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黒手


 バスは終点で最後の乗客を降ろすと、向きを変えそそくさと帰っていった。

 妖怪退治屋ライコウは思わず腕時計を見て、もう最終便かよ――と呟いた。

 道路の反対側には野良着姿のままの老人たちがいて、彼の姿をじっと見つめていた。

「あのう」

()()()(きょう)()(じじ)()ってのはどいつだ」

 わしです、と一人の老人が手を挙げる。怪我をしているらしく、頬に大きなガーゼを貼っている。妖怪との格闘の跡、とライコウは聞いていた。

「あんたの孫から前金を貰ってる。すぐ片付けてやるから話を聞かせろ」

「は、はい! よろしくお願いします!」

 老人たちが村の細道をぞろぞろと歩いていく。

 また田舎かよ。

 そう呟いてライコウは煙草に火を着けた。


     *


「俺にはよ、好き嫌いなんてもなぁねぇんだな」

 鰤の塩焼き、牛筋煮込み、そして胡瓜の胡麻和えを忙しなく口に運びながら(ぎん)(ぞう)は言った。

「山のもん海のもん川のもん、全部いける。好き嫌いしねぇっつうのは生きる知恵だな。人間が食わねぇようなもんだって口に入れてきた。オヤジさん、(ばっ)()食ったことあるかい?」

「バッタはないねえ」

 居酒屋「くちばし」の店主・音羽好男は、程よく酒が回って上機嫌の客に苦笑を返した。

「ありゃあね、一口にバッタといっても色々ある。味も甘いのから辛いのまでピンキリだな。でかすぎるのは苦味が強くてまずいんだ。こう、このくらいで動きのいいやつをね……」

 銀蔵は既にくちばしの馴染みになりつつあった。この化け狸は人間の世界では、いつもスキンヘッドで造作の緩い顔立ちの男に化けて行動している。音羽は彼が実は人間でないことを、最初に来店した時すぐに見抜いた。何しろ銀蔵は、今度から妖怪退治屋で働くことになった者だからよろしく――と挨拶してきたのだから。あそこの社長が人を雇うなどまず考えられない。で、それとなく尋ねてみれば、自分は阿波生まれの狸だとあっけらかんとして言う。この町では殊更に正体を隠すつもりもなかったのだ。

「味は色で大体わかりますよねぇ」

 音羽の隣にいた(さぎ)()ひかりがつい口を挟む。

「おっ! ひかりちゃんもいけるクチか? やっぱ鷺だなぁ」

「よしなさいよ」

 音羽は他の客を気にしてひかりに釘を刺す。彼女は音羽の実の娘ではない。ないが、もう娘といっても差し支えないと内心では思っている。そしてやはり彼女も人ではないのだが、こちらは一応秘密にしているのだった。

「まあしかし、ああいう自然の味ってもんはアレだね。こうして人間の作る料理の味を覚えちまうとわざわざ食おうとも思わなくなるな。舌が肥えるんだなぁやっぱし」

「へっへへ、そこは銀蔵さん、人間全般じゃなくておれの作るもん食べたからさ」

「あ! なーるほどね。違いないぜオヤジさん」

 どこかインテリじみた雰囲気の居酒屋店主は、照れ臭そうに鼻を掻いて笑った。

「ほんといいもんだぜ。いつかウチの社長と一緒に飲みてぇなぁ」

 銀蔵は空の徳利を口惜しそうに覗いた。

 (おおとり)(がわ)に来てはや十日。この店には四度来たが、いずれも銀蔵独り飲みだ。

 文無しの狸であるから、当然ツケで飲む。

「ウチとしても銀蔵さんには給料貰ってほしいやね」

「でもライコウさん、銀蔵さんのことを助手と認めてるふうではなかったですね」

「そこなんだ」

 銀蔵はひかりの指摘に深く頷いた。

「あっ、ごめんなさい」

「いいんだ。俺はもともと退治される側としてライコウちゃんと出会ったからよ。ま、依頼人がとんだ食わせ者だったのが幸いして、俺も成り行きで助かったんだ。腹黒い奴らをコテンパンにやっつけるあいつぁ見てて爽快だった。胸がスカッとしたぜ。だからよ、あのまんま仲間にしてもらおうと思ってな……。けどご存知の通り、今んとこ俺の片思いさ。押しかけた時なんざ出てけ出てけの一点張り」

 構ってもらえるうちが花だった。

「最近じゃ完全無視だ。知らず知らず姿を消す術でも使ってたかと思うほどだ」

「あらあら可哀想に」

 ひかりが言うと銀蔵はますます哀れっぽい口調になっていった。

「今日なんかよ、いきなり俺を事務所から蹴り出したと思ったら、そのままタクシー呼びつけてどっか行っちまったんだぜ? ノーマに訊きゃ仕事でこれから鹿児島まで行くんだと。俺を置いてけぼりにしてだよ? 慕ってついてきた相手に対してあんまりじゃねぇか」

「鹿児島かぁ。おれも若い頃行ったねぇ。好きな女の子とお酒飲んだはいいけど、帰ってすぐにケンカして別れちゃってねぇ」

「えっ私その話知りません! 教えて!」

 あとでね――音羽はひかりにこう言うとき、大抵後には何もない。

「でも、鹿児島でお仕事じゃ何日か戻ってこられないかもですね」

「そうなんだよ。でもな、こりゃもしかしたらまたとないチャンスかも知れねぇ」

「チャンス?」

 ひかりは意味が分からず首を傾げた。

「ああ、いやなんでもない。なんでもないんだひかりちゃん。忘れてくれ」

 それにしてもよ、と笑ってごまかした後に銀蔵は言った。

「俺は意外だったねぇ。ライコウちゃん、もっと豪勢な暮らししてるもんだとばかり思ってた」

「あー。まぁ、パーッとやるときにはやるんだけどね。いくら高額の退治料を貰っても、出ていく分も多いようだしね」

「ふぅん……出ていく分ね。そうだな。考えてみりゃこの前だってクルマが駄目になったしな。でも、きっとたんまり貯め込んでるぜ。あやかりたいな」

「あ! ライコウさんが留守の間に金庫破りしようとか考えてませんよね?」

「そんな疑いもつなんて悲しいねーぇ。俺は善良なる妖怪、退治屋の的にはもうならないよ」


 酒が回り腹も膨れ、化け狸は上機嫌で店を後にした。やっぱり料金は払わなかった。

 退治屋の事務所は鍵がかけられてしまったせいで入れない。銀蔵は本来の姿に戻ると、事務所裏のゴミ箱の傍で体を丸めて眠りに就いた。時には残飯を漁って命を繋いできた浅ましい(けだもの)であるから、このような場所で寝るのにも抵抗はない。その夜はなんの夢も見なかった。

 翌朝。

 九生妖怪退治社事務所前に、若葉マークをつけた赤い軽自動車が停まった。

「ごめんください。お留守ですか」

 戸を叩いているのは昆虫のような女だった。スレンダーで手足は細いのはもちろんのこと、派手な服、少しこけた頬、そしてやたらに大きなサングラスが、失礼ながら(かま)(きり)を思わせる。彼女の隣には同年代の女がもう一人、こちらはうってかわって地味な服に黒髪、化粧も薄い。

 銀蔵狸は陰から女を品定めしていた。借金取りやセールスマンではないだろう。二人組の女といえば宗教勧誘――そんなものはお呼びでない。だが、勧誘は大抵一方が年増だ。今回はどちらも若い。さぁ、早く何者か言え。

