第四章 スカイブルーとマリンブルー②
途中、休憩のため何度と立ち止まったため、予定の到着時刻より随分遅れた。やはり、老体には多少きつい様だった。
いつの間にか雨は小降りになっていた。太陽が少しずつ顔を覗かせる。
マイは嬉しくなった。
今まで見せる事は出来なかったあれを見せられるかもしれない。と思った。
「じゃあ、ここを右に曲がりますね。扉までもう直ぐですよ」
マイは道を指指し言って、その道に入って行く。老人も言われるまま道を曲がる。
その道は入口こそやや今までの道と同じ位の幅であったが、先に行くほど細くなっていた。
「随分と狭い道に入るんだね」
老人は垂れ下がった向日葵の花をやさしく撫でながら聞いた。
「どんどん狭くなりますよ。両手で向日葵が触り放題です」
「なるほど。もし傘をさしていたら両手で触るのは大変だったろう。もしかして、合羽に着替えさせたのはそのためかい?」
「それもありますね」
マイは微笑を浮かべ答える。
「『それも』と言いますと、他にも理由があるのかい?」
「傘より雨に濡れません」
「確かに」
「ですよね」
そうマイは答える。
二人は揃って笑った。
二人はその道を嬉嬉として歩いた。二人の間隔は次第に狭くなり、もはや並んでいるのと変わらなかった。
マイは草野老人に対し、もはや父親というより、一人の人間としての魅力を感じ始めていた。それは少し寂しい事でもあった。
太陽は雲の切れ間から次第に顔を出し、あたかも二人を覗き見ている様であった。
雲は白と黒のコントラストがハッキリとし始め、より重厚な姿を形作り、向日葵畑の上空にその変幻自在な姿見せ始める。
風は低く、一帯の広がる黄色の海を渡り、路を歩く二人を撫でる。
二人は淡々と顔を出す太陽を見上げた。
向日葵たちも太陽の存在に気付いたらしく、大輪の花をそちらに向ける。
その振動からか、葉は微かに揺れた。
そのプルプルと揺れる葉の上で、滴は落ちまいと掛け声を上げるものの、雲の隙間から伸びる鋭利な太陽光が、その葉の先端に止まった滴たちの努力を無視するように薙ぎ払って行く。
しかし、太陽は少し哀れに思ったらしく、落ちる滴たちに僅かながら光を照らした。
その滴たちは一瞬の煌きの後、土の路に出来た水溜まりに落ちていった。
雨は完全に止み、少しずつ光が降り始めていた。
「雨、止みましたね」
うれしくて思わず拳を突き上げたくなる衝動にマイは駆られた。
落ち着け、私。
「おお、本当だ。いやあ、太陽の光が眩しい」
二人は合羽のフードを外した。
良く冷えた、爽やかな風が首筋を通った。
○
マイと老人が歩く道は次第に狭くなり、もはや両手を広げることなく両側の向日葵に触れる事が出来た。
二人の視界には低い丘のようなものが見え始めていた。高さにして2~3メートルといったところであろうか。
「あの丘の上に扉があるんです」
「ほう、あれかね。意外と早く着いた」
「いえいえ、随分かかりましたよ。本当はもっと早く着く予定だったんですから。草野さんはもっと体力トレーニングをする必要があります。私が天国でも出来るメニューを作ってあげましょうか?3日で効果がでますよ」
と、冗談を言う。
「いやいや、遠慮させてもらうよ。マイさんのメニューは本当にきつそうだ」
老人も理解してるらしく、そう答え、笑った。
「どういう意味ですかそれわっ。ちゃんと板を割りに割って作るのに」
そしてプクリと顔を膨らませる。
老人はマイの頬をつつき、頬の空気を抜いた。
「はは、冗談だよ…」
老人は何かに気付いたらしく辺りを見回した。
「よし、この辺にしようかな。ああ、晴れてきてしまったな。しかし、この位の明るさなら問題無いだろう。これだ、これ」
そうして、老人はマイに持っていた青い傘を見せた。
「ずっと気になってたんですけど、雨が降っている時もささなかったですし、何のために持ってきたんですか?」
老人は足を止め、少し微笑んだ。
「たわいない事です。電車から向日葵畑が見えたもんですからね。ちょっと思い出したんですよ。…息子達がまだ小さい頃、家族で向日葵を見に出掛けたことを…。その時も、今日の天気の様に雨だったんですけどね。その時に私が持っていた傘の色が青色だったんです」
老人は傘を空に向けて開いた。バサリ、と大きな音が響く。開いた傘は両側の向日葵に当た
り、水滴がキラキラと飛んだ。青と黄色の大輪の花が大きく揺れた。
マイの両側で縛った髪がユラユラと靡く。その瞳はしっかりと老人の姿を映していた。
傘に関わる事でなんか思い出なんてあったけ?
