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辻神

 

「あっ、()(やま)さんいらっしゃい!」

 柔らかく跳ねる紙風船のような声が、両肩にずっしり重い疲れを載せて(なわ)(のれ)()を潜った僕を迎えてくれた。薄紅の()()()に赤い前掛け。人懐こい目の彼女は、いつもの通りに僕の姿を認めて笑顔を向けてくれた。こんばんは、と小声で挨拶して、ぎこちない笑顔と礼を返す。いつまで経ってもどきどきしてしまっていけない。だけど、なんというか多幸感がある。ああ、やっぱりここに来るだけで安らぐなあ、なんて。もう肩が少し軽くなっている。

「らっしゃい! しばらく顔見ないから、なんかあったんじゃないかって心配してたんだよ」

 次いでカウンターから声を発した丸顔に鉢巻のおじさんが、居酒屋「くちばし」の店主・(おと)()(よし)()である。名前の通り人の()さそうな表情を崩さない彼もまた、この空間が僕にくれる癒しの大事な一要素だ。

「やあ、僕は至って健康でしたよ」

 指定席――と僕が勝手に定めているカウンターの隅は、幸いにも空いていた。常連らしいスムーズな動きで腰かけ、いつものでいいねという店主の問いにはいと応える。

「健康でしたけど、まあ色々」

「色々あったのかい」

 いかにも困っていますというふうに僕は項垂れた。いや、実際困っていたのだから変に芝居がかった仕草などしなくてもいいと思うのだが、彼女が近くにいると思うと、どうも動作が大袈裟になってしまう。無意識のうちに構ってもらおうとしている幼児みたいな自分に気付いて、酔う前から赤面することしきり。

 案の定、カウンターに戻ってきた彼女――ひかりさんはそんな僕を見て、会社で何かあったんですかと心配そうに言った。僕は顔を上げ、そんなに長くもない前髪をかき上げて言った。

「相変わらず部長は嫌味で僕もミスばかりだけど……今の悩みの種は会社じゃないんだ」

「あら、だったらなんでしょう?」

 お酌をしてくれながらひかりさんが首を傾げると、横で音羽さんが借金の相談じゃないだろうねと茶化した。僕が借金まみれになるような生活は送るはずもないとの信頼を含んだ言葉である。

「実はですね」

 猪口に注がれた大吟醸をひとまず飲んで、切り出そうとして、やっぱりためらった。

「ああ、ううん……」

「津山さん?」

「なんだい。ここで口籠るなんて津山くんらしくもない。言えないことなら聞かないけどさ」

 言えないわけではないが、言い出しにくいことではあった。家族友人以外では最も気を許していると言ってもいいこの二人を相手にしてもなお、語るのには若干ハードルが高い。

「あのですね、こんなこと真面目な顔して言うとね、バカにされるかおかしなヤツだと思われるのではと心配してるんですが」

「かまやしないさ。もう飲んでるでしょ? 素面(しらふ)じゃないから気楽に言っちゃいな。どうぞ」

 あくまで穏やかな調子で言って、音羽さんは僕の前に砂肝の唐揚げを置いた。

 好きなのだ、砂肝。

「ええ……」

 コリコリを楽しみつつ、なおも僕は心の分岐点で右往左往した。誰かに言いたい。でも、酔っているとはいえ、こんなこと相談しちゃうって社会人としてどうなのよ。

 ふと、ひかりさんの顔を見た。彼女は徳利を手にしたまま僕を観察していた。心配してくれているのだろうか、眉尻が下がっている。ああ、いけない。

「あの、ですね。僕酔ってますから。変なこと言ってたら忘れてくれて構いませんから。では、言います。あれは先々週……だったかな。(ねえ)さ、こほん、姉から電話がかかってきまして」

 結婚してからというもの、姉が僕に電話をよこすことは滅多になくなっていたから、それだけでも何事かと驚いたものだった。義兄と大喧嘩して実家に帰ることにしたとか、新築のマイホームが実は欠陥住宅だと判明したとか、可愛い姪っ子の身に何かあったとか、よからぬ想像ばかりが着信音によって喚起された。幸運にも予測は全て外れだったが、これが何かの試験だったら不幸にも部分点が貰えただろう。

 で、苗字が変わって六年目の姉は開口一番、(しゅう)くん霊媒師とか知らないの、と訊いてきたのである。当然僕は言う。はぁ?

 雑誌の星占いや血液型性格診断もアホらしいホラだといって歯牙にもかけない姉が、いきなり霊媒師を紹介しろとは何事だろうか。しばらく会っていない内に怪しい宗教にでもハマってしまったのだろうかと、これまた何も聞かない内に僕のマイナス思考が暴走し始めた。

「もちろん僕に霊媒師の知り合いなんていやしませんよ? 僕だってそんな……オカルトっぽいの信じてなかったし」

「そうですか……」

 どことなく寂しげに思える相槌を打ったひかりさんをちょっと見て、音羽さんは僕に尋ねた。

「まあ、突然だから混乱もするねえ。事情を聞いたわけだ?」

「ええ」

 先に言った通り、姉夫婦は先頃念願のマイホームを手に入れていた。それまで売地に建っていた無人の古家を取り壊し、新たに二階建て車庫付きの家を建築したものだ。市街地からは少し離れているが、通勤にも支障はなく、却って閑静でいい。完成直後に一度訪問した時には、姉も大層喜んでいた。姪っ子がつられてニコニコしていて、僕まで顔が綻んだものだ。あ、ちなみに僕自身はしがないアパート暮らしである。悲しい。

 異変が起こったのは一ヶ月前、即ちマイホーム完成からちょうど一年を経た四月だった。

 ラップ音というのだろうか。家のあちこちから妙な音がするようになったのだという。コンコン、とドアをノックする乾いた音。ぱき、と頭上で枝を折るような音。カツン、背後で石を蹴るような音。パン、背後で手を叩くような音。音は日を追って頻度を増し、しまいにはワッ! という低い男の声まで聞こえることがあったという。それらは初め、決まって独りでいるときに聞こえた。だから娘や夫のイタズラではないのだ、見えない誰かが音を出しているのだと姉は断言した。

