04 放課後×謎の住所=不穏の予感
*
桜咲く、四月。春の陽気と小鳥の囀りが爽やかな、始まりの一日。
さぁ、新生活だと高校の制服に腕を通し、「いってきます」と玄関の扉を出たところで――――何故だろう、とても既知感を覚える背中に出会った。
「……やっと来た。遅いよ、遊里。初日から遅刻するつもりなの?」
「……何だ、この超の付く展開は」
半ば呆然と見上げれば、陽光に燦然と輝く美貌。うわぁ、目が。目が。新生活初日からどうしてくれる、このダメージを。
それはさておき、状況整理だ。至急だ。あくまでも自分の平穏の為にどうしたって必要だ。
「説明は歩きながらするから、ほら」
「……ほら? え、何だつまり……って、あ。おい、無理やり繋ぐな!」
「はいはい。ごちゃごちゃ言わずに、歩いて?」
「……相変わらずの鬼畜属性だ」
「……ねぇ。普通手を繋いだだけで、鬼畜とまで言う? 言わないよね?」
徐に差し出された手を、訳が分からないとばかりに眺めていたらいきなり手を握られた。しかもそのまま、ずんずんと歩き始める。
これには蒼褪めもするさ。今はまだ人通りも疎らだが、学校周辺に至れば言うまでもない。
これは遠まわしな復讐か、もしくは嫌がらせなのか。いやいやいや、それにしても卑劣だ。泣くぞ。
「君が普段からどういう風に自分を見てきたかは、今の発言でよく分かった。だからもう、遠回りをするのも馬鹿馬鹿しいし、隠すのも止める。今更泣いても遅いからね」
「隠す? 一体全体何の話だ」
「君は、どうして、そんなに鈍いの?」
「話の脈絡が全くもって分からん」
ひとまず手を離せ、と言いかけたところで被せ気味に「聞かない」とバッサリ止めを刺された。
どうしても『彼』は自分に復讐を果たしたいらしい。
「あのな、せめて報復するならもう少し違った手段で……」
「……は?」
全くもって訳が分からないとばかりに見返された。止めてくれ、もう心のダメージが下限を割りそうだ。
しかしながら、その発言はある意味で功を奏したらしい。あれ程頑固に握られていた手が、ようやくここで離れた。内心でガッツポーズを決める。しかし現実はそれほどに甘くない。
「……はぁ。もういい。正攻法に転換しようとも思ったけど、君が相手だと何年かかるか分かったもんじゃない」
「え、と。何かを諦められたのか、自分?」
「――遊里」
「ふぁい?!」
噛んだ。緊張の所為か、はたまた偶然か。それは見事に噛んだ。
そしてそれを見下ろした『彼』は笑うどころか真顔。あの時は普通に怖かったな、うん。
「放課後、此処に来て」
「……ここは?」
渡されたメモは、彼の几帳面な字で書かれた何処かしらの住所といった風情。訳も分からず尋ねると、何故かここで天使の如き微笑みが降ってきた。
何だろうな、その微笑。
普通に背筋が凍ったが、何か?
「来たら説明するから。ただし、来なかったその時には校門前でキス――」
「行く! 見知らぬ土地へ行くのは大好きだ!」
必死だ。もう本当に、がむしゃらと言っていいくらいに必死に答えていた。
その時の自分に、先の事を憂うゆとりなど有る筈がない。
いずれを選んだところで、碌なことにはならないと無意識では分かっていた。それでも尚、人とは『先』に希望を託したい生き物である。
「……大好き、ね。いつかその言葉を自分自身に向けさせてみたいけど」
「天羽君、お願いだからバスから先は離れてくれ。約束をもらえないと、現実的に明日からの生活が暗黒そのものに変わるんだ」
「はいはい――ほら、また聞いてない。今回は譲歩してあげるけど、放課後の約束は忘れないでね」
ふわりと微笑んで、バス停へ向けて去る背中はどこか満足げだ。それを見送って、なにやら背筋を走った悪寒を見ない振りで誤魔化した。
予感なんて、断じて認めるものか。
バス車内では、適度な位置取りに成功。内心で安堵の息を吐く。
うん、まぁ予想はしていたが。朝から声にならない人々の黄色い悲鳴やら、桃色の溜息やらで賑やかなことだ。
学校の近くのバス停で降りてからは、暫く歩く。並木道だ。春風が心地いい。
目を細めて歩いていると、やがて桜の吹雪く校舎が見えて来た。どうやら時期に恵まれたらしく、満開だ。
空に向かって広げた掌に花びらが滑り込んでくる。
先を歩いていた『彼』が姿を現すと、同時に上がる感嘆の声。其処彼処から聞こえてきた。やれやれ彼の行くところ、どうあっても女性陣の期待や羨望に満ちた眼差しとは切り離せないものらしい。
