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化け比べ

 


 (おおとり)(がわ)には様々な事情を抱えた者が訪れる。

 いうにいわれぬ苦悩から、やむにやまれぬ悲哀から、晴らさずおけない怨みから、尽きせず渦巻く欲望から。そしてこれらは全て〝妖怪を退治してほしい〟という願いに収斂する。

 この現実離れした、それでいてこの上なく現世的な願いを叶えるのが、ここ鳳川に事務所を構える(きゅう)(しょう)妖怪退治社である。この事業所名は地図にも電話帳にもなく、ウェブサイトの類も設けられていないにも拘わらず、今日もまた妖怪退治屋との面会を求めて誰かがやって来た。


「本当にこんな所にあるのかね?」

 扇子片手に苛立ちを露にするのは、神経質そうな痩せぎすの中年だ。整髪料をべったりつけた灰色の頭は西陽に今にも溶けだしそうだった。両脇に子分か従者のように二人の男をつけ、彼は不似合いな大股で歩いている。

「いや、間違いはないはずなんですけれども」

「けれどもなんだね」

 丸顔の、三十そこそこの男は既に滝の汗だった。

 ワイシャツの下の濡れたランニングが透けて、年頃の少女あたりなら顔を背けてしまいそうな野暮ったさだ。

等々力(とどろき)くん!」

 扇子の男は年下で格下の丸顔に言う。

「それこそ化かされたんじゃないのかね。この町に妖怪退治を生業にしとる男がいる? ばかばかしいじゃないか」

「いや、間違いないはずなんですけれども! 先生だってあの場で話を聞いてたじゃありませんか、ねぇ西(にし)(やま)さん」

 もう一人、四十絡みのお供は西山といった。馬面の彼の鼻の下には、大きな黒子が点じられている。なんとも暑苦しいご面相である。

「骨折り損かもしれませんねぇ先生」

 この透き歯の男、尻馬に乗るのが得意のようだ。黒く日焼けした顔には、どうにもスーツがしっくりこない。

「しかし鳳川は都会ですねぇ先生」

「西山くん! そんなこと言うとると笑い者になるぞ。確かに私たちの村にない電車が走っているし、周りを山に囲まれてもいないが、ここも田舎には違いないよ」

「そうですか……」

「あのう」

 納得しかねる様子の西山など無視で、今回の遠出を先導した等々力がおずおず申し出る。

「どうでしょう、ここらで地元の方に妖怪退治屋の場所を尋ねてみては」

「嫌だね」

 と言った先生の顔と光る眼鏡は本当に嫌味たらしいものだった。

「私たちが化かされていたとしたら、それこそアレの思う壺じゃないかね。いずれ信用ならん相手だよ。恥をかくのはごめんだから君ひとり訊き回りたまえ」

「えぇ……⁉ でも旅の恥はかき捨てといいますし」

「うるさいな君は! 私を誰だと思ってるんだ」

「はぁ、すみません」

 このやりとりをブロック塀の上に寝そべり、じれったく見つめる猫がいた。クリーム色の毛並みが美しく、目許のクレオパトララインが上品な雌猫だ。

 猫はうんと伸びをして、さて案内だと塀から跳んだ。

「うわあ!」

 目の前に突然クリーム色の髪の少女が現れたので、三人組は揃って口をあんぐり開けた。このビスクドールのような美少女は先程の猫に他ならない。

 彼女は化け猫なのである。

 その証拠に、彼女の目の横にもうっすらと線が引かれている。人に化ける術が未熟なのである。そんな彼女がにっこり笑えば、可憐さに中年男たちは心を奪われる。チャームは一流だ。

「九生妖怪退治社にご用ですか?」

「に、日本語お上手ですね」

「日本育ちですから」

 彼女はレパートリーが少ない。化けられるのはこの美しい白人少女の姿だけなのだ。

「私、社員です。ご案内しますよ、さぁこちらへ!」

 返事も聞かず、くるりと身を翻して少女は歩きだす。こうすれば人間は是非なくついてくることを熟知していた。数十歩進んでちらと後ろを窺えば、やはり狙い通り。

 赤い靴は軽快にアスファルトを叩く。男たちは慌てて少女を追いかけた。

 ものの五分も歩かぬうちに、一行は目的の場所に辿り着く。しかも、ここは男三人が既に通った道だった。なんのことはない、見落としていたのである。

 九生妖怪退治社――。

 そこは社名以外はなんの変哲もない事務所だった。彼らはしばし呆気にとられていたが、例の少女が中に入っていくと、やはりそれに従った。勝手を知らない挙動がいかにも魯鈍に感じられる。

 事務所に入った化け猫の少女は伸びやかな声で呼びかける。

「しゃーちょーぉ、お客さんですよっ」

 社長というのは、応接室のソファに腰を下ろして紫煙を(くゆ)らす男――妖怪退治屋ライコウである。この男に姓はない。ライコウという名しかないのだ。つまり戸籍がなければ人でもない存在、妖怪を退治する妖怪だった。だが、来客はそんなことを知る由もない。

 ライコウは入口でへどもどしている連中を見るや、煙草を咥えてデスクのオフィスチェアに移った。そして後ろに秘書のごとく控える少女に言う。

「貧乏臭ぇの連れ込んだな」

「失礼ですよ」

 小声で社長に釘を刺し、少女は作り笑いとも思えぬ笑顔を三人に向ける。

「ウチの社長のライコウです。で、もおしおくれました、私は助手のノーマです」

 ぺこり。と頭を下げる。社長の方は身じろぎしない。

「これはご丁寧にどうもっ! あのわたくし等々力と申しまして()()(がま)(むら)から来た者でして」

 腰を折ったついでに額を机にぶつける。お辞儀が下手だ。

「こちがまってどこだ」

 等々力が詳しく村の場所を話すと、ライコウはとんだ山奥だと(けな)した。

「で、こちらが西山さん、こちらのメガネの人が(いわ)()(みず)先生です」

「センセイ?」

 権威を象徴する呼称にライコウが素早く反応した。等々力が応じる。

「は。石清水先生は東風釜村の村会議員にして次期村長との呼び声高いお方でありますッ」

 ふんぞり返る石清水大先生を一通り観察すると、ライコウは一言、小物だな――と言った。

「な、な、な……!」

 途端に先生はわなわな震えだす。西山が怒って言った。

「失礼だぞ! 先生は確かに背も小さけりゃ器も小さいがエライ方であるのだぞ!」

「もういいよ西山くん。ホローになっていないよ」

 お供二人を左右に押し退け、石清水がずいと顔を突き出す。

「妖怪退治屋くん、私は村民の安心と安全を取り戻すためここまで来た。つまり善良かつ有能な議員というわけだ。ここまでは理解しているかね」

「村民ってのはあんたの懐にでもいるのか?」

「バカな。懐にあるのは報酬だ。もちろん君にお支払いする……予定のね」

 捲られたジャケットの内ポケットには、いやらしくも裸の札束が頭を覗かせていた。

 駆け引きをリードしているつもりのしたり顔で石清水は言う。

「私は小物ではない。強いていうなら小金持ち」

「ほう」

 ライコウの眉が関心を示した。

「俺は犬と田舎者は嫌いだが金払いのいい奴ぁ別だ。何を退治すればいい」

「狸だ」

 石清水は我が意を得たりと口の端を吊り上げた。

「悪戯者の化け狸に村民一同迷惑している。そいつを退治してもらいたいのだがね」

 村の秩序と善良なる村民のために――とわざとらしく付け足す。

 ライコウはそんな態度を鼻で笑ってこう応じた。

「名誉はお前に、金は俺に、か」

「物分かりがいい業者で嬉しいね」

 それからもう一つ注文がある――と腹黒い笑みで石清水は続けた。

「村長とは余計な交流をもたないことだ」

 室内を漂う煙でノーマが咳をした。





 


 絵の具を流したように空はそのまま空色で、山の緑は目に安らぎを与えてくれる。野良仕事に精を出す老人たちと、軒先で尾を振る柴犬。時折馬の(いなな)きと牛の鳴き声が聞こえてくるのがおかしい。鉄道は走っておらず、バスも日に三度しか来ない。土日ともなれば二度だけだ。目に見えて駆動する機械は草刈機とのろのろ走る軽トラぐらいのものである。