「だから僕言ったんですよ、姉さん疲れが溜まってんじゃないのって」

「ふぅん、今までそういうこと否定してた人がそんな様子じゃ、幻覚を疑いたくなるよねえ」

 だが、音だけに留まっていたのも今は昔のハナシ、と姉は言う。声だけで蒼褪めているのが分かった。怪音が自分だけに聞こえている内は、姉自身ストレスか疲れによるものだろう、ゆっくり過ごせば収まるに違いない、夫や娘に心配はかけられない、と、一度病院で薬をもらった以外は誰にも相談せずにいたのだそうだ。

 怪音発生が始まってから一週間後、(プラ)(セボ)効果か、すこし異様な気配が遠退いた感じを覚えていた頃のことだ。朝起きて寝室からリビングに降りると、電話台の上に置いていた花瓶が落ち、無数の破片が床に散っていた。昨夜まで美しく咲いていたはずの花――なんだったかなあ、おしゃれな横文字の名前だ――は、すっかり干からびて藁のようになっていたという。置き方如何で手を触れずとも倒れてしまうというのも考えられないではない。お気に入りの花瓶だったが、割れてしまったのは仕方がないと諦め、片付けた。

 翌朝。今度は掛け時計が落ちて壊れていたという。建て付けが悪いのかな――冗談めかした義兄の一言が、ちょっと後になってからやけに癇に障ったのだとか。

「まぁ」

 ひかりさんが言った。

「なんだか他人事みたいに聞こえちゃったんでしょうねぇ」

 そうなのかなぁとぼんやりした口調で応じると、そうですよぉと(たしな)めるように言われた。

 生まれてこの方二七年、彼女の一人もいたことのないボンクラには、その辺りの機微がよく分からない。だが、この日を境に、僕から見ても仲睦まじかった夫婦の心の距離が、少し、ほんの少しずつ離れていったことは、もう疑いようのない事実だったのだ。

 しかして怪現象が止んだわけでもない。やっぱりどこかで変な音がしたり、買い物から帰ると消したはずのテレビがついていたり、寝る前に読んでいた本に挟んだ栞の位置が変わっていたり。些細な異変ばかりで、花瓶や時計のように物が破損することはまれだったが、とにかく一日一回は何かある。

 だが、僕の姉は豪胆だった。この程度の事では、もう気弱にならなかった。何より彼女はもう母親であるから、大事な娘を不安がらせないためにも気丈に振る舞い続けていたのだ。

 花瓶の一件以来、義兄や姪も怪現象を体験するようになっていた。

 なのに(りゅう)(すけ)のヤツったら、と電話口で姉は口を尖らせていた。この話題に触れると、義兄は妙によそよそしい態度になるのだという。後ろめたいことでも隠しているように。

 あの愛妻家が姉さんに隠し事をするだろうか? 僕にはどうも信じられなかった。

 第一、事の隠し場所が見当たらない。家族に黙って天井裏に誰かを住まわせているとかいうなら、まあそんな態度になるのも頷ける。だけれど、さすがに有り得ない。

「怖い話が苦手なんじゃないのかい? ホラー映画なんかおれも駄目だねえ」

「それはないと思うんですけど」

 音羽さんの推理を僕はすぐ否定した。姉と義兄は大学時代に知り合ったのだが、当時の彼は下宿にいわゆる〝事故物件〟を借りて安く上げていたような、肝の据わった男だった。自分が怪事に見舞われたなら喜んで酒席のネタにでもしそうである。妻子が不安がっているならば、男らしく頼もしい言葉ひとつで安心させる技も持っているはずだった。

 猪口の中の小さな波紋に目を落とし、僕は続けた。

「なのにこう、心配してくれてもそっけないというか、時折怖がってさえいるような様子というか。そうこうしてる内にまたエスカレートしたんだそうです」

 異変が始まってから二週間が経過していた。慣れとは恐ろしいもので、三人はさして家鳴りを気に懸けなくなっていた。今日はわりと静かね、などと妻が言ってみたりすると、夫はうん……と歯切れの悪い生返事。娘は絵本を読んでいる。そんな日々が続いていたそうだ。

 音の主はこれを不満に思ったか、遂に姿を現すようになった。

 日常のふとした瞬間――姉がリビングを掃除するとき、義兄が帰宅し靴を脱ぐき、姪がソファで微睡(まどろ)んだとき――視界の隅にふっと、茫洋として、朦朧とした、夢か現かも判然としない小さな人影が横切る。顔の造作も見えないのに、怒っているとか笑っているとか、その時々の感情だけは伝わってくるという。耳に指をぐっと押し入れられるような、ひどく不快な感覚を伴って。それ以上の危害は加えてこなかったとはいえ、完全に尋常ならざる事態ではないか。

 また、夫婦はそれぞれ悪夢に(うな)されることにもなった。

天井から焼けたように赤い(はだ)で、自分の両手を広げても抱えきれない太さで、ところどころから針金のように硬い毛が突き出して、象牙の先にも似た爪の生えた大腕が、寝室の天井をめりめりと突き破って現れる夢だ。腕はベッドの上の姉を、或いは義兄を捕らえてはぐっと握り、信じられないような力で圧迫する。(あばら)(ぼね)は折れ、身体は潰れ、目玉は飛び出し、そうして寝汗にまみれてから目が覚めるという。不思議と姪っ子だけは、いつもすやすやと朝まで眠っていたそうだ。羨ましいよりほっとしたと、こればかりは夫婦口を揃えて言った。

この異常な悪夢は存外精神に応えたのだ。僕が同じ目に遭ったとしたら、きっとすぐ()を上げてしまう。眠っている間は平和で、一日の内で最も安らぎを得られる時でないといけないだろうに。何も考えず横たわっているだけでいい。夢を見るにしたって幸せなのがいい。夢の中でまで苦しめられてしまっては、もうどうしようもないではないか。

 三週間が経って、姉は家中をいつにも増して、徹底的に掃除した。きっと途方に暮れていたのだ。自分の夫が具体的な対策を示してくれないかという期待は、もうきっぱり放棄していたし、親しい友人に相談してみるという選択肢も(はな)からなかったとみえる。こんなことを言うと本人は怒るが、姉は妙に(けん)(かい)なところがあるのだ。

