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第五章 阿呆太陽①

「ふざけるな。俺は逃げたんじゃない!」

 チーは声を荒げ、座っていた男に掴みかかった。目が充血し始め、今にも泣きそうになっていた。

「俺は強いんだよ。運命に選ばれたんだ。だけど、お前は違う。お前は選ばれない。お前のような奴は絶望だらけの糞未来がお似合いだ。どんなに足掻いても抜け出せないんだよ!」

 声が駅舎に響く。チーは馬乗りになり、しっかりと襟を掴み、激しく睨む。が、掴まれた男は何とも思っていないようで、逆に見下した表情でチーを見ていた。

「止めんか!」

 バートンアンバー二人の間に割って入る。しかし、チーの怒りは収まらずバートンアンバーを突き飛ばした。同時に、バートンアンバーは声から鈍い声が漏れる。

「うっ」

 倒れる瞬間足首を捻ったためだった。華奢な身体が畳の上を転がる。

「あっ…」

 チーは思わず声を出し、そっちに目を向けた。

 その一瞬を見逃さず男はチーの右頬を力一杯殴った。チーの脳味噌がグルグルと回り、意識が遠退きそうになる。なんとか両手を突き身体を支える。

 意識が朦朧とし、腕に力が上手く伝わないが、少しでも支える腕の力を抜いたら、そのまま倒れてしまいそうだった。

 男は立ち上がり、チーを見下ろして言い放った。

「女性に手を出すとは、やはり最低な男だな」

 汚い物を見るような目が、葉がチーの怒りをさらに強固にする。涙を浮かべながらも、その男を睨みつける。

「チー!止めろ」

 倒れたまま大声で叫び、再び飛び掛かっていきそうなチーを静止するため立ち上がろうとしたが、捻った足に思いのほか痛みがあっため直ぐに動くことが出来なかった。

 しかし、チーにはその声は届かなかった。ふらつく足に力を込め、立ち上がろうとする。

 それを見ていた男はすっと立ち上がり、バートンアンバーのところに行き、優しく手を差し伸べた。

「大丈夫ですか?バートンさん」

 不気味ではあったが、先程までとは違う男の優しい目にバートンアンバーは少し戸惑ったものの、言われるがまま手を借り立ち上がる。

「す…すまない」

 男はバートンアンバーの右手を優しく撫で、そして再びチーを見た

「なぜバートンさんを心配せず、僕に怒りの目を向けるんだい。本当に自分勝手過ぎるよ。だから運命から逃げても平気なんだね」

「うるさい!黙れ。僕には分かる。お前は嘘をついている。本当は「未来の記憶」は開いてないんだ。お前に僕を非難する資格はない。本当に未来が見えているなら平然としていられる筈がないんだ……そうさ」

 声を枯らし、チーは吼えた。滝のように涙が零れる。

男は肩をすくめた。呆れて物も言えなかった。

「チーよ、外に出ていろ。話がややこしくなる」

 しゃくり上げているチーを見据え、バートンアンバーが静かながら怒りを含んだ声で言った。

 何故そのように言われなくてはいけないのか。チーにはまったく理解できなかった。バートンアンバーは絶対に自分の味方だと思っていたからだった。

「でも…」

 力なく発したチーの言葉を遮り、バートンアンバーは、

「出て行け。少し頭を冷やして来い」 

 と言い放った。

 最近感じる事が多かった違和感。溝。

 僕は裏切られた…。

 立ち上がろうとするが力が入らなかった。殴られた後の様な感覚はもう無いはずだった。しかし、足に力が入らない。

 見かねたバートンアンバーは、チーに手を貸すため立ち上がり、手を差し伸べた。痛みは大分引いていたため、肩を貸す位なら出来そうだったからであった。

 その受け入れをチーは拒絶し、外に出て行った。

 チーの背中を寂しく見送くったバートンアンバーは、大きく溜息を吐き、男の方を振り返った。

「チーの言葉に配慮が欠けていた事は申し訳なく思う。しかし田中さん、言い過ぎだ」

 田中と呼ばれた男は中指を唇に添え、ニヤリと笑う

「ついカッとなってしまいました。私もまだまだ子供ですね。おっと、今から赤ん坊になろうとしているんでしたっけ。むしろ子供なのは当然といったところでしょうか」

 その顔には悪気など微塵も無かった。

「多くの人々はやはり『未来の記憶』に恐怖し、逃避願望を持つ。ワタシはそのような人達を多く見てきた。彼らは確かに弱いかもしれない。しかし、それが人間だと私は思うのだが…」

