08 女心÷女心=理解
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――もしかすると、杞憂だったのかもしれない。
そう思わされるほどに、それからの数日間、彼からの接触はふつりと絶えた。初日と翌日の攻防が嘘だったかのように、彼はひたすらに周囲に向けて偽りに満ちた愛想をまき散らし続けていた。まさに公害レベルだ。
しかしその一方で、度々向けられる視線。見合う前には逸らされていたが、確かに背中にへばりつくその感覚は『彼』のものだと断言出来た。
こうなって来ると、増々もって訳が分からなくなる。
「男心は謎だ……」
「どうした、香野。そんな廊下の半ばで」
廊下の真ん中で一息ついていたら、偶然、立花君と行き会った。
「んー。あぁ、立花君。……まぁ、色々考えごとかな」
「香野はあまり悩まないタイプだと思っていた。……俺で、聞けることなら聞くが?」
「ありがとう立花君。提案はとても有り難いけど、今回は自力でどうにかなりそうだ」
密かに進む乙女たちからの嫌がらせと、訳の分からない視線と、何やら最近は元気のない様子のクラスメートが一人。
頭を悩ませるものは、今思いつく限りでもそれ位は挙げられた。
ただ、それを目の前の立花君に相談しようと思うかはまた別の話だ。
「そうか……まぁ、気が向いたらまた声を掛けてくれ」
「ん? 立花君もだんだん空気が読めるようになってきたような……」
「あぁ、そう言ってもらえると嬉しい」
実に好青年らしい返答をし、じゃあと片手を上げて去っていく背。実にスマートだ。さっぱりとしている。
それを横目で見送った後は、溜息混じりに「うなぁー」と伸びをする。何となく猫になりたい気持ちだった。
人と人。これが実に面倒だ。よくよくそう思う。
輪廻転生が存在するならば、次回はもっとシンプルな世界に生まれたい。
頑張れば、報われる。それも一つの真理ではあるんだろう。正直嫌いじゃない。
例えば、勉強。これは時間を掛ければ大抵何とかなる。知らないことを知るのが基本的に好きなのだ。
だが、人間関係。これに付随する物事ばかりはそうも行かない。
要するに、自分はコミュニケーションが苦手なんだろう。感情が混じって、ごちゃごちゃする感じが苦手だ。
時間を掛ければ、全てが万事丸く収まるなんて言う道理が存在しない世界。
そこに時折、どうしようもないくらいの息苦しさを覚える。
「……もう一度、話をするか」
視線だけではどうにもならない。それも一方的な、気付いたら逸らされてしまうほどのモノでは。
今日を過ぎれば、週末に入る。ならば、早い内に会話をしておくのが望ましいな。そう、思って行動に移そうとはしたのだが――
その日の帰り道、遭遇することになった思いも掛けない人物。
天羽君のお母さまに続いて、意図せず邂逅することとなった『彼女』とそれに伴う顛末。思えばそれこそが、ここ数日の集大成だった気がしてならない。
この翌日に自分が賭けに踏み切ったのも、この出会いがあってこそだった。
学校帰りに、道端で『彼』を捕まえて話をする。その試みが最も安全かつ、確実だろう。
そんな思いからバス停近くで、携帯を片手に時間を潰していた自分。
そこへ、するすると近づいてきたのは普段滅多にお目に掛かれないような一台の高級外車。
例の長細い奴だ。ノーブルの象徴と言っても過言では無かろうリムジンである。
「……本物だろうか、これ」と思わずまじまじと視線を向けていると、後方の窓が開いてふわりといい薫りが鼻先まで届いた。
「香野、さん? 香野 遊里さんで宜しかったかしら?」
放課後に突然現れたリムジン。そして顔を覗かせた優雅な少女。
完全に虚を突かれたまま、視線を合わせた彼女はどこか勝ち誇ったように微笑んだ。
「ごきげんよう。お初にお目に掛かります。私は、結貴さんの婚約者で皇 薔香と申します」
「……こんにちは」
正直、悩んだ。何を悩んだかと言えば『ごきげんよう』に対して、こちらも同じように返すべきかどうかというところである。
やや間をおいて思案するも、結局諦めた。普段使い慣れていない言葉を安易に口に出して返したところで、余計におかしなことになる気がしたからだ。
しかし貴重なものを聞いた。少し得した気分にもなる。
「突然の訪問になってしまって、ごめんなさい。この後お時間があるようでしたら是非一緒にお茶をさせて頂きたいの。いかがかしら?」
「……いや、お茶くらいなら構わない。どこに向かえば?」