 胸の前で掌を合わせたり離したりしながら、ひかりさんが言った。

「でも、津山さんには相談なさったんですね。いいなぁ、お姉さんから信頼されてるんだ」

「そ、そんなんじゃないですよ……」

 ひかりさんに褒められて内心鼻高々でときめいたが、僕は真面目に否定した。

 僕に電話をかけてきたのは、信頼から来るものというよりは、そう、きっと気分転換とか、ストレス解消とかいった類の意思からだろう。

 で、先に述べた通り、霊媒師知らないの、と。もちろん知るわけはない。僕だって姉と同じ、心霊だの超常現象だのは、テレビと雑誌のネタに過ぎないと考えて、いやバカにしていたからだ。察するにあれはほぼ無意識的に出た問いかけだったのだろう。それまでの姉の絶えざる不安を思えば、僕だって胸が痛む。

 だから僕は、次の休みに行くよと答えて電話を切ったのである。

 行ったところでどうにかなるとも思わなかったが。今思えば、これは多分に自分の「怖いもの見たさ」が入りこんだ勝手な提案で、反省することしきり。

 そして日曜日。目の下にうっすら隈ができた姉の顔に愕然としつつ玄関に一歩踏み入った僕の背を、誰かが強い力でどんと押した。断っておくと、義兄は仕事で不在、姪は幼稚園の友達の家へ遊びに行っていたので、当然かれらの悪ふざけという線はない。姉は僕の前にいたのだから、僕を突き飛ばすべき人物はどこにもいないはずである。事実、姉は犯人を目撃していない。けれど確かに、僕に加えられた力と、強い害意を感じ取って前のめりになったのだ。

「まぁ! お怪我はなかったんですか?」

 ひかりさんの視線が僕の顔から首筋、手元へと忙しなく動いた。心配されるのはなんとも心地良い。鼻血が出ただけですと答え、今度は鰹節と醤油のかかった刻みオクラを口に入れた。

 ティッシュを鼻に詰めた僕は、もうすっかり竦み上がっていた。姉の証言の数々が、疲れやストレスからの幻覚ではないことも分かった。結局、僕は背後の気配に怯えつつ邸内を無駄にさまよった後、リビングで呆然としてしまったのである。ああ無力だ、小心者だ、できることなど何もないじゃないか。不甲斐ない話だ。

 役に立てなくてごめんと言うと、私も変なこと言っちゃってごめんね、と姉も詫びた。僕はそれがひどく心苦しくて、情けない表情で姉を見返した。そのとき。

 テーブルの上に置いていた、麦茶を飲み干して空になったガラスコップが、重力を無視して垂直に浮かび上がった! コップは天井にぶち当たって砕け散り、僕らの上には細かなガラス片が降り注いだ。驚く間もなく、今度はテレビのリモコンが宙に舞って僕の胸元に衝突し、台風が来たように窓がガタガタ震えはじめた。ドアはドタンバタンと激しく開閉を繰り返し、床下からは禍々しい地鳴りが聞こえ、壁の向こう側から連続して拳を叩きつけるようなぼくぼくという音と震動が! 

 そして、耳元で。

 ――あンたなんかお呼びじゃないよ。

 低い女の声だった。砕けた口調が却って恐ろしかった。

 うわーっ‼

 思わず叫んだ。いったい何が起こっているというのか!

 腰を抜かした僕と、僕ほどではないにせよ大いに動揺した姉がほうほうの体で外に逃げ出すと、(ポル)(ター)(ガイ)(スト)はぴたり止まった。それきり、僕は姉夫婦の家に踏み込む意欲を失ってしまった。

「それで……どうなったんだい」

 神妙な面持ちで聞いていた音羽さんが尋ねた。

「僕は、月曜が早出だったんで、義兄さんと入れ替わりに帰りました」

 事情を説明しても義兄はうんとかふぅんとしか言わなかったが、その顔には明らかに恐れが滲み出ていた。かつての彼からは想像できない様子、不可解だ。

 それから今日に至るまでの五日間で、事態は大きく動いてしまった。

 僕が帰ってから、姉は義兄の反対を押し切って神主を家に呼んだ。家を建てる際に地鎮祭を行った人物だ。もう一度お祓いをしてもらおうという算段だったが、彼が家に入るなり、僕の時と同じく、家屋が激しく鳴動したという。これには神主も恐れをなして、私には役不足だと――取り乱したがゆえの誤用だろう――逃げ出すように帰ってしまった。やはり訪問者が去ると家は静まったという。

 その夜、夫婦は激しい口論となった。夫は妻になぜ余計なことをするのかと怒鳴り、妻は夫をなぜ対策すら考えてくれないのかと詰る。こんなのは気の迷いが見せる共同幻想みたいなもので、しばらく耐えて無視してやれば収まるものだ、というのが義兄の言い分。彼よりも多く怪異に遭遇した姉は、最早自分たちの常識で測る域はとうに超えたと主張した。これはどうあっても交わらない平行線で、犬も後足で砂をかけて逃げ出しそうな罵詈雑言が飛び交った。このせいで眠っていた姪っ子が起き出して大泣きに泣き、二人は自分たちの愚かさに恥じ入って沈黙した。

 まぁ、どちらの肩を持つかといえば、言わずもがな。

 翌朝、例によって悪夢に苦しめられた義兄は、目覚めるとシャワーを浴びるため浴室に向かい、蛇口を捻った直後に彼らしからぬ悲鳴を上げた。驚いた姉が浴室に向かうと、そこには泥水でも浴びたように汚れた夫の姿があった。シャワーから濁水が出てきたのだという。新築の家で水道管がさびているわけもない。もちろん、そんなことが起きたのは後にも先にもこの一回だ。

 ともかく、体に異状はなかったので、体を拭いて出社した。娘を幼稚園に送って独りになった姉は、家に戻る気にもなれず、近場の寺や自称風水師の所を巡って相談したが、どいつもこいつも本気で取り合っていないのが透けて見えたと憤慨していた。所詮は商売のための口八丁かと、今更ながらに失望したそうだ。

 その晩、夫婦はあえて怪異について触れなかった。目を背けるしかないと思ったのだろうか。そして、二人はいつもとは違う夢を見た。

 小鬼が――昔話に出てくるような、角を生やし虎の褌をつけた姿の、掌大ので色とりどりの小鬼たちが、寝室で歌い騒ぎ回っているのである。大腕のような切迫した恐怖感はないものの、サイケデリックな気味の悪さは感じずにいられなかった。

 翌朝から、姪が病みついた。

 高熱を発して、お粥さえろくに食べられない。夏風邪をこじらせたのだろうとの診断で入院することになったが、昨晩までそんな様子はまるでなかったのだ。あの夢のせいだ、と姉は確信した。