「お仕事をお願いしたいのですが」

「はいはい只今!」

 物陰から陽気に答え、銀蔵は人間の姿になって飛び出した。突然の登場に若い女二人はたじろぐも、銀蔵の方はにこにこ笑って近付いていく。

「ウチに仕事の依頼ってことは、つまり……?」

 恵比須顔のまま、背後の看板を指差した。サングラスの女はこっくり頷いた。

「妖怪退治です」

「よしきた!」

 銀蔵、思わずガッツポーズが出る。

「あぁ、申し遅れまして、わたくし九生妖怪退治社の……銀蔵と申します」

 それらしい役職も名字も思いつかなかったが、とにかく自信満々に名乗る。

「あなたが妖怪退治屋さん?」

「そう考えていただいて差し支えない」

 女二人は顔を見合わせた。ここで客を逃がしてはならないと、銀蔵は強引に話を繋ぐ。

「まぁ立ち話もなんですから中で……いや、中はちょっと取り込み中でした。そうだな、この近くの喫茶店でモーニングでも頂きながら依頼の件をお話しいただく。どうです?」

 この提案には地味な女が難色を示した。

「他の人がいるところは、ちょっと……あまりいい話じゃないですから」

「おっと失礼! そうだよな、プライバシーとかあるんだもんな……ああ、じゃあどこにしようかな。事務所は閉まってるし、ううん」

「あの、私たちの車でよければ」

 サングラスの女が気怠そうに言った。

「それがいい! んじゃ失礼して、よいしょっと」

 助手席に乗り、ドアを閉めた銀蔵は、さっそく(うかが)いましょうと調子よく言った。

 女たちはしばしアイコンタクトを取り合い、結局運転席にいるサングラスの女が事情を語ることになった。車内には芳香剤の匂いが漂い、銀蔵にとってはやや居心地の悪い空間だった。

「まず、私の名前は()()()(とも)()といいます。この子は(にれ)()()()

 紹介されて後ろの美羽は、どうもと小声で挨拶した。智花はサングラスを外し、二人とも(さん)(りん)大学の学生です、と言った。銀蔵も偶然、その大学の名は聞いたことがあった。智花の睫毛に気を取られていた銀蔵は、一拍間をおいてから反応する。

「あぁ女子大生! なるほどね。サンリンていやぁ伝統あるいい()()だ。それでそれで?」

「私たちは大学の寮で暮らしてます。定員十二名の小さな寮ですけど。元々は十二人いたんです。みんな同期生で、とても仲がよかったんです。でも一人また一人と出ていって、今残ってるのは私たちを入れて五人です。七人が出ていった理由が、妖怪です」

 話してみれば、智花は第一印象ほど近寄りがたい存在ではなかった。派手な装いは、幼虫が外敵から身を守るための模様のようなものだった。

「いったいどんなのが出るんだい」

「その……」

 智花は言い難そうに美羽をちらと見て、銀蔵に顔を近付けた。銀蔵は鼻をひくつかせる。

「手、です」

「手の化物?」

「分かりません。でも、私たちが見たのは手だけです。最初に遭ったのはサチって子でした。ある日、サチは夜中に目が覚めてトイレに行ったんです。寮は二階建て、トイレは各階一ヶ所ずつしかないんですけど。サチは……」

 智花は段々と言葉に詰まるようになってきた。

「突然悲鳴を上げました。寮の全員が起きるような大声です。わけを聞いたら、トイレから手が出て……その、触ったっていうんです」

 お尻を――秘密を打ち明けて智花は俯いた。美羽も押し黙っている。

「尻を!」

「ぬめぬめして、冷たくて、黒い毛の生えた、五本指の、爪が鋭くて、人間のようで人間とは違う手だったって。初めはみんな寝惚けたんだろうって笑ってましたよ。だってありえないじゃないですか? 便器から手が出てくるなんて。あんな場所に何かが潜り込めるわけないし」

 まぁそう考えるわなぁと銀蔵は返す。

「うん、聞いた感じではまだ続きがあるんだな。話しにくいハナシだけど」

「もちろん言いますよ。だから、あまりそういう顔しないでください」

「顔? 参ったな」

 素である。

「もういいです」

 こんな難癖をつけられるなら無理してでも美男に化けておくべきだった、と思う銀蔵だった。

「お察しの通り、他の子たちもその変な手に触られるようになっていったんです。手は一階にも二階にも出ました。時間も関係なしです。何日か出なくて、油断した頃に、突然ぬっと」

「そ、その上、最初は後ろだけだったのが、エスカレートして……前の方にも……」

 顔を真っ赤に火照らせて美羽が付け足した。

「なんちゅう破廉恥な輩だろ」

 憤慨して鼻息を吹く狸。

 けど待ってくれと銀蔵は話の腰を折る。

「あんたたちいつも黙って、されるがままに触らせてたのか?」

「そんなわけないでしょ! 何度も捕まえたり、やっつけたりしようとしましたよ。でもアイツ、隙がないんです。触ったらすぐに手を引っ込めて……ぬるぬるしてて掴み所がないんです。人間じゃないから警察に言ってもムダだし、第一言いたくなかったです。そういうわけで、みんなほとんど寮のトイレを使わなくなっていきました」

 当然の成り行きである。

「だからその、用を足す時には隣の寮や近くのコンビニへ……でも、どうしてもってときはあるじゃないですか。そういうときに限って触られるんです」

「そりゃあたまらねぇなぁ。あ、下世話な意味じゃなくってな!」

 だからみんな他へ越しちまったか、と銀蔵が言うと、二人の女子大生は揃って頷いた。

「男のところに」

「ほう」

 同じ触られるなら好いた男がいいわな――とはさすがに銀蔵も言わなかった。

「最近ではお風呂や台所、ふっと水場に背中を向けた瞬間に視線を感じることもあります。覗いてるんですあいつ! 残った五人もノイローゼ気味なんです。毎日寮で寝る子なんて、今もういないですから。ただの荷物置き場になりつつあります」

「もうあんたらも越しちまった方が話が早ぇんじゃねぇの」

「それは嫌です!」

 語気を荒らげたのは、智花ではなく美羽の方だった。思わず車内で立ち上がった彼女は天井で頭を打ち、それで冷静さを取り戻した。が、すぐまたヒートアップしてしまう。

「ごめんなさい……でも、私たちが出ていくっておかしいと思います。変な手の方が後から出てきて私たちを困らせたのに、どうして私たちが出ていくの? それって泣き寝入りじゃない? そんなの絶対嫌、痴漢妖怪をやっつけて元の暮らしを取り戻したいの!」

「美羽、落ち着いて」

「……ごめん……!」

 智花に宥められ、我に返った美羽はバッグを抱くように座った。取り乱した友人を擁護するように、智花は抑えた口調で語る。

「実際、あの変な手のせいで友達同士の関係も変わりました。出ていった子たちとは疎遠になるし、一緒にいる子とも価値観や思いやりの差が浮き彫りになって溝ができました」

 銀蔵は腕を組んで目を閉じ、うんうんと厳かに頷いた後、よしッと気合い一発膝を叩いた。

「そいじゃ、いっちょ退治してやりますか!」

 あまりに軽い回答に、女子二人は返す言葉を失った。

「さぁ善は急げだ。さっそく現場へ連れてってくれ!」

「いや、でも……」

「金か? 心配するこたぁねぇ何十万と吹っかけたりしねぇって。リーズナブルなお値段で対応しましょ。なぁに相手はどうせ助平な(かっ)()だ。恐るるに足りずってな!」

「河童……ですか?」

「おうよ」

 智花と美羽は目を丸くした。彼女らが思い描くのはデフォルメされてマスコットとなった、黄緑色の可愛らしい自然の友達カッパちゃんだった。黒くて毛深い手とはかけ離れている。

「むっふっふ。妖怪なんてそんなもんさ」

 世間の人間様の認識と実情とのギャップは銀蔵もよく心得たもので、納得しかねる様子の女子大生に、得意気になってこう続ける。

「いいかいお嬢さんたち。河童はとびきり好色な妖怪なんだ。いい尻と見ればすぐ手を伸ばす。ひでぇのになると男も女も爺も婆も見境なし。昔はよく便所に潜んでそういうコトをする奴がいたもんだ。水洗便所が普及してからはめっきり聞かなくなったが、まぁ水に溶ける術を心得た河童なんだろうなぁ」