「まぁ、嬉しい。今運転手を向かわせますから、少しお待ちになって」
婚約者云々、というところで彼女が何をしに来たのかはおぼろげながら推察も出来た。やれやれ調子が狂うな。そう内心で溜息を落としつつ、彼女を眺めた。
その上の、感想はと言えば。
うん、普通に可愛いな。
これが傍にいて、何故自分に欲求の解消を求めるのだろう。本心から理解に苦しむところだ。
彼女が勝ち誇った色を見せるのも正直頷ける。顔良し、スタイル良し。素材の良さはもちろん、きっと普段から自分磨きに余念がないのだろうな、と頷ける隙のない美しさだった。
実際、彼が隣に来て並んだら絵になるだろうな。
美男美女で、ぴったり嵌る。文句の付けようがない。
瞬きの間にそれだけ思わせるのだから相当なものだ。
「どうぞ、こちらへ」
「……失礼する」
彼女の言葉通り、暫くして運転手が降りてきた。
その案内で、こわごわ車内へ乗り込む。視線を巡らせ、そのまま言葉を失った。
これがまた随分と贅を凝らした作りだったからだ。
座席はふかふか。前方から後ろに伸びるテーブルもある。ワイングラスを持ったら、さぞ映えることだろう。
車内の照明を燦然と浴びて、すぐ隣で微笑む彼女。しかしその目は全く笑っていない。
まぁ、それも当然だろう。元より、好意から招かれた訳ではない。
『彼』に関わる諸々で、こうした視線が日常の一部と化している自分にとっては見慣れつつあるその色。
だがそれでも精神は疲弊する。ガリガリと、音を立てて削れていく。
いくら慣れたといってもやはり面倒だし、疲れるのは変わらない。
「近くに素敵なお店がありますの。ふふ、先ほど運転手に予約を取らせました。これでゆっくりお話しできますね?」
運転手、大変だな。
ちらりと前方へ視線を向ければ、軽く一礼された。佇まい、身のこなし、全てにおいてまるで卒がない。
いかんな、惚れそうだ。思えば自分のタイプは寡黙で、スマートな人物。がっつり当てはまる気がする。
だかしかし、それは心の奥底にしまっておいた方がいいような気がする昨今だ。より具体的に言えば『彼』にはけして漏らすまいと無言の内に誓っている。
理由? そこは勘としか言いようがない。何となく不穏を呼ぶ気がするんだよな。
思えば長い付き合いだ。こういう時の直観は割と馬鹿にならない。
「香野さんは、結貴さんといつからお知り合いになったのですか?」
「中学二年の初夏。それ以来、友人としてお世話になっている」
「……そうなのですね。友人、として?」
「友人として、だ」
ひたりと据えられた眼差しに籠る、何かしらの熱。これが何かは言わずと知れている。
それを横目に、なるべく淡々と答えることを心掛けた。
感情的にさせれば、後々碌なことにならないのを経験則で知っていた。いわば女同士の鉄則だ。
流れる車窓と仄かな花の香りに、少しばかり眩暈を覚える。
「私が結貴さんと出会ったのは、六歳の頃になります。その頃から、あの方はとても優しくて……今もとても大事にして頂いておりますわ」
「優しい……うん、なるほど。貴女はとても綺麗な人なので、天羽君が大事にするのも分かるような気がする」
「本当に、そう思われますの?」
「嘘を付く必要はないと思うが?」
心の奥底まで見透かそうとするような、どこか必至で懸命な色。
彼女が『彼』を想う気持ちがそのまま伝わってくるようだった。優しさ云々の話に「……優しさ?」と内心で首を傾げてはいたものの、そこはそれだ。自分以外に対して彼がどのように接しているかなど、それこそ与り知らぬところである。
婚約者同士とあっては、尚更だろう。
「貴女は……少し思っていたような方とは違うようです」
静かな口調ながら、どこか困惑と微かな苛立ちのようなものを滲ませた彼女。その視線が反対側の車窓に向けられたのと同じタイミングで、静かに停車するリムジン。
「さぁ、行きましょう」と声を掛けられて降り立った場所は、思ったよりも遠方らしい。見覚えのない街並みと、街路樹。
彼女が向かう先に、落ち着いた雰囲気のカフェがあった。
「ここは……」
「ふふ、私のお気に入りのお店ですの。窓側の席を予約していただいたので、景色も楽しめると思いますわ」
チリン、とベルを鳴らして入店すると店のマスターらしき人物がやって来た。そのまま案内された先は彼女が言っていたように、遠景が一望できる窓側の席。
加えて、個室だ。込み入った話をするならばもってこいのロケーションであろう。