 仕事を休んで娘に付き添っていた義兄は、ここでとうとう折れた。

 (あや)()が退院したら、しばらく実家に帰っててくれないか。

 家が元に戻ったら、また一緒に暮らそう。

 事実上の別居宣言だった。姉は素直に首肯した。もう夫の考えていることも、行動の意味も、すっかり分からなくなってしまっていた。これまでの彼に対する愛情さえ、過ちに書き換えて捨て去ってしまいそうになっていたのだ。

 姪は点滴によって回復し、今は僕らの実家にいる。

 だが、義兄は今もあの家にいて、怪異が収まる時を見極めようとしているのだ。

 頑固を通り越して頑迷ではないか。

「いや、でもねぇ津山くん。お義兄さんの態度も分からないではないよ。家なんて一生に何度もない大きな買い物だ。男にとっちゃ自分の城さね。それをなんだ、わけの分からない化物みたいなのに乗っ取られたくはないだろう。しかも、聞けばお義兄さん、そういうの今までまるで怖がらなかった(たち)なんだってね、だったら余計に思うんだろう、今更こんなもんに負けられるかいってねぇ」

「そういうもんですかね」

 これも僕には分からない。守るものが増えるとこういう変化を齎すのか?

 僕には隆介さんが、自分の言い分を通そうと意地を張っているようにしか思えない。姉の言う通り、もう自分たちだけで対処できる域ではない。僕だって見た。地が唸り、家具が暴れるホラー映画みたいな光景を。あの家だけを襲う怪異を!

 せっかく建てたマイホームが一年で幽霊屋敷と化した。そう言われてしまうと、屈辱かも知れない。けれど、雪辱より先に家族を守ってやるべきではなかったのか。僕は、義兄が嫌いになり始めていた。

「だから僕はいったいどうすりゃいいのかなあって。こんな問題、警察の管轄外だし。かといって化物退治の専門家みたいなのはマンガの話だし……」

 花金の夜にこんな話題とは、まぁなんともやるせない。

「考えてみりゃおかしな話ですよ。買う目処がつくまで土地が売れなくて良かったなんて言ってましたけど、そりゃ何かしらのいわくがあって売れ残ってたんじゃないかって気がしてきました。元々建ってたボロ家だって、再利用できそうもなかったんだから早いとこ潰しておけばいいはずでしょ。おかしいんですよあの土地。きっとの、呪われてたんだ」

 僕は二人がまた慰めの言葉をかけてくれるものだと期待して、砂肝を咀嚼しながら待った。

「なんか人生観変わっちゃいましたよ。いるかいないかでいえば、お化けっているんだなって」

 待った。

 待ったが。

 おや……? なぜか、返答がない。

「おじさん、ひかりさん……?」

 二人は顔を見合わせ黙っている。目と目で相談し合っていたのだ。

「……別にいいじゃない」

 唇を尖らせ、ひかりさんが小声で言う。

「で、でもねえ」

 対する音羽さんは賛同しかねるといった様子で腕を組む。酔いが回ってぽーっとした頭では、二人が何を考えているか見当もつかなかった。ああ、もしかして予想以上にオカルティックな話をしたせいで内心ドン引きしてて、いかに僕を傷つけず現実的なフォローを入れようかと相談してるのか。参ったなぁ、申し訳ないことしちゃったなぁ。

「す、すいません。あんまマジに捉えないでください、所詮酔っ払いの戯言(たわごと)ですから」

「津山さん、あのね」

「はい?」

 不意にひかりさんに呼びかけられて、僕はきょとんとしてしまう。よしなさいよと音羽さんがひかりさんを小突く。すると、彼女はちょっと怒ったように店主を見返した。

「なんで? 津山さん困ってるのにほっておけないでしょ」

「いやでもねえ、そう軽々しくあれを教えるのは」

 そこで言葉を切って音羽さんは僕を見る。そして視線はまたひかりさんへ。二人ともいやに思わせぶりで、単に僕の妄言に辟易しているだけではなさそうだ。

「だって津山くんだよ?」

「津山さんだからこそなの!」

 だってって何。だからこそってどういうこと。

「な、なんなんですか。言いたいことがあるなら言ってください」

 何か声をかけてもらえるならなんだっていい。ひかりさんになら。

「それ、妖怪ですよね?」

「妖怪……なんですかね」

 妖怪の定義を僕は知らない。そんなものがいるかどうかも知らないが、まぁ妖怪だと言われればそうなのかもしれない。人知を超えた霊みたいな存在であるのに違いはないのだ。

 ひかりさんは極めて真面目に、そして他の客に聞こえないような声で僕に言う。当然、顔が近付く。高級なシャンプーみたいに爽やかな香りが僕の胸をときめかせたのは言うまでもない。

「知ってるんです。妖怪退治の専門家」

「……え?」

 後ろの客が機嫌よく歌う炭坑節が、やけに耳に残った。



 

 翌朝。といってももう昼前なのだが、まぁ感覚としては起きてそう時間も経っていないから朝としておきたい。僕はひかりさんから貰った手書きの地図を頼りに(おおとり)(がわ)の住宅街を歩いていた。この辺りに用事があるとすれば「くちばし」へ通うくらいのものだから、こんな何の変哲もない町を歩くことなんてない。しかもいつもと違ってまだ日は高いので、明るい食卓にうっかり出てしまったゴキブリにも似た気分になる。昼の鳳川は僕を歓迎してくれているだろうか。どこか近くに公園か広い庭でもあるのだろう、子供たちの遊ぶ声が聞こえてきて和やかだ。子供といえば、姪の綾音はあれから元気にしているそうだ。姉も同じで、実家に帰ったら肩の荷が下りたようだと言っていた。

「ここか」

 僕が足を止めたのは、コンビニや病院、小さなオフィスなどが並ぶ表通りから少し入った場所で、ちょうど街と町の中間の、どちらかといえば町寄りの細道だった。そして僕が見ているのは、店先に郵便ポストと自動販売機、赤地に白丸の「たばこ」看板が吊るされた古い個人商店――の隣にある二階建ての事務所だ。ガラス戸に貼りついた縦書きの社名と、地図の柔らかい字を何度か見比べ、ここに違いないと確信して、引手に指をつける。