「はあ」

「うら若いお嬢さん方を困らせる輩は懲らしめてやらにゃならん。燃えてきたぞ!」

 かくして自動車は走りだす。もちろん依頼人の彼女たちは、自信に満ちた銀蔵狸を信じるよりなかった。

 去りゆく赤い軽の後ろを、クリーム色の猫が横切っていった。 







 曇天、ただでさえ薄暗い林は余計に暗く、(ぬか)(るみ)に時折(くるぶし)まで沈めつつ、息を殺して歩む。光が僅かに差し込めば、それを抜身が捉えてきっと輝いて木の葉を驚かす。

 ――この山はわしの土地ということになっておりますが、もう足腰も弱ってきたのでろくに手入れもしておりません。いや、餓鬼の時分からあまり入るのは好きではなかったですが……蜂に刺されてしこたま腫れたことがありましてな。

 鼻っ面の赤い伊弁田翁の言葉を思い出しつつ、ライコウは奥へと進む。

 ――この間の大雨で村の川も増水してひやひやさせられました。どうやらその時におかしなもんが目を覚ましたようでしてな。

 小川と呼ぶのもどうかというほどの水流を跨いだ瞬間、妖怪退治屋はそれの殺気を感じ取って瞳孔を大きくした。早速のお出まし、仕事がすぐ片付いて良い。

「なんだお前は、村の衆ではないな?」

 岩の間からぬっと立ち上がったのは、身長一丈ほどの妖怪である。猿のような両生類のような、しかして顔の造りは人間に近い。木の葉の腰蓑を纏うだけ、あとは逞しい身体が剥き出しである。この山に棲み、村人を困らせている(やま)(わろ)だ。

「俺は供え物を持ってこいと言った。刀を提げたおかしな奴を寄越せとは言うとらん!」

「誰がおかしな奴だ寝惚け野郎。俺は村の連中から依頼を受けてここに来た。長い冬眠から覚めた妖怪があれやこれやと要求してきて、聞き入れられなけりゃ暴れ回って家を壊すとな」

「昔の人間は俺を敬ったぞ。当たり前のことだ」

 俺がいちばん強いからだ――山童は大威張りに威張る。

「人間の(はら)(わた)は諦めろ」

「いいや食う! 若い人間の生き(ぎも)をな!」

「そもそも若い奴がいねぇだろうが」

 ふんっと鼻息を吹いて、山童は突如四股を踏んだ。この手の妖怪お得意の相撲で相手をいなしてやろうというのである。

「昔より豊かになっておきながら、俺に渡すものはないとぬかすか!」

 腰を落として山童が突撃をかけてきた。話が通じない、交渉の余地なし。もちろんライコウは退治屋であるから、和解など端から目指してもいなかった。

 びゅうと風を唸らせて妖刀の一閃。まず山童の張り手が切り離されて宙を舞った。驚く間もなく第二、第三、第四の斬撃が襲う。乱れ斬りだ。返り血を浴びて退治屋の顔面は黒猫に変貌していく。周囲の枝葉も巻き込んで、山童は切り刻まれていった。

 ぼちゃ、と肉片が水溜まりに落ちた。

「俺は機嫌が悪ィんだぞ」

 それは全く凄惨な光景だった。山童の上半身は原形も留めないまでばらばらになり、腰蓑から下だけが呆然と立っているのだ。最早それも肉塊である。勝負というほどの勝負でもなかった。山童は、死んだ。

「年寄り一人の命と交換だ。安いもんだろ」

 刀を地面に突き立てながら平淡な調子で吐き捨てると、ライコウは死骸に背を向けて煙草に火を着けた。あるいは、これが彼なりの弔いかも知れなかった。


     *


「いや、悪いねえご馳走になっちまって。俺ぁあんな洒落た店に入ったの初めてだよ」

 女子大生の奢りで腹を満たし、上機嫌に拍車がかかった化け狸の銀蔵。車を降りて立つのは燦凛大学の某学生寮の前だ。

「いいかね君たち。女子大の寮にこんな男が入り込んじゃ怪しまれる。敵の目はどこにあるか知れねぇからな。(やっこ)さん怪しいとなりゃすぐ退くだろ?」

 智花と美羽がこくりと頷く。

「だから俺も今から女子大生だ」

「は?」

「女装するってことよ。新しく寮に来た学生って(てい)で接してくれ、な。それで河童が出てきたら、あとはそいつを使って――」

 美羽がビニール袋から新品の包丁を覗かせた。先程購入してきた切れ味鋭い品だ。

「よっしゃ行くぞ!」

 ぽん、と銀蔵の体が濃い煙に包まれた。煙は一瞬にして晴れ、中からは装いを改めた化け狸が――。

「銀蔵さん……? 女装ってまさか」

「むふふふふ、上手く化けるだろぉ?」

 依頼人ががくりと肩を落としたのは言うまでもない。ウェーブのかかった金髪は安物のパーティーグッズのよう。(バスト)(タマ)を二つ詰めただけ、ミニスカートから伸びる足は細くなってはいるが、疎らに茶色の毛が飛び出ている。しかも白く塗りたくった顔は先程と寸分違わぬ緩い造りだ。

「さぁて、行きますわよ、おほほほほ……」


 智花が妖怪退治屋を連れてくると聞いて、状況打開に淡い期待を寄せていた仲間たちは、現れた奇怪な女装男の姿を目にして一様に蒼褪めた。これが黒い手を退治する?

「あぁら皆さん、調子が悪そうですわね。どうぞお休みになってくださいませ」

 おほほほほ――最悪の演技だ。

「これからしばらくお世話になりますわ。いきなりですけれど、お手洗いの場所を教えて下さらない? わたくし催してきましたの」

 本気でやっているのだとしたら大馬鹿だ。誰も動こうとしないので、うんざりした様子で智花が案内する。

 一階のトイレは廊下の突き当たりにあった。

「んじゃ、ちょっくら捜査してみますかい」

 ドアを閉めた銀蔵は馴れない手つきでスカートをずり下ろした。トイレは見たところ清潔に保たれていて、旧時代の妖怪が付け入る隙はなさそうだった。もし悟られるといけないので便器の水は敢えて観察せず、速やかに大きめに化けた尻をどっと置く。

「ふぅ……」

 そう待つ必要もないだろうが、それでもすぐに手を出してもくるまい。せめてライコウが鹿児島から戻ってくるまでに自分ひとりで功を挙げて、助手たるべき能力のあることを認めさせてやりたい。なに、気の弱い河童ぐらいなら簡単に退治できることは、昔話が照明している。

 ぽた。

 水滴の音。

 ぴちょん。

 また水滴。

 ぱた。

 そして。

 ――ぬるり。

「ひゃっ⁈」

 なんということだろう。寮に来て早々、話に聞いた感触が尻から頭の先へ駆け抜けた。ぬめぬめとした冷たい粘液に包まれた、毛が生えて、ごつごつした気味の悪い手にねっとりと撫でられるこの不快感! 精神的凌辱による屈辱!

「早速おいでなすったか!」

 銀蔵は便座から飛び退くと、獣特有の身のこなしをもって突き出た黒い手に掴みかかった。手は智花が語った通り、毛むくじゃらの五本指だった。洋式便器の真黒く変色した水面から、気味の悪い手だけが(あらわ)になっている。やはり水に溶ける術を心得ているのか、肘から上の一切は水中に存在していないようにみえる。

「おおン⁈」

 銀蔵は黒い手を引きずり上げようとしたが、手の方も猛烈な力で対抗し、水の中に逃げ込もうとしている。おまけにぬるぬるとした粘膜に覆われているから、銀蔵の方は相当に力を入れていないと手が滑ってしまう。

「こいつぁ意外と……っとととと!」

 坂を滑り落ちようとする大岩に括りつけた縄を引くような具合だ。気を抜いては即時逃げられてしまうだろう。

「ふんぬぬぬぬぬ!」

 便器に片足をかけ、銀蔵は全力で謎の手を引っ張る。上がっては戻り、また引き寄せては逃げられる。一進一退の攻防が数十秒続いた頃、異様な物音を聞きつけて女子大生たちが駆けつけドアを開けた。手伝ってくれという銀蔵に応じ、まず智花が彼の腰に手を回した。悲鳴を上げていた残りの面々も同様に手を回し、童話の「大きなかぶ」のような光景となった。

 ここが踏ん張りどころである。

「よぉっし! この調子だぁ!」

 銀蔵が声を絞り出した。手はずるずると便器から引っ張られ、初めは溶けて見えなかった二の腕あたりまで実体化している。

「いっくぞぉぉ! オーエス‼」

「……おーえす」

「声が小さいッ!」

「オーエス! オーエス‼」

 戸惑いながらも一同は声を張り上げて黒い手を引いた。妖怪は力負けしつつある。これならいけそうだ。

「美羽ちゃん! やれッ」

 銀蔵の声で最後尾にいた美羽が戦線離脱したかと思うと、例の包丁を握りしめてトイレに駆け込んだ。そして銀蔵が必死で捕らえている黒い手の肘関節に、ぎろりと鈍く光る刃を押し当てた!

