第二章スレート①
チーは、今まで自分が乗っていた水色の車両を、眠そうな表情で見送った。真っ赤な目をこする。
行く車両を見送ると、線路向こう側に隠れていた向日葵畑が表れた。咲き誇る大輪の向日葵達。
太陽光を目一杯含んだ花の匂いがチーの鼻をくすぐる。畑は地平線のはるか向こうまで続いていた。
大きく息を吐き、手をかざす。いつの間にか眠ってしまったらしく、「針金の男」におこされてしまった。乗り過ごさなくて本当に良かった。
相変わらず青空の真ん中に太陽はあり、刺刺しい光を放っている。ガラス細工の蛙を握っているため、体がこわばってしかたがない。
暑い、手のひらに汗が滲む。風は無いに等しい。
どうやら、このプラットフォームは少し高い場所あるようだった。階段の下に、不気味なまでに白い屋根をした駅舎が見えた。それ以外は、いままで所々にあった駅舎と同じ様なものだった。
早足で駅舎へ向かった。
透明で肌に絡みつくような粘り気のある駅舎の入口を抜けると、白い壁が目に入ってきた。二つの大きな窓から光が差し込んでくる。
天井四角に古びた扇風機が取り付けられており、少し頼りなさげに回っていた。ときおり、壁の所々にある濃い青色のシミのようなものがチカチカ光る。入り口の反対方向にある扉は、鍵が閉まっており開ける事が出来なかった。どうも誰もいないようだ。
「おーい、誰かいますかー」
反応は無い。
「いないなら帰ります」
そうチーが答えると、低く、張りがあり、落ち着いた、大人の男の声が壁の何処かから聞こえてきた。
「何を言っている。帰れるわけ無いだろうに。」
「お、ようやく返事した。こんにちは」
「うむ。調子はどうだ。」
「良くも悪くも無いです。眠いですけどね」
「ならば良かった」
どこからか聞こえる大人の声はホッとしていた。久々に「未来の記憶」が開いていない少年だった。
「すぐ担当を呼んでこよう。それまでお茶でも飲んで待っていてくれ」
そう言い終えると、チーの前に、薄い赤色の粒が現れた。
それは衝突、小さな爆発を繰り返し、次第に大きくなると、桃色の座椅子と卓袱台に成りチーの目の前に現れた。
「少年よ、まあ座れ」
チーは驚いたものの、まあよく分からない世界だしな、と割り切った。
チーは卓袱台に蛙を置き、言われるままに座椅子に座った。
「ありがとこございます。ところで何処で喋っているんですか。どこ向いて喋っていいか分からないですよ」
「成る程。では、こうしよう」
再び薄い赤色の粒が現れる。その粒は卓袱台集まると、球状のスピーカーになった。
緋色やら紫紺やら草色やらその他多様な色達は、意思を持っているかのように散り、不規則で統一性が無く交じり合い、重なりあい、スピーカーに不思議な文様を作っていた。
スピーカーから声が聞こえた。
「これでいいだろう。少しお洒落をして見たが、失敗してしまったようだ。き、気にするな。では担当と変わろう。」
少しの照れたのが声からでもハッキリと分かった。チーは少し笑いそうになってしまった。悪い人ではなさそうだ。
チーは座椅子を倒し、横になった。
そして、電車での出来事を思い出していた。
桜コハクの事がずっと気になっていた。もっと色々な話をすれば思い出せたんじゃないかと思う。
だが、電車の中で人と話すことはあまり薦められない、黒服の男が言っていた。あの世とこの世の境界であるこの世界では、ちょっとした刺激で簡単に記憶の扉が開いてしまうらしい。
そういった意味では、他者との会話というのは扉を開ける「鍵」になりやすいのだろう。
記憶の扉が開くと、それを餌にするという「スレート」という影が現れるという。スレートは今でも謎名部分が多く、出現した時の対処法がないらしい。そして、スレートに喰われると来世に悪い影響がでると言われている。これが、乗車駅である1番駅で聞いた全てだ。
つまり、記憶の扉をあけるような要因になることは避けた方が良いということだ。