 男は唇から指を離すと笑顔を瞬間的に消し、言った

「別にその心は悪いとは思いません。ただ、逃げた事を正当化しているあの少年と、それを許しているこの世界の方々に少しばかり腹が立っただけです。・・・はあ…もう飽きましたよ、その話は。早く此岸に連れて行ってくれませんか」

 その笑顔にバートンアンバーは僅かながら恐怖を感じた。



 外はいつの間にか晴れており、道にある水溜りは太陽の光を美しく反射していた。チーは家まで歩く事が出来ず、近くのベンチに腰を落とした。ベンチに溜まった雨水が染み込んできて、尻を濡らした。

 尻に冷たさに不快を感じつつ、チーは頭を抱えた。


 呆然とベンチに座っているチーに、ようやく戻ってきたマイは気付いた。

チーの様子がおかしいのは誰が見ても明らかだった。そんなチーにマイは声をかけようとしたが、時間に遅れに遅れてしまった事もあり、後にする事に決めた。


 駅舎に入って行くマイにチーは気付いた。こちらに気付いていることも分かっていた。

 

 

 マイが駅舎に入ると、バートンナンバーは安堵の表情を浮かべた。ようやく苦行から解放されるという思いから生まれた表情だった。

 「チーの歌」が流れていたスピーカーが、可哀想な程に大破していた。

いつにない不穏な空気をマイは感じ取ってた。そして、その原因が、先程からマイに冷ややかな視線を送っている男である事に、言われることもなく、気付いた。

 男は音もたてず立ち上がると、マイに対して握手を求めた。頬の筋肉を極限まで利用した笑顔を向けると、落ち着いた調子で語りかけた。

 「カーマインさんですね。随分とお時間を費やしたようで、私の事を忘れているのかと思いましたよ」

 マイはその言葉と表情に計り知れない冷たさを感じた。ここまで笑っていない笑顔を作れる人間をマイははじめて見た。

 敵意というよりも、私達を軽蔑しているような目だった。

 しかし、そのような態度を見せられたからといって、あからさまな不快感を表してもしょうがないと思った。マイは問題を起こしたくはなかった。それに、どんなに相手に不信感を持ったとしても、悲しい運命を背負う人間であることには違いはなかったからである。

 そして、無理を承知で笑顔を作る。

「そのような事はございません。私のミスにより遅れてしまいました。申し訳ございません」

 マイは深々と頭を下げた。

 男は目を細め頷く。

「怒りを見せたわけではなかったのですが…まあいいでしょう。じゃあ、行きましょうか、可愛いお嬢さん」

 言い終えると、男は立ち上がると駅舎から出て行った。


 この沈んだ空気を作っていた事が分かる位、男は嫌な空気を放っていた。しかし、無視するわけにもいかない。マイはバートンアンバーに尋ねた。

「何があったかは後で聞くとして…田中さんの記憶は開いているの?」

「ああ、ここに着いた時から開いている」

 立ち上がり、足を引きずるようにマイに近づくと、小さな木製の林檎を渡した。男の切符で

あった。

「マイよ、手間をかけず早めに仕事をすませ」

バートンアンバーの目は「今日は諦めろ」と頑なに主張した。それは遠回りせず真っ直ぐブラックランプに向かえ、という事だった。

「…分かりました」

「案内」が出来ない事は珍しい事ではない。私達のもてなしを嫌う人もいる。

 マイは頷き、外に出ようと扉に手をかけた。

が、一つ気なった事があり手を止めた。チーの事だった。振り向き、問う。男とチーの間に何かあったのは確実だったからだ。ベンチで肩を落とすチーの姿が思い出される。

「チーは…何かあったの?」

「長くなる。後で話そう。しかし、あいつの自身も問題だという事だけは伝えておこう。と

 にかく、今はあいつ処理する事が先決だ」

 案内という言葉ではなく、本来の「処理」という呼び方を使った事にマイは驚いた。今までにも嫌なシュウウはいたが、処理という言葉は使わなかった。

「…わかった。じゃあ、また後でね」

 小さく手を振り、扉を開けて外に出た。


 雲が所々目立つ空の下、男は腕組みをして退屈そうに立っていた。

「田中さん、お待たせしました。では参りましょう」

そうして、マイは先頭を切って歩き出した。

「本当、待ちくたびれました」

 男は笑顔を浮かべながら後に着いて行った。

 マイはベンチの方をちらりと見た。二人を怒りと悲しみを含んだ目で見ていた。


 