マイはそう思い、老人の記憶の中から探し始めた。
老人は再びゆっくりと話し始める。どこか照れているようだった。やはり、自分の過去を話すのには抵抗があるようだった。
「家族で向日葵を見に行った日、やはりこの様な狭い道があったんですよ。はじめは普通に一列で歩いていたんですが、途中、息子達が私の中に入ってきたんです。ただでさえ狭い道なのに…。当然、息子二人は向日葵に何度となくぶつかるから服はびしょ濡れなんです。だから私は『ちゃんと一列に並びなさい。服も濡れてしまうし、それに、そんなにぶつかったら向日葵が可哀想でしょう』って言ったんです。そしたら長男が『お父さんの下だけ青空でずるい』って言うんです。弟も『そうだ、そうだ』って。妻と私は始め何を言っているのかまったく分からなかったですけどね」
そして、老人は傘をさしたまま歩き出し、マイの隣に止まった。
「少ししゃがんで上を見てもらえますか」
言われるまま、マイはしゃがみ上を向いた。
老人はニコニコと笑い、マイを見下ろしていた。
それはずっと昔に見たことある視点。
とても、懐かしい視点だった
マイは広がった傘に目を移した。
道幅一杯に広がった青い傘は、本来の空を覆い隠し、マイにはまるで、老人の周りだけ澄み
切った青空が広がっている様に見えた。
「どうやら息子達には私の傘が空に見えたようです。妻が自らしゃがみ込み、確かめてみましたから」
傘を見つめていたマイに、老人は手を差し伸べた。マイはその手をしっかり握り立ち上がる。暖かい。
「だからですね、向日葵畑に行けると駅舎で聞いた時はうれしかったですね。しかも、青い傘まであった」
二人は歩き出した。
「どこか、あの時と同じような場所があったなら、そこで傘を開いてみようと思ったんです。もしかしたら、息子達と妻が現れるかもしれないと思って。もちろん息子達はまだ生きていますから、こっちの世界に来たら来たで困りますけどね」
「そうだったんですか…」
地平線にまで広がる向日葵畑。ちょこんと突き出る青い傘。小さな空の下に草野さんと奥さん、それに子ども達。
マイの中の記憶の海に、その一瞬の光景が、鮮明に映し出された。
だが、マイには少し引っ掛かることがあった。
草野さんが向日葵好きって事は分かっていたけど…。話を聞くまでこの出来事の記憶に全く
気付かなかった。しかも、見つけたその記憶はバラバラに砕けていて、私には本来の姿が想像
できなかった。話を聞かなかったら絶対に見ることは出来なかっただろう。
本人でしか分からない繋げ方があるのかな。本当に記憶って不思議だ。
それと、今までで一番父さんの面影を感じなかった草野さんから、少しずつだけど、面影が見え始めた気がする。
「そうだ、マイさん。この路に名前はあるのかな」
「あっ、はっはい?」
マイは考え事をしていたため、少しビックリしてしまった。
「この路、名前はついているのかい?」
老人はマイの肩に手を乗せ言い直す。
手の温もりが、マイの身体に優しく染み渡るっていく。
「あ、99番天国道とか言われてますけど、私はあまりその呼び名は好きじゃないんで、向日葵小道って呼んでますね」
「向日葵小道ねえ。うん、99番天国道よりずっといい。私の息子達は同じ様な道を『向日葵トンネル』って呼んでいたよ。向日葵は息子達より背が高いからなあ。トンネルと同じ感覚だったんだろう。そういえば、少しマイさんがつけた名前と似ている気がするのは考え過ぎかな」
そう老人が言った瞬間、マイの身体は固まり、心臓の鼓動は激しくなっていった。今までに無い老人の過去との合致だった。
落ちついて!