 東風釜村はどこまでも(のど)()だった。

「ド田舎だな」

「失礼だってば社長」

 村役場に併設された公民館の大座敷で、ライコウは茶が冷めるのを待っていた。猫舌なのだ。

 室内には田舎特有の空疎な静けさが充満していた。額に飾られた写真は色褪せている割に今と同じ景色が閉じ込められており、まともに機能するのか怪しい旧型テレビの上では老人が手慰みに作ったのであろう編み人形が寂しげにじっとしていた。

「なんでてめぇがついてきてるんだ」

「だってぇ」

 ノーマは口許に指を置き、媚びるようなポーズをとってみせた。ライコウはノーマなどには無関心で、壁のポスターに視線を投じている。ふるさと村こちがま――陳腐な割に意味不明なキャッチコピーだとでも思っているのだろうか。

「なんだか面白そうだったんだもの。タヌキさんを退治するんでしょ?」

「お前がやるか?」

「えー」

 助手とはいえ、ノーマに職業人の自覚はほとんどない。猫だから仕方ないのだが。ライコウの手伝いをするのも気儘な好奇心からと言った方が正確かも知れない。

「この村、大きいお家が沢山ありましたね。あとどの家にもクルマが二台三台あって」

「田舎ってのはそういうもんだ」

「お金持ちが多いんですねぇ」

「暇な年寄りが多いだけだ」

 そこに。

「いやいやいやあぁぁ……わざわざ遠くからご苦労さまですねぇ」

「うわびっくりした!」

 浅黒い肌で、白髪を纏めて団子にした、花柄のワンピースが全く似合っていない老婆がいきなり現れたので、ノーマが髪を逆立てた。

「お茶です」

 老婆が持つ盆には湯呑が載っていた。

「茶ならあるぞ婆ァ」

「あ、そうですかぇ」

 だが、老婆はその場を去ろうとしない。

「……お茶」

「いらねぇっつってんだろうが」

「あ、そうですかぇ。持ってきたんですけどねぇ」

 出口の見えないやりとりが続きそうになった時、今度は薄毛の男を先頭に数人の男たちが訪ねてきた。一団の中には等々力の姿もある。

「村長みたいですよ」

 ノーマが言う。壁に貼られたポスターでは、かのほぼ禿頭――村長が村の農産物をPRしていた。

 立ち尽くす老婆を手招きして等々力が言う。

「これ、婆ちゃん! これから大事な話すっから下がっててくれって!」

「へえぇー?」

 老婆は耳に手を当てて大仰に聞き返す。念のためいっておくと耳が並外れて遠いのではない。ただ若輩者の等々力をからかっているだけなのだ。

「だーかーら! こちらさんは村長とお話しされんだから」

「あ、そうだ」

 哀れ等々力は無視されて、老婆はすたすたと奥の部屋に歩いていった。

 マイペースな高齢者に振り回され、等々力はがっくり肩を落とした。

 さて、ここに依頼人であるはずの石清水の姿はあることにはあるのだが、その様子は事務所に来た時とは一変していた。いずれ神経質で嫌味な面構えであることには変わりないが、今は少し、ほんの少しだけ柔和で、偽りの謙虚さが表れている。腹に一物ある男のようだから、村長相手にいつも通り振る舞うのは憚られたのかも知れない。が、どのような事情があろうとライコウにとってはどうでもよいことだった。

「あなたが妖怪退治社のライコウさんですか。私、村長の(いの)(くら)でございます。この度は遠路はるばるお越しいただきまことに――」

「堅苦しい挨拶は抜きにして本題に入ってくれ」

 挨拶のタイミングを窺っていた残りの者たち――おそらく村議会の議員や役場の職員たち――は、出端を挫かれ無能の集団のごとくその場でうろたえた。

 困惑しながらも承知した村長らが座敷に上がり、ようやく望み通り本題に入るかと思いきや、先程の老婆がまた現れてこう言った。

「ぼた餅めしあがりますかぇ」

 今度は大皿にぼた餅を山と盛って運んでくる。

「婆ちゃん……そういうのもういいから」

「んもぅさっきからお前はやいやい言いおってからにもう!」

 そして突然の激怒である。等々力、なす術なし。見兼ねた村長が自ら皿を受け取ってぼた餅いかがですかと来客に勧める。

「……食え」

「にゃ⁉ いやいや社長がまず食べるべきじゃないですかぁ」

「狸が出る村のぼた餅なんぞ食えるか」

「ええぇ⁉ それ正直に言っちゃいます?」

 タイミングよく馬の嘶きが聞こえた。ノーマとしても村議たちとしても、非常に気まずい。

「そんなまさか! 山本の婆ちゃんは狸ではないですから!」

 村長が慌ててフォローに入る。婆ちゃんどっか行っちゃいましたと等々力が情けない声を出す。確かに影も形もない。

 かと思いきや、物陰に隠れて様子を見ているだけだった。

「ややこしい婆ァだな」

ともかく、一同の疑惑の視線がぼた餅の山に注がれる。

「……ノーマ」

「だからなんで私が毒味役⁉」

 このままでは東風釜村は訪問者に汚物を食わせる最低の極悪集落だ。

「で、では僭越ながら私がまず頂きましょう! それでみんなも安心する」

 村の名誉のため村長が名乗りを上げた。既に頬を汗が伝っている。震える手を黒い山頂に伸ばす。箸と小皿も用意してほしかった――と、居合わせた何人かは確実に思っていただろう。

「はぐッ」

 恐る恐る一口目を頬張った村長の顔は、ものの数秒でさっと青白くなった。

 大当たりだ。

「ううううう……!」

「あぁーッ! 村長!」

「お手洗いに!」

 呻き声を上げながら村長は便所へ駆け出した。

「ありゃ、そいじゃぼた餅くれたおッさんは狸じゃったかね」

 無責任な老婆は首を傾げながら去っていった。

 嗚咽の声が響いてくるなか、沈鬱な空気が座敷を支配した。正体が分かるとぼた餅も途端に臭くてたまらない気がしてくる。

 素に戻った石清水の刺すような目つきで等々力がそれを片付ける。

「退治屋くん、これが現状だよ。村の顔たる村長でさえあの(ざま)だ」

 石清水が口火を切ると、他の者たちも、狸の仕業です、私も化かされた、などと言い出した。

「夜道で会った若い美人と話していたら、いきなりそいつの口が耳まで裂けたんだ!」

「うちの嫁さんは高級ブランドを着とると化かされ裸で外を歩き回った!」

「竹田の爺ちゃんは田んぼで転ばされて足折ったんですよ!」

「儂は温泉にいると思ったら雨上がりのぬかるみに浸かっとった!」

「ミササギ商店は木の葉のお金でサイダー買い占められたって!」

「俺なんか狸に迷わされて事故ったせいで新車が三日で廃車です!」

 熱をこめて口々に狸の害を語る村の選良たち。ライコウは黙って耳を傾けていた。

 唇を拭いながら戻ってきた村長も体験談披露会に加わって言う。

「私も今しがた馬糞を食わされましたッ‼」

「皆知っとるよ村長」

「あ、そう……この前も仏門に入るつもりで頭を丸めたのに、全ては狸めの芝居だったのです」

「えーっ! てっきり天然のハゲだと思ってました!」

 ノーマが失礼な驚き方をした。だがポスターと実物を比較するに、剃髪の必要はほとんどなかったものと思われる。石清水は冷ややかに成り行きを見守っていた。

「なるほどな。確かにどいつもこいつも騙されそうな間抜け面だ」

 ライコウの悪態に、純朴な村民が多いのだよと石清水が返す。退治屋は無視して真贋を確かめようと冷めてきた茶をじろじろ見ている。ノーマは足が痺れて正座を崩した。

「私どもも幾度か狸退治を試みたことがあるのですが、相手はなかなか化け術の達者な化け狸とみえ、罠は悉く破られてきたのです。それどころか仕返しを食う始末で、石屋の徳さんなんかは逆に檻に閉じ込められてしまって往生しました……いやはや、今ではどこを隠れ家にしとるものかも判然とせず、一人も化かされぬ日はなく頻々と奇妙な出来事ばかり。もはや打つ手なしかと弱り切っていたところでして。村議にも怪我人が出ておりますし……」

 調子を取り戻した村長は石清水の隠れた侮蔑など知る由もなく語った。

「……ま、悪戯程度なら他愛ないもんですが怪我人まで出すのはいけません。そこで石清水君の提案でライコウ先生にお越しいただきまして、是非とも狸を退治していただこうという話の運びになりましてですな、そのォ」