チーは強く目を閉じ、身体を丸める。しかし、もっと思い出す努力をするべきではなかったのか。
○
女性とも少女とも言えない、耳を塞ぎたくなるような高い声が、99番駅舎内に響いた。
大きな声であったため、声の発信地である球状のスピーカーが震えた。
「御待たせ致しました。99番駅にようこそ。って、寝てるのね。」
「マイ、少し音声が大きいぞ」
同じスピーカーから大人の声が答える。その指摘にマイと呼ばれた声は気付いた。
「あ、ホントだ。たしかに音量大きい。下げなきゃ・あーあー、よし、これで大丈夫。
音量が比べ物にならないほどに小さくなった。
「遅れてごめんね。寝てた」
やはり高い声であるが、その口調とは違い、控えめな声の大きさだった。これがマイの本来の声だった。
「いや、気にする事はない。たった今身体の修復が終わったところだ。合羽はいつも持ち歩けと言っているだろう。最近塵の降り方が半端じゃないのだから。大事があってからでは遅い」
「分かってるよ、今回はたまたま。でも、次からはもっと気付けるよ。…さて、さっさと起こしてちゃおうか」
「そうしよう。では、頼んだぞ。気持ちよく起こしてやれ」
「え、私がやるの?まあ、いいけどさ。じゃあ、お茶をよろしく。うんと美味しいお茶を入れてよ」
「まかせておけ」
マイは薄い赤色の粒を操る。突如として鮮やかな赤色の粒子が現れ、衝突と爆発を繰り返し、次第に人の形になっていった。
そして、真っ白な半袖の上着に、同じく真っ白なミニスカートな格好をした12、3才位の女の子の姿になった。向日葵色の長い髪を、両側を白のリボンで縛っていた。
髪は風もないのに揺れる。
たしかに、傷は完全に治っている。次は合羽を忘れないようにしよう。
さて自分も、と思い、男も粒を操り始めた。
チーの顔に自らの顔を近づけ、大きな目を更に大きくし、顔をじっくりと見た。
「可愛い顔。女の子みたい。本当に男かな」
そう呟くと、女の子はチーの股間を握った。少し確かめてみたかった。魔が刺したと言うほかない。だって、本当にどっちか分からなかったから…。
チーは声にもならない声をあげ、飛び起きた。
女の子はそれを見て、顔を真っ赤にして笑った。まさか起きてしまうとは思わなかった。
「何すんだよ!」
チーは苦悶の表情を浮かべ、叫んだ。これ以上ない、最悪の目覚めだった。
「青井チー君、私は何もしていないわ。」
顔は紅潮している。笑い顔が不自然だった。
気を取り直し、マイは座椅子を構築すると、髪とスカートをヒラヒラさせながら、チーの向かい側に座った。そして、正座し、背筋をピンと伸ばすと軽く微笑んだ。さっきまで感じていた可愛さとはとは違う、真剣で優しく、包み込むような笑顔。しかし、どこか業務的で、悲しそうな笑顔だった。
「北関東99番駅にようこそいらっしゃいました。私は担当のカーマイン。マイちゃんでもカーでも、マイでもご自由に呼んで下さい。私たちは貴方を歓迎します」
その表情から、さっきまでの子どもっぽさはなくなっていた。
「いえ、あ、丁寧にありがとうございます」
マイの空気に飲まれたチーは、正座し、同じ様に背筋を伸ばすと深々と頭を下げた。股間を握られた事など、もはや遠い過去のようだ。
「おい。お茶がはいったぞ」
チーは大人の男の声のした扉の方向に目をやった。だが、20前後の女性が扉を開け入ってきた。盆には緑茶と菓子が乗っていた。少女が少し動くと、氷の心地よい音が部屋に響いた。
女性は二人の前に緑茶を置いた。緑茶の中で光が泳ぎ、氷とぶつかる。菓子は大福だったようで、甘い香りが大福の皮のように、チー舌の上を柔らかく刺激した。
チーと女性の目が合った。ショートカットで、少し無表情ながらもとても美しい女性だった。黒いエプロンも良く似合う。女性はお盆を膝の上に置くと、姿勢を正した。
「自己紹介が遅れてしまったな、青井チー。私の名はバートンアンバーだ」