たった一つの偶然じゃない!
私の事を憶えているって言ったわけじゃない。
でも、もしかしたら。
ううん。そんなはずはない。
良く考えて、草野さんの中に私はいない。それは間違いないはず。
でも、もしかしたら、もしかしたら憶えていたら?
そしたらどうするの、私!
ごめんなさいって言うの?今は私と関係なく輪廻転生を繰り返している人に?
そんなの、意味も無く相手を悲しませるだけじゃない。
そう、何も意味も無い行為。
だから、私はもう過去は吹っ切ったはず。
冷静に、冷静に!
しばし沈黙の後、マイは老人の方を振り返る。笑顔がどこかぎこちない。縛った髪が弧を描くように激しく揺れる。
「わあ、偶然ですね。私もこの先の道に『向日葵トンネル』って名前をつけていたんですよ。ほら、丘の下の方に扉があるのが見えますか?」
うん、大丈夫だ。私は冷静だ。
「ほお、珍しい事は続くものです。マイさんの向日葵トンネルとどんなものなのか、今から楽しみです」
「じ、じょあ、行きましょうか。でも、あまり期待しないで下さい」
マイは少し噛んだ。
○
老人は開いた傘を振り回し、マイは多めに水溜りを踏みつつ、ようやく丘までやって着た。
その丘の下腹部には、大人一人入れるぐらい扉があり、それを開けると階段状のトンネルが丘の上まで伸びていた。
トンネルの中はあちこちから太陽の光が入るらしく、意外と明るくかった。反面、空気はひんやりとしていた。
人工的に造られた古いトンネルで、中は意外と広かった。
「ここです」
「楽しみだ」
扉は開けたままにし、二人は階段を登り始めた。
「足元注意して下さいね」
「ありがとう」
足元に注意し、二人は歩いた。
長靴の音がトンネル内に響く。
道中半ば、マイは太陽の光が一番溜まっている場所で立ち止まった。
「ここです。よろしかったらこの場所から天井を見て下さい」
「どれ」
老人は上を見上げた。
そこには一部分だけ透明な材質で出来た場所があり、そしてそれは太陽の型を模して作られていた。
太陽の光はそこを通り、トンネル内に降り注いでいた。
マイは入口に戻り、扉を閉めた。
「草野さん、地面を見て下さい」
そう言われ、老人は自らの足元に目をやる。
「何かに見えませんか?」
「ああ…なるほど」
老人は、地面に光で描かれた大輪の向日葵の花が描かれている事に気付いた。
「太陽と地面に咲く、でっかい向日葵。この二つの向日葵が、始めてここに来た時、なんか、向日葵の大親分夫婦って感じがしたんです。だから、このトンネルを、私は向日葵トンネルと名付けたんです。なんたって大親分の家ですから」
「なるほど。しかし、綺麗だ。それ以上の言葉はいるまい。最後に良いものが見れた」
「…喜んでもらえて嬉しいです」
「しかし、あれですな。この世界の太陽は気の強い女性のように見える」
「そんな事言う人は初めてです」
小さくマイは笑った。
マイの胸に安堵と、少しの寂しさが広がる。
もし、名前の付けた理由を聞かれていたら、私は冷静に答えられたかな。
それを考えると聞かれなくて安心した。
うん、これで完全に吹っ切れた。だって、『向日葵トンネル』という名前を出したのに、大きな反応がなかったから…。
階段の一番上に着き、マイは扉を開ける。
丘の上は、あまり広くはないものの平らな土地であった。草花達の絨毯が広がっている。
その中心で、空よりも蒼い扉が微かに浮き、フワフワと漂っていた。
天国への扉だった。
○
マイは老人から切符である腕時計を受け取り、漂っている扉に向ける。扉は地面に落下するように落ちた。そして、その場で高速で回転し始めた。
しばらく回転していた扉は次第に勢いをなくし、扉を開けながら止まった。