 退治できるでしょうかな――と僅か不安げに尋ねる。

「ふん」

 それはライコウにとって答える価値もない問いだったのだろう。立ち上がった彼は既に煙草を咥えている。正座したまま驚き見上げる村長以下数名に言う。

「宿の準備はいらねぇ」

 婉曲的な言い回しは渋面の石清水以外には伝わらなかったようで、議員たちは顔を見合わせ不思議そうにした。待ってくださいよとノーマが社長を追う。

 一人でさっさと外へ出てしまったライコウに、ノーマは踏んだ靴の踵を起こしながら言う。

「あーんな大口叩いちゃって大丈夫なんですか? まず狸を捜すとこから始めるんですよ」

「馬鹿野郎。お前の目鼻と手足はなんのために付いてるんだ」

「えぇー⁉ 私に捜させる気?」

 露骨に嫌そうにしたノーマだったが、あら――と言ってすぐ足元に蹲る何者かに気を取られた。ライコウは助手を(ほう)って公民館の駐車場で煙草を喫っている。

「ぼく、何描いてるのー?」

 しゃがんだノーマが声をかけた相手は四歳ほどの男児。駐車場の砂地を指でなぞり、黙々と絵を描いていた。指先の筆は四足の動物の輪郭を残す。

「イヌかな?」

「ちがうよ」

「うーん……カンガルー? じゃないよね。あっレッサーパンダだ!」

「ぜんぜんちがうよ。これはね」

 幼児が答えかけた時、(かん)()! と呼んでぼた餅もとい馬糞を片付けた等々力が小走りでやって来た。どうやら彼の息子のようだ。

「ここは車が出入りするから遊んじゃダメだって言ったろ?」

 等々力は息子を抱き上げるとサンダルで素早く落書きを揉み消した。あっ、と漏らして、寛汰は僅かに絵との別れを惜しむ。親子を見比べてノーマがはしゃいだ。

「わ、わ! 息子さん? かわいいねー」

「あぁ、ありがとうございます」

「みてみて社長! 鼻がすっごい似てる!」

 しかし、呼びかけられたライコウの姿は既に駐車場にはない。あぁんもうと言ってノーマは駆けだす。働かされるのは嫌だが、置いていかれるのも嫌なのだ。

「キツネさんなのに」

 寛汰は少しだけ口惜しそうに言った。

 ベンツか――化け猫たちがいなくなると等々力は一言呟いた。

 羽振りの良い妖怪退治屋への羨望である。

「あんな車をこんな鄙びた村に乗りつけるなんて嫌味な男じゃないか」

 そう言って現れたのは村長一派と別れた石清水村議だ。また本来の野心ある面差しに戻っている。後ろに控えるのはもう一個の腰巾着こと西山だ。

「いや、そんなこと」

「まぁお手並み拝見といこうじゃないか。あの男は私たちがあれほど手を焼いた狸を今晩までに退治する気なんだよ。なんであれあの(わる)(だぬき)さえいなくなってしまえば……」

 村長の座は確実ですよ――いつからか駐車場の柵に寄りかかっていた、若く、すらりとした体型で、吊り目の男が結びの言葉を攫った。どこか役者のような艶かしさがある声だった。







 

 探索の結果は芳しくなかった。

 山のすぐ傍の細道の、丁度良い大きさの石に腰かけたノーマが言う。

「喉かわいちゃった」

「泥水でも舐めてろ」

「あーん! 社長ってば酷い。この村には自動販売機がないんですかァ?」

 都会育ちの化け猫とみえて、ノーマは広い世間に知らないことも多い。間もなく夕暮れだ。進むか戻るか、ライコウも進路を決めあぐねて立ち往生している。煙草の箱も空になった。ぐしゃりと握り潰して、捨てる。

「阿呆な田舎の狸だ、喜び勇んで化かしに来ると思ったんだが……」

「向こうも驚いちゃってるんでしょ。ホラ、私たち目立つし」

「なんだと?」

「社長ヤクザみたいで怖いんだもん」

 片や白いスーツに身を包んだ強面の男、片や可憐な異国の少女風――の化け猫である。朴訥な田舎人を化かすことに専心してきた化け狸が、ある種の警戒心を抱くのには充分な容姿だ。

「ジュース飲みたいなぁ。ミックスジュース!」

 鬱陶しい、というのがノーマの言動に対する率直な感想だろう。(ひぐらし)まで鳴いていて苛立ちは倍加する。だが、この程度で短気を爆発させるほどに愚かな化け猫でもない。

「ああ全く、喉がカラカラだな。どうせならあのババァの茶を飲んでおくんだった」

「でもあのお茶あっついですよ? お茶ならキンキンに冷えてコップに水滴が浮いてる麦茶がいいです。あぁん! こんなこと言ったら余計飲みたくなっちゃう」

「とはいえお前が言ったように自販機もなけりゃコンビニもねぇ。民家からも離れちまった」

「ふえぇ……水筒持ってくればよかったなぁ」

 ノーマは項垂れる。ライコウはにやりと笑って言う。

「知らねぇのか。田舎の人間は心が優しいんだぜ? こうして困ってる奴がいりゃ水の一杯でも恵んでくれるだろう」

「そんな昔話みたいな展開ありますかねぇ……」

 そこへ、もたついた足取りで一人の男が近付いてきた。麦藁帽子を被り首にはタオルを巻き、ご丁寧にも両手に竹筒の水筒を提げている。ご都合主義の展開にノーマも目を丸くした。

「もし、そこのお二人さん」

 いかにも、という風体。のっぺらぼうに目鼻を載せたような造作の緩い顔立ち。口の周りには丸い髭の輪。まるで漫画だ。

「見かけん顔じゃが遠方からのお客さんかな。もしよかったらここに水があるけんど……」

「ありがたい」

 ライコウはついぞ見せたことのない笑顔で農家風の男に手を伸ばして、水筒ではなく手首を引っ掴んだ。男が蒼褪めた時にはもう、笑顔は凶悪な威嚇の表情に変わっていた。

「げっ」

「飛んで火に入る夏の虫」

「なっなっなっ、なんだって? わたしゃこの村の権兵衛というもんで」

「今どき権兵衛なんているわけねぇだろ!」

「うっひゃあぁぁ」

 手首を捩じ上げられると、男の目の周りに黒い染みが広がった。紛うことなき狸の隈取だ。

「よう悪狸。いよいよ年貢の納め時だな」

「おめぇ何者だァ⁉ いててっ、は、はなせっ!」

 狸は尻尾を出して手足を盛んに動かし抵抗した。

「じたばたするな!」

「ちッくしょうめ……お前もあいつらの仲間だな! だったらこうだ!」

 ぼん。

 緊張感のない音と共に男の帽子が弾け、濃い煙幕が張り巡らされた。灰だ。まともに浴びたライコウは噎せた拍子に手を離してしまう。どうだい(はい)(かぐ)()の術は――という捨て台詞を残し、狸は退治屋から逃げおおせた。

「ゲホッゲホッ……あのおじさん狸だったの⁉」

 手で灰を扇ぎ払いながらノーマが言う。今頃気がついたらしい。落としていった水筒を拾い上げ、中身を少し零して確かめてみる。

「うげっ、泥水だ」

 そして、改めてはっと気づく。

「しかも逃げられちゃったじゃないですか!」

「うるせぇ。小手調べだ」

 負け惜しみだ。髪にかかった灰を払い落としてライコウがまた噎せる。結構毛だらけ猫灰だらけ、狸の挑発はライコウの闘争心に火を着けた。行くぞとノーマに言う。

「行くってどこへ?」

「狸のとこだ!」

「だからそれどこですか」

 お前何も見てなかったのか――とライコウが呆れる。

「背が低いからしょうがないじゃないですか」

「もういい」

 ライコウはうんざりして足早に歩きだす。待ってくださいとノーマが追った先には、山中へと分け入るための斜面があった。まだ新しい獣の足跡がついている。ふたりとも元は獣であるから、藪へと突き進むのにも抵抗は薄い。狸は獣道を駆け抜けて山の上に向かったようだった。過疎化のためか、山も碌に手入れがなされていない。

「うーん……去年くらいに台風でも来たんですかね? ほら、あんなに太い木が根元から折れて倒れて苔まで生えてる。人も通らないから木もほったらかしなんでしょうね。って社長、ねぇ聞いてる?」