「どうぞ、向かいにお掛けになって。こちらがメニューです」
「……ありがとう。あの、じゃあレモンティーを」
「――かしこまりました。皇のお嬢様は、いつものミルクティーとケーキセットで宜しいですか?」
「ええ、マスターそれでお願いします。……ふふ、こちらのケーキは絶品ですの。持ち合わせが無いようでしたら、是非ご馳走させてくださいね」
「いや、それは流石に」
「ご馳走させてください」
「……分かった」
押し切られた。
有無を言わせぬ微笑みに、なにやら『彼』と似た部分を見て取る。
これには正直、内心でげんなりもする。似てる。間違いなく同類だ。
勿論、表情には一欠けらも出さない。これ以上の面倒事は御免被りたい。むしろ売りたい。
ここからが正念場だ。頑張ろう私。そう内心を鼓舞し、早くも折れ掛けそうなメンタルを持ち直してから――正面の彼女を見詰めた。
そんな自分の思うところをどこまで察しているかは分からないが、彼女は薄らと微笑んで返してくる。
「香野さんは、甘いものはお好きですか?」
「まぁ……人並みに」
「私はチーズケーキが好きなのです。結貴さんには呆れられてしまうほど、行く先々では必ずと言っていいほどチーズケーキを注文してしまいますの」
「……行く先々でチーズケーキ……」
「あら、香野さんはチーズケーキがお嫌い?」
「いや、まぁ……うん。正直苦手だ。ごめん」
「あら、どうして? 謝る必要なんてありませんわ。だって、人の好き嫌いは他人がどうこう言えるものではありませんもの」
大人だ。ついつい可愛らしい容貌に惑わされそうになるが、彼女はとても大人だった。
うーん。正直、少なからぬ敵意を向けられても尚『彼』以上に『彼女』の方が個人的には好きだなぁ、と思えてくる。
こうして真正面から顔を見に来る正直さも、優越感を隠しきれない気質も、冷静に会話を通して相手を知ろうとするその姿勢も。
全部が全部、納得して頷ける。ここ数日悩み続けていたそれに対して『彼女』こそ理由足りえるのではないかと思う。
それはまさに、兆しといっていいものだ。
「香野さんは、ケーキならどれがお好きかしら?」
「んー……しいて言うなら、モンブランかな。少し苦みのあるティラミスも割と……」
「…………そう、なのですね」
どこか、沈んだような声にふと視線を上げると何故か彼女は少し泣きそうな目をしていた。
「何かまずいことを言ったのだろうか……」と内心で冷や汗をかくも、瞬きの間には彼女は元のように微笑んでいる。
その早業も、表情の繕い方も、本当に似通った二人だと。
彼を近くで見る機会が周囲よりも多かっただけ、余計にそう思えるのかもしれない。それは単純に二人が婚約者同士だからなのか。はたまた生来の気質が偶然一致しているだけなのか。
いずれとも判断の付けようがない。
少なくとも自分が考えたところで、おそらく答えなど出ないだろう。
本来あるべき距離と、現状のズレ。釣り合いが取れる容貌か、そうでないか。周囲の物差しと、自分の認識。
基本的な問題は、ここら辺の差異だろう。見当はとうに付いて久しい。
機会があるたびに思い知らされ、彼と関わり続けることの難しさを実感してきているのだ。本当に今更な話になる。
諦観? いや、どちらかと言えば穏やかな自覚というのに近い気がするな。
過るのは、いつかとよく似た寂しさくらいか。
全てを気付かれないように、奥底へと仕舞いこむ。そのまま蓋をして、後味の苦いレモンティーで流し込んだ。
よし、決めたぞ。
もう、深く考えるのは止そう。
――その後は、始終和やかな調子でお茶を楽しむ。相手の心境はさておき、心の何処かで予想していたような修羅場じみた遣り取りもまるでない。やはり彼女は大人だったと、しみじみしながらお茶を啜る。
お茶もケーキもそれなりに値の張ることを除けばかなり満足の内容である。彼女が初めに言っていた通り、景色もとても綺麗だった。
「今日は素敵なカフェに連れて来てくれて、感謝するよ」
「いいえ、喜んで頂けたなら何よりですわ」
チリン、と揺れたベルを背後にお店を出た時には、既に夕闇が辺りを包んでいた。
ふわりふわりと順番に街灯が灯ってゆく様子を横目に、車へ向かう。
その背がふいに、止まった。
「――香野さん、やっぱり私は貴女の事が嫌いです」
その静かな声に、震える声に、こちらも足を止めて無言のまま頷いた。
無理もない。
もし自分が、万一にも彼女と同じような立場に立たされた時。どう感じるかを想像すれば、やはり嫌だろうなと思うからだ。