「この扉の向こうが天国と呼ばれる場所です。私がご案内出来るのはここまでです。ありがとうございました。そして、草野幹さん、本当に永い間お疲れ様でした。ゆっくりとお休み下さい」
マイは深々と頭を下げる。
老人も同じく頭を下げる。
そして先に頭を上げた老人は、寂しげな表情で、
「ここが、草野幹としての本当の死に場所なんでしょうか?」
と言った。
頭をあげ、マイは言う
「それは…すいません、分からないんです」
マイはうつむく。本当に、私達は何も知らない。
「草野さん、本当の言いますと、私達にも天国がどのような場所なのか分からないんです。私達はただ、灰界を通る魂が、自ら示した方向へ迷わないようにお手伝いするだけなんです。本当に、ただそれだけなんです」
「そうですか…それは良かった」
「え、なぜですか?」
思ってもいない老人の返答に少し驚いた。
「いやね、行く場所が違えど決められた未来なんてないんだなと、改めて感じたのですよ」
老人は扉に向かって歩き出した。
「向日葵トンネルを見た時に思い出したんですが、言おうかどうか悩みました。が、言う事に決めた。」
老人は扉の前に立ちマイの方に振り返った。
「実は、私は此岸側の99番駅を利用して転生したんです。そう、絶望の駅です。あの時はたしかレグボーンさんが案内してくれました。マイさんが作った納豆巻きが美味しかった事を憶えています。たしか三人仲良く駅舎で食べましたよね」
マイはそれを聞いて、愕然とし混乱した。
まず、シュウウやキウの頃の記憶は残らないと言われている。当然、そのような人物が灰界に現れた事は無いと言われている。
そして、それ以上にマイを混乱させたのはその話の中身だった。
マイは今回を合わせて4回「父親」と99番駅で会っていた。
老人が語った一つ一つの出来事は、間違いでは無いものの、時系列が滅茶苦茶だった。
そしてなにより、今までのマイの父親と出会いは全て彼岸側で、此岸側では会った事が一度として無かった。そこだけが間違っていた。
必死に思い出そうとした。もしかしたら忘れているだけなんじゃないかと思ったから。忘却は有り得ない事だった。
なんで?なんで思い出せないの?
記憶の海に飛び込む。自分の海と老人の海を行き来しながら、気になったらどんな小さな欠片でも目を通した。
見つからない。記憶の繋げ方がどんなにおかしくても、その材料は必ずあるはずなのである。
マイは更に深く潜る。もはや光は届かなくなっていた。それでもマイは探す事を止めなかった。時々見つかる父親と自分の記憶が、マイの胸を苦しめた。
その時だった。真っ暗な闇の海の中で、淡く光る小さな、本当に小さな欠片の繋がりを見つけた。見つかる事自体が奇跡だった。
そこにはレイボーンとバートンアンバー、そして老人が写っていた。だが、マイはいない。
記憶された時間を確認した。間違いなく草野幹がシュウウの時の記憶であった。
その瞬間全てを理解した。
なんだ、思い出せなかったんじゃない。私が知らなかっただけなんだ…。
二人は、それが私のとうさんである事を知っていたのだろうか。
多分、私に気を使ったのだろう。とうさんが99番駅を利用して此岸に行くと知ったら、私は間違いなく暴れたから。
ただ、とうさんの記憶は間違っている。間違いは訂正しなくてはいけない。その話の中に、本来私はいないのだ。
「間違っていますよ、草野さん。よく思い出してください。その時私はいなかったはずです私とは今日始めて会ったんですよ」
そう、やさしく言う。
「そうだったかな…ああ……言われればそんな気がしてきたよ。ちょっと記憶がごっちゃになったかな?」
「でも、まさか草野さんが99番駅を利用しているとは思いませんでした」
「幸せな人生に聞こえたかい?」
「はい、とっても」
マイは深く頷く。