 完全無視である。

「ここだな」

 狸の気配を追って数分、ふたりは山の中腹にある寺の境内に足を踏み入れた。門や柵には蜘蛛の巣がかかり、石畳の下から草が生えている。無住の山寺だ。

「ここが狸さんの隠れ家ってわけですね」

 人が通るべき参道も倒木と落石に閉ざされている。ノーマの推測が確かなら、もう一年以上も人の訪れが絶えているということになる。人間たちもここまで捜索の手を伸ばしてはいなかったのだろうか。ライコウは恐れることなく本堂へと歩を進める。久しぶりの客に砂利がざくざくと喜びの声を上げている。だが悲しいかな、訪れたのは信心の欠片もない妖怪なのだ。

 大胆不敵に靴も脱がず上がり込む。腐りかけの床板がめりめりと悲鳴を発した。柱には(みつ)(みね)の札がべったり貼りつけられていた。そこかしこに狸のものと思しき小さな足跡が残されているのを確認し、ライコウは視線を壇に飛ばす。

 ぽく。ぽく。ぽく。木魚の音がいい加減なリズムで響く。

 ぽくぽく。ぽかっ。ぽこん。

「なむあみだぶなむあみだぶ、なむからたんのーとらやーやー、()()(だぬき)(はち)(じょう)(いん)(のう)――」

 無人であるべき本堂に独り、袈裟を着た禿頭の男が座していた。

「――誰じゃな」

 緩慢に振り返った狸和尚。

 その顔をライコウは力一杯殴り飛ばした!

「ぎゃあああん!」

 和尚は埃まみれの()()に激突して、こちらに尻を向けたまま悶絶している。

「何が誰じゃな、だ。さっきとツラが一緒じゃねぇか」

 ううん、と唸って上げた顔は先程の権兵衛と同じ顔。ただ髭がなくなっているだけだった。

「うわぁ、化けるのヘタ!」

 思わずノーマが大声で叫んだ。狸和尚は顔を赤くして怒る。

「うるさい! 余所者が来て油断しただけじゃ! この俺を本気にさせるとは大した奴だ」

 ライコウは冷ややかな目で発奮する和尚を見つめていた。相手の力量を知ったのである。

「もう遊びはお終いだ。次こそお前らの肝をでんぐり返してやろう! ほぅれ!」

 和尚は大きく腕を振りかぶって威嚇のポーズをとる。するとどうだろう、どろどろどろ――どこからともなく太鼓の音が聞こえてきて、彼の体は急にむくむくと膨らみ始めたではないか。すぐに背丈は堂の天井に届かんばかりになった。

「わぁ社長! 大入道ですよ!」

 ノーマがはしゃいだ。緊張感は全くない。

「ふはははは。どうだ驚いたろう」

 心なしか声が低くなっている。天井に頭が(つか)えた大入道は四つん這いになってライコウに迫った。お前みたいなチビは一ひねりだぁ――と脅かすが、生憎ライコウは妖怪退治のスペシャリストである。

「手が古すぎて驚いたぜ」

 そう言って、大入道の鼻先にぎらりと光る(エッ)()を突きつけた。

「ん⁉」

 鼻先の冷気を感じた大入道、寄り目でそれがなんなのか確認する。

 それは無論、刀であった。退治屋自慢の逸品、伸縮自在の妖刀だ。

「うわあ! 刀⁉」

 驚き仰け反った拍子に、大入道は天井に頭を打ちつけまた転ぶ。どんがらがっしゃんとまた古臭い騒音が響き渡って、もがく巨体のためにもう本堂は滅茶苦茶である。

「お前どっからそんなもんを⁉ わあぁ床が抜けた! ぎゃあ!」

 狸の大入道は本堂を破壊しながら独りでどたばた騒いでいる。苦し紛れに(どう)(ばち)を投げつけるが、狙いは外れに外れて堂から転がり出ていった。これではせっかく抜いた刀も活躍の場がない。相手が田舎者でないばかりにペースを乱される一方の狸は、髪のない頭を掻き毟って地団太を踏み、また床に穴を開けて前のめりに倒れた。

「うわぁ、いたそ」

 ノーマも目を覆ってしまう。めげずに起き上がった大入道は鼻を押さえて言った。

「ふぐっ……お前なかなかやるな」

「何もしてないが」

 ライコウはじろりと大入道を睨んだ。

「お前、どっから流れてきた? この土地の狸じゃねぇだろ」

「ふんっ」

 大入道は鼻息を吹き出して誇らしげに胸を叩いた。

「その通り。俺は阿波日()(がい)()村の(ぎん)(ぞう)(だぬき)という(もん)だ!」

「銀蔵……日開野の(きん)(ちょう)の紛い物ってわけだな」

「違わい! 同郷の金長狸にあやかった名前だ」

 金長とは阿波徳島でも特に知られ、狸のみならず人間からも尊崇を集める(めい)()である。

「さっきからいちゃもんばかりつけてきやがる癪な男だ……さてはお前も獣だな? 狐か? いや、狐なんて顔じゃねぇや。鼬か獺……まさか狼」

 痺れを切らしたライコウは大入道の剥き出しの脛に重い蹴りを食らわせた。

「ああおゥ‼」

 痛みに飛び上がったせいで今度は顔が天井を突き破った。得体の知れない()()の数々が降り注いでくる。ライコウは心底面倒臭そうな様子で後退した。

「ぶえッくしょい! もう許さんぞ!」

 くしゃみで鼻にかかった蜘蛛の巣を吹き飛ばした大入道は、やっと化け物らしく両眼を輝かせてライコウたちに迫ってきた。パワーショベルのように大きな手で敵を掬い取ろうとする。だが、ライコウたちはさっさと本堂から脱出してしまった。

「待てコラぁぁ!」

 額を鴨居にぶつけて瘤を作りながらも、銀蔵狸はライコウを追って庭へと走り出た。ノーマは小回りの利く猫の体に戻って戦いを追跡する。

 大入道は砂利を散らしてライコウを追いかける。繰り出す拳は全て空振りだ。自ずから()()の大木になっているのだから仕方がない。

 一転攻勢、ライコウが入道の脛に斬りかかった。(やいば)に怖じて狸はどたどたと逃げ回りだす。

「まっ、待ってくれ! ちょっと止まれお前、殺す気かおい⁉」

「当たり前だろ。俺は妖怪退治屋だ」

 妖怪退治屋は凶刃を振り翳して半泣きの大入道を追った。(きっさき)が大きな尻を掠める。

「ひいぃ!」

 大入道、これにはたまらず悲鳴を上げ、ぽんと音を立てて狸の姿に戻ってしまった。

「田舎の年寄り狸かと思ったが……案外若いじゃねぇか」

 黒い部分の内側、目の周りが白い毛で縁取りされているのが特徴的な狸だった。()()もぴんと張っており、化け狸としてはまだ若者の部類とみえる。今やすっかり怯えた表情でライコウを見つめている。

「もう終いか?」

「ま、待て退治屋とやら。俺ぁ何も人様困らせたくて化かしてるんじゃねぇんだ」

「あ?」

「世直しなんだよぉこれは。誰彼構わず引っかけてるんじゃねぇんだって」

「誰彼構わず引っかけてるだろうが。俺を化かそうたってそうはいかねぇぜ」

 燈籠の上からノーマが加勢する。

「そーよそーよ! 私たちにもいきなり馬糞食べさせようとしたくせに!」

「馬糞……? 俺ぁそんなこと、わっ!」

 妖刀の不意打ちに、銀蔵は大声を上げて後ずさった。

「うわぁあ! 誤解だよぉ!」

 ライコウの嗜虐的な笑みは狸を震え上がらせる。

「退治屋! 話せば分かる」

「問答無用だ馬鹿狸」

 刀を振り上げられ、狸は毛を逆立てて遁走する。ライコウは少しも慌てずに刀を放り捨てると、先程転がり出てきた磬子を掴み上げた。

 銅の大鉢が重々しく宙に翻って、罠籠のごとく銀蔵狸の上に被さった。ギャッという悲鳴は厚い壁に遮られ、遂に狸は捕らわれた。ライコウの靴が磬子の天辺を踏み押さえ、最早どのような策を弄することもできない。

「この悪党! 出しやがれっ! うわあああ出してくださいぃ‼」

 狸退治は落日と共に一旦幕を閉じた。

「もー社長また(はち)(わり)投げ捨てた。雑に扱ってると折れちゃいますよ」

 人形のような少女が刀を心配するのも顧みず、今夜は狸汁だなとライコウは嘯いた。






 