〝九生妖怪退治社〟

 九生はきゅうしょう、と読むそうだ。ドア横の看板にも同じ社名が記されていた。

 よくもまぁ、こんなインチキくさい社名を堂々と。

 呼び鈴の類はないようだ。そっと、控えめに引き開けたのに、戸についた鈴がちりちりと大袈裟に鳴って僕の来訪を報せた。腹を括って呼びかけてみる。

「あのー、すみません、失礼します。どなたかいらっしゃますかぁ」

 観葉植物、応接セット、デスクにはパソコンやファイル、紙片が沢山貼り付けられたホワイトボード、壁のフックにいくつもかかっている鍵。返事を待ちながら一見して窺えたのは、ここが何の変哲もなさそうな事務所か不動産屋のようであるということだった。いかにも怪しげな、お香を焚いた暗い部屋でベールをかぶった薄気味悪い人が水晶玉に手を翳してぶつぶつ呪文を唱えているような場所を想像していた僕は肩透かしを食った気分になり、無駄に背筋を伸ばした。どうしてだろう、これは新しい取引先の人に初めて会うときの緊張だ。それにしても、返事がないな。

「あのー、お留守なんでしょうか……?」

「ここにいるだろうが」

 その男の声は、僕の目線より少し上から響いてきた。階段を降りてやって来たのだ。

「あ、どうもすいません」

 僕は反射的に頭を下げた。仕事での動作が染みついている。

「なにがすいませんだこの野郎。謝るくらいなら来るな」

 噛みつくような物言いに僕は一瞬にして竦んだ。二回から降りてきた彼の出で立ちは、黒いワイシャツに白いスラックス、首には金のネックレス。歳は僕より上――三十くらいか。黒い短髪は無造作に乱れ、色素の薄い瞳はどうにも敵意や威圧感を覚えてやまない。というか、この人、この面構え、もしかしてアレじゃないの、ヤのつく自由業的な――。

「す、すいません帰ります!」

 僕は目的も忘れてキレの良い回れ右をした。いやいやいや、事務所だなぁとは思ったけど、まさかその筋の事務所だったとは!

「おい待て」

 降りてきた男はデスクに置いていた煙草の箱を取ると、ひどく不機嫌な顔のまま言った。

「帰れと言われてすぐ帰るバカがどこにいる。用があって来たんじゃねぇのか」

「はい? えーっとそれはですねあのー……よ、よ、妖怪退治を」

「妖怪退治ィ?」

「す、すいません! ひ、人にここを教えてもらったものですから相談してみようと思ったんですけど! ご迷惑でしたよね帰ります!」

「待てと言ってんだろ」

「ひゃあっ」

 男は僕の襟首を掴み、強引に応接スペースまで引きずってソファに座らせた。しかも下座。

「津山とかいうのはお前だな」

「ひぇ? そ、そうですけど……どうして僕の名前を」

 上座のソファにどっと腰を落とし、怖いお兄さんは言う。

「飲み屋のサギ娘から電話があった。話だけでも聞いてやってくれとな」

 サギ娘? 飲み屋の、という枕があったからにはひかりさんに違いない。これはさすがの僕も聞き捨てならなかったので語気を強めて言ってやった。

「ななな何が詐欺ですか失礼な! ひかりさんの可愛さと優しさは本物です」

「は」

 僕を心底軽蔑するように冷ややかな男の目。それ以上、何も言えなかった。

「……冗談はいいから話せ。手短にな」

「すいません……」

 それから、僕は昨夜くちばしで話したのと同じ内容を男に伝えた。とはいえ、今日は本当に素面だったから、ホラー映画の筋書きを大真面目に語るようなもので気が引ける。酒席の与太話という言い訳なしには流暢に喋れず、途中からは口が渇いて仕方がなかった。事務所には彼一人しかいないようで、誰も飲み物ひとつ出してくれなかった。

「――というわけで、()()はいま家に独りになってしまいまして」

「馬鹿な男だ」

 辛辣な感想を漏らした彼は(おもむろ)に席を立つと、直近のデスクから手頃な白紙とボールペンを取って僕の前に置いた。

「その家の周りの地図を描け」

「地図ですか? わ、わかりました」

 青インクのボールペンを走らせるうち、それにベンツのエンブレムが付いていることに気がついた。販促品か特典か、いずれにしても大して書き味は良くもないな。そんなことを考えながら、記憶を頼りに紙片に線を引く。

「こんな感じ、ですかね」

 我ながら実に大雑把だ。何年経っても地図という奴は読むのも書くのも苦手だが、そういうことを言う度に姉からは「男の癖に!」などと文句を言われるのだ。どうでもいいか。

 さて、男は煙草に火を着けると地図を数秒見つめて、何か納得したように「ん」と言った。紫煙がゆらりと立ち上る。

「敵の正体は大方察しがついた」

「え、もうですか? やっぱし妖怪なんですかこれ」

 男は無気力そうに、煙草を挟んだ指で地図のある部分をとんとんと叩く。そこは家に面した(ティー)()()だった。こういう所にはよく出ると男は言う。

(てい)()()の突き当りに家を建てると(つじ)(がみ)が入り込むといってな。そうすると病気や災難に見舞われる。神とはいっても有難いもんじゃねぇ、疫病神や魔物の類だな」

「つ、つじがみ……」

「もっと言や、この家に現れた魔物は一体だけじゃねぇ。話を聞く限り数え切れない有象無象が出入りしてやがる。腕、女、小鬼ども、全部別物だ。全部ひっくるめて辻神」

 男は淡々と僕に説明する。

「橋や辻ってのは複数の道を一つに繋ぐ境界だ。妖怪どもは境目や隙間を好む。そういう場所は往々にして連中の集会所に続く通り道でもある。人間には行けない場所だが、妖怪になら難なく通り抜けできる」