 生魚を骨ごと切る感覚と大差なかった。思ったほどの力も要らず、黒い手は黒い水――不定形の身体からぶっつり切り離された。銀蔵たちがどっと廊下に倒れる。切断面から吹き出した夥しい血はトイレの洗浄剤のように青く、数秒を経て黒く変色した。それを浴びて美羽も銀蔵も壁も便器もトイレットペーパーも真っ黒になった。一同が混乱している間に、妖怪の本体は手を残して下水管の奥深くに逃げてしまった。

「ふいぃ……首尾よくいったな」

 銀蔵は顔の血と汗を拭ってにやりと笑った。切り取った黒い手を、やはり釣った魚のように目の高さまで持ち上げてみせる。女たちは気味悪がって後退した。

 智花が苛立ちを隠さず刺々しい声を出す。

「逃げられちゃったじゃん!」

「まあまあ。これがあんたらを悩ませてきた妖怪の手だ。なあ、きっちり蓋のできる箱かなんかないか? (これ)をしまわにゃならん」

 美羽は興奮冷めやらぬ様子で、胸元で包丁を握ったまま黒い手を凝視していた。活造りのように、時折ぴくんぴくんと痙攣を繰り返している。

「河童の手……」

 服も何も黒に染められて不機嫌そのものの智花だったが、危なっかしい美羽の手から包丁を剥がすと、やや震えた声で銀蔵に尋ねた。

「これで退治できたわけじゃないでしょ?」

 銀蔵は目を閉じ、首をゆっくり横に振る。

「うん、まだだな。だが……何もかも昔話の通りにいってる。心配するこたぁねぇさ」

 銀蔵は依頼人らを伴ってリビングに引き返すと、自分が知っている限りの河童退治譚を披露した。日頃の悪戯を懲らされた河童は、往々にして謝罪に訪れる。そしてすっかりしおらしくなって詫び証文などを残して帰るのである。場合によっては切り取った手を返してもらった礼として、雨乞いをして村を潤したり、秘薬の製法を伝えて家を富ませることもあった。

「でも、切り取った手なんか返してもらっても……」

 一人が疑問を呈すると、チッチッチ、と銀蔵は舌を鳴らした。

「人間とは体の(つく)()が違うんだなぁこれが。科学的な話はさっぱりだけどな」

 あいつら手足がちぎれてもホイホイくっつけやがんだ、と憎々しげに銀蔵は言う。

「逆にちぎれやすくもあるんだけどな。種類によっちゃ、右手をグイと引っ張りゃ左手までズルッと抜けちまう、なぁんて話もある」

 へえ――と、一同なんともいえない顔をする。

「ふふん、俺だってこんくらいは知ってんだよなぁ。雨乞いや薬までくれなくたっていい、証文とって今後一切この界隈には立ち入らないこと! つって約束させりゃ解決よォ」

「そんなに上手くいくの?」

「こちとら大事な大事なおててを握ってるんだぜ?」

 銀蔵はにんまり笑って、結局フリーザーバッグに入れた黒い手に我が手を重ねた。爪までが黒光りしていて至極不気味だ。


 その夜、銀蔵狸は寮の一室を借り、学生たちより早く眠りに就いた。どうせ深夜になれば、例の湿り気を帯びた訪問者に起こされるだろうと踏んでいたからだ。大胆にも黒い手の入った袋を枕代わりにして。きっとおずおずと、あのぅすみませんが(わたくし)めの手をお返しいただけませんでしょうか――などと手をついて謝ってくるに違いない。

 そして銀蔵がうつらうつらとしはじめた頃、課題のレポートを書き終えた美羽は脱衣所にいた。本日二度目の入浴である。裸になるとフル稼働で熱くなった頭も少し冷えた。

 彼女にとっては激動の一日だった。自然と今日までの波乱と鬱憤が込み上げてくる。

 はるばる九州から進学してきた彼女は、生来の引っ込み思案と自己嫌悪の癖のために、親友と呼べる存在がいなかった。ゆえに常に絆に飢え、孤独を恐れていた。もちろん入寮が決まった時も不安で一杯になった。遍歴も性格も思考もばらばらの十二人。それが却って良い働きをしたのか、皆ゆっくりとだが打ち解けた。美羽のマイナス思考も、この場では個性として受け入れてもらえた。幸せだった。ようやく名に負った美しい羽を広げられそうだった矢先。

 あの破廉恥な黒い手が友情を分断したのである。憎くて仕方がなかったが、今日この手で仕置きをしてやった。だから少し気分が晴れた。復讐は(たの)し。

「そんなに俺の手をぶった切れて嬉しかったんかい」

 美羽の剥き出しの背に浴びせられた恨みの声。シャワーに手をかけようとする姿勢のまま、美羽は凍りついた。

「だ、れ……?」

 排水口の底がごぼごぼと唸りを立て、蓋が小刻みに震えた。胸を悪くさせる臭気が上ってくるのに少し遅れて、トイレで見たのと同じ真っ黒な水が溢れ出してきた。

「いや……うそ……!」

 大量に噴出したそれは驚くべき速さで美羽の頭上まで上って二足を形成し、間をおかず人のようで人でない姿にとなった。全身真っ黒い毛に覆われ、目は懐中電灯を埋め込んだように輝き、尖った耳と鋭い牙を有する異獣だ。頭頂が天井に着きそうなほどの身の丈、水を吸って重そうな僧衣を身に纏っている。

「出たぞォ。俺だ」

 妖怪の片腕は袖の中にすっぽり収まっていた。それもそのはず、肘から先は銀蔵狸が枕にしている。

 美羽は手で胸と下半身を隠して立ち尽くした。出入口は立ちはだかる黒い妖怪に塞がれてしまったのだ。妖怪は丸い目を細めていやらしい笑みを浮かべた。

「お前さんの乳は初めて見たな」

「ひッ……‼」

 彼女に浮かんだ恐怖の色は、恐らく妖怪の爪の色と同じだった。


 絹を裂くような悲鳴で銀蔵は飛び起きた。

「美羽さん……⁉」

 何が起こったか分からないまま助けに走ろうとした銀蔵だったが、不意に棒のような物で突かれて再び仰向けにされた。暗い部屋の中に、見も知らない二人組が立っていた。

「っぐぁ! なんだあんたら⁉」

 二人は銀蔵と同じく頭髪がない。表情に乏しい顔は双子のようにそっくり、どちらも()()を着た僧侶の風体である。怪僧二人が(しゃく)(じょう)で銀蔵の胸を押さえつけているのだ。