それを見て老人は満面の笑みを浮かべ、
「ほら、未来は分からないでしょう」
と言った。
本当に分からない。とうさんの「未来の記憶」がどのような海だったのか分からないが、悲しい記憶が漂う海であった事は間違いないだろう。
ただ、私は言われるまで気付く事が出来なかった。いや、気にした事がなかった。幸福の駅を利用した人は天国へ、絶望の駅を利用した人は地獄へ。そんな事を漠然と思っていたのかもしれない。
「未来の記憶」は運命であり、絶対に変えられないと思っていた。
しかし、もしかしたらそれは少し違うのかもしれない。
「さて、そろそろ天国とやらに行こうかと思います。今度は此岸側の99番駅で会いましょう」
老人の言葉はどこまで本気なのかマイには分からなかった。
「…今度は本当に辛い人生かもしれませんよ」
マイは真剣な顔で答える。
「なあに、人生なんて基本辛いものだ。ただ、人生は辛い事ばかりじゃない。視点を変えればそれ以上に楽しいものが落ちているんです。前に99番駅に来た時は、私はその見つけ方が下手だったんですよ」
老人のその言葉が、マイの胸に深く刻み込まれる。私も、楽しい事を見つけたい。そう、この世界でのとうさんとの関係に。
私がとうさんの記憶から消えていくのを見ているのはもう嫌だ。私はいつまでも覚えているのに、とうさんは忘れていく。
幸せな記憶が少ない事も分かっている。忘れた方が良い思い出の方が多いことも分かっている。私はとうさんの事を苦しめた。それが私の罪だ。
でも、許されるなら、また一緒に歩きたい、話をしたい。どんなに辛くても一緒に生きたい。
と、老人はマイの肩に手を置いた。
「では、また灰界で会いましょう。今度は雨が降らないと良いですね。私の時はいつも雨ですから。たまには合羽姿でないマイも見てみたいですよ」
「?」
「私はマイさんと会ってますよ。この向日葵畑もマイさんと何度も通った。前回は違うから5回ですかね、マイさんといえば納豆巻きです。今回も美味しかったですよ。日々上達してるのが分かります。ああ、なんでもっと早く思い出せなかったのかなあ。私にとってマイさんは娘みたいな存在なのに」
娘、という言葉にマイは敏感に反応した。しかし、冷静に振舞う。
「そんな風に思ってくれるなんて…。私、とっても嬉しいです」
「マイさんから『とうさん』っていう私の手作りの人形を貰ったんだから当然だろう。そんな大切な事を忘れるような薄情な男に見えるかい?」
「!………今まで、灰界の事、忘れてたじゃないですか…」
「あれ、そうだったかな」
老人は惚けてみせる。
「さて、次に来る時には娘はどれほど成長しているのか。楽しみだ」
「私も、草野さんとまた会える日が楽しみです」
「みずくさい。とうさんと呼びなさい。じゃあ、とうさんは会社に行くから。お土産を楽しみにしてなさい」
「…ありがとう…とうさん…じゃあ、いってらっしゃい…」
「うん。いってきます」
そうして、老人は扉の中に消えた。
周囲に広がる向日葵畑からの輝く風が、マイの縛った髪を包み込んだ。
草野さん、やっぱり間違っていましたよ、
記憶。私は、この仕事を始めてから誰にも人形を渡した事はありません。
草野さん、その記憶は此岸の記憶のはずです。それも、ずっと前。
渡したのは紺野真樹。…此岸の時の私です。紺野真樹が、父に最後に渡したプレゼントです。
まったく、ホントいい加減な記憶ですね…。
でも、でも、でも。
だめ、湧き上がってくる感情が抑えきれない。嬉しい、嬉しい、嬉しい。
ついに我慢しきれなくなったマイは太陽を見上げ、拳を突き上げると、大声で叫んだ。
「見てたか太陽!カーマインにとうさんできたんだ!とうさーん!」
喜びに満ち溢れた声が、風に乗り木魂した。