黙々と一定の距離を取りつつ、同じく校門を潜ったところで不意に背中に掛かる声。
それは、前を行く彼と違って安心感を覚えられるそれだった。
「おはよう、香野さん。こちらでも宜しく」
「おはよう、委員長」
特別仲が良かったわけではないが、やはりそこは顔見知りだ。自然と挨拶を交わして、ほのぼのする。
ああ、素晴らしいなぁ普通。別に差別しているつもりは無いが、それでも和んだ。
朝の攻防があっただけに、余計に心が洗われる心地がする。
「はは、もう委員長は卒業したから立花と呼んでもらいたいところかな」
「言われてみればそうか。でも立花君、高校でもクラス長をやりそうな雰囲気があるよ」
「……そうだろうか。うん、まぁ期待に応えられるかは分からないけど、機会があれば挑戦してみよう」
何となく並んだまま、クラス分けの紙の前まで来て立ち止まる。
見上げたところに混沌が。おぅ……何だかんだで縁があるらしい。同じクラスに例の名前を見つけて半ば魂を飛ばしている自分の様子から色々と察したのだろう、傍らで苦笑する立花君。
「……香野は、ああ『彼』とまた同じクラスなんだな。大変だろうが、頑張ってくれ」
「立花君のクラス運が羨ましい。出来ることなら交換してほしいくらいだ」
「はは、残念ながら一生徒にそんな権限はないさ」
「ここで真面目な返しが来たか……。冗談だから真に受けないでいいんだよ、立花君?」
「あぁ、すまん。妹たちからもよく真面目すぎると怒られてばっかりだ。高校生になったからには、そこも気を付けていかないとな」
――馬鹿真面目。まさにその五文字が似合う男。
それが委員長の中の委員長こと立花 総司である。
手を振って立花君と別れた後、靴を履き替えてホールの階段を上る。その最中、ふいに背中に突き刺さるような視線を感じて思わず振り向いた――が、どれほどホールを見渡しても『それらしい人物』は見当たらない。
やれやれ、何だか知らないが初日から不穏である。
いつの間にやら立っていた鳥肌を摩りつつ、教室のプレートを確認しながら廊下を進んだ。
「……Bクラス、Bクラス……あぁ、ここか」
がらりと扉を開け、何やら期待感に満ちた雰囲気を横目にそそくさと座席表を確認する最中。
ざわり、と空気が揺れる。
来たか、と諦念に満ちた思いを抱きつつ振り返ってしまうのは性分だろう。
朝にも間近で見てはいるが、それを差し引いてもやはり美しいご尊顔である。
加えて成長期。若木のように伸びていく背丈はしなやかで、直視した者を陶酔させる作用を持つらしい。基本的に被害を受けるのは一般女子だ。稀に独特の感性を持つ男子が含まれるが、それについては深く語りたくない。話を先に進めよう。
バス、校門、ホール、教室と来て、最終的には入学式が待ち構えている。今は教室だから、タイムテーブル的に照らし合わせれば、ほぼ中盤戦にあたるだろうか。
クラスでの初顔合わせ。今はここ。
道すがら『彼』を初めて見た者は、恐らく一瞬で魂の半分以上を持っていかれた事だろう。恐るべきはその美貌。通常では考えられないほどのパワーを持つそれだ。
……とまぁ、語るのもこれ位にしておこう。今は自分の座席が優先――と視線を戻そうとしたそのタイミングで。
ふと、気付く。気付いてしまう。おや、何やらとてつもなく怒っていらっしゃる。と。
より具体的に言うと、全くもって目が笑っていないんだな。
いったいこの短い間に何が起きたというのだろうか。少なくともバス停近くで別れた時まではご機嫌と言ってよかっただけに、謎は深まる一方だ。意外と心は広いんだけどな、天羽君。彼をあそこまで怒らせた事象はそれ相応のものだろう。
興味がないとは言わない。ただ、なんとなく無意識がそれは知らない方がいいことだと警鐘を鳴らしていた。
ここは素直に従っておこう。それがいい。
「おはよう、香野。お前の席、俺の前だよ」
「……んー、本当だ。ありがとう田中君」
無意識の忠告に従い、再び座席表に視線を戻したところで見知った声が聞こえてくる。ふと視線を上げれば、それは元クラスメートの田中君だった。
田中 孝平。確か中学の頃は剣道をやっていた気がする。普段は殆ど会話を交わしたことがなかった為、正直なところそれ位の認識しかなかった。とはいえ、元を辿れば同窓だ。新しい環境から始めるとなれば多少なりとも昔馴染みがいることで、つい声を掛けたくなる気持ちは分からないでもない。