「おい! 何の騒ぎなんだ、離してくれよ!」

 怪僧はきっと眉を吊り上げて怖い顔をして銀蔵を覗いた。

「な、なんだよ……」

 そして錫杖を振り翳すと、無言のまま銀蔵を散々に打ち据えはじめた――。





 妖怪退治屋ライコウは伊弁田邸の座敷で酒を振る舞われていた。山童退治のささやかな礼である。酒席を囲む老人たちの仕草には、感謝よりも一種の畏怖が滲み出ていた。

「お前ら眠たいんならとっとと寝ろ。年寄りは早く寝るもんだ。俺はバスの始発が来たら勝手に帰るし、退治料は後で請求する」

「はぁ。そうですかぁ。いやぁこの度はろくなお礼もできませんで。しかしお蔭さまでこの村もこれからは安泰に――」

「もうその繰り言はやめろ。夢に見そうなほど聞いたぞ」

 金さえ払えばそれでいい、が九生妖怪退治社の基本理念だった。言葉を遮られた伊弁田老人は些か残念そうに頭を掻いた。

「もし、電話です。ライコウさんにと」

 伊弁田婦人に呼ばれたライコウは電話台に立ち、使い古された受話器を受け取った。

「おう、あんたか。心配いらねぇ、化物はもう退治した」

 電話をかけてきたのは伊弁田夫妻の孫娘、すなわちライコウの元に今回の事件を持ち込んだ人物だった。すぐにカタをつけるという言葉を確かめるため、東京から連絡を寄越してきたのだ。

「バラバラにしてやったさ。それで、細切れの死骸は山に埋めた。もちろん追加の怪我人死人は出してない」

 老夫婦ははらはらした様子で通話中の妖怪退治屋を見守っている。(いく)()になっても可愛い孫、その声が聞こえずもどかしいのだ。

「なに? 高校の後輩だと? そんな奴らは知らん。もう紹介したのか。ふん、来てたとしても事務所は留守だし――ん」

 その時だ。玄関の方から何やらめきめきと凄まじい音が聞こえてきた。重機のアームでも突っ込まれたかのような、耳が遠くなった老人もすぐ目を覚ますほどの大音響だった。

「化け猫! もう一度勝負してみろっ」

 野太い声は紛れもなく斬り殺したはずの山童だ。ライコウは刀を取って玄関に馳せ参じた。そこには、果たして山で会った時と寸分違わぬ姿の妖怪が待ち構えていた。もちろん玄関周りは既に滅茶苦茶に破壊されている。

「生き返ったってのか!」

 刀の(つか)に手をかけてライコウは叫ぶ。山童は不敵に笑って答えた。

「甘く見たな」

 抜刀。一閃。

 ライコウは山童を逆袈裟に斬り上げた。鮮血がまた迸る。

 妖怪を睨みつける顔もまた妖怪。怒りのためにライコウの顔は再び黒猫と化していた。鼻面に皺を寄せ、あの恐ろしげな唸り声を発している。物陰から異常な戦いを窺う老人たちは一様に戦慄した。

 手負いの山童は仰け反るところを踏み止まり、気合いと共に張り手を一発打ち込んだ。ライコウの身が廊下を飛んだ。起き上がったライコウが再び張り倒され、足蹴にされる。老人たちは悲鳴を上げて奥の座敷に逃げていった。

「わっはっは。今度は俺が白星をあげてやるぞ」

 酒を用意しておけ――山童はずんずんと廊下を歩く。先程の傷がもう塞がりつつあった。

 しばらく床に臥していたライコウだが、頃合いを見計ってまた敵に組みついた。

「おのれ小癪な!」

 狭い廊下の壁に背をぶつけ合いながら、化け猫と山童の格闘が展開された。邸内は地震のように揺さぶられ、見るも無残に壊れていく。食器棚を倒して炊事場に転び入った両者は、ここでようやく離れることができた。妖刀・(はち)(わり)が獲物を狙う。

「死ねッ」

「ぐゎあ‼」

 今度は一刀のもとに山童の首を刎ね落とした。首だけがごろりと転げて座敷に先着する。老人たちがわっと声を上げて恐れた。一方、胴体の方はまだじたばたと暴れている。ライコウは先と同じ手順で妖怪を解体していった。ぼとぼとと床に落ちた肉片は、数秒経っても盆の上の豆腐のように小刻みに震えていた。

「そういうことか!」

 ライコウは肉片の一つに(どんぶり)(ばち)を被せ、片足を乗せて重石にした。閉じ込められた肉がぴちぴちと跳ねる震動が伝わってくる。急な事態に、妖怪退治屋も肩で息をしている。ライコウの動きを見ていた老人たちは意図を察し、同じように器などで個々の肉片を隔離した。

「退治屋さん、化け猫さんでしたか」

「ったく、斬っても死なねェなら初めに言いやがれ!」

 黒猫は悪態をついて牙を剥いた。

「こいつは似たような種類の中でも特に再生力の強い妖怪なんだ。昔、(わろ)殿(どん)と呼ばれて恐れられたのがそうだ。そうか……この村にもいやがったか畜生め」

「燃やしてしまいましょう!」

 ある老翁が戦時中に還ったかのような顔で提案したが、ライコウはいいやと退けた。

「灰にしただけじゃ結集すれば元の木阿弥だ」

 そう答える間に顔の毛は引っ込み、人間の容貌に戻る。

「しかし、いつまでも茶碗で押さえておくわけにもいきますまい」

「うるせぇジジイだ」

 策はある――ライコウは縮めた刀を上着のポケットに入れた。それもとびきり単純なやつだ、と言う。

「まずは飲み直す。酒」


     *


 (したた)かに打たれて瘤だらけ、瞼は腫れて目も開けられないような酷い顔にされた銀蔵狸は、僧二人に引きずられて共用リビングにやってきた。ソファには全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、大きな(まゆ)のようになった美羽が横たわっていた。

「ご苦労!」

「派手にやったな」

 僧の片割れが言うと、テーブルの上で()(ぐら)を組んでいた異獣はふんと鼻息を吹いた。

「俺は優しい。ちゃぁんと繋ぎ合わせておいたわい」

 それを聞いて、同じくリビングに集められた学生たちにも激しい動揺が走った。

僧の一方が切り取られた獣の腕を投げ渡した。かれは傍に置いていた(はまぐり)の殻から塗り薬をたっぷりと(すく)い取ると、傷口に万遍なく塗布した。そして切られた腕をそこに押しつける。

「ああぁ……これで落ち着いた」

 ただそれだけの行為で、腕は元通りに接着してしまった。思いのままに指先が動いている。妖怪が伝える秘薬の効能と持ち前の治癒力の賜物(たまもの)だろう。

「おいお前!」

 妖怪が回復した手で差すと、僧が指で強引に銀蔵の瞼を押し広げた。異獣の姿を見て、銀蔵はひどく狼狽した。こんなに恐ろしげなものが出るとは予想していなかったのだ。そして、怪僧二人はこの妖怪の仲間なのだろう。

「なっ、なんなんだよぉあんた……!」

「さぁな。巷では見たまま(くろ)()と呼ばれているが」

 妖怪黒手はテーブルから降り、銀蔵の前にぬっと立った。

「ひとの趣味を邪魔するもんじゃないなあ」

 (まなこ)を爛々と光らせ、低い声で詰る様は非常に威圧的である。銀蔵でなくとも震え上がる。

「しゅ……しゅ! 趣味ってあんた、便所に隠れて娘のケツ撫でまわすのが趣味かい⁉」

「悪いか? 取って食うわけでもなし」

 黒手は鋭い爪で銀蔵の顎を持ち上げた。

「それをお前さん、いきなり包丁でバッサリだ。あまりに酷い」

「ひひひ酷いってお前、俺は女性の味方よ。痴漢なんぞ許しておけるかってんだ!」

「はぁ。そういうもんか。ところでお前さん、いったい何者だ?」

「お、俺は……妖怪退治屋の銀蔵ってもんだ!」

「妖怪退治屋ァ」

 聞いたことがあるぞ、と僧が言った。

「人間の頼みで金と引き換えに妖怪を退治しておる輩だ」

「不届き千万な我らの(かたき)ぞ」

「なァるほど」

 俺は退治屋を捕らえたわけか――と黒手は嬉しそうに呟いた。

「功名が上がるなあ。しかし退治屋ということは、誰かに頼まれて来たわけだ」

 誰だ――と言う問いに、銀蔵はただ迫力皆無の睨みを利かせるだけだった。腰が抜けた彼の精一杯の反抗だった。黒手は呆れたように銀蔵を突き放すと、重傷の美羽を囲む寮生たちを見て目を細めた。