「に、二千万……だって?」

 その夜、後援会事務所で急拵えの請求書を突きつけられた石清水は色を失った。

「桁を間違えちゃいないかね退治屋くん」

「退治料は俺の裁量で決める。この通り化け狸は捕まえたんだから文句はねぇだろ」

 ライコウが机の上に置いた(ケージ)をばんと叩くと、中の狸がひッと声を上げた。

「私は退治しろと言ったんだ。狸は無傷でぴんぴんしてるじゃないか!」

「無傷ぅ? 俺ぁケツを斬られたんだぞ!」

「タヌキが喋った!」

 また檻を叩いて、黙ってろバカとライコウが言った。そして人語を解する狸を信じられないといった表情で凝視する村議にぐいと顔を寄せ、良心的な値段だと思うぜと返答を迫った。

「払えねぇ額じゃねぇのは知ってるんだ婿養子の先生様よ。たったの二千万でこの狸を……いや、あんた方の秘密を自由に処分させてやろうって話だ」

「むこようし……」

 誰からそれを、と石清水は問う。ライコウは檻の中の不機嫌な狸を指差した。

 疑惑の村議は深い溜息をつき、机に両肘を突いて指を組んだ。

「わざわざ二人きりになって何を言うかと思えば……きみ、その狸に化かされているな。私は村民に一つも恥じるところのない潔白なる議員だよ」

「この野郎っ、汚職まみれなの俺は知ってんだからな!」

 狸が石清水に牙を剥いた。

「なんだお前は! 獣の分際で人間社会に割って入るな! 私を騙して便器で顔を洗わせたことは忘れとらんのだからな」

「初歩的な術に引っかかるおめぇが悪いんだい!」

「うるさいぞ狸」

 ライコウはまたも檻を殴って狸を黙らせた。

「お前に発言権はねぇと散々言っただろ。さて石清水先生、払うか払わねぇか」

「法外な請求だ」

「だが払える。賄賂で私腹は充分肥えてるはずだし、弁護士時代に貯め込んだ黒い金もまだあるんだろ? この期に及んで隠し事なんて無駄だぜ」

 賄賂という語が出た途端、石清水は明らかに動揺し始めた。

「やはり化かされているようだねッ。私が、賄賂を? ばかばかしい」

「へっ、浪費家の守銭奴ってのは始末に負えねぇよなぁ先生。政務活動費は何に使った? 不倫ってやつかい。女に握らせたか。(ケツ)引っぱたくのが好きらしいな。それとは別に隠し子がいるとか。あんたの嫁さんが、それから(おや)()が知ったらどう思うかな」

 おめぇだけじゃねぇと叫び、銀蔵狸は檻の中で立ち上がろうとして頭をぶつけた。

「いてて……この村の政治はムチャクチャだ。おめぇがつるんでる連中みんな汚いマネばっかしやがってよぉ! コネと裏金としょうもないいがみ合いでとばっちり食うのは真面目な村人だけだ! 全部明るみに出たら村はお終いだって分かんねぇのかよ! あっはい黙ります」

 もはや睨みを利かせるだけで狸の発言は止まる。

「私を脅すのか!」

 机を叩いて石清水が立ち上がった。顔から汗が滴り落ちているが唇は真っ青だ。

()()るのも商売の内だ」

「……特殊な職能があるからといって調子に乗ってはいけない。私は腐っても政治に携わる選良だぞ! 人間誰しも叩けば埃が出るものだ。それを踏まえてだ、君が私を陥れるのと、私が君を潰すのと、どちらがたやすいか考えてみたまえ。こんな金額払うものか!」

 もう一度机が叩かれたのと同時に、ライコウの顔を漆黒の本性が覆った。大きな耳が立ち上がり、対話の相手の方を向く。獣人の面相は黒猫そのものだった。

「えっ……⁈」

「生憎俺は人間じゃあない」

 黄色い眼の細い瞳孔は依頼人を捉えて離さない。

「妖怪⁉」

「お、おめぇ化け猫だったのか」

 石清水は震え、銀蔵狸は驚愕した。ライコウは、通常の猫にはあるまじき冷笑を浮かべて言った。

「俺を潰す方法はただ一つ、殺すことだけだ。分かったろ。な? 俺にもいい思いさせてくれよ石清水先生」

 そう言うと最前までの人の顔に戻り、退治屋は檻を提げて立つ。

「おいっ、退治屋! 俺はまだ喋り足りねぇ! 聞いてくれよぉ」

 狸の言葉には耳を貸さず、脅迫者は部屋を出ていった。


 石清水は再び腰を落として頭を抱えた。

「……妖怪退治屋め」

「ご心配はありませんよ」

 張りのある声がしたかと思うと、忍者の隠れ蓑のように壁がぺろりと捲れ、すらりとした吊り目の男が現れた。どこか石清水を軽侮するところのある目つきである。今までライコウが座っていた椅子に腰かけ、唄うように言う。

「あの狸め、や、は、り、寺を(ねぐら)としていましたか。あそこには恐ろしい札が貼ってありましたから。あれさえなければ私でも一捻りですよ、これは真実です」

 秩父の三峯社の眷属はお犬様こと狼である。この狼の霊威が宿る御符を恐れる動物妖怪は少なくない。特に狐にとっては覿面なのである。そう、つまりこの男、正体は――。

「高貴な狐の一族に生まれた私が、あんな不細工な狸に負けるわけはないのです」

 得意になる狐が化けた男。石清水は彼を恨みがましく見上げた。

「何を言ってる。狸は(のぞ)けたがライコウとかいうあの男が新たな敵になってしまったぞ。このままでは次の選挙で大敗するどころか身の破滅だ! 当然、君を村の守り神として祭り上げるという話もご破算さ」

 狐は涼しい顔で鼻歌など奏でていたが、険しい石清水の顔つきに気がつくと、己が爪の艶を観賞しながら、ですから心配ないと申し上げているでしょう――と少し苛立って言った。

「私が今の今まで度々化け比べに勝てなかったのは、(ひとえ)にあいつの逃げ足のためです。危うくなるとすぐ逃げる。そしてあちこちの古い札が捜索を妨げる。覚えておいででしょう、札をあなた方が剥がそうとすれば、そこを狙ってまた狸が出る! ああ思い出すだに腹立たしい」

 ですが、と気を取り直して澄まし顔を繕う。

「もはや狸が札のある場所に逃げ込む恐れはなくなった。それどころか檻の中です。お分かりですか? 退治屋ともども始末してしまえばよいのですよ」

「し、しかし君、相手は」

「相手はどちらも人間ではありません。ああまで居丈高に振る舞えるということは、あのライコウなる化け猫、人間の戸籍も持ってはいないのでしょう。つまり人間社会にありながら社会の仕組みには縛られない。卑怯な手ですねまったく」

 私と同じですよと狐はほくそ笑む。

「卑怯なのは私だけでよい。もはや妖怪退治屋は用済み。最後の始末は私がつけましょう」

「しかし君」

 狐が化けた男はつかつかと革靴を鳴らして部屋の中を歩き回った。

「何を心配していらっしゃる! 私は物陰に隠れて奴の狸退治の様子を見ていましたが、なんの、力押しの幼稚な戦法でしたよ。対して私には」

 人差し指で眉間をとんとんと叩く。

「知恵がある。そして」

 もう片方の手を懐に差し入れ、絹で包んだ真っ赤な宝玉を取り出してみせた。大きさは野球ボールほど、珠の中心では小さな火のような灯りが揺らめいている。

「この先祖伝来の〝(しち)(たま)〟があるのですよ。犬ころの御符さえなければ怖いものなのありません。よいですか、何度も言いますが私が恐れていたのは札のみ! あの狸も猫も、化け術ではこの(よろず)()(こん)()(すけ)には数段劣るのです!」