互いに愛し合っていても尚、その目が他に少しでも向けられていると知れば誰だって厭う。
「私が目障りだ。消えて欲しい――。貴女はそれを言う為に、わざわざ私に会いに来たんだろう?」
じっと見据えたままそう問えば、彼女はほんの少しだけ苦笑した後に頷く。
「……そう。私は貴女が、妬ましいわ。妬ましくて、嫌い。同じ高校に通っていることも、同じクラスにいることも、互いに視線を交わせる環境にいると知っただけで――この胸を焦がすほど。ただひたすらに、あの方に恋い焦がれているの」
「…………」
「香野さん、お願いよ。私から結貴さんを奪わないで。出来ることなら、私たちの前から消えて頂戴」
真っ直ぐで、とても怖い目だった。
真正面から見据えられただけで、これが本物の殺気かと錯覚するほどの代物だ。
『彼』の視線とは、また違う色をしている。
じっと声もなくそれを見詰めている内に、すとんと胸の奥に真っ直ぐ降りてきた理解。
重くて、痛くて、震えるほどの思いに込められた願い。
とても哀しい色だ。
それでいて、真っすぐで迷いがない。
これを目の前にして、どうして折れずにいられるだろう。いや、無理だろうな。
だから自分は、選択したのだ。
「……分かった。なるべくその意思に沿えるように、私は明日賭けに出ることにする。願いを叶える代わりと言っては何だが、貴女に一つ協力してほしいことがあるんだ」
聞いてもらえるだろうか?
そう首を傾げて尋ねると『彼女』は暫くの間、言葉もなく瞬いていた。
ようやく返ってきた答えにすら、あからさまに戸惑いが透けてみえる。まぁ、無理もない。
きっと彼女は、驚いているのだ。
こんなにもあっさりと、頷かれたその事実に。
「それは、内容によりますわね。でも……それを聞いたら貴女は本当にあの方の前から消えてくださるの?」
「叶うならば明日からでも」
「そう……。分かりました。お話を聞かせて頂戴」
ならばと口にした提案に、目を瞠った彼女。
「本当に、それだけで構わないの?」と疑問を呈した彼女へ「十分だ」とそう伝えて。
束の間――本当に少しだけ、空を仰いだ。
正直近い内になるだろうと予感はしていた。だから驚きはない。結局のところは、早いか、遅いか。明日か、数日後かの違いに過ぎなかっただろう。
どこか諦念にも似た感覚に、口許だけで苦笑する。
中学の終わりに一度覚えた感傷。既に味わった以上、もう味わうことはないだろうと思っていたそれは。
人波の向こう、もう二度と言葉を交わすことはないだろうとそう思った時のあの寂しさだ。
一度は心の中で別れを告げたのに、『彼』は何事もなかったかのように再び自分の前へ現れた。その身勝手さについても一度話し合っておきたいと常々思っていたところだったが。
もう叶うまい。明日には終わるのだ。終わらせなければ――自分はきっと前に進めないし、彼もその周りも傷つけ続けることになる。
それは嫌だ。だから、痛みの大本を断ち切ろう。
その為の、区切り。
一度は失ったと思った『彼』に、笑って「さよなら」を突きつけるのだ。
――とまぁ、そんな恐るべき計画を前にして心が若干迷い出したのは人間らしい弱さだ。自分にだって、そこそこの弱さはある。
だからこそ、思い出していた。
リムジンに乗り込む直前、彼女が最後に尋ねた言葉。それがほんの少しだけ『迷い』に後押しをくれる。
あれはおそらく、一番初めに聞いておきたかった問い掛けだったのだろう。
どこかでずっと繰り返してきた問いを、現実に答える機会をもらえた。こんな幸運はそうそうない。
「貴女は、結貴さんのことをどう思っていらっしゃるの?」
まるで、答えを恐れるように揺れる双眸。
自分はそれに苦笑を混じらせて、ほんの少し嘘を付いた。
「私にとって、天羽君は――」
その答えに疑問を覚えながらも、彼女はきっと自分を無理やり納得させたのだろう。別れ際に見せたどこか辛そうな表情がその複雑な胸中を物語っていた。
自分もまだ、学ばなければいけないことは多い。嫌が応にも自覚させられるというものだった。
恋愛絡みは、本当に面倒臭い。
心身ともに、他の事象に比べても疲弊の度合いが半端ないのである。疲れることは嫌いだ。
それでも一度だけ振り返って、小さく手を振ってくれた『彼女』の姿を脳裏に浮かべながら、約束を果たした翌日。
力は、存分に出し尽くしたと思う。
ただ、それに結果が伴うとは限らないのが現実の残酷さだったりもする。