「頼み人は誰だァ?」

 静寂が耳を貫いた。若い女たちは教師に怒られ萎縮したように項垂れ黙りこくって、実年齢より幼く見えた。

「うん。よしよしよし、と」

 勝手に何か考えて納得したようで、黒手は幾度か頷いた後にぱんと手を打ち鳴らした。全員が更にびくりと恐縮する。

「全員が頼み人ということにしよう!」

「そんな!」

「待ってよ!」

「口答えするな。最初に訊いた時は誰も答えなかったくせに。人間は連帯責任が好きだと昔聞いたぞ。あぁもう誰が何を言っても聞く耳持たず。俺が決めたからにはお前さん方全員が頼み人、全員が俺たちの敵で捕虜だ!」

 わっはっはっは――黒手は隣近所に響きそうな大声で笑った。何がおかしいものか。

「じょっ、冗談じゃねぇやい! 誰がお前なんかの捕虜になるか!」

 錫杖に押さえつけられながら銀蔵が吠えた。黒手はそんな彼の頬をべしゃりと叩いて黙らせる。すいません、と小声で言った銀蔵の顔は、それは情けないものであった。

 異様に殺伐とした空気が充満している。包帯の中で美羽が微かに呻いた。逆らえばこうなるぞという警告のようだった。

「あちこち放浪した末にやっと見つけた安住の地。俺はまだここを出ていくつもりはない。そして、お前さん方を出て行かせる気もなくなったわけだ。ここまでわかる?」

 女子大生たちは何度も首を縦に大きく振った。

「うんうん。今まで尻ばかり見ていたが、なかなか顔も可愛らしいな」

 銀蔵の腹の底にふつふつ湧く怒りも、恐怖という冷水を注がれて駄目になってしまう。

「それにしても腹が減ったなあ」

 わざとらしく黒手が言うと、女たちは一斉に台所へと走った。

「よしよし。うんと美味いものを作ってくれよ!」

 僧が気心知れた様子で黒手に言う。

「怪我の功名だな」

「きさま、言ったな! はっはっはっは……!」

 黒い手で満足げに顎を擦ると、今度はきっと鋭い目つきで銀蔵を射竦めた。

「で、お前さんはどうする?」

「……か、肩をお揉みしますぅ」

 へつらい笑いの奥で屈辱と絶望とを噛み締める。ああ、こんなはずじゃなかった。






 妖怪退治屋ライコウがひどく不機嫌なまま鳳川の事務所に戻ってきたのは、一夜明け、そしてまた陽が傾きかけた頃のことだった。

「しゃっちょぉーう! お帰りなさい!」

 鍵を開けようとする彼の背後で、クリーム色の猫が朗らかに鳴いた。

「思ったより長居してましたねぇ」

「うるせェ」

 ライコウは猫――ノーマに寿司折のような包みを投げた。

「なんですかこれ? お土産? 食べていい?」

 興味津々で包みの匂いを嗅いだ瞬間、ノーマは顔を顰めて後退した。

「くさァい‼ こんなの食べらんない!」

 げほげほと咳き込みながら、可愛らしい猫は電柱の陰に隠れてしまった。それを見たライコウは、ほんの僅かに落胆したような表情となって包みの紐を摘み上げた。彼にしては珍しい仕草だった。

「お前でも食わねぇか」

「もう最悪ぅ」

 そう言ったのは猫ではなく、電柱の陰から出てきた異国人風の美少女だった。目尻からうっすらと線が引かれている。化け猫ノーマはなんですかこれともう一度問うた。

「なんだと思う」

「腐った玉子と納豆をぐちゃぐちゃにかき混ぜたのにおしっこかけて三日寝かせたやつ」

 ライコウは答えは明かさずに事務所へ入った。待ってよと言ってノーマも続く。今日は尻尾を隠すのを忘れていて、スカートの上から飛び出している。

「ねーってば。こ、た、え、は?」

「ほんとにうるせぇガキだな。肉だよ肉」

 ライコウはデスクの(ひき)(だし)を開けると、そこから適当な霊符を出して包みにぺたりと貼りつけた。これじゃ安心できねぇと言いつつ、椅子に腰を下ろして煙草に火を着ける。

 移り気な雌猫は早くも謎の包みに対する興味が薄れ、視線をあちこちに移している。だが何も変わり栄えしない事務所にも飽きると、そうそうと言って昨日の出来事を話しはじめた。

「銀蔵さんがね――」

 それを聞いてライコウの苛立ちがピークに達したのは自明のことだった。


     *


「おい召使い! 怠けると承知せんぞ」

「はい! 承知しております!」

 黒手に捕まり召使いとされてしまった銀蔵狸は、朝から寮の裏手に大きな穴を掘らされていた。首には縄がかけられており、逃げだそうとすれば黒手の腕力で縄が引かれる。すなわち窒息死だ。

「……っくそ、なんでこんなことに! 俺ひとりで妖怪をかるーく退治して、ライコウちゃんに実力を認めさせるはずだったのに!」

「何か言ったかァ」

「いいえ何も! えんやこらー!」

 黒手は二階のベランダから働く銀蔵を監視していた。暇なのである。寮の中では例の僧ふたりが酒を酌み交わしていた。こちらも暇なのだ。

「いいかァ、穴は深くて、あちこち枝分かれしてるのがいい。モグラやアリの巣のでかいやつと思え! 中にはプールのような水溜まりも作れ。俺にとっちゃそれが好ましい住処なのだ。やっぱりカルキの水には長居するとしんどいからな。銀蔵、昔の便所を知ってるか。まだ(かわや)と呼ばれていた頃のあれだ。あれはいいもんだった。まず薄暗くてじめじめしているだろう、それでな――」

 ここから黒手の便所談義が始まる。銀蔵にとっては耳が腐るような苦痛の時間だった。

「……というわけで、よく精を出せよ。完成したらこっちの角ばった建物はお前たちの寝所にしてやる」

「はいはい、ありがとうございますッ!」

 切れの良い返事を聞いて、黒手は独りごとを言う。

「……妖怪退治屋とは神をも恐れぬ奴と聞いておったが、あれは噂が独り歩きしておっただけか。何にせよ強い敵でなくてよかった。俺は生まれつき争いごとは苦手だしな」


 辺りが暗くなってくると、大学に行っていた智花ら四人が浮かない顔で帰ってきた。

「収穫は⁉」

 黒手がベランダから声をかけると、智花はだめでしたと答えて玄関に上がった。

「ふん。まぁ、そう上手くはいかないか。明日も精を出せよ」

 スコップを盛んに動かしながら、銀蔵は内心で悪態を吐く。

 ――あの野郎! とんだ助平親父、いや変態だ! あの子たちが大学に行くのを許したのは、別な娘を寮に引き入れさせるためなんだ。外出を許すから飯の用意をしろだって! それから風呂も一緒に、あと添い寝もしろ? 尻も撫で放題だと喜びやがったな。終いにゃなんて言った? そうだ、このまま逃げたり勝手なことをすれば友達をもういちどバラバラにするぞとほざきやがったんだ! あぁくそ! なまじ馬鹿力があるせいで逆らえもしねぇ。腹が減ったなぁ。俺のメシはいつ当たるんだ? つまんねえや。どうしてライコウみてぇに上手くいかなかったんだか……まるで、自分の墓穴を掘ってるような気分だぜ!