 狐こと昏之介は大事そうに七の玉を懐にしまって、再び涼しげな笑みを浮かべた。

「やれるのだね」

「勿論です」

「ではやってくれ」

「ですから祠の件、お願いしますよ石清水先生。人間に祀られなければ、頭の固い狐の長老たちは私の実力を認めようとしませんからね」

 すぐ手下の皆さんを集めてください――そう言って昏之介も部屋を出ていった。


 さて、一仕事終えたライコウは早くも帰路に就いていた。暗い山中の県道を、彼のベンツが風を切って走っていた。背もたれを倒した助手席ではノーマが何度も欠伸をしている。

「あんまし飛ばさないでくださいよぉ。たしか、もう少ししたら急カーブの連続でしたよね。あたし酔っちゃう」

「中で吐いたら放り出すぞ」

 ノーマはライコウの受け答えなど意に介さず話題を変える。

「あの依頼人さん、ちゃんと退治料払ってくれるんですかね? 今回は社長もちょっと欲張り過ぎかも」

 ライコウは煙草を咥えて答える。

「けッ、馬鹿言え。金が埋まってる場所を素通りできるかってんだ」

 ごとごとごと、と車体の後方で物音がした。

「おぉい出してくれよぉ! 腹減ったんだよぉ」

 銀蔵狸の声である。不幸にもライコウに捕らわれた彼は、檻ごとトランクに放り込まれているのだ。どうにか出してもらおうと、先程から声を上げ続けている。ノーマは苦笑し、ライコウは声を荒らげた。

「ちったぁ黙ってろバカ狸!」

 山道の急カーブが車を大きく左右に揺らす。大袈裟に顔を顰めてノーマは言う。

「狸さん、あの人に渡したらどうなっちゃうんですかね」

「そりゃお前、殺処分だ」

 その言葉を耳聡く聞きつけて銀蔵が騒いだ。

「嫌だよォ俺ぁまだ狸汁にはされたくねぇんだよぉ‼ えぇ⁈ 俺は悪くねぇ聞いてくれ! 俺ぁ、俺ぁな、放浪の旅の途中に腹を空かしてるところを、あの寺の住職に世話してもらった恩があるんだ! 和尚は村の政治が腐っちまったのを嘆いてた! だから俺はあいつらを懲らしめてやろうと思っただけなんだよぉ」

「だからうるせぇっつってんだろうが!」

 煙草の先の灰がいよいよ落ちそうになった時だった。曲がりくねった山道を抜けたベンツを対向車線からの強烈なハイビームが照らした。

「まぶしっ」

 ノーマとライコウは揃えて目を細めるが、その中でもライコウは対向車の様相を認め、度肝を抜かれた。思わず強く噛んだ煙草から灰が落ちる。

 向かってきたのは大型のトラックだった。八トン車よりなお大きく、荷台を軋ませこちらに向かってくる。そう、トラックは中央線を跨いで道路の真中を陣取りながらこちらに向かってくるのだ。このままでは左右どちらに寄っても衝突してしまう。

「えええええ⁉」

 ノーマも当惑して悲鳴を上げた。運転手の顔はライトのために窺えない。

「ふざけやがって!」

 ライコウは咄嗟の判断で急ハンドルを切ろうとしたが、それも遅かった。猛スピードで突進してきた巨大トラックのバンパーが、ベンツのボディを殴りつけた。車内の化け猫たちにも強い衝撃が伝わる。

「きゃあぁぁ!」

 それでもなお、狂気のトラックは容赦なくライコウの車を撥ね潰そうとしてくる。ライコウはどうにかUターンしようと、さして広くない道路でもう一度大きくハンドルを切った。

 タイヤの擦れる音がけたたましく夜の山道に鳴り渡った。

「おいっ! 何があった⁉」

 トランクの狸がわけもわからず騒いだ。車は既にコントロールを失っており、そのままガードレールを突き破ったかと思うと、草木が伸び放題の斜面を転がり落ちていった。窓ガラスは割れ、車体は(ひしゃ)げ、エンジンは火を噴きながら。

 後に残ったのは斜面に点る少しばかりの火だけだった。トラックなど影も形もない。

「ふふふふふふふふ……」

 昏之介狐はガードレールの破れ目に立って斜面を見下ろし、肩を震わせて笑い続けた。胸元にやった手には、(くだん)の赤い珠が握られている。

「呆気ないものだった。あの世でせいぜい猫踊りでもするがいいさ、くくくく、ははははっ」

 狐狸の化け術の典型に、(にせ)()(しゃ)と呼ばれるものがある。

 線路上を走る機関車の真向かいに突如として逆走してくる機関車が現れ、あわや衝突という瞬間に忽然と姿を消してしまうというものである。つまり今回、この昏之介狐は偽汽車ならぬ偽トラックを現出させてライコウたちを自滅に追い込んだというわけである。本当はぶつかってくるトラックなどいなかったのだ。智謀に長けた狐らしいやり口といえよう。

 間もなく、村の方から軽ワゴンに乗った石清水、等々力、西山がやって来た。

「おお、やってくれたかね!」

 車から降りた石清水はガードレールと昏之介の表情を見て成り行きを察し、歓喜にうち震えてそう言った。七の玉を大事そうに懐にしまった狐は言う。

「自動車事故というのは恐ろしいものでしてね。年功を経た獣の妖怪でさえ撥ねられて死ぬことがままあります。それ見なさい、あれだけ壊れてしまえば中の者も命はないでしょう」

 石清水たちはガードレールから身を乗り出して下を見たが、獣ほど夜目が利かないために転落した自動車を判別できない。ただし、木陰に揺れる炎の輝きだけはありありと見てとれた。

「退治屋さんたちの車が崖下に……」

「そうだよ等々力君。これで私を恐喝する者はいなくなったんだ」

「ああ……なんてことだ」

 狐を含めたこの四人組の中で、等々力だけはまた心に何らかの迷いを抱く様子であった。だが、そんなことはお構いなしに話は転がってゆく。

「いよいよ石清水先生の時代が来ますな……!」

 西山が身震いして言った。

「本当にやるんですか?」

 等々力の問いに当然さと石清水が答え、昏之介が引き継ぐ。

「邪魔する狸はいなくなったのですからね。後はこの萬尾昏之介が万物自在の術をもって現村長一派を残らず失脚させ、来る次期選挙で石清水先生! あなたが堂々の新村長となるのです」

「期待しているよ萬尾君。そうなればあの山は君のものだ」

「ふっふっふ。楽しみですねぇ」

「あの、でもですね!」

「どうした等々力君、いきなり大きな声を出すんじゃない」

 等々力は首を竦め、おずおずと石清水に進言した。

「もうここまでやったら……その、充分なんではないでしょうか。いや、その、やっぱり悪い事というのはしないに越したことはないのじゃないかと……はぁ、あの、もう無理に村長たちを困らせることもないんじゃないですかね? あの人たちにも生活があるわけですし」

「おい等々力!」

 西山が等々力の肩を掴んで揺さぶった。

「この期に及んで怖気づいたか! 今まで先生によくしてもらっておいてその言い種はなんだお前! 恩知らずにもほどがあるだろうが!」

 まあまあ喧嘩はそこまでにして――と昏之介が猫撫で声で割って入った。

「今夜のは荒事ですから、できるだけ証拠は残したくありません。そこらに散らばった鉄屑なんぞは拾えるだけ拾ってください。さ、ぼやぼやしているとすぐ朝になりますよ!」

「なんだ、そのために儂らを呼んだんか。まあいい、やるぞ等々力!」

「……はい」

 ()げ落ちたサイドミラーを拾い上げ、それでも等々力は物思いに耽らずにいられなかった。

 いくら人間でないとはいっても、いくら金による繋がりだといっても、自分は殺害にまで加担してしまったのである。良心の欠片が疼くのも無理からぬことだった。

 何よりあのノーマという少女を思うと心が痛む。純粋に、優しく、息子に声をかけてくれたあの少女を、ただ権勢を得るのに邪魔になったというだけで(むご)い殺し方をしてしまった。人ではないとはいえ、ひたすらに罪深いことだ。自分はとんでもないことをしているのだという考えが頻りに脳裏を翳め、次に妻と子の無邪気な笑顔が浮かぶ。等々力の足は竦んだ。

「ほら等々力! そこにも落ちとるぞ!」

「は、はいっ」

 彼が足元の金属片を拾うため屈もうとした瞬間だった。手にしたミラーに、背後にぬっと現れた黒い顔が映り込んだ。臆病者が心底恐懼したのは当然だった。

「わああああああっ‼」

 誰にもその理由を告げず、等々力(ひと)()は斜面を滑落していった。






 