 マイは途中道を曲がり、低く細い木々で囲まれた、舗装された道路を無言で歩く。「案内」が出来ない場合、通常のルートであるこの道を通る。この道なら、ブラックランプまで時間はあまりかからなかった。

 立ち止まりもせず、ひたすらに真っ直ぐ歩く。二人は無言だった。時折響く、地面を踏む音と水溜りを踏む音だけが、二人にとっての音だった。その音も、歩く二人の間に出来る間隔に吸い込まれていった。


 バートンアンバーは、二人が見えなくなったのを確認した後、ベンチに倒れるように座っているチーの元に向かった。



 男とチーの間は出会って程なく、険悪な空気になった。

始まりは、男が「未来の記憶」を淡々と語り始めた事だった。

 それに対し、チーは同情の声をあげた。「無理をしなくていい、僕も辛かった」と。そして、この世界で生きる事になった経緯を男に話した。

 その話はバートンアンバーが想像もつかない位大きくなっていた。運命がどうだ、救世主がどうの、話がチー中心にドラマチックに組みかえられていた。マイを助けたのがいつの間にかチーの手柄という事になっていた事には、驚きを通り越して呆れた。「話はその位にしろ」何度もチーに言った。

 しかし、聞く耳をもたなかった。チーは「絶望的な運命に打ち勝った自分」を話す事が、未来に恐怖するシュウウに希望の光を与えると思っていた。

 そして、その未来と比べこの世界にどんなに幸せであるか、という事を話始めた時だった。

 それまで黙っていた男が突然笑い出し、腹を抱え、転げ回り、そして言った。

「君さ、それって怖い事から逃げただけだよね。大分誇らしげに話しているけど。…クククッ、駄目、笑ってしまうよ。そんなに偉そうなのに、話の中身は『未来怖い、未来怖い、未来怖い』君が弱虫で、頭がクルクルで、能天気なのはよーく分かったよ。大体ね……」

 その後、男は言いたい放題だった。しかし、筋が通ったその言葉にチーは次第に言葉を無く

していった。

 そして男は最後に

「君は弱く、最低だ」

 と言い放った。



 バートンアンバーはベンチに横たわっているチー前に立った。影がチーの頭にかかる。どうやら眠ってしまったようだった。頬には涙の跡が残っていた。

 と、駅舎から電話の呼び出し音が微かに聞こえてきた。なんとも間の悪い電話だ、ミカンだろうか、仕方がない。

 後ろ髪を引かれるものの、すやすやと眠るチーの頭を軽く撫で、バートンアンバーは駅舎に戻っていった。


 電話の相手はミカンだった。

「よかった、繋がった」

 ミカンの嬉しそうな顔が電話越しでも分かる位、喜びを含んだ声だった。


 ベンチで寝ていたチーはふと目を覚ました。

電話の音が聞こえる。どうやら家の方の電話だった。目を擦り周りを見回すが、誰もいない。まだ、あの男の案内をしているのだろうか?

 身体を起し、早足で電話のもとへ向かった。暖められた服が肌に温もりを与え、しかし、雨水で濡れた箇所が冷を与えた。


 ベルが数回数えた時、チーは電話を取った。相手は「杏」だった。優しく、甘いその声にチーは心の底から安らぎを感じた。だが、どこか慌てているようだった。

「あ、チー君ね。お願い、すぐシアンに来て。できれば一人で」

「えっ、どうしたんですか?」

「後でちゃんと話すわ。じゃあ5分後の電車に必ず乗ってね」

 そうして返事も聞かず、電話は切れた。相変わらず人を惑わせる声であったが、酷く慌てている様であった。

 嫌な予感がした。チーは首から下がったネックレスを強く握りしめ、プラットホームへ走った。

チーは、駅舎で電話をしているバートンアンバーに気付かれない様に、到着した電車に乗り込んだ。

 電車の中では黒服に身を包んだ長身の男がチーを待っていた。被っていた深い帽子のせいで、男の表情は分からなかった。


                       ○


 マイはいつもの様に切符を受け取ると、ブラックランプを呼び出した。餌である切符と肉体を早く食べたいのか、尻尾を振り喜んでいる。川は、雨の影響で酷く濁っていた。

 