 日が暮れてようやく労働から解放された銀蔵狸は、疲れ果てて寝室に倒れた。黒手は彼の食事のことなど忘れて、女たちに晩酌の相手をさせていた。

「銀蔵さん……大丈夫ですか」

「あ……」

 電気も点いていない暗い部屋の片隅に、置き場に困った荷物のごとく転がされていたのは、美羽が入った包帯の繭だった。憐れな彼女は、それでも口が利けるまでに回復していた。

「痛むかい。って当たり前のこと訊いちまったな、すまん」

「いえ、実はあんまり痛くないんです。何か薬を塗られたみたいで、じんじんと熱いですけど」

「傷はきっと元通りになるさ。妖怪の薬は強力だから……」

 そこで一旦言葉を切った銀蔵は、ばっと身を返して繭の前まで這い出すと、そのまま額を床にぶち当てて土下座した。

「美羽さんすまねぇ! 俺が軽はずみな真似したばっかりに、あんたをこんな目に遭わせちまって。すまねぇ、すまねえぇ……!」

 美羽は何も応えなかった。この姿では起きているのか眠っているのかも判別できない。

 だが、構わず銀蔵は謝り続けた。涙声は次第に枯れ、いつしかその顔は禿頭の男から、矮小な動物に変じていた。

「……俺はよ、本当は妖怪退治屋なんかじゃねぇんだ。本物の退治屋に実力を認めてもらいたくて、留守中に嘘をついて仕事を引き受けた。でも黒手なんて化物ぁ聞いたことがなくて、しかも俺の手に負える相手でもなかった」

 俺は悪ダヌキだぁと言って銀蔵は泣いた。

「せめて誰かにこのこと伝えてから行くべきだった。ライコウちゃん、きっと俺はまた放浪の旅に出たんだと思って行方を捜しもしねぇんだろうなぁ……」


 翌日、首が絞まる苦しさで銀蔵は目を覚ました。

「朝だ! 銀蔵! 食い物が尽きた。用意しろ!」

 縄を巻き取りながら寝室に踏み入った黒手は、首を絞められもがいている狸の姿を見た。

「お前さん化け狸だったか! 見ろ女ども。お前たちが頼ったのはこんな狸だったぞぉ」

 この状況が()()しいのは黒手だけだった。失望した智花たちは狸に軽蔑の視線をくれた。

「わははは……これはいい。使えなくなったら狸汁かな」

「ひっ、勘弁してくれぇ!」

「だったら食い物を調達してこい。レーゾーコが空っぽで女どもも困っている。言っとくが俺は一文無しだ!」

「なに威張ってんだよ。俺だってそうだよ! 今度は盗みでも働けってのか⁈」

 そうだ、と黒手は何食わぬ顔で応じた。拒むという選択肢はなかった。

 結局その日、銀蔵は朝から晩まであちこちの店に赴き、様々な化け姿を駆使して食物や酒を盗んでは寮へ運んだ。この時ばかりは縄を解かれていたので、何度も逃げようと思い、寮とは反対の方角に足が向いた。だがその度に、罪のない若い女が八つ裂きにされる幻影を見てしまい、滑らかな顔面に脂汗を浮かべて引き返すのだった。仕事終わりに僅かの野菜屑を恵んでもらった狸は、食い終えた直後に死んだように横たわり、泥のように眠った。日が昇ったらまた穴を掘らされる夢を見て、(うな)された挙句に己の叫び声で目が覚めた。

 それから。

 ふと、冷静になった。

「……これじゃあいけねぇんだ」

 この身は露と消え果てようとも、あの子たちのために妖怪だけは追い散らさねばならない。広い括りでいえば同じ仲間の妖怪同士、なぜ相争うのかといえば、害を受けて苦しむ平凡な人間を無視できないからだ。少なくとも銀蔵にとってはそうだった。

 銀蔵は一念発起して傷んだ身を奮い立たせた。首の縄を辿って二階に上がると、女の膝枕でテレビを見ている黒手に、台所から拝借した麺棒で殴りかかった。

「この野郎!」

「おお、どうした銀蔵狸!」

 麺棒は弾き飛ばされ、代わりに繰り出した握り拳は妖怪の大きな掌に包まれてしまった。ああ、まさに赤子の手を捻るようなもの。特攻は恰好もつかず終わった。

「地獄まで穴を掘りたいか馬鹿者め!」

 強烈なビンタを食らって、銀蔵は脳震盪を起こして倒れた。

「その弱っちい男を下に運んでおけ。目覚めても考えが変わらんようなら飯のおかずにしよう」






 午前五時。

 深夜までたらふく飲み食いした黒手は、女を両腕にかき抱き、鼻提灯を出して深い眠りに落ちていた。邪魔するものなどいようものかという傍若無人ぶりだった。女たちはまともに眠れたものではない。

 そこへ、奴はやって来たのである。

 薄闇の中で高貴に浮かび上がる白い背広を着て、薄明りに穴を穿つような真っ黒な顔で。

 妖怪退治屋ライコウはやって来たのだ。

 ライコウが窓を叩き割って寮に侵入すると、手練れの僧ふたりが覚醒して錫杖を構えた。

「なんだ?」

「くるぞ!」

 怪僧は侵入者を求めて駆けだした。

 突然の物音で腕の中の女たちが騒ぎ始めたので、二階寝室の黒手も寝惚け眼を擦った。

「もう学校の時間か……?」

 その時、寝室へ呻き声と共に僧たちが転がり込んできた。二人とも錫杖は折れ、全身傷だらけになっている。

「おい! 何があった!」

 黒手が目を剥いて叫んだ。僧の片方は唇を震わせながら廊下の方を指差した。

「骨のねぇ奴らだ。タコ坊主が」

 俺は犬とヌルヌルした生き物が嫌いなんだよ――戸口に立つ男は吐き捨てた。片手には刀が握られている。その刃に妖気を感じた黒手は、仲間を置いてすぐさま逃げだした。

「戦略的撤退!」

 体当たりで窓を破って地上に降りる。

 ライコウは光る猫目で震える女子大生を数えた。

「伊弁田響子の後輩ってのはどこだ」

 二秒ほどおいて智花が震え声で答える。

「妖怪に怪我させられて、下に」

「じっとしてろ」

 獣人は(きびす)を返して下に降りていった。

「えっ」

「ちょっと、このお坊さんは⁉」

 僧形の妖怪は昏倒しており、危害を加えようにも加えられない状態だった。

 さて、一回に降りたライコウはまず銀蔵を探し出すと、眠りこけている彼を蹴飛ばして起こした。銀蔵はげほげほと咳き込みながら、自分を起こしたのが頼もしい妖怪退治屋と知る。

「ライコウちゃん! 来てくれたのか‼」

「寝言をほざくなこのクソ狸。余計な仕事を増やしやがって」

 今度こそ殺してやるなどと呟きながら、目を輝かせて喜ぶ銀蔵を放って、ライコウはひとりで外に出た。もちろん、化け狸も今までの疲れを忘れ後に続いた。

「強敵だぞ、気をつけろよ!」

「河童か?」

「黒手ってヤツだ」

「大して変わらん」

 そしてライコウは裏庭に掘られた大穴に呆れかえった。だが、恐れはなく、刀を掲げてその中に飛び込んでいった。

「やはり俺の趣味を邪魔するのか!」

「邪魔されたくなきゃ一生野壺の底にでもすっこんでろ変態性欲者が。今日の俺はいつもの五倍はイラついてんだぞ」

 穴には予想通り黒手が潜んでいた。黒手は不意をついて敵を肩からでも裂いてやろうと考えていたが、相手は百戦錬磨の妖怪退治屋。しかも凶刃を握りしめているのだから手に負えるはずもない。黒手は程なくして突き当たりまで追い詰められてしまった。

「さては、お前さんこそ本当の妖怪退治屋だな」

「確認がいるか?」

「已む無しッ」

 振り下ろされる刃を黒い毛に覆われた腕が受け止めた。()(かげ)のごとく腕一本を犠牲にして、黒手は窮地を脱出した。穴から這い出た妖怪は、苦痛に声を上げてどこかに走り去る。

「ライコウちゃん! あいつ逃げちまったよ!」

 穴から上がってきたライコウは騒ぐ銀蔵を睨みつけた。白いスーツが黒い血で台無しだ。

「いちいち喚くな鬱陶しい」

 そして切り取ってきた黒い手を銀蔵に押しつけようとした。が、すっかり黒手恐怖症になってしまった狸はそれを全力で拒否した。仕方なく、ライコウは手を掴んだまま、排水溝に沿って歩きだした。側溝には水がさらさらと流れ、車道にある幅広の用水路へと注いでいた。