 村役場に勤める等々力等志が無言の帰宅を果たしたのは翌日の午後五時を回ってからだった。

 何かの用があって町へ出る途中、事故に出くわして県道脇の斜面を転落したのだという。

 遺体と対面した妻は大いに取り乱し号泣したが、後になって朝から妙な胸騒ぎがしていたと語った。いずれ不幸な死に方ではあったから、なるほど、虫の知らせということもあったのだろうと居合わせた老人たちは頷き合った。ただ、息子の方は父の遺体を目の当たりにしても首を傾げるばかりで、まだ幼いがゆえに何が起こったのか理解できないでいるのだろうと、やはり老人たちは秘かに涙した。

 そして深夜、更に妻は不思議なことを口走り始めた。

「お葬式は(とん)(ぷく)()でしてもらいたいんです」

 頓福寺というのは、あの山奥の廃寺のことだ。

 棺の前で(まど)()んでいると、夢現に夫がそう願う声が聞こえた気がしたというのだ。

 当然、石清水一味は困惑した。

「どうしますか、先生」

 どこか不安そうに西山が尋ねると、石清水は仏頂面で答えた。

「細君の希望を叶えてやればいいじゃないか。もう邪魔をする狸もいないのだしね」

「しかしあの寺には誰もいませんぞ」

「きみ、今日び坊さんなんぞどこからでも手配できるじゃないか。思えば等々力君は、要領は悪いが真面目な男だった。可哀想な最期だよ。だが、彼が死んでくれたお蔭で化け猫の車もどこかの誰かが乗り捨てたものとして処理できそうだ。だから、せめて葬式ぐらいは……ね」

 そして腕組みをして黙っていた昏之介に同意を求める。

「いいね萬尾くん。本堂を建て替え祠を建立する前に、あの古寺に最後の花道を飾らせてやってくれないか」

「……どうぞ。ご自由に」

 少しも関心がなさそうだ。偽りの功績であれ神として名を残すことができれば、もう他は彼にとってどうでもよいことばかりだった。

 かくして等々力家の葬儀は頓福寺にて執り行われることとなった。派遣会社を通じてやってきたのは年嵩の恰幅の良い僧侶だった。本当に仕事で来ただけの、ひとつも怪しい所のない老僧だ。やがて本堂に親類や村役場、議会の面々、近隣の老人たちが集合した。せめてもの義理か、昏之介の姿もある。

「いやあ、やっぱり住職さんがいないと荒れるもんだねぇ」

「私らが子供の時分は、境内でよく遊んだもんだよ」

「あの頃の和尚さんはおっそろしい爺さんでなぁ、はっはっ……よう拳骨を喰らったもんじゃ」

 かつての寺を知る老人たちは口々に昔を懐かしむ言葉を発した。過ぎ去りし日々は思い出せば切なくなる。本尊の阿弥陀仏の輝きも今やくすんでしまって、寺の運命に侘しさを感じているようだった。

 村長は沈痛な面持ちで、顔見知りの若者が惜しくも落命したことを憐れんでいる様子だ。

 ともかく、葬礼は滞りなく進行していった。

 最初の読経が終わり石清水による浅略な弔辞が述べられ、焼香の段に移ろうかという時だ。

 突然、堂内に生暖かい風が吹き込み、灯りとなっていた全ての蝋燭が消えた。寺の電気は停まって久しく、辺り一面は真っ暗闇と化した。

「なんじゃ⁉」

「おいマッチ持ってこい」

「誰かわしの尻を撫でたぞ!」

「誰がおめぇみてぇなババァ触るかい」

「なにを!」

「み、みなさん落ち着いて……」

 闇の中で困惑が広がった。場を納めようとする村長も、葬儀中の変事に驚いている。

 すると――。

 ひゅううぅぅぅ、ひゅうぅぅぅぅ。

 風が吹き荒び、古寺のそこかしこにある隙間が不気味な音を奏で始めた。

「萬尾くん! 悪ふざけはよしたまえ」

 石清水が隣にいる狐を小声で叱責した。

「馬鹿な! 私は何もしていない」

 どろどろどろどろ――太鼓の音が聞こえてきた。これでは怪談芝居につきものの幽霊囃子だ。

 そして。

 ぽう――と一つ。二つ。三つ。棺が置かれている辺りに、青い火の玉が灯って揺れた。

 途端に、堂内は恐慌状態に陥った。

「萬尾くんっ!」

「だから私ではないと言ってるでしょ! おのれ……そういう算段か」

 やがて鬼火が棺桶に纏わりつくと、その蓋が勢いよく撥ね開けられ、中から白装束の等々力がぴんと背筋を張って――いや、硬直させたまま起き上がった。その身は暗闇の中で微発光しており、暗がりの衆目にもはっきりと姿が見えた。

「う、ら、め、し、や」

 両手をだらりと胸元に垂れ、等々力等志の幽霊は参列者たちを見渡した。

 会場のあちこちから悲鳴が上がった。

「ひ、等志くぅん‼」

「化けて出たんか⁉」

 老人たちが驚く横で、西山が腰を抜かしてへたり込む。

「あなた……なの?」

「おとうしゃん?」

 突然の出来事に、幽霊の間近にいた妻子は呆然としていた。僧は失神している。

「みなさァん……聞いてくださいィ……」

 等々力の幽霊が陰気な声を上げた。恐れながらも村民たちの注目が集まる。

「わ、私はァ……石清水先生のお力添えで役場に勤めることができました。ですから、今まで黙って協力してきましたが……そのォ、やっぱりもう黙ってはいられませェん」

 幽霊は震える手で石清水を指差した。

「石清水先生! あなた方のやってきたことは不正だらけです! 汚い金と欲にまみれた人は、東風釜村の村長にはふさわしくねぇ!」

 石清水の顔が一気に蒼褪めた。

「と、とと等々力くん……死んでから何を言いだすかと思えば」

「みなさァん、聞いてください。石清水先生は、悪知恵の働く化け狐と手を組んでいます。今まで村長や村長の支持者の方を困らせていたのは、そこにいる昏之介狐です!」

 幽霊は、今度は力強く昏之介を指差してみせた。射られたように狐は身動きができない。

 村長が目を丸くして問う。

「等々力くん? だったらあのホレ、化け狸というのは……」

「狸が化かしていたのは、ぼ、僕たちのような、村のためにならない者だけだったんですよぉ」

「でたらめを言うな!」

 石清水が青筋を立てて幽霊を罵った。

「何が狐だ。全ては狸がやったことだ!」

「そうだ。私のどこが狐だというのです! 私は単なる先生の支援者だ!」

 それどころか――知恵を巡らせた昏之介は、仕返しに幽霊を指差して宣言する。

「お前こそ正体が私たちを陥れんとする化け狸であることはお見通しだッ! 殺しても死に切らぬしぶとい狸め、己の罪を狐になすりつけるとは卑怯千万!」

「違います……私は等々力等志です」

「おめぇの目は節穴かい!」

 幽霊が応えた直後に聞こえた声は、あの銀蔵狸のものだった。明らかに幽霊が発した声ではない。推理が外れて昏之介は取り乱し始める。

「なに⁉ 銀蔵狸、どこに隠れてい……うひゃあ!」

 突如、ふさふさとした毛に覆われた何かが、石清水と昏之介の足に身を擦りつけて通り過ぎた。闇の中ではその行き先も思うように追えない。

「狸だ! 狸がいた!」

「捕まえろ!」

 もう本堂は大騒ぎ、混乱極まる様相である。心臓が衰えた老人なぞ何かの拍子にショック死しかねない。狸と思しき小獣は村人たちの足元を巧みにすり抜けて捕獲の手から逃れている。

 石清水と昏之介も自ら堂内を走り回って狸を捕らえようと血眼になっている。

「待て!」

「待て狸!」

 二人はどたどたと駆け、幽霊や等々力妻子を押し退けて(しゅ)()(だん)の前に至った。

「どこに失せたァ!」

 ぽん。

 どこからか聞こえる、鼓を打つ音。

 ぽん。ぽん。ぽん。それは狐たちを嗤う狸の腹鼓か。

「銀蔵狸め!」

 昏之介の足元を獣が通り過ぎる。

 そして、機は熟した。

 厨子の中に鎮座まします小さな阿弥陀仏。それが、俄かに目も眩むような()(がね)の光を発した。本堂はまるで夕焼けが差したがごとくに明るくなる。

 幽霊も、村人たちも、昏之介も、みな手で光を遮りながら仏尊の方を向いた。

 (こん)(じき)の阿弥陀仏はすっくと立って厨子から出ると、突然むくむくと大きくなり始めた。

「な……なんだ……」

 天井に頭が届くまでの大仏となった本尊は、たじろぐ石清水と昏之介を見下ろすと、それまでの穏やかな顔から一転、かっと目を見開き憤怒の相を現した。

「この――不届き者ッ‼」

 天地を揺るがす(だい)(おん)(じょう)

