「視聴者のレベルが低い」と言う事
今の世の中、例えば「『小説家になろう』の読者のレベルは低い!」と言えば、叩かれるのは目に見えている。無視されるか叩かれるか、どちらにしろ、多数者の賛同は得られないにきまっている。「読者・視聴者のレベルが低い」と言うのは、その多数者を否定する言い分だからだ。
しかし、そうは言いながらも、今の状況に苛立っている人は一定数いるのだと思う。暇潰しでの娯楽、作品、そういうもののレベルは確かに高いが、もっと質の高いもの、そういうものを感じられる人からすれば、今の状況は殺伐としている。ほとんど何もない。
立川談志が死ぬ前に書いた落語論を読むと、談志の苛立ちがよくわかる。落語がわからなくなった客(我々)の前にいても、なお高いレベルの落語を追求しようとする談志。孤高の場で芸を極めようとする談志と、人前で、結局は人々との関わり合いにおいて芸をしなければいけないと感じている談志。二人の談志が死の前でも葛藤しているのがよくわかる。
談志の落語論なんかを読んでいると、高いレベルの文化というのは、それを見る者、聞く者が、その文化を創る事に参加しているのがよくわかる。落語などはそういうジャンルだったのだろう。今は、おそらくそうではなくなっている。
今は、文化というものが、解けた段階にある。文化というものが、ある質の高い、濃度の高い閉鎖的なグループとしてあったのが、その輪が解けたというような段階にある。全てが、人々の波の中に溶けて、あらゆるものがその表面で沸き立っているだけであって、その表面に一瞬でも立てば、それで十分というようなクリエイター(大層な名前だ)で満ちている。人々は、文化を創るのに参加している人間ではなく、座して、自分を楽しませるものを待っている状態である。そこには緊張感というものがない。談志が己に課し、観客にも課していた緊張感というものは消えた。残るのは、多くの人々の神経の表面を撫で擦るものだけだ。談志にとってテレビは、落語という彼の芸よりも一段低いものだっただろう。テレビは彼の高い芸に人を呼び込む入り口に過ぎなかったのだと思う。今やテレビ(ネットでもいいが)は、目的となった。
談志の落語はただ笑えるようなものではなく、笑いの向こう側に彼の哲学があって、そこから滑稽や笑いというものがこちら側に照射していた。それは非常に高いものであったが、今や、笑いとは我々が笑えなければ意味がないものとされているので、談志の高さ自体が不透明になりつつある。面白ければいい、儲かればいい、気持ちよければいい、売れればいい。それ以上の事をしようとすれば、全会一致で人間世界から放逐される。そんな世界であると感じる。
「犬はしっぽを振る。何故か。しっぽは犬を振れないからさ。 ーーこの小話は深刻である」と小林秀雄は言っていたが、この深刻さの意味では、現在は理解されにくいだろう。何故なら、我々はしっぽを嬉しそうに振る犬そのものだからだ。