第四章 スカイブルーとマリンブルー①
台所で一人、マイは食器を洗っていた。
カチャカチャと、洗われるのが待ちきれない様に食器達が音をたてる。マイは食器に付いた 納豆と格闘していた。洗物係はやはり好きじゃないな。私は食べ専門だ。
朝食は早々に終わった。今日はキウとシュウウが来るため、ポストに二つの「記憶の玉」が届いているはずだった。
その後、それらを魂に刻み込まなくてはいけない。
いつもの事だ。
これは誤って過去と未来の記憶を開けないためなのだが、最近は車内で開いてしまう場合が多く、注意する意味が無かった。だからといってやらなくて良いというわけではない。当然、ゆっくり朝食とはいかなかった。
マイは冷蔵庫に貼り付けられたホワイトボードに目をやる。そこにはシュウウ一名、キウ一名と、それら利用者の名前が書かれていた。
「気が重いなあ…」
マイは呟いた。ただでさえシュウウが利用する日は気が重いのに…。
よりにもよって今日、父が来るとは…。
もう、どうせ私の事を憶えてないんだよねえ。
大きく肩を落とす。危うく食器を落とし、割るところだった。危ない、危ない。
玄関の方からチーとバートンアンバーの声が聞こえ始める。二人が散歩から帰ってきたようだった。
どうやら雨が降り始めたらしい。雨音が、マイの耳にも少しずつ聞こえ始めた。
マイは壁に掛かった時計に目をやった。え、もうこんな時間だったの、急がなきゃ。
マイは汚れた食器と再び真剣に向き合い始めた。
ダイニングキッチンにマイのいつも通りの少し控えめな声が響く。
「さて…」
外は土砂降りになっていた。雨粒が屋根をバラバラと激しく叩く。
いつも通り、マイがチーとバートンアンバーの前で、仕事前の挨拶を始めた。
「じゃあ、チーにバートンさん今日もよろしくお願いします。今日はキウが一名が11時に、シュウウ一名が14時に来ますので、いつもの通り頑張りましょう。特にキウについてですが、いつものように記憶の解放と過激派には注意し、それをふまえた上で、ほんの一瞬かもしれませんが幸せを感じてもらえるよう努力しましょうね」
しかし、マイがいつもと明らかに違う、どこか暗い表情をしているにチーは直ぐに気が付いた。
一方で、バートンアンバーは理由を知っている様子で、心配そうに声をかけた。
「うむ……。マイよ、大丈夫か?無理はするな」
「大丈夫よ。何回目だと思っているのよ。もう慣れたわよ。それに、もう完全に別人だしね。完全に吹っ切れてるよ」
ぎこちない笑顔でマイは答えた。
「そうか…なら良い」
そう言うと、バートンアンバーは黙った。そのやり取りを聞いていたチーは小声でバートンアンバーに事情を聞いた。
「しょうがあるまい。後で、ゆっくり教えよう」バートンアンバーはそう答えた。
チーは少しだけ安心した。また、はぐらかされると思っていた。
パン、とマイは手を叩き立ち上がった。
「さあ、もう十時よ、キウが来ちゃう。バートンさんはいつも通りお茶の準備を、チーは駅の掃除をお願いね」
「あの、外は雨降ってる。それでもやれと」
チーはイジワルに答える。
「あ、そうだった」
マイは照れ笑いを浮かべた。雨…ふってるねえ、一杯。珍しい。
「あ、じゃあ家の掃除をお願いね」
「マイ、本当に大丈夫?」
「言ったでしょ、彼岸此岸の扉は私にしか開けられないって。チーは家の掃除をしてなさい」
「オウケイ、マイ」
「ちょ、カーキーさんの物真似しないっ」
あまりに似ていたため笑ってしまった。
「うむ、その元気があれば大丈夫だろう」
バートンアンバーはそう言い立ち上がると、マイの頭を撫で回した。
「あああ、せっかく整えたのに」
グチャグチャになった髪の毛を直す。
「いつも、いつも、やめて下さい。まったく…」
「ははは、よし、準備をするかな。チーも手伝え」
「あ、はい」
そう言って、二人は部屋から出て行った。
一人になったダイニングキッチンに激しい雨音が響く。そんなに顔に出ていたのかな。自分では意識しているつもりはないんだけど…。
雨にも負けない大きな音をたて、マイは立ち上がった。さて、私も準備をしよう。シュウウとキウの「記憶」を魂に刻み込まなくては。今日はシュウウ二つ分みたいなものだ。
