? あ、あんなもん俺たちならどうとでもなるってーの! 木に彫られた警告なんざ見てねえよ、そんなものどうだって……」
ハクは直後にまたレックスの顔面を殴りつけた。ぼきりと音がする、レックスの鼻が潰れ、あったはずの前歯が折れ、地面に落ちた。
「もはや呆れさえ通り越したぞ。そんなずさんな準備で、あまつさえコニーを見捨てたことを正当化するとはな。
いいか、貴様らのやったことは人殺しだ。最低限の努力もせず、それで手前が掘った墓穴にハマれば簡単に仲間を見捨てるなんて、あっちゃいけないんだ。冒険者は遊びじゃない? だったらそのまま返してやるよ、冒険者はな、命の危険が伴う危険な職種なんだ。貴様のその糞の詰まった頭じゃあ即刻モンスターに殺されるくらいにはな。
その糞だらけの耳をかっぽじってよく聞け。貴様らはもう二度と冒険者をするんじゃない。貴様らのような人間がいなければ助かった命がどれだけあるかわかるか? 貴様らのような無能は、ただいるだけで害悪だ」
ハクは言い切ると、レックスの頬をまた強く殴り、彼を地面に転がせた。
「今すぐ消えろ! そして二度と、僕たちの前に顔を出すんじゃあない!」
レックスは頬を押さえ「ハッ、はいっ!」と声を上ずらせて言い、そして地面を這うようにして逃げ出した。
「……あ、あのお……」
と。レックスが殴られている間ビクビクと震えていたヘルガが、おずおずとハクに話しかけた。
「……ほ、ほらあ。私は、ね? 一応コニーちゃんに気を使ってたしい……問題ない、よね?」
「消えろ」
「えっ?」
しかしハクは、ヘルガの猫なで声に一切揺るぎなく、むしろ嫌悪の目を向けて言い放った。
「聞こえなかったか? 僕は貴様らと言ったんだ。同類に決まってるだろうが、ヘルガ」
「そ、そんなっ! でも、ここで1人になったら……し、死んじゃうじゃない! そんなの……」
と。ハクは刀を振り、ヘルガの喉元にそれを当てた。
「あんたらがコニーにやったことだ。自分だけは助けてもらおうなんざ虫が良すぎる。
いいな、これは警告だ。ついてきたら殺す。今からあんたの面倒を見るのはごめんだからな」
ヘルガがハクの睨みに震え上がり、へたりと腰を抜かしてしまった。ハクは刀を鞘に納めると、「行こう」とコニーたちに声をかけ、ヘルガに背中を向け歩き出す。
ヘルガは、その場から1歩も動けず、木々の中に消えていく背中を見つめた。