 結局、道中で男との間に会話らしい会話は無かった。男は何度かマイに話しかけたが、会話はまったく噛み合わなかった。

「切符」である木製の林檎をブラックランプに向かって放り投げた。その光沢がある深緑が、太陽の光を浴び煌く。

 もりもりと切符を大変美味しそうに食べるブラックランプの姿を横目に見つつ、マイは男に声をかけた。マイから話かけるのは、二人きりになってからは初めてだった。

「じゃあ、こちらに来てください」

 先程まで道と橋が連結していた部分を指差して言った。

「はい、はい」

 男はマイの言葉に素直に従い、マイの隣に立った。足先には流れる川が見える。高さは無いが、人が高さを感じるには十分高さだった。

 マイは無意識内に男から離れ、距離をとった。その行動は本人すら気付いていなかった。しかし、男はそれに気付いていた。道中でも度々あった事だった。

 男は人差し指を唇にもっていくと、軽く目を閉じ、静謐に息を吐き出した。

 大きくゲップをしたブラックランプは川に横たわり、橋の下で巨大な口を極限まで開いた。まだまだ食えるぞ、と言わんばかりであった。

「じゃあ、ここに飛び込んで下さい」

 男に対し、マイは何の感情も込めず言う。しかし、これが本来の仕事の形であった。「案内」という仕事は、あくまでマイ達のような一部の駅員が自主的にやっている事だった。

 それを望まない人間なら「案内」を行う理由が無かった。そう、「処理」で良い。流れてくる物体をただ此岸側に運ぶだけの仕事。

それが本来の仕事。

 男はポツリと呟いた。

「ふう、僕は高いところは駄目なんですよねえ」

「大丈夫です」

 それに対し、マイは相変わらず淡々とした答えだった。男は目蓋を寂しく揺らす。随分と嫌われたものだ、フフ、来世に少し似ているな、と男は思った。

「心からお礼を言わせて下さい、美しきカーマイン。最後に一つだけ頼みを聞いてもらえますか?」

「どうぞ」

「ふう……じゃあ、青井という駅員に伝えてくれ。…僕たちは影のみを見せられている。それは世界の完全な姿ではない、戦え、そして外へ目を勝ち取れ。ってね」

「……分かりました。伝えておきます」

 その言葉を聞き、先程父親に言われた言葉が頭をよぎった。もしかして、言い方はまったく違うが、同じ様な意味ではないかと思った。

 それは「未来の記憶」の本当の姿を表しているのではないか、と。

 言葉は、男からチーに対して心を込めて送ったものだった。

 そして、男の表情に寂しさが含まれている事にようやくマイは気付いた。

 もしかして、印象だけで人を判断していたんじゃ…でも、バートンさん達が苛立ったっていたのは?もしかしてこの人、人に上手く物事を伝えられないだけなんじゃあ…。嫌な予感が湧き上がる。

 男は川を見下ろすと、

「じゃあ、行こうかな。カーマインさん今度はもっとお話して愛を深めましょう。二人にもよろしく」

 と言い残し、ニヤリと笑うと、ブラックランプの洞窟の様な口の中に飛び込んだ。マイには始めてその表情が不気味ではなく、優しいものである事が分かった。


 男の最後の表情と言葉がマイの胸を締め付けた。父親との事で完全に浮かれていた。

 浮かれきった心は、しっかりと男と向き合うことを忘れさせていた。

 ある一つの事が頭をよぎった。

 もしかして、本当に私達の「案内」を求めていたのは田中さんだったんじゃないだろうか。私達は田中さんの表面しか見ていなかったんじゃないのだろうか。

 そうだ、田中さんだけじゃない、今までの中にも同じ様な人がいたかもしれない。もしそうなら…。

 今まで、本当に苦しい人達とキチンと向き合ったのだろうか。今までの「案内」は幸せの押し付け、私達の自己満足でしかなかったんじゃ…。

 そのような思いに駆られながら、マイは駅舎に戻るため橋を後にした。

 足が重く、何度も、何度も立ち止まっては、ブラックランプの橋の方を振り返った。


 そんな風に、ぐずぐずしていた時だった。

澄み渡る青空から白い物質が落ちてきた。それは塵だった。塵は次第に激しさを増し始めた。肉体の崩壊を防ぐ飴を舐めているとはいえ、長時間浴びるのは流石に危険な量だった。それに、この量は今までに無いものだった。