 仏の一喝には老獪な悪徳議員も狡猾な化け狐もたまらない。石清水は尻餅をついて転び、昏之介は驚きのあまり、とうとう人の形を忘れて真の姿を晒してしまった。それはやはり獣の狐、腹を見せてひっくり返っている様はどこか愛らしくもあった。

「狐だ!」

「狐じゃ!」

「化け狐がおるぞ!」

「幽霊の言ったことは本当だ!」

 村人たちが次々に真相に気付いていく。最大級の失態に、狐はわなわな震えながら尻尾を巻いた。仏の姿はいつの間にか消え、幽霊も発光しなくなっている。というより――。

「あなた……」

 等々力夫人はそっと青白い夫の頬に手を触れた。

「ひょっとして、生きてる?」

「……はい」

 えぇーっ⁉

 と、一同これ以上ない驚きの声を上げて堂を揺るがした。

 石清水は呆然自失の状態で固まった。村長が問う。

「等々力君、幽霊は芝居かね?」

「す、すみません……でも喋ったことは全て本当なんです」

 そういうことだ――本堂の戸を乱暴に開けて葬儀の場だったはずの所へ踏み込んできたのは、懐中電灯を手にした獣人、妖怪退治屋ライコウだ。そしてその右脇にはクリーム色の毛並みが美しい猫、左脇には、彼と同じくらいの背丈になった阿弥陀仏。

 ざわつく村人たちを押し退けて、一行は悪事が露見した狐と石清水の前に立った。

 懐中電灯でふたりの顔を交互に照らし、ライコウは嫌味たっぷりに言う。

「化け比べは俺の勝ちだな」

「どういうことなんだ」

 整えていた髪もぼさぼさに乱れきった石清水は、なお虚勢を張って言った。一方、狐の姿を晒し続ける昏之介は、にやにやと凡そ仏らしくない下卑た笑いを浮かべる阿弥陀様の顔で全てを理解した。そして、心から湧き出す悔しさを噛み締めた。

「銀ぞぉ……お前が化けたのはそっちか!」

「にっひっひ」

 ぽわっ、と仏様が煙に包まれ、次の瞬間そこに着流しの男が現れた。顔だけがあの狸である。

「おめぇみてぇな青二才には難しかったか?」

 つまり――こういうことである。

 ライコウたちは炎上する自動車から無事に逃れていた。そして等々力は足を滑らせただけで死んでなどいなかった。ただ不幸にもライコウたちに捕えられ、そのまま連れ去られていたのだ。銀蔵狸は等々力の亡骸に化けて横たわり、寺に運ばれるまでじっと死体のふりをしていた。化け術をそれなりに心得た狸であるから、田舎医者では偽死体だと見抜けなかったのだ。そして葬式が始まる直前、辺りに誰もいなくなったのを見計らい、幽霊に扮した本物の等々力と入れ替わり、銀蔵は次に本尊に化けたのである。こうして先程の怪異が演出された。頻りに股の間を潜って走り回っていたのは、猫の姿に戻ったノーマだった。相手はこれまでのこともあり、狸一匹の仕業と信じて疑わなかったのだから、この攪乱も功を奏した。

 どこから出したか、ライコウは抜身の刀を本堂の床に突き立てた。

「さて、俺を殺そうとした頭の悪い狐はどこだ?」

「お、お助けぇッ‼」

 言うが早いか昏之介狐は一目散に駆けだして、寺から姿を晦ました。

「あっ、待てこの野郎!」

「ほっとけ。こいつがいる」

 追おうとした銀蔵を無意味に殴り倒し、ライコウは石清水に向かって牙を剥き出した。黄色い眼がぎらぎらと輝き、野生の猛獣よりも凶悪な面相だった。

「ひいぃぃ」

 恐らく石清水は死を覚悟したことだろう。

 村長の座を狙って姦計を巡らせた男の哀れな末路は――。

「先生、俺ぁ(くる)()が欲しい」

「あっはぁぁ……」

 もう言葉にもならない。電灯に照らされた彼の股間には、何やら不名誉な染みが広がっていた。みっともねぇなぁと狸も呆れる。

 こうして、東風釜村で繰り広げられた狐狸と猫、そして人間たちの化け比べは決着した。

(なえ)()、寛汰っ!」

 等々力等志は額の紙烏帽子をかなぐり捨てて、愛する妻子と抱き合った。

「あなた! よかった……」

「心配かけてごめんなぁ。それからもひとつごめん! 俺、役場辞める。辞めて、心入れ替えて誠実に働くよ! 嘘や隠し事のある父親の背中なんて、子供に見せらんねぇもんな」

 家族の絆を見せつけられて、村人たちは穏やかな表情で頷きを送った。そんな中、村長が涙を流して進み出てきた。

「いや、等々力くん! 君はこれからも役場で働いてくれたまえ! 君のような男こそが村に必要なんだ!」

「村長……ありがとうございます!」

 生まれ変わった等々力は村長に深々と頭を下げ、次いで遠巻きに眺めていたライコウたちにも一礼した。ノーマは満足げににゃぁぉと声を発したが、退治屋は腕組みをしていつもの不機嫌な面構えのままだった。

「なんだありゃあ。お涙頂戴でまとめる気か」

 そして床に視線を落として、赤い宝珠が落ちているのに気がつき拾い上げた。

 銀蔵狸が言う。

「そいつぁ昏之介が化けるのに使ってた七の玉だぜ。けけけっ、あの野郎慌てて逃げたんで先祖代々伝わる宝を忘れていったんだ!」

「なるほどな……いい質草になりそうだ」

 





 

 鳳川の九生妖怪退治社は、暇な日も多い。

 だが大口の仕事をこなした後は、そんなことも気にはならない。むしろ心地良い余暇だ。

 ライコウはデスクに自動車のカタログを広げ、例によって紫煙をくゆらせていた。

「次のクルマはそれにするんですか?」

 少女――ノーマがカタログを覗き込んで尋ねる。

「せっかくだから今度は違う色にしませんか? ピンクとか!」

「馬鹿」

「えーなんで? ピンクかわいいのに」

「いや、シルバーがいい!」

 そう言ったのはライコウではなく、禿(スキン)(ヘッド)で緩い造作の顔立ち、ラフな服装の男――に化けた銀蔵狸だった。

「銀蔵のシルバーだよ」

「おい」

「ん? どうしたいライコウちゃん、そんな怖い顔してよぉ」

「なんでお前が居座ってんだ馬鹿野郎」

「まぁたその話かよ。いいじゃあねぇか置いてくれたって!」

 ライコウは深い溜息をついた。

「出てけ」

「いや、俺はあんたの助手になるって決めたんだ」

「えぇ⁉ 助手は私なのに!」

 突然の宣言にノーマも少し慌てる。

「ふたりいたって困るもんじゃないでしょノーマ、社長さん? 俺はね、村で見たあんたの手際の鮮やかさに丸っきり感銘を受けたんだ。え? 俺をこてんぱんにやっつけたばかりか憎い狐のあんちくしょうに一泡吹かせて村から追っ払い、あくどい人間どもの不正も全部暴き出した。それで金を巻き上げるだけ巻き上げて警察沙汰にはあえてせず、あの等々力って気弱な男も立ち直らせたじゃねぇか! 転んでもタダじゃ起きない、それでいて単なる悪党でもない。あんたぁ最高だよ」

「よく喋る狸だ。俺は一番金が入る道を選んだだけだ」

「いいねぇ、惚れっちまうよライコウちゃん!」

「気色の悪い呼び方をするな!」

「いいじゃねぇかよぉ! ああ、鳳川ってのもいい町だよなあ!」

 銀蔵は口笛を吹きながら、上機嫌で事務所を出ていった。

「愉快なひとですねぇ、銀蔵さんって」

「……やっぱり狸汁にしとくべきだった」

 食えたもんじゃないだろうがな――。

 ガラス戸の前に雀が集まり囀っている。郵便配達のスクーターが近付いて、雀たちはお喋りの場を電線に移し、スクーターが去ったあとには椋鳥がやって来た。

 そんな穏やかな昼下がりの一景である。






(終)

 

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