マイは大きく息を吐いた。
そういえば、チーはカーキーさんと仲良かったんだよね。他のスレートがチーの声を怖がって近づかなくなった後も、カーキーさんは仲良くしてくれたもんね。
ああ、カーキーさんが辞める事をなんて伝えよう。それにやっぱり少し元気ないみたいだし…。
○
マイは合羽に着替えると、家を出て駅舎に向かった。プラットホームに設置されている郵便受けから、二人の「記憶の粒」を取ってこなくてはいけなかった。
土の道にはいくつか水溜りが出来ていて、マイの長靴は水溜りと喜びの握手を交わし、そして別れの挨拶をする。
外は厚い雲に覆われ、雨の匂いに満ちていた。太陽はどこにも見えない。
赤色の雨合羽を雨粒が激しく叩き、身体を伝い、そして黒土に消え、あるものは溜りを作った。そして、溜まりの数が増えるにつれ、波紋の数も増えていく。
雨音のリズムは変化無く、ただひたすらにマイをうちつけた。時折、マイの頬を雨粒が伝っていく。
久しぶりに感じた雨の匂いと感触は、いつになく優しく感じた。
「ただ、雨はがっかりだなあ」
マイは雨にかき消される程小さな声で呟いた。
錆び付いた青い郵便受けが、ギリギリと鈍い音をたてて開く。中には薄いビニイルに包まれた茶封筒が入っていた。マイは優しくそれを取り出した。
顔から滴り落ちる雨粒が、ポタポタとビニイルを濡らした。
線路の向こう側で咲き乱れる向日葵達は、皆頭をダラリと垂らし、雨にうたれている。
マイは丁寧に郵便受けを閉めると、茶封筒をしっかりと胸に抱き、早足で駅舎に戻って行った。
駅舎に入り雨合羽を脱ぎ、茶封筒からルビーのような玉を2つ取り出した。
そして肉体と魂を切り離し、その球を魂に刻み込んでいった
未来と過去の二人の記憶が洪水のように溢れ出て海をつくり、マイと重なり合っていった。キウの記憶海は、やはり父さんの面影をのこしていた。
なぜ、そこに私がいないのだろう。
ふと、そんな事を思った。
その隣で空っぽになった肉体が、天井にぶら下った電飾の方を向いて、畳の上に転がっていた。
しばらくして、チーとバートンアンバーがお茶の道具や茶菓子を携え駅舎にやってきた。そして、疲れた表情のマイに労いの言葉をかけると、二人は駅舎の台所に消えて言った。
マイはそれを見届けると、
「ふう…」
と溜息をした。バートンさん、チーに話したんだねえ。一体どこまで話したんだろう。
あんまり喋って欲しくないなあ。チーが「未来の記憶」を触れてる事を嫌っているように、私にもあまり触れられたくな阿賀い事はあるのだ。
ふと何もない客の間を見渡した。雨音だけが空間を支配していた。
「…椅子でも出そうかな」
重い腰をあげ、マイは粒子を衝突させ座椅子と卓袱台を創り出した。そういえば、最近塵が降らないから肉体を修復する事がなくなったなあ。
○
と、駅舎に電話の音が鳴り響いた。マイはお茶を飲みながら、今日の利用者の記憶に関する注意を二人に話している時だった。電話係となっていたチーが電話に出る。
「もしもし、99番駅の青井チーです」
「あ、チー君?シアン駅のミカンです」
「みかんか。どうしたの?野球の予定でも決まった?」
「ああ、良い相手チームが見つかって…って違う。この雨で電車遅れてるって事を伝えるために電話したんだよ。だから、シュウウとキウの時間が重なっちゃうかもしれない。特に、99番駅は一人の対応に時間をかけすぎない事」
そうか…気を付けるよ。ありがとう」
「ちゃんと二人と相談しなさいよ。後、本来の仕事はお茶出して話を聞く事じゃなくて、扉を開ける事と、そこまで安全に連れて行く事だって、二人にしっかりと伝えといて。まったく、シュウウに気を使い過ぎてるんだから」
ミカンが呆れた口調で言う。
「でもそんな二人の考え方好きだけどね、僕は。『絶望の前に少しだけでも幸せを』。実際、僕もうれしかったし」
「分かってるわよ、そのぐらい。ただ、注意しろという事を言いたかったの。また過激派のスレートが襲って来たらどうするの。いい、ちゃんと注意しなさいよ」
「わかった、ちゃんと二人に伝えるよ。それに、過激派が来ても僕がちゃんと守るよ」
「ま、よろしく頼むわ。ただ、チー君。自分の力に足元をすくわれない様にね。一寸先は闇よ」