 急ごう。

 

                        ○


 マイが駅舎に帰ってきた時、何故か到着時間でもないのにシアン方面の電車が停まっていた。疑問に感じながらも、これ以上肉体に損傷を受けるのを避ける為、急いで駅舎の中へ入った。

 中ではバートンアンバーが酷く混乱した様子で、意味も無く歩き回っていた。と、帰ってきたマイに気付いた。「遅い」と言わんばかりであった。

「どうしたの、バートンさん?…ちょっと、イタイ、イタイ、肩揺らし過ぎだよ。それに顔怖いよ…何かあったの?もしかしてチーに何か?」

「それもあるが……スレート達がシアンで、いや、世界中で暴れ出したらしい…」

 怖いくらい真面目な表情で言う。マイは戸惑ってしまった。

「何で?一部の過激派だけが暴れてたんじゃなかったの?いつの間にそんな大規模な人数を集めることできたの?」

 声が微かに震える。考えられなかった。99番駅にやってくるスレートやシアンに住んでいるスレートに、そんな恐ろしい事を考えている怪しい輩はいないはずだった。みんな、みんないつも通り仲良く暮らしていた。

「そうだっ、野球のみんなは?巻き込まれていないよね?」

「はっきりと言えないが、多分暴れている一人だろう」

 そのように答えるバートンアンバーにマイは苛立った。

「なんでそんな事言うの?みんなを信用してないの?」

 声が次第に大きくなっていく。分からない、何が起こっているの?

 バートンアンバーはマイの肩を強く握り締める。

「灰界が此岸に向かい始めた。同時に、スレート達の意識が無くなり言葉が通じなくなったらしい。スレートはもうじ死ぬ」

 マイは絶句した。聞いていた事とはいえ、ずっと先の事だと思っていた。

「本当に…話が通じなくなったの?そうだ、カーキーさんは?さっき元気だったよ、運転してたよ…」

「ミカンの話では…」

 そう話し始めたバートンアンバーの脳裏に、カーキーの事を聞いた直後の悲しみが蘇ってきた。

 身体の力が抜けていく。胸が苦しい。本当についさっきじゃない…。

 そしてマイは以前橋の上で出会ったスレートを思い出す。

「………灰界からスレートが消える…あのスレートが言っていたように…」

「ああ、そうだ」

 悲しそうに、しかしハッキリとバートンアンバーは答えた。

「私達にはどうする事もできない…」

「そうだ…」

 悲しみの色が濃くなるバートンアンバーの言葉を聞き、マイは悔しさのあまり唇を噛んだ。

そして、考えれば考える程、自分の無力さに怒りが込み上げて来た。結局、私達はスレー

ト達に何も出来なかった。いや、しなかった。

 スレートに関する問題は全て杏さんに任せていた。そうだ、私達には関係が無いと、どこか他人事だったのだ。

 と、その時マイはチーの事を思い出した。チーは…チーはどうしているのだろうか?

「そういえばチーは?どこにいるの?」

 その問いに、バートンアンバーは頭を抱えた。

「やはりマイの所ではなかったか!」

「え、ここにいないの?チーはどこに行ったの?外は塵が降ってきたし…、早く探しに行かなくちゃ」

 あの時の、悲しみと怒りの表情を向けるチーの表情が思い出される。

 私は彼の何を知っているのだろうか。もしかしたら、チーも私に話さないだけで、本当は精神の極限まで追い込まれていたのかもしれない。

 いや、口には出さなかったけど明らかに様子が変わってたじゃない。

 気付いてたはずじゃない。なんで、どうして変わったの。

 そうだ、私は彼の事を何も知らない。

 バートンアンバーは今にも外へ飛び出し探しに行こうとするマイの腕を確りと掴み、落ち着かせる。

 「慌てるな。大体の検討はついている。多分…シアンに、杏の所に行ったのだろう。チーらしき乗客を乗せたという話は聞いていた」

 しかし、マイは落ち着く様子は無い。そもそもバートンアンバーが落ち着いていない。落ち着いているのは口調だけだった。

「それ、余計に危険じゃないっ。ますます落ち着いていられなくなったよ。早くシアンに行こう。早くっ。チーに何かあったらどうするのっ?」

 それは酷く激しく言う。

「だから、シアンは今…」

「行きましょう」

 マイは間髪いれず答える。そして、バートンアンバーも、返答の早さは兎も角、その答えを予想していた。力強く握った拳をマイの目の前に掲げる。

「分かった。なら早く電車に乗れ。飛ばしてもらう」

 マイは大きく頷いた。

 そして二人は塵対策の合羽を大急ぎで着ると、今や遅しと待ち構えていた人間の乗務員に挨拶をし、電車に乗り込んだ。


                      ○

 