「隠しステージへのルートみたいなのがあるんですか」

「は……まぁ勝手に解釈しろ。それでだ。無教養な荒くれ者どもが、自分たちの遊び場へ行く道で弱そうな人間に出会ったらどうすると思う?」

「はい、そうですね……ちょっかいをかけてみたくなったりするのかも」

「そういうこったな」

 なんてことだ。つまりあの怪現象の元凶たちは、姉一家に特段の恨みがあるのではないのだ。

 僕は身を乗り出して彼に尋ねる。

「どうすれば退治できるんですか? できるんですよね⁉」

「俺は妖怪退治屋だぞ」

「よかったぁ、お願いします!」

「断る」

「はい?」

 男は吸殻を和陶の大きな灰皿に押し付けると、急に興醒めしたように立ち上がった。僕は唖然としてソファに尻を置いたままだ。

「な、なんでですか。あなた妖怪退治屋さんなんじゃないんですか?」

「仕事を受けるかどうかの自由は俺にある。お前――どうせ小さな会社のヒラだろう」

 そう言って、男は僕を値踏みするようにじろりと睨んだ。

「安月給だ。スーツと靴も(やす)(もん)、頭は千円カット。それからサギ娘に惚れてるところからして、碌に女と付き合ったこともねぇ独り者か?」

「そっ……それがどうしたっていうんですか! あなたには関係ないでしょ。し、し、しかも僕、別にひかりさんのことなんてどうも思ってな……いですから!」

 この反論をするだけで汗が出た。しかも後半部分は嘘だ。情けない。

「俺は犬と貧乏人が嫌いでな」

謎の男は僕の緊張を鼻で笑って言う。

「退治料は安くねぇぜ。値下げはなしだ。ただでさえ軽い財布が余計に軽くなって明日の飯にも困るようになったっていいなら、俺に辻神退治を依頼するがいい」

 乗り気ではない。インチキ霊感商法ならこんな態度はとらなくてもいいはずだから、やはりこの人、本当のことを言っているのか。いや、ひかりさんが僕に紹介してくれた人だから、その点については疑うべくもないのだろうか。僕は震える声で尋ねた。

「み、見積もりなどは」

「聞くだけ無駄だろうがよ」

 いいか――彼は苛立った様子で言った。

「よく考えてみろ。お前の義理の兄貴だったか、そいつは大金払って助ける価値のある男か?」

 心臓を見えざる手で掴まれたように、どきりとした。

「金か女か知らんが隠し事をしてるのは間違いない。嫁と子供が参っちまってるのに、頑なに隠し続けるようなことがどれだけあるってんだ。そいつがまともな対応してたら姪っ子も祟られずに済んだはずだぜ」

「それは……確かにそうかも知れませんが」

「妖怪を退治すれば一家はまた家に集まるが(わだかま)りは残るぞ。どうせ男は何も語らんだろうからな。女子供は苛立つだろうさ。もうこれまで通りに上手くはいかねぇ。下らん男とは早いうちに縁を切るのがお前の姉や姪のためなんじゃないか?」

「でも」

 僕の心は予想以上に揺れた。確かに、義兄はこんな事態になってなお隠し事をしているのだ。しかも、それは辻神とやらに関係している気がしてならない。姻族なんて所詮は他人、身銭を切ってまで助けてやる必要は――いいや。そうじゃないんだ。

「それでもお願いしたいんです!」

 僕は立ち上がって男に向き直り、はっきりと言った。

「おかしな奴だな」

 妖怪退治屋は口をへの字に曲げた。

「あなたの言う通り、姉の夫は助ける価値のない男かも知れません。でも本当のところを確かめるためには今起こってる怪奇現象を解決しなくちゃならない。そうでしょう? つ、辻神を退治してくださったら、僕は隆介さんに今回の不自然な行動のわけを問い質してみようと思います。返答次第で価値が決まるんです。もし抱えてる秘密が姉さんたちを裏切る種類のものだったら、そのときは払った料金をきっちり請求してやりますよ。幸い、彼は僕よりずっと年収が多いですから」

 一気に捲し立てると頭の芯がぼうっと熱くなった。一生懸命に語った割りには随分と馬鹿げた話題じゃないか。クールダウンだ、おでこに冷たい湿布を貼りたい。

 視界の端で何かの影が動いた。見れば、事務所ガラス窓の向こうに猫がいるではないか。白っぽい猫が、裏路地に面した窓の傍に置かれたポリバケツに乗って、じっとこちらを見ているらしい。擦りガラスで輪郭が暈けているが、とてもふわふわしていそうで一瞬で心が和んだ。

 にゃぁお。猫が鳴いた。

「馬鹿野郎」

 妖怪退治屋は猫に不機嫌な面を向けた。

「聞いてたんならとっとと行け」

 声をかけられ、猫はふいと姿を消してしまった。まるで人と猫との会話が成立したようだ。行けと言われて行くべき場所が、あの愛すべき生き物には分かったのだろうか? 

 僕には見当もつかない。

 男はもう一度ソファに腰を下ろすと、傍らの多段書類ケースに手を伸ばした。(ひき)(だし)からA4の紙を一枚出し、硬直している僕の前に置いた。

「けっ、こっちにもバカがいた。決めたんだったら()()()にサインしろ。報酬はきっちり払ってもらうからな。それと言い忘れてたが、俺の名前はライコウだ」

「らいこう……さん?」

 苗字なのか名前なのか、フルネームでそれなのか尋ねることもできないまま、僕は急き立てられるように契約書にサインをし、その横に判を捺した。

「さて」

 男――ライコウさんはまた煙草に火を着けて言った。

「とりあえず今日の相談料は五千円だ」





 

 二日後。もうすぐ終業、でも自分のミスのせいで定時上がりは今日もムリだなと失望の()(なか)にあった頃に事態は急転した。

僕がオフィスで書類の全修正というハラスメントめいた作業に追われて涙目になっていると、同僚の()(づか)に脇を小突かれた。あ、これは別に駄洒落ではないので。

「電話。かかってきてるぞ」

「えっ……あぁ」

 ゲシュタルト崩壊した数字が攻めてくる画面から目を離すと、デスクの収支報告書の上に置いていた携帯がぶんぶん震えていた。改めて見ると散々落っことしたせいで傷だらけだ。機種変更したいなぁ。

「出ないのかよ?」

「え……あぁ。あっ、出るよ」

 僕はようやく気付いたのだ。電話をかけてきたのは、なんと隆介さんだった。彼もまた僕に電話を寄越すことなど滅多にない。あまり私用で長話をすると部長に嫌味の針でちくちくやられるので、携帯を握って前屈み忍び足で廊下に逃れる。