「はは、わかったよ。気を付ける」
「はあ、心配だ。…じゃあ、バイバイ。さらに詳しい事が分かったらまた連絡をするから。後、野球の事はまた今度改めて」
そう言って電話は切れた。
チーは振り返り、二人の方を向いた。
電話の内容を早々に理解していたバートンアンバーとマイは、既に今後の予定について話し
合っていた。
しばらくして、再びミカンから電話があった。それは、時間が僅かに重がる事が確実になった、ということを教えるものだった。
チーからその事を聞いたマイは、複雑な心境になった。
とうさんが、私のいない此岸の事を幸せそうに話す姿は聞いてていつも寂しくて、苦しくて、この灰界から抜け出したくなるけど…でも、少しの間しかお喋りが出来ないのは、それは、それで寂しいかもな…。
○
キウの降車時刻が迫ってきた。シュウウの降車時間がキウの案内時間と僅かに被ってしまう
ため、チーとバートンアンバーに、マイが天国への扉を開けに少しの間、シュウウの相手をし
てもう事に決まった。
シュウウの相手をする事はいつも通りであるが、今日はいつもより長く対応しなくてはいけ
ない。
二人は「記憶の粒」を魂に刻む事は出来ないため、シュウウの記憶をいつもより念入りに伝え、憶えられない部分は紙に書いて渡した。
ようやく準備は整った。
駅舎近くの踏切の警告音が鳴り始め、遮断機が雨にせかされるように下りる。シアン方向に真っ直ぐ伸びた線路の先に水色の電車が見え始め、スピードを緩めながら近づき、プラットホームに入ってきた。
マイは赤い雨合羽に身を包み、電車が完全に停車するのを待った。右手には黒い傘が握られていた。
電車が完全に停まった。しかし、扉は中々開かなかった。マイは不思議に思った。
「オイ、マイ、ソコチガウゾ。フタツメダ」
カーキーさんが乗務員室から針金のような細い頭を出し、マイにそう言った。
「…いけない、いけない。ありがとうカーキーさん」
慌てて二両目に移動すると、直ぐに扉が開いた。
扉の前には年齢にすると、60位の老人が白いマントに身を包み立っていた。「記憶」の中で見た、草野幹その人であった。
その外見から、もはやどこにも父親の面影を感じることは無かったが、マイには父親であるとはっきり分かった。
冷静になれ私、冷静に…。
「御待ちしていました。濡れますので傘をどうぞ」
満面の笑顔を作り、傘を手渡した。
「いやいや、ありがとうね。お嬢さん」
老人は皺くちゃの笑顔で答え、傘を受け取ると一礼してから傘をさした。
「では、参りましょうか。私の名前は…カーマインと言います。天国の扉までご案内させて頂きます。短い間ですが、よろしくお願いします」
そうしてマイは頭を下げる。途中言葉に詰まった事を除けばいつも通りだった。
「ご丁寧に有り難うございます」
と言い、老人頭も下げた。
扉が閉まり、再び電車は走り出した。
「では、ご案内します。私の後に着いて来て下さい」
マイは歩き出した。ふう、やっぱり此岸の時の自分の名前を言いたくなっちゃうな。
○
駅舎内で本人確認等を行った後、二人は向日葵畑に向かった。
雨は強くなっており、しかも道に泥濘も増えるため、老人には駅舎内で長靴と雨合羽に着替えてもらった。
着替え途中、老人は青い傘を貸して欲しいとマイに頼んだ。
赤い雨合羽を着たマイの直ぐ斜め後ろを、黒い雨合羽を着た老人が歩く。小さな赤と大きな黒、二つの長靴が水溜りに、それぞれの波紋を作りながら歩いていた。
マイはしっかりと前を見据えながらも、老人の足を気遣い、のんびりとした速さで歩く。老人は手には閉じられた傘を握り、その後に着いて行く。
「お嬢さん」
踏み切りを通り過ぎて直ぐ、老人がマイに声をかけた。
「そうそう、先程のお仲間さんは皆さん面白い方々でしたねえ」
「そんな、まだまだです。精進が足りませんよ」
マイは振り返り答えた。老人は楽しそうに笑っている。
「ところで、先程流れていた歌はなんという曲ですかな。良い曲ですが、少し悲しい感じがしましたね」
「青井チー君、駅舎にいた女の子のよう顔をした男の子が歌っています」
そう、いい曲。あれがスレートを唯一殺せる武器とは誰が想像するだろうか。
