02 転校生×保健室=ダブルの悲劇
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――それはまだ平穏且つ和やかだった中学校時代。二年生を迎えていた。季節は初夏。
「転校生が来るらしい」と当時学内でも指折りの情報通、百合絵ちゃんが教室へ駆け込んできたところから全てが始まった。
この情報に早速飛びついたのは、クラスでも指折りの自称『面食い、それすなわち私』こと小鳥遊さん。名前が可愛らしいことに騙されてうっかり平均男子が近づこうものならば、その毒舌で消えぬトラウマを負うと噂の小鳥遊さんでもある。
まるでこういった場合の定型句であると言わんばかりに、その愛らしい唇が紡ぐ問い掛け。
「……イケメン?」
「聞いて喜びなさい、小鳥遊さん。ええ、それはもう。数年……いや、数十年に一度の逸材よ!」
その遣り取りを傍から聞いていた数名の女子諸君。彼女たちがこぞって歓声を上げる最中。
当時、教室の窓側の席で心地よい初夏の風をここぞとばかりに堪能していた自分は内心でこう思っていた。
――こいつはまるで少女漫画的展開だなぁ、と。
元より『イケメンそれ即ち鑑賞物である』と徹底して姉から叩き込まれている自分である。自分でもこれはどうかと思うくらいの他人事感覚で一連の遣り取りを見ていた。
乙女たちは期待に胸を膨らませ、その一方でどこか面白く無さげな男子の面々。何にしても、想像通りの展開である。
さてさて、こんな只中にやって来るイケメンこと転校生とはどんな人物なのだろう。
ふわぁ、と欠伸混じりに教室の扉へ視線を向けたのとほぼ同時だ。
ガラリ、と音を立てて開いた扉。担任が一人の生徒を後ろに連れて教卓へ上がってきた。
目を瞠る。そしておそらく全員が息を呑んだ。
――冗談でも何でもなく、一瞬にして静寂に包まれた教室。金魚の如く口をパクつかせる生徒たちの視線の先には、まったくもって呆れてしまうレベル(ただしこれは個人的な認識だ)の美少年が佇んでいた。
「今日は転校生を紹介するぞ。じゃあまず、自己紹介から頼む」
「はい。――隣の市から来ました、天羽 結貴です。よろしくお願いします」
「天羽君はお父さんの仕事の関係で本校に転校してきたそうだ。皆、仲良くな。――さてと、じゃあ天羽君の席は……」
そこから先は、想像通りの阿鼻叫喚であった。「私の隣に!」と諸手を上げて立候補する乙女たちの鬼気迫る様子に流石の担任(ベテランである。ちなみに三十五歳独身)も苦笑混じりで対応に追われていた。
一方で置いてきぼりの男子諸君はどこか苦みを潰した様子を隠さない。ごく一部、女子に劣らず潤んだ眼差しを向ける者たちもいたようだが、それはさておき。
一連の騒動の最中も、ほとんど変わらない表情。それを観察し「ふむ」と一考していた自分。教卓の上でなかば置いてきぼりの感も甚だしい天羽少年。
彼はどこか所在なさげに、ぽつんと立っていた。
「ほらほら、これじゃあ何時までたっても天羽君が座れないだろう? ここは公平に、世話役がてら委員長の隣にしよう。頼むぞ、立花」
「はい」
学級委員長の立花君は、どこかでそうなることを予期していたのだろう。すっと席を立ち、あらかじめ後方に置かれていた机を持ってきて横に並べる。周囲の囁きを視線で黙らせた後は、前方に向かって声を掛けた。
「天羽君、ここが君の席だ」
その一連の動作には、少しの無駄もない。流石は委員長だと内心で感嘆もする。
普段から冷静沈着にして、意外と世話焼きで知られていた立花君。彼は二人の妹とやんちゃな双子兄弟をもつ肝っ玉兄さんでもある。
彼に采配を任せた担任の考えにも頷けた。むしろ彼以外にこの重責を担える猛者はこのクラスにはいないだろう。
担任と委員長の連係プレーによって、ようやく落ち着きを取り戻した教室内。大幅に遅れていた一時限目の授業が始まった後、ようやくまともに息を吸えた気がした。
こんな初夏の穏やかな日々に、さても『面倒な転校生』が来たものだと溜息も混じる。
叶うならば、このまま穏やかに終息してくれればいい。しかしそんな願いも虚しく、現実は甚だ残酷であったといえよう。
――『彼』の到来によって、その後もクラスの喧騒は止むどころか加熱していく一方であったと言っていい。毎日が、台風のようだった。
『イケメンは私のモノ』を信条として生きる小鳥遊さんを筆頭にした、怒涛の質問ラッシュ。まるで野獣に四方を囲まれた兎の如く、その中心には小声で返答を繰り返す天羽少年。
「……すげーな、あれ」「もはや記者会見じゃねえの?」といった男子諸君の呆れた囁きに内心で頷きながら、まぁそれでも数日で収まるだろうと高を括っていた。
しかし、そうは問屋が卸さない(実例)である。
当然の事、噂は伝播していく。違う組の少女たちが寄せては返す波の如く休み時間の度に『彼』の顔を拝もうとやって来た。縮小されるどころか、高まる一方の熱量。
教室はいつしか、初夏を超えて真夏へと突入せんばかり。半泣きである。これはもう団扇を準備する他ない。今度駅前で配っていたら、早速貰ってこよう――