チーは耳を疑った。黒いヒラヒラのエプロンを着た女性の声は、先程まで話をしていた、渋い男の声だった。しかし、体型はどこからどう見ても女性である。カーマインとは比べ…いや、 そんなことは考えては駄目だ。
「あ、何か変な事考えていませんかっ。全く、男はこれだから…青井さん、バートンさんは男ですよ」
「何を言う、正真正銘の女だ」
「はあ…男って方が説明しやすいから。ほら、青井さん混乱してるじゃない」
「うむ、そうだな」
マイは大きく溜息をした。
そんなやり取りを、チーは黙って見ていた。話は良く分からなかったが、バートンアンバーという人は男ということで良いのだろ。それ以上に、二人は楽しそうだなと思った。
「すいません、御見苦しいところを。どうぞ召し上がって下さい。バートンさんの入れたお茶は美味しいですから」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
少し戸惑いながらもチーはそう言うと、よく冷えた緑茶を一口飲んだ。お茶の香りと渋みが口の中に広がる。体全体が軽くなった気がした。
「本当だ。美味しいです」
そう言うチーの表情を見て、二人は顔を見合し、嬉しそうな表情を浮かべた。
「うん、それなら良かった。それと、そんなに硬くならなくていいよ、軽い気持ちでぶつかってきてよ。私達もそっちのほうが嬉しいしね」
バートンアンバーも頷く。動きがやけに色っぽい
「うむ。ワタシも威勢が良い男の方が好きだ」
色目を使うバートンアンバーを見て、マイは苦笑いを浮かべた。
「マイさん…バートンさんは本当に男なの?」
チーはどうしても聞かずにはいられなかった。
「うん。…一応ね」
○
青く透き通った川が、チーの目の前に広がっていた。流れは緩やかで、川幅はあまり広くなく、頑張れば向こう岸まで泳いでいけそうである。流れとは反対側には、目的地である99番橋が、小さく、小さく見えた。後、どの位歩くのだろうか。少し遠回りをしているよう感じる。
チーが立っているなだらかな土手は、丁寧に手入れがされているらしく、まるで緑の絨毯のであった。まさか、駅舎から少し歩いた所にこんな場所があるとは思わなかった。
首にかけたガラス細工の蛙が、肌に擦れる。「紐はどうした。無くしたら大変だ」と言って、バートンさんがこの蛙に紐を付けてくれた。
どうやら、橋を渡る際に必要な物のようだ。コハクの時とは切符の使い方が違うらしい。
駅舎でいろいろな事を聞いたが、結局、「99番が駅がどのような人生を歩むのか」という質問はうやむやにされた。
「素晴らしい人生に決まってるよ」とマイは満面の笑みで言っていたが、人が良いのだろう、嘘だというのが直ぐに分かった。特に、バートンアンバーは嘘をつくと顔に直ぐ出るため、逆にこっちが気を使ってしまった。
電車の中で錯乱した青年のような運命が待っているのだろうか。そう、思うと少しだけ怖かった。記憶が開かない事だけが救いだった。
土手下からチーの呼ぶ声がした。走ってきたため、息が上がっている。ようやく追いついたらしい。
「ちょっとー、早いよー」
塵が全く出ていないため、マイの顔がハッキリ見える。
「がんばれー」
手を振り、チーは意地悪く笑う。
気に喰わないところがあったのだろう、マイの走るスピードが上がった。
マイは、チーに多種多彩の罵声を浴びせると、背負っていた赤いリュックから透明な敷物を取り出した。
チーは、敷くのに戸惑っているマイを見かねて、仕方なく敷くのを手伝った。多種多彩の罵声を浴びた後であったが、マイの声が大きくないため威圧感がなく、逆に可愛らしくさえ見え、心が温まるという摩訶不思議な気持ちにもなった。
「いい景色でしょ」
「ああ。ところで、時間は大丈夫なの」
「大丈夫、余裕だよ。焦ってもしょうがない、のんびりいこうよ。はい、座った、座った」
チーに隣に座るように促すと、何やらリュックを探り始める。
隣はちょっと恥ずかしいなあ。とチーは思った。
「早く座りなよ」
チーは覚悟を決めた。