 チーは黒服の男に連れられ、シアンの街はずれのある、寂れた店の地下に向かっていた。今、杏は仕事場があるビルではなくそこにいると、黒服の男はチーに話していた。

 視界に広がる街は、以前に来た時とはまったく違っていた。石造りの建物は破壊され、道には瓦礫が散乱し、本来見えないはずの店の内部は、悲しく太陽の下に晒されていた。

 もちろん、誰一人歩いていなかった。

 上空から塵が、雪の様に降り始めていた


 以前、昼寝をした事がある公園の入口に差し掛かった時、たくさんの小さな黒い物体が水溜の上で蠢いていた。スレートだとチーはすぐ分かった。

 それを見た黒服の男は舌打ちをし、何やら小型の銃器を取り出し、そのスレートに向かって撃った。キラではなかった。始めて見る武器だった。

 小さな光は高速でスレートに捻り込むと、そのまま内部で爆発を起こした。

 その瞬間、スレートの悲鳴と混じって自分の声が聞こえた事にチーは気付いた。

 塵と同じ様にパラパラと舞うスレートを、チーはジッと見つめていた。


 店に到着し、階段で地下に降りる。太陽光が段々と届かなくなり、変わりに電気の光が辺りを照らし始めた。その電灯は階段の一番下まで続いていた。

 チーが扉を開けると、そこには杏が立っていた。なんとも言えない嬉しさで胸が一杯になった瞬間、意識が無くなった。

 ごめんね、という甘い声がチーには聞こえた気がした。


 数人の男と杏は倒れたチー抱え、店の奥に連れて行く。男達の多くは悲しみを隠しきれていなかった。彼らの友人は多くは、すでにスレートの犠牲になっていた。そして、そのスレートはほとんどの場合、知り合いだった。

 そんな男達を見て杏は男達に優しく命令をする。

「急いで『声』だけを抜き取って。早くしないとあいつ等すぐに元に戻っちゃう」

「はい」

「あ、後丁寧に扱わなくちゃ駄目よ。この子は世界の希望なんだから。それに、私達は悪人ではないんだからね」

 純粋無垢な杏の笑顔が男達に向けられた。男達はその顔に励まされ、力がみなぎってきた。頑張ろう、黒服の男達は一斉に声を上げた。

 

                        ○


 シアンの駅を降りたバートンアンバーとマイは、破壊された駅内と、そして、不釣合いなほどの静けさに驚いた。

 そして二人の目に、無数の黒い塊だけが散らばり、所々赤い血が溜まっている景色が飛び込んできた。

 以前の、人間のスレートたちが普通に擦れ違っていたのが嘘の様だった。胸が苦しくなった。

 それを振り払うようにバートンアンバーは言う。

「話し合った通り、一先ずミカン達のいる避難所に行く。チーの情報を持っている人がいるかもしれんからな。よし、走るぞ。もたもたしているとスレート達が元に戻ってしまう」

 確かに駅内にスレート達の無数の破片が転がっており、破片は元の身体に戻ろうと必死にくっ付きあっている。キラの中に含まれた「チーの声」の影響のためか、再生に手間取ってはいるものの、元に戻るのは時間の問題だった。

「わかった」 

 小さく頷くと、二人はミカン達が避難しているというシアン体育館を目指し走り出した。


 荒れ果てているシアンの街を走るマイの頭に、あまりにも都合がいい考えが止溢れてくる。カーキーさん達は確りとした意識を持っていて、シアンの体育館にちゃっかり避難しているんじゃないんだろうか。それを見て驚く私達を見るためにミカンは黙っているんじゃあ…。それに、チーも既に避難しているかも…。