クラス対クラス。乙女たちによる仁義なき舌戦が繰り広げられ、いつしか休み時間が魔の時刻と化していく最中。
騒動に嫌気が差した者たちは、こぞって中庭やら屋上やらへ避難するようになっていた。
自分も漏れなくその一人。しかし、今となって思えばその『逃避先』の選択が間違っていたのだろう。
その選択というのはつまり、保健室だった。
自分で言うのもあれだが、割と健康優良児である。普段はめったにお世話にならない。ただ、ここの保健室の先生がとても理解のある人で、いつの間にやらついつい居座るようになっていたと。
まぁ、言ってしまえばそういう次第だ。
そうして必然的に訪れたあの日――そう、敢えて言うなれば『運命の日』とでも呼ぼうか。
天羽少年が、貧血で倒れたのだ。
担任に運ばれて保健室に来た彼は、傍から見ても分かるくらいに蒼褪めた顔色をしていた。
「……はぁ。いつかこんなこともあるかと思ってはいたんだが。もっと早く手を打つべきだったな。天羽もぎりぎりまで無理せず、今後は具合が悪くなった時点で声を掛けるように」
「……すみません」
「ふふ、天羽君みたいに格好いい子だと、女の子が騒いでしまう気持ちも分からなくはないわね」
「…………」
担任と天羽少年、そして保健室の先生を交えて交わされる会話。それを意図せず傍らのソファで聞く形になった時点で、その内心はと言えば。
「――あぁ、寄りにもよってどうして居合わせた、自分」である。嫌な予感はもれなく当たるものだ。
意識して逸らせていた視線を、覗き込むようにして担任が話しかけてくる。
「香野、お前はあんまり騒がないな? まぁ、担任としてはお前みたいに落ち着いてくれている方が助かるが」
「ふふ、香野さんは優しい子だもの。他の人の迷惑になるような熱の入れ方はしないと思いますよ?」
ほら、話題がこちらに回ってきた。止めてほしい。出来ることなら構わないで貰いたい。
曖昧に笑って誤魔化す他に無いじゃないか。やれ面倒なことになった――と。確かにそう思ったはずだったのに、どうしてか。
あの時『彼』に視線を合わせてしまったのだ。
いつからか、向けられていた視線。その黒というよりか、薄い色の虹彩に。
その蒼褪めた顔色をじっと見ていたら、思ってもみなかった言葉が出た。出て、しまった。
「嫌なら嫌で、早い内に言っておかないと食い潰されるだけだよ」
あ、しまった。そう思いはしたものの、口から出てしまえばもう取り消すことすらできない。
丸くなった目から、思わず視線を逸らして頭を抱える。大人たちよ、フォローしてくれ。
「……あら。香野さんも意外と言うタイプだったのねぇ」
「香野、お前はクラスでも指折りの中立派だものなぁ……」
何故か追撃が来た。しかもダブル。
いや、正直そこは無理やりにでも話題を逸らして欲しかったな。
やはり他人は信用し過ぎてはいけない。うん、学んだ。現実は往々にして自己責任だ。
「香野、さん? あの……同じクラス、だよね?」
「ん? ……あぁ、成程そこからか。そう、同じクラスの香野です」
おぅ、何やら興味を持たれたらしい。こいつは厄介だ。
認識すらされていなかった事実を喜びこそすれ、ショックなんて勿論受けてはいない。そこは念のため補足しておく。平穏こそ至上。「なんか空気みたい」はむしろ自分にとっては褒め言葉でもある。
さればこその、分岐点。相手は今、平穏から最も遠い人物。
なんとか微妙な印象に持って行かないと今後の生活にもろに影響が出るだろう。
悪印象も好印象も駄目だ。こういう場合の最善は、つまるところ「なんかこいつ微妙……」である。
――そんな認識が甘かったことを知るのは、暫く経ってからの話。後悔はいつだって先には立たない。
「あの、迷惑でなかったら……女子との接し方について相談に乗ってもらえないかな?」
「相談?……それなら別に私でなくても」
内心では絶叫ものである。平素を装ってはいたが、確実に背中を伝う冷や汗。
お願いだ、空気を呼んでくれ。そんな祈りも虚しく、再び訪れるダブルの悲劇。
「いや、香野。俺はお前が適任だと思うぞ」
「ええ、山城先生の仰るとおりね。香野さん、表立って相談を受けるのが躊躇われるようなら、時々保健室を使って二人でお話してみるのはどうかしら? その時には他の子が入らないように札を掛けておくから心配いらないわ」
「…………はぁ、でも」
いやいやいや、どうしてそこまで推してくるのか大人たち。むしろ止めろ。内心はだいぶ涙目だ。
しかしそんな一生徒の心の声を知る由もなく、居合わせたが故の不運は着実に芽吹いた。「いや、でも」「あの、こちらにも都合というものが……」と言った言葉はまとめて黙殺され、あれよあれよという間に大人たちの企みによって、週に二回は保健室で相談を受けるという形に纏まってしまったのである。
まさに絶望の只中。
ソファの上で呆然としていた自分を、向かいの『彼』がどんな表情で見ていたかにすら気付くゆとりもなかった。