06 疑問×勇気=若さ
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人生は、選択の連続だ。誰の言葉かは知らないが、まさに的を射ていると思って憚らない。
『彼』の行動を前にして、暫くの間は遠巻きにして疑問符ばかりを浮かべていた自分。
次第にその意図する部分が見え隠れし始めた時には、思わず溜息も零れる。
「……これのどこが『穏便』だ」
初日の不機嫌が嘘のように、翌々日の朝から愛想を振りまき始めた『彼』。
翌日はどうしたか? それについてはもう少し後で語りたいと思う。
簡単に纏めてしまえば、彼は病欠で学校を休んでいた。それに伴う騒動で心身ともに相応なダメージを負ったのも記憶に新しい。
それはさておき、だ。
愛想を振りまくことに躊躇いを覚えなくなったらしい、彼。その周囲に取り巻きが発生するのに殆ど時間は掛からなかった。表面上(彼から見える範囲)は和やかだが、実際のところは乱気流渦巻く人波だ。
普通に怖いわ。当然のこと、穏やかな学生生活を望む面々は見て見ぬふりをする。
直視すれば、目の毒だ。それは彼の周りの人波、その中心にいる彼も含めてどちらもだ。
中学時代でさえ、あれほど嘘くさい笑みを見たことはない。知らないというのもある意味では幸福だと気付いた。嫌が応にも比較できる方からすれば、堪ったものではない。
普段は殆ど立たない種類の鳥肌が何度となく立つ。これは地味な弊害だった。
因みに弊害を被ったのは、なにも自分だけとは限らないらしい。
「一体天羽はどうしたんだ」「ついに……奴もついにハーレムに意義を見出したのか……」「勝ち目ねぇ……あいつの周りの女子、根こそぎ持ってかれるわ」「あー泣ける」
とまぁ、同じクラス以外でも嘗ての彼を知る男子諸君の数々の悲痛が漏れ聞こえてきた。
ちなみに田中君も例外ではない。「どうしたんだ……天羽。まるで別人みたいだな」と本人に聞こえるレベルの呟きを零していた。
正直なところ、彼はあまり空気の読める方ではない。後々苦労することは明らかだ。南無。
同じく、異なる意味で空気の読めないもう一人――移動教室の時、廊下ですれ違った立花君だ――とは「あ、香野。何か噂で天羽の様子が変だと聞いたんだが……」「んー、変なのは否定しない。理由は当人にしか分からないよ」と和やかな会話を交わした。
どこが和やかだと?
まぁ、その疑問は尤もだ。
しかしながら、普通に言葉を交わせている時点で自分にとっては平穏そのものだった。
今更ながら、補足だ。現状把握だ。議題は自らの周辺状況に関してである。
簡単に纏めれば――周囲の乙女たちからの茨の如き視線の中心、現状氷河期に突入中。
噂は、本当に一日にして千里を巡るらしい。
帰りのバスにおける攻防を、見ていたであろう数人。そこから一気に拡散した尾ひれ付きのそれは――今や、刺々しいを通り越して普通に痛い。何も無いところで躓き、クスクス。掃除用のバケツが奇跡的なカーブを描いて直撃すること数回。資料室に行けば鍵を掛けられ、軽度の呼び出しは既に二桁を超えた。
きっと今後も、更新されていくことは間違いない。
「次は古典的に画鋲……いや、もしくは机の中に『異物』パターンでくるか……?」
最近では、廊下を歩きながら次回予想を立てる始末だ。普通に泣けるわ。何がどうして花の高校生活も今や茨道。
行く先々の乙女の視線が痛いこと痛いこと。
「……大丈夫か、香野?」
「やぁ、立花君。また移動教室?」
「ああ、これから科学室へ行く。そんなことより、その腕の包帯は」
「これは……まぁ、野良猫どもに引っ掻かれてね」
「どう見ても違うだろう」
やはり真面目だなぁ。
廊下の端から駆け寄ってきた彼に、内心で苦笑する。
ここは駄目元で誤魔化そうと試みたが、流石の立花君でも今回ばかりは納得してくれない。
「うん、誤って転落した」
「……天羽の関係か?」
「うーん……まぁ、言ってしまえばそうだね」
「――天羽に、話を付けてくる。いくらなんでもこれはやり過ぎだ」
そう言って踵を返そうとした彼の、袖の部分を軽く引く。つんのめる様な形で止まり、振り返った立花君。いつになく怒っている様子が窺えた。
それを素直に有り難いな、と思いながらも返す言葉は残酷だ。
「駄目だよ、立花君。言わせてもらえば、それは火に油を注ぐ結果にしかならない」
「だが……!」
あぁ、なんて健全なのだろう。若さとは疑問を持つこと。若さとは勇気を多く持ちうること。何れも満たした立花君は、こう言っては何だがとても稀有な人だ。
だからこそ巻き込めない。いや、もっと正確に言えば巻き込みたくないんだな。
「こんな傷を晒して言うには、おそらく説得力もないだろうが……大丈夫。もうじき止む」
「一体それはどういう意味だ?」
「遠回しな言い方をすれば、今は分別の最中。それが終われば、後は順番に片を付けるだけだよ」
「――――まさか、香野」
ひらひらと手を振って、再び茨の教室へと戻る足は途轍もなく重い。
けれども振り返らないし、表立って溜息も零さない。今はただ、過ぎ去るのを待つ時だ。