 そうだ、もしかしたら、チーはシアンに来ていないかもしれない。本当は、家の押入れ辺りで隠れて泣いているんじゃないだろうか。泣き虫のチーならあり得る話だ。

 きっとそうだ。帰ったらゆっくり話をきいてやろう。


 そして、私は今怖い夢の中にいるんじゃないか。

 赤と黒の合羽が、チラチラと降る塵を掻き分け、荒れ果てた街の間を駆け抜けていった。


                       ○


 街から少し離れた場所にミカン達が避難したという体育館がある。その入口には即席のバリケードが張り巡らされており、多くの黒服の男達が見張りをしていた。

 簡単に中へ入れてくれるだろうかと感じたものの、ミカンが見張りに話を通していたため、二人はすんなりと体育館に入る事が出来た。


 体育館には多くの人達が避難をしていた。

一人は恐怖に肩を振るわせ、一人は泣き崩れ、一人は泥の様に眠っていた。見渡す限り人だらけ。館内には守り神とも言うべき「チーの歌」が永遠と流れており、当然、スレートの姿はどこにもなかった。

「チーの歌」が流れているという事は、スレートはこの場所にいるはずがない。

 そう、ここにはカーキーさん達はいないのだ。でも、まだ、まだ分からない。まだ、バートンさんの話だけしか聞いていない。自分で確かめるまでは信じない。涙なんか流すもんか。

「ふう…さあ、早くミカンの所へ行こう。って、ちょ、ちょっと泣かないでよ。バカバートン。さっさとミカンと合流して、チーを捜すんだからね」

「泣いてなどいない」

 バートンアンバーは熱くなる目頭を押さえると、落ち合う場所を確認するために手帳を取り出した。全てのスレートが正気を無くしたと話しでは聞いていたものの、どこか信じきれていなかった。そして、心のどこかではカーキー達だけは正気であると思っていた。しかし、この避難所を見てそれは間違いであるとハッキリと分かった。

 涙を流すわけにはいかない。まだ何もしていない。泣いている暇などない。

 さあ、早くチーを捜そう。

 そして、マイとバートンアンバーは待ち合わせ場所である男子便所へ向かった。

 

                       ○

 

 果てしなく広い宇宙のとある場所に、小さい蒼い球が浮いていた。他の星たちと比べても一際美しいその星は、兄弟の星達が元気良く動き回る一方で、なぜか全く動かなかった。そう、最小単位すら動きもしなかった。

 その蒼い星の含めた規則的に並ぶ星達の中心に、太陽は浮かんでいた。

 太陽は悩んでいた。蒼(蒼い星の名である)が全く動こうとしないのだ。

「動け」と命令しても動かず、「動いて下さい」と頼んでも動かず、「動くと良い事あるかも」と促しても動かず、「動かないで良い」と言えば、やはり動かなかった。

「イヤ」の一点張りである。

 さすがに動かないのは自然の摂理に反すると考えた太陽は、蒼の近所に住んでいる「月」に相談した。

どうやら月も困っていたらしく、「喜んで協力する」と言った。



 そう、その約束をしてから随分の月日がたった。月が考え出した「飴地獄」は、蒼をただ甘やかすだけという結果を生んでしまった。逆に、今や月は蒼の良い僕である。

「水を綺麗にして」

「はい、蒼さん」

「オゾン取り替えて」

「はい、今すぐ」

「暑い」

「は、ただいま」

「ウサギを飼うなよ」

「申し訳ございません」

 

 今まで何をやっていたんだろう…もうこんなやり取りはウンザリだった。

 太陽は、ついに実力行使に出る事を決断した。太陽は蒼に向かって吼えた。

「この阿呆!こっちが下手に出たからっていい気になっちゃて!もう怒ったから。フン、止めても無駄ですよーだ」

 そう言うと頬をプクリと膨らませた。やはり蒼はこちらの言う事を聞く様子は無いようだ。腹が立つ。

 

 しかし、実際の所、蒼にその声は届いていた。ちらりと見た太陽の目は、いつになく真剣だった。もはやここまで、本気の太陽にはどうやったって敵わない。

蒼は再び動き出すことを覚悟した。心の準備は出来ていた。やはり、運命には逆らう事は出来なかった。

 太陽は、自分周りに宇宙に漂う塵やらゴミやら、とにかく色々な物を吸い寄せ始めていた。それは次第に大きくなり、2つのでっかい握り拳を作りあげた。

 拳はみるみる大きくなっていく。

 何も言わず、蒼はただその拳を見つめていた。

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