「はい、お茶。…そしてこれはお弁当ね。私とバートンアンバーさんで作ったの」
弁当の中身はサンドイッチとトマトサラダが丁寧に敷き詰められていた。プチトマトに丸い目が書いてあったりして、大変可愛らしい出来であった。それに、プチトマトはチーの大好物であった。
しかし、もう一つ、無愛想な和紙に包まれたものは一体何だろうか?しかも少し臭い。
「えーと…これは?」
「納豆巻きよ。もちろんそれを作ったのは、私っ。おいしそうでしょ」
「なぜ、納豆巻き?」
「この辺じゃ有名なんだから。ささっ、食べて、食べて」
特に断る理由もなく、腹も減っていたため食べる事にした。サンドイッチと納豆巻き、不思議な組み合わせだ。
川面からの風が、マイのスカートを時折揺らす。自分の分も持ってきているらしく、美味しそうに食べている。
相変わらず同じ位置にある太陽は、まるで阿呆であった。嫌がらせのように光の矢を投げつけている。
こんな時はバートンさんのお茶が良い。冷たい緑茶が、火照った身体を淡い水色に変えていく。
マイは弁当を食べ終えると、大の字になって寝転んだ。手がチーの足にぶつかる。狭いんだ、気を使ってくれ。まったく、邪魔でしょうがない。
しかし、バートンさん手作りは言うまでも無く、以外に納豆巻きも上手かった。
休憩を終え、再び橋に向かって二人は歩き出した。曲がりが角はもう無く、土手の上をひたすら真っ直ぐ歩くだけだった。
どの位歩いただろうか。ようやく橋に到着した。
やはり、チーが先に到着した。
アーチ型のその黒い橋は、どこか異様な雰囲気を放っていた。そして、どこか歓迎しているようでもあった。
心の底から、隠しきれない恐怖がフツフツと湧いてくるのが分かった。
チーの未来の記憶が次第に開き始めた。
確約された不幸な未来は、心を締め上げる。
手や足が小刻みに震え始め、止まらなくなってきた。駄目だ、震えが止まらない。ああ、橋が語りかけてくる気がする。
意識が次第に薄れていくのが分かった。
その時、チーの背中から、黒い何かが離れた。
○
マイは遅れて99番橋に到着した。何時来ても嫌な場所だった。楽しそうに笑っている様に見える橋を睨みつける。生者の世界と死者の世界の境界であるこの「灰界」において、「ランプブラック」と呼ばれる橋であった。
チーの変化にマイは気が付いていた。次第に早くなる足取りと、青ざめていく表情。何かに駆り立てられるように歩みは速くなった。
せめて、少しの間だけでも安らかな気持ちになってもらいたいと、ここまでマイ達はやってきた。
綺麗な景色を見て、美味しいものを食べてもらって、もちろんそれ私達の自己満足かもしれないけれど…。
それらは全て、悲しい運命を送る前に、少しでも僅かな時間でも幸せを感じて欲しくてやった事だった。
しかし、いつも、橋が間近に迫ってくるとチーの様になってしまう。未来の記憶を開けないよう努力してきた事が無駄になってしまう。
どんなに心が強いものでも、どんなに平静を装っても、どんな人間でもあろうと、あの黒く艶かしいあの橋が心を掻き乱し、せっかく心を淡いピンク色に染めたと思っても、一瞬で黒一色に変えてしまう。
後はもう、橋のおもちゃだ。心を弄ぶ。そうなったら、私達は色を塗り替える事は出来ない。来世の絶望は、99番橋を渡る前からすでに始まっている。
でも、何か出来るはずだ。私は、そのためにここにいるのだから。
チーの背中を優しく撫でた。
「歩くの早いよ」
「悪い」
チーは短く答える。震えは止まったようであるが、顔は青ざめていた。
「ねえ、落ち着いて」
「ああ」
もはやチーに声の届かなかった。
ここまでか……とマイは思った。いつもの事だと頭では分かっているものの、この瞬間はいつも悲しくなる。結局は、私達のしていることはお遊びでしかないのであろうか。
仕方がない、本来の仕事に集中しよう。本来の「案内」の仕事を。
チーの目は、もはや焦点が定まっていなかった。