「香野、今回も俺たちは苦労組だ。休み時間はどこに避難する? もう目星は付けたか?」
苦労組、とは主に元クラスメートたち――特に男子諸君が自らのクラスの状況を揶揄して付けた名前だ。それに思わず苦笑しながら、小さく首を振る。
「流石に目星はまだ。……まさか田中君、クラス表を見た時点でもうそれを考えていた?」
「当たり前だろ。先んじる者が、全てに勝つ。先手必勝が俺のモットーだからな」
「また随分と好戦的な……」
どことなく呆れた気持ちで遣り取りをしている最中、ふと気づく。
何だか空気が重い気がする。先ほどまでの期待感に満ちた空気とは、どことなく違う。
その原因に思い至る前に、後ろの田中君が妙なことを言い始めた。
「……ん。何か香野、良い香りがするな。もしかして香水とか付けてるのか?」
「まさか、校則違反だ。そんなの――」
付けてない。
そう言い終わる前。自然な調子で顔を近づけられ、思わず身を少し引いた直後だ。
不意にまた、あの突き刺すような視線を痛いほどに感じた。そして続く、何かが壊れる音。
バキン、と響き渡ったそれに続くようにして耳を打つ、女生徒の悲鳴じみた声――それを辿った先。
背筋を震わせるほどの、暗い双眸と見合う。
『彼』の手の中で、砕け散った何か。それは恐らく、ボールペンだ。何かのはずみに握りつぶした結果だったのだろう。
その掌から、滴り落ちる赤。
それに目を奪われて、何も言葉にならない。
思わず、駆け寄りかけた足を辛うじて止めた『理性』。
離せないままの視線の先で、立ち上がる『彼』。
不自然な、間。それが永遠のように思えて――
けれどもそれは、騒ぎを聞きつけて駆け寄ってきた新しい教師の声であっという間に霧散する。
周囲の音が、一気に両耳へ戻ってきた。
「おいおい……とりあえず保健室だな。皆は暫く教室に待機。隣のクラスの先生から指示があったらそれに従って動くように」
新しい担任は一見したところ若い教師に見えたが、それなりに判断が早い。てきぱきと指示を出し、彼を連れて教室を後にする。
隣のクラスに立ち寄っているのだろう。事情を手早く説明する声が教室の中まで聞こえてきた。
「……どうしたんだろうな天羽。何か一瞬、人を殺しそうな目つきをしてたぞ」
「……わからない」
そう、分からない。田中君の声もほぼ素通りしていくほどに、あの暗い眼差しの理由を、考えても考えても。
結局のところ、明確な答えが浮かんでこないのだ。
それがとても、怖いような気がした。危ういと。あれが明らかに自分に対して向けられていたことを知っているだけに、余計にそう思うのかもしれないな。
どうやら田中君の言を借りれば、あれは明確な殺意らしい。
要するに、自分はいつの間にやら『彼』に殺したいと思われるほどに憎まれていたと。……重いな、重すぎる。何をどうしたら高校生になったばかりの自分に、そこまでの恨みつらみを蓄えられるのか。
ここはやはり、本人に直接尋ねるべきか……否、その結果ズブリとか洒落にならん。ボールペンを素手で握りつぶす殺意って、どれだけだ。
「……殺されるのか、自分」
「は?」
「ん、……あぁ。田中君は気にしないでいい。独り言だよ」
疑問符に埋もれる田中君はさておき、当面の問題は放課後の約束である。
まさか殺害予定現場か。生々しすぎる想像に、一瞬身震いする。行くのは止した方がいいのか……でもなぁ、破ったらそれこそ後が怖すぎる。
ここは遺書でも先んじて書いておくか。文面は取り敢えず『もし、この文章を見つけた時に自分が殺されていた場合、その犯人は恐らく天羽 結貴です』とでも記しておけばいいだろうか。しかしそれにどれだけの信憑性があるんだ。謎だ。やっぱり止めておこう。
もういいや、仮にぶっすり刺されても。その時はその時で考えればいい。
「……大丈夫か、香野。なんか急に空気が暗いぞ」
「んー、平気。心配してくれてありがとう、山田君」
「俺は田中だ」
そうこうしている間にも、隣のクラスの教師が来て指示を出す。どうやら入学式が始まるようだ。出席番号中に並ぶ様に言われた為、廊下に出て前後の人たちと小声で確認し合いながら列になった。
やはり、彼は戻らない。担任もまだ付き添っているのだろう。
「怪我、大丈夫なのかなぁ」「ねー、流石にあれはびっくりした」
囁き合う声を横に、体育館に向かって歩いていく。本当に大丈夫なのだろうか、天羽君。出来るなら君に殺される未来を回避したいよ、天羽君。
そんな呟きを胸に、私は窓から見える空を見上げていた。