「ああ、あの子か。良い声をしています。ただ、もう少し元気に歌ったらもっと良くなるだろうに。そこが惜しい」
頭を掻き毟り、本当に悔しそうな顔をしている。その仕草がマイには何故か可愛く見えた。やはり記憶の中の草野さんと実際の草野さんではまるで印象が違う。記憶の中ではもっと硬い感じだった。
「ふふ、伝えておきます」
「おお、お嬢さん、ようやく笑いましたね」
「そんなこと………あ、草野さん、ここ左に曲がりますね」
二人は道を左に曲がった。
その道は僅かに広く、向日葵畑を貫くように真っ直ぐ伸びていた。
「なんとまあ美しい景色だ。この道が天国に繋がっているのですか?」
「いえ、もう一度だけ曲がって、もっと細い道にでます。後は、天国への扉までひたすら真っ直ぐですね。実は私はその道が大好きなんです。草野さんもきっと気に入ると思いますよ。向日葵が凄いんです」
「そうかい。それは楽しみだねえ……、後どの位歩くのかね」
「いくらもかからないと思いますよ。本当は途中で休憩を取るんですけれど…なにせこの雨ですから…」
「何、天気には敵わないさ。気になさんな…ところでお嬢さん…」
「どうしました?」
「…他の私の様な方々とはどんなお話をしているのですか?」
と、神妙な面持ちで聞いた。
「え、ああ、そうですね、やはり現世での話しが多いですね。皆さん素敵な思い出をお持ちですから」
「思い出ねえ…私はあまりそういうことを喋るのは好きじゃないんだがなあ」
「ふふっ、あくまでそういう人が多いだけですから。義務じゃないですよ」
それを聞き、老人は少しホッとしたらしい。
「そうか、なら安心だ。そういうものは心に大切に閉まって置くもので、人にベラベラと喋るものじゃないと私は思っているからな。まあ、人それぞれだろう。しかし、皆さん良い思い出をお持ちなんだな。幸せな事は、良い事だ」
「私が見た限り、草野さんも良い思い出をお持ちだと思いますけどね」
本当に、良い記憶だった。泳いでいて気持ちが良かった。
「はっはっは、そんな事は無い。辛い事の方が多かったよ」
「そうは見えません」
「いやいや、夢は一つ二つ破れたし、たくさん失恋もした。人間関係にも苦しんだし、仕事に躓いた事もある……妻の死にも、多くの友人達の死にも立ち会った。息子達も…私の最期に感謝の言葉をくれたが、もっと幸せに出来たんじゃないかと、死んだ今でも思う。人生とは辛いものだ」
そう言い終えると、老人は鼻を握った。目が赤くなっている事にマイは気付いた。
マイはポケットからテッシュを取り出し老人に手渡す。
老人は微かに零れた(こぼれた)涙を拭き、洟をかんだ。
「ありがとう、お嬢さん」
「マイで良いですよ…」
「いやはや、マイさんは話しやすい。恥ずかしいところを見せてしまった」
「いえ、もっとお話して下さい。それに、なにも恥ずかしい事はないですよ。せっかく向日葵がこんなに咲いているんです。なかなかこんな素敵な場所で泣けませんよ。思いっきり泣いて下さい」
「いやいや、男たるもの女性の前で何度も泣き顔は見せられんよ」
そうして、ニカっと笑った。
マイはその笑顔に父親の面影を一瞬だけ感じた。ただ、それは以前にも度々あったことで、今回が初めてというわけでは無かった。
それでも、久しぶりに感じたこの感覚は、やはり嬉しいものであった。
二人はそんな会話をしながら、雨の降りしきる道を歩いた。
老人はマイに心を許し始めたらしく、自分の人生をうれしそうに喋り始めた。自らの親の事、学校での事、仕事の事、老人の妻の事、息子の事。
マイは頷きながらそれらの話を聞いた。
しかし、その話の中身に父親を重ねる事はできなかった。久しぶりに出会ったが、以前と比べても、それ以上に面影が薄くなっている事が分かる。
記憶を海には、面影の欠片が残っていると思ったんだけどな…。他の人もそうだけど、実物は私が持っている記憶のイメージと随分違う。
いつも思う、私が見ている記憶なんて所詮ただの材料に過ぎないんじゃないかって。
そして、その材料を記憶の持ち主がどう料理するかなんて、私にはまったく分からない。
本人に似せて作ったはずなのに、どうやら今回も、私は随分と記憶の料理の仕方を間違えたらしい。