「おい、(しゅう)()?」

「ちょーっと待ってください! まだ部長に聞こえる場所ですからっ」

 地獄耳なのである。


「なんなんだよあの男!」

 屋上で聞く義兄の声はいつになく荒れていた。僕はその一言で事情をいくらか察して蒼褪めた。どうやら、あの妖怪退治屋が早速姉夫婦の家に乗り込んだらしかった。

「いきなり来たかと思えば勝手に家の周り調べやがって……何が妖怪退治だ! お前なんであんなヤクザか詐欺師みたいなのに金払ってるんだよ!」

「いや、まだ払っては」

 おい勝手に入るな! と、近くにいるらしい誰かに怒鳴りつけている。もちろん、彼だろう。それにしても、ここまで露骨に苛立っている義兄は初めてだった。同時に狼狽してもいる。

「隆介さん……何を怖がってるんですか」

「は?」

「その家に起きてる不思議な現象の謎が解けることが、そんなに都合悪いんですか。悪いんですよね。だから姉さんたちと別居してまで頑なにそこに居続けてる」

「お前……言っていいことと悪いことが」

「なんであれそこにいる人が全部終わらせますよ」

 不自然なまで頭に血が上って、僕は喧嘩腰で言い放ったのだった。義兄は相手が熱くなったせいで逆に冷めたのか、うろたえるように震えた吐息を送話口に吐きつけた。

「いいか、修吾。俺の言い方が悪かったかも知れんが……そう、妖怪だとかいうんじゃないんだよこれは。俺は、ただ……おっおい! お前何を――」

 そこで疑惑の義兄の声は遠ざかり、代わりに例のあの人の声が聞こえてきた。

「おい津山か」

「ら、ライコウさん」

「思った通りだ。面白いもんが見たけりゃすぐ来い。今日中にカタつけるぞ」

「わかりました……!」

 かくして、僕は翌日以降の部長の嫌味を甘受する覚悟を決めて定時ちょっと遅れで退社した。


 タクシーを拾って大急ぎで目的地に向かう。丁字路の突き当り、僕の視線と姉夫婦の家の間に、黒いベンツが停まっていた。ライコウさんの車だろう。家まであと数メートル、既にやけにぴりぴりとした空気が流れている。電話だと顔が見えないぶん大口を叩いてしまったが、今更になって義兄に顔を合わせるのが怖くなる小心者の僕。胃がチクチクするよ。もう自棄になって顛末を見届けるしかない。深呼吸しながら歩こうとしたつもりが、震えた呼気が出入りした。辺りはもう薄暗い。(おう)(まが)(とき)ってこういう時間か。妖怪退治なんてイベントにはもってこいじゃないか、ははは――。

 ベンツの裏に回ると、玄関先に仁王立ちになっている義兄と、それに対して呆れ顔で煙草をくゆらすライコウさんの姿が目に入った。妖怪退治屋はちらと僕を見ると、名残惜しげに煙草を落として高価そうな革靴で揉み消した。義兄がその仕草をきっと睨む。

()()の敷地に煙草を捨てるな」

 僕という審判者を迎えて、正体不明な男たちの戦いが再開されたようだった。

 ライコウさんは虚勢を張る義兄を無視して、一旦引き下がり車のリアドアに手をかけた。そして、後部座席に積んでいた何かを取り出した。

 現れた(わざ)(もの)を見て僕と義兄がぎょっとしたのは言うまでもない。

「ちょっ……」

「鳩が豆鉄砲食ったような面、か。くそ面白くもねぇな」

彼の片手に掲げられたそれは、黒い鞘に収まった日本刀だった。金色の(つば)が宵闇の中できらりと輝いた。ライコウさんはもう片方の手を鞘にかけると、流れるような動作ですっと引き抜いた。途端に銀色の光が放たれて、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた刀身が露わになる。

「ほらどけよ。粗切りにするぞ」

 突きつけた刃先をゆらゆら動かしながら、ライコウさんは玄関に向かう。これには義兄も青くなってたじろいだ。本当に切りかねない予測不能な恐ろしさがあるのだ。

「開けろ」

「……なんなんだよあんたッ」

 乱暴にドアを開け、遂に進入を許す。鞘を押し付けられた僕は、怖いもの見たさでライコウさんの後に続いた。当然、十分な距離を取ってから。以前と同じならばすぐに攻撃がしかけられるはずだ。義兄もおとなしく僕の後ろにつく。そろそろやけっぱちだ。

 ライコウさんは靴も脱がずに廊下に上がった。僕はきっちり脱いだのだが、後に続いた義兄も土足のままだった。こつこつと禁忌を冒す足音が響く。

 その時、床から生暖かい風がぼうっと吹き上がって僕たちの髪を逆立てた。フローリングの隙間から出てきたようなイメージの、酷く不快な温度と湿度を持った風だ。それぞれ抱く感情は違っただろうが、三人は同時に足を止めた。耳に指を押し入れられるような不快感。

「おい、あんた」

 義兄が険のある声でライコウさんの後頭部を刺す。

「これ以上進んだらただじゃすまないぞ」

「よくご存知だな」

 意に介さない。反骨心溢れるライコウさんは躊躇なくドアノブに手をかけ、乱暴にリビングへの通路を開放した。すると今度はリビングの方から、先程よりずっと強烈な風が吹きつけてきた。しかも細かな砂粒まで混じっていて、僕と義兄は目も開けていられなくなった。

 異質な侵入者を辻神は激しく拒否しているようだった。風は止まず、家具や壁、床に至るまで、家全体が鳴動を始める。がたがた、ごとごと、だんだんだん――。天井で何人もの大人が足踏みをするような音。フローリングの床板一枚一枚が勝手気ままな方向に反りかえろうとする。がちゃがちゃがちゃがちゃ、食器棚の中で皿やグラスが頻りに騒ぐ。ポルターガイスト!

「立ち去れ!」

「邪魔だ!」

「この家から出てけ‼」

 見えざる怪物の三者三様の怒号。全て耳元に響いてくる。心臓がどうにかなってしまいそうなくらい恐ろしい。だが、妖怪退治屋は人間離れした豪胆さで、少しも怯む様子なくリビングに突入した。

「らっ、ライコウさぁん、出てけって言ってるじゃないですかぁ」

 たまらず僕はライコウさんの肩に縋った。すぐに鬱陶しそうな顔で払いのけられた。

「ひゃっ!」

 真横からビンタを見舞いに飛んできた電話帳を、例の日本刀が真っ二つにした。

 二つに割れてカーペットに落ちた電話帳は生き物のように痙攣している。虫を殺すようにライコウさんはその片割れを踏み躙った。

 家屋の鳴動はずっと続いている。今にも倒壊するのではないかという軋みようだ。しかも天井から得体の知れない砂が降ってくる。義兄はそわそわと、怯える犬みたいになって周囲を見回していた。肩の砂を払い落として退治屋は言う。

「こけおどしにも飽きたな。早ぇとこ出てきやがれ」

 僕と義兄はいつでも逃げだせるよう、ドアの間近で身を屈めていた。

 その時である。リビングの三二インチテレビがふわりと浮揚したかと思うと、暗い画面が突如として破裂した! 悲鳴を上げる僕たちに火花が降りかかり、室内が真っ黒で鉄臭い煙に満たされ、前後左右も区別できないほどになった。いや――。

 明らかにここは、もう(すえ)(たに)家のリビングではない。寄りかかる壁すら消失しているのだ。ここは広大な、何もない異界だ。僕らは闇の世界に転送されてしまったのだ!