「ノーマ!」

 はいはいと楽しげに答え、少女が大きな水筒を持ってライコウの傍へ小走りにやって来た。そして溝を覗き、水の流れを目で追った。

「んじゃ流しますね」

「早くしろ」

 ひと遣い荒いんだから――ノーマは鼻をつまむと蓋を取った水筒を傾け、溝に不審な液体を注いだ。ヘドロのようだ。

 謎の粘液は水に溶け、速やかに車道側の用水路まで行き着いたものと思われた。

するとどうだろう。

 水面が突如として異様なうねりに見舞われた。それはまるで不可視の何者かが苦しんでいるようだった。つまり、液体をその身に取り入れてしまった黒手が、拒絶反応に身を捩っているわけである。やがて苦しむ液体は、ぎゃおぉぉぉ――とけたたましい叫びを上げ、半透明の手を伸ばしてもがくようになった。激しい波立ちは一ヶ所だけ、それは水流に押されて、寮からどんどん遠ざかっていく。

「あっけないもんだな」

 ライコウは用済みとなった手を穴に向かって投げた。ホールインワン。


 黒手が去った頃、二階で伸びていた僧ふたりの姿が忽然と消え失せた。死んだのではないだろうが、もはやこの場所にいる理由がなくなったのである。

 学生たちは呆気にとられながらも、事の終結を確かめようと連れ立って外に出た。


「この騙りのバカ狸が! ふざけやがって! こうしてやるっ」

 智花たちは痛罵の声を頼りにライコウの居場所を探り当てた。本物の妖怪退治屋は大きな狸を散々に引っぱたき、助手の少女が持ってきた檻にそいつを詰め込んでいるところだった。狸は痛ぇよぅ助けてくれよぅと嘆いている。

 狸を入れた檻の上に座って、ライコウはノーマに何かを指示する。ノーマはにゃんと返事をして建物の中へ入った。

 智花は目を擦ってライコウに近づいた。怪物に見えた彼の顔は、確かに強面だったが人間だ。

「黒手は退治した。それから偽の妖怪退治屋もな」

「……ニセ?」

「この化け狸は俺の留守中に退治屋を装ってひと儲けしようと企んだらしい。つまり俺とは無関係のクソ狸だ。責任を持って処分しておくからもう心配はいらねぇ。ったく」

 身の程を弁えろってんだ、という悪態が心底銀蔵には()みた。

 ノーマは包帯の繭から美羽を救出し、ありあわせの服を着せると、その手を引いてまた外へ出てきた。黒手が与えた深い傷は、同じく黒手が与えた薬によって完全に消えていた。

「美羽!」

「智花! みんな!」

 寮生たちは抱擁し合って生存を喜んだ。そこに、別の数人が現れてぎこちなく駆け寄る。彼女らに最初に気付いたのは美羽だった。

「……うそ」

「美羽! 怪我は?」

「何もできなくてごめんね!」

 彼女らの正体は、妖怪の淫行に耐えかねて寮を去った、サチを始めとする同期生たちだった。

 ライコウは言う。

「これで事件は解決だ」

 ありがとうございます、と最初に頭を下げたのは、寮を出た学生たちの方だった。

「あんたらには嫌な記憶ばかり残ったろうが、望むならそれも今すぐ忘れさせてやる。まぁ小細工をせずとも記憶は薄れるもんだがな」

 それから。

「次は報酬の問題を解決する番だ」


     *


 事務所のソファに深く掛けたライコウの懐には、寮生全員から支払われた礼金が入っていた。十二人から貰えば、ちょっとした贅沢が楽しめる額にはなるものだ。

「いやぁ、一時はどうなることかと思ったけど。やっぱりライコウちゃんは頼りになるよ」

 檻の中で安堵しきった狸が言った。

「今度も転んでもタダじゃ起きなかった。出て行った学生集めてきたんだろ? 友達を助けてやるから金よこせなんつって。お蔭であの子たちの絆は元通り、いや前より強まったしな。俺の不始末も上手くケリをつけてくれるなんて感激だよ。あぁそれから、黒手に注いだあの変な汁はなんだったんだ?」

 ライコウはノーマに出してやれと言う。助手は馴れた手つきで檻を開けて、銀蔵狸を解放してやった。

「おおっ! ありがとよ!」

「何がありがとうだ身の程知らず。これからたっぷり罰を与えてやる」

「えっ?」

 銀蔵は真っ青になって後ずさった。

「お、おいおい……頼むよ、痛いのは勘弁してくれよな」

「一度は捨て身で黒手に殴りかかったそうだな」

 ライコウは美羽の言葉を思い返す。

 ――銀蔵さんはよく頑張ってくれました。

 ――あのひとは、きっとわるいひとではないんです。

 ――だから、あんまり怒らないで。

 それに対して、退治屋はくだらねぇと答えたのだった。

「覚悟に免じて命は助けてやろう」

 安堵した銀蔵がほっと一息つくと、ごぉうと腹の虫が騒ぎたてた。

「腹が減ってるのか」

「そりゃあもう……まともに食わせてもらえなかったからよ」

 ライコウは半獣人の姿になった銀蔵に、(くだん)の寿司折を渡した。食えということだ。

「まだ少し残ってる」

「これなんだ? なんか、変な臭いが……」

「いいから食え。黙って食え」

「でもこれ、黒手にぶっかけたヘドロの臭いじゃねぇか!」

「騙りのヘタレ偽物クソ調子乗り狸」

「わ、分かったよ……食えばいいんだろ、いいよ。へっ、泥水啜って生きてきた俺様だ。こんなもんどうってことねぇよ! むしろこういう役回りがお(あつら)え向きだよ!」

 銀蔵はやけくそになり、残っていた肉片を口の中に流し入れて、少しも噛まずに飲み込んだ。

「うぉえっ!」

 飲み込んだ直後から強烈な(なまぐさ)さが込み上げ、嘔吐必定の不快感との戦いが始まった。全身の毛が逆立っている。吐き出そうにもライコウとノーマに口と鼻を塞がれているため、怪しい劇物の出口がなかった。

「うっげぇ」

「五臓六腑に染み渡るまでじっとしてやがれ!」

 数分もがき続けてようやく落ち着くと、目を血走らせた銀蔵は息も絶え絶えにライコウに尋ねた。

「……なんだったんだアレは⁉」

 ワロドンだ、とライコウはこともなげに答える。

「ミキサーにかけたのよりマシかと思ったんだが、一緒か」

「ど、どういうこったよ」

「わからんでいい。ただ、村人の誰も食わなかっただけだ」

「は?」

「とにかくこれで全部片付いた。てめぇの使い方も分かったぜ」

「なんだ使い方って。あ、もしかしてアレか? ワロドンって九州で退治してきた妖怪か!」

「肉をカケラでも食っちまえば、あいつは二度と蘇らない」

「うはぁ、なんてことを」

「やりゃあできるじゃねぇか、妖怪退治」

 妖怪退治屋は、今日はじめてにやりと笑った。

 寝る――ライコウは脱いだ上着を肩にかけ、二階へ上がっていく。

「おぉい! 俺はどうなるんだ?」

「今日からは俺の召使いだ。黒手よりはいい条件でこき使ってやろう」

 また階段を一歩上がるライコウ。それをまた銀蔵が呼び止める。

「ライコウちゃん! ひとつ教えてくれ。お前は、なんのために妖怪退治をするんだ?」

 ライコウの答えは。

「金だよ」

 身も蓋もない。銀蔵は言葉なく雇い主を見送った。

 よかったね銀蔵さんとノーマがにこやかに言った。

「はぁ……そうだなぁ」

 今夜は「くちばし」で心ゆくまで飲もう、と思う化け狸だった。


 さて、用水路を流れていった黒手はどうなったであろうか? 山童をその身に取り込んで死んでしまったか、はたまた合体して更に恐ろしい妖怪に生まれ変わっている頃か。いずれにせよもうあの妖怪は二度と人間の前に現れはしないから、結末ははっきりしないのである。

 ただ、ライコウが投げ捨てたあの片腕だけは、人知れず土中で朽ちていった。



(終)

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