――昨日の『邂逅』を経て、ひとまず目途も立った。後はただ終わらせるだけだ。本来中学の卒業と同時に切れていた筈の、その糸を。彼との繋がりを。
正直な話、自分の痛みには昔からあまり頓着しない質だ。だから身の回りの『あれこれ』はさほど辛いとは思わない。
問題は、別のところ。
自分以外の知り合いに関わる被害だ。
ここ数日、ずっと『彼』と『彼によって引き起こされたあれこれ』について観察し続けた。当初は首を傾げるばかりだった彼の行動に、何かしらの意図が込められていることにようやく気付いた今この時。
遅すぎると、そう言われてしまえば返す言葉もない。
それでも思う。思わざるを得ない。
「穏便の意味を、果たして辞書で引いたことがあるんだろうか?」
「香野、それは一体何の前振り?」
「田中君、貴方に非は一切無いと言う話だよ」
非。その一言で、くしゃりと歪む横顔は蒼白で痛ましい。
「……本当に俺、何か天羽を怒らせるようなことしたかな?」
教室へ戻り、初日と比べて随分と憔悴した様子の田中君と会話を交わす。繰り返しにはなるが、周囲の声などBGMでしかない。
突き刺さる視線ですら、もう慣れた。
人は色んなモノに耐性を作ることのできる器用さを持っている。その活用の仕方を教えてくれたのが他でもない『彼』なのだから、世の中は総じて皮肉だ。
「――大丈夫。約束を違えた落とし前は、当人に丸ごと払わせるから」
「……香野? いったいそれは」
何の話――そう、言いかけた田中君。けれども、その声はものの見事に遮られた。
廊下を走ってくる複数の足音と、辿り着いた彼女たちが次々に口にするのは悲鳴じみた問い掛け。
教室中へ響く様な、手加減の無い一手にして王手そのもの。
うむ、ナイスタイミングだ。我ながら神懸かっている。
駆けこんできた少女たちの視線の先には、自分が『当人』と称した『彼』。
「――天羽君! ねぇ、噂で聞いたよ。白花女学院に天羽君の婚約者がいるって本当なの?!」
よし、期待した以上の声量だ。当人の前。周囲には大勢のクラスメート。更に加えた廊下の聴衆たち。
ここまで揃えば、そう簡単に有耶無耶には出来まい。
だが、相手は天羽君。早々に降伏するつもりがないことは横顔を一瞥しただけでもはっきりしていた。
流石は天使の皮を被った悪魔が如き強者。だがしかし、真打ちはその先に用意してある。
その時までに気付かれれば意趣返しは成立しない。けれども、その逆ならばあるいは――――
「……それは、誰から聞いた話?」
「ううん、誰がって話でもなくて。私たちもホールで他の子たちから伝えられただけなの」
「ねぇ、本当なの天羽君?」
「そうだよ、今時高校生で婚約者なんて……」
さぁ、どう出る。
この反応次第で、こちらが選ぶ選択肢も大分違ってくる。まさに周囲の視線を釘付けにしたと言って過言でないこの状況。彼が果たして、どちらの回答を選ぶのか。
問題はただその一点に尽きる。
「――偽りでは、ないね。確かに『婚約者』は幼少の頃からいるよ」
射貫く様な、その双眸。周囲の悲鳴混じりの騒めきの中で互いに見合う。
もう、とうに気付いている。その噂の出所がどこで、その意図が何であるかすらも。
彼がゆっくりと立ち上がり、座ったままの自分のすぐ目の前まで来て――その足を止める。
周囲の視線など、少しも気にした様子はなく。ただひたすらにその視線は私の左腕に向けられていた。
「……ごめんね、遊里。痛い思いをさせたことに関しては、本当に悪かったと思ってる」
「それはどちらに対する謝罪だ。心か、それとも身体か?」
「いずれも」
ふぅ、と溜息を一つ。ようやっと息を付けた。
正直、ここ数日における騒ぎには内心で途轍もなくうんざりしていた。
だからもう区切る。区切りを、付けたい。
「田中君への謝罪と、それに伴う誠意を見せてくれ。そうしたら全部忘れる」
「……本当に、中学から変わらないね遊里は。頑固で、優しくて、でも絶対にその優しさを自分に向けない」
「買いかぶりも程々にしろ。兎に角、後の収拾は任せる」
「はいはい」
気安く言葉を交わしながらも、互いがまだこれで終わりではないと思っていることは明らか。
実際まだ、終わっていない。そして『彼』がそれをさせまいとして早々の幕切れを図ろうとしている意図は透けてみえた。だが実は、それすらもこちらの想定の範囲内。
ようやくこれで、この数日に渡る悪夢全てに帰結をつけられる。
同時にそれが『彼』との別れ――繋がりの解消を意味することも知っていた。知って尚、言葉を躊躇わない。
それが一種の、自分の中のけじめに他ならなかったからだ。
「――天羽君。後は薔香さまと、お幸せに」
見開かれた双眸に映り込む、今の自分の表情は正直よく見えない。ちゃんと笑えているだろうか。
「――っ! 遊里、その名前を一体何処で……まさかあの女?!」
「ご本人と直接お会いしたよ。とても聡明で、美しく、慈悲深い方だとお見受けした」
音もなく、ひび割れた双眸。それを座ったままでじっと見上げる。
その時の自分はまだそれが正真正銘、最後の対峙になると欠片ほども疑いを持たずにいられた。
要するに、まだまだ自分は青かったのだろうな。うん。