 鉄の匂いがアルコール臭に変化した。

 ライコウさんの動きを追っていた僕は、足元で何かがもぞもぞしているのに気付いて下を向いた。僕の足には。

「うぎゃあああああああっ‼」

 鬼! 無数の小さな鬼が!

 赤青緑黒、色とりどりの小鬼、姉たちが夢で見たというあの小鬼が僕の足に纏わりついている! 僕はパニックに陥って辺りを転げ回った。

「修吾!」

「ひいぃ、痛い痛い!」

 義兄が僕から小鬼を剥がそうとするが、かれらは爪を立てて僕から離れようとしない。特に股間にしがみついてる赤いの! お前なにがしたいんだよぉ。とにかく鞘ではたき落として追い払おうと試みる。

 小鬼たちは猿のようなキイキイという声を上げて、慌てふためく僕たちを嗤っているようだ。

 それと前後して、闇の中から無数の異形が咆哮を上げつつ出現した。混乱を極めた僕の目が捉えただけでも軽く十体は超えている。

 一体は巨大な雄牛の頭に人の足が生えた妖怪。

 一体は青く長細い体躯に白布を被った坊主の妖怪。

 一体は太い一本角を生やした足軽のような筋肉隆々の鬼。

 一体はうねる長い黒髪で腹にも顔がある半裸の怪女。

 その他にも形容を絶する妖怪の群れ! 正に百鬼夜行だ。それぞれ殺気立って奇怪な唸り声を上げながら、棍棒やら槍やら、思い思いの得物を手にして駆けてくる。

「下がってろ」

 僕たちの方を向いてライコウさんは言った。目つきが今までとは違っていた。

 そして一秒にも満たない短い時間だったが、刃がぎらりと青白く発光した。妖刀というやつか。とにかく、その光が戦いの火蓋を切って落とした。

 先陣を切って向かってきたのは白布の高坊主。ライコウさんは低く身を屈めてその胴腹を真横に斬りかけ倒すと、果敢にも妖怪の群れに突撃をかけた。

 次なる異変は、ライコウさんの顔面に起きた。

 突然、彼の顔全体が真っ黒な毛に覆われたのだ。頭には二つの突起が飛び出し、眼は黄色い輝きを強めて大きく円くなった。

 そう、妖怪退治屋もまた妖怪だったということだ。

 牙を剥き出しにして、敵の群れを威嚇する声を聞いて正体が分かった。化け猫だ!

「お前も化物だったか!」

 鬼が驚く。牛頭の妖怪が罵る。

(うるァ)切り者ォ‼」

 ライコウさんは群がる怪物どもを次々に斬り払っていった。時代劇の殺陣のような流麗さじはそこにはなく、殺意が交錯しては乱暴にぶつかり合う戦場だった。鬼の腕を、牛の角を斬り飛ばし、新たに現れた妖怪たちにも躍りかかる。

「うおおおッ」

「あああああッ!」

 異様な叫び声の轟く暗雲の中、妖怪たちの骸が折り重なっては幻のように消えていく。

 僕たちに食いついていた小鬼は化け猫の強さに舌を巻いて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。義兄は歯の根も合わなくなってその場にへたり込み、僕も腰を抜かして尻餅をついた。

 荒くれ者たちが粗方倒されると、次は黒煙を割って一際大きな体を持つ妖怪が出てきた。目と口、そして体の輪郭だけを抽出したような、霊鬼とでもいうのだろうか。電気のように光り輝き、バチバチとスパーク音が鳴っている。残る妖怪たちが歓声を上げたところを見るに、どうやらこいつが集合した辻神の親玉らしい。

「ようやく御大将のお出ましか」

 四つ目の妖怪を蹴り飛ばした化け猫が高揚気味に言った。対する電光の霊鬼の背丈は彼の倍以上。怒りを炸裂させて掴みかかろうとする。

「猫の分際で(わし)らの宴を邪魔するとはなんのつもりだ!」

「仕事だ!」

 逆袈裟に霊鬼の腹を斬り上げる。だが、カウンターパンチがライコウさんを吹っ飛ばした。取り巻きの妖怪どもが手を叩いて喜ぶ。地に落ちて悶えるライコウさんを掴み上げ、鬼は更にその体を投げ飛ばす。くそ、あいつ強い!

「ライコウさん!」

 地面に突き立てた刀を支えに起き上がったライコウさんは、口元を拭って相手を睨んだ。

「――こうでなくちゃな」

 刀を振り上げ走りだす。真っ向勝負をかける気だ! 

「来てみろ化け猫!」

 力士のような蹲踞の姿勢で鬼は待ち構える。勝負の行方に絶対の自信を持っているのだ。

 僕たちも妖怪も固唾を呑んで見守った。両者の影が重なった時、落雷を直視したような閃光が目を焼いた。僕は思わず腕で顔を覆う。どちらが勝った?

 ああっ――っと、妖怪たちが一斉に落胆の声を上げた。光の波紋が去った後に立っていたのは、ライコウさんだけだった。鬼の方は眉間に深々と刀を突き立てられて横たわり、その輪郭の光も消えかけのネオンのごとく明滅していた。

「や、やったのか」

 義兄は頻りに周囲を見回しだした。大将が破れ、他の妖怪たちは戦意を喪失したように見える。といっても、もう大半が一つ目小僧を始めとする女子供の妖怪だった。

 猫の顔をしたライコウさんは僕と義兄に一瞥をくれると、闇の中に手を突っ込んで一体の妖怪を引きずり出した。妖怪――なんだろうと思う。見かけは殆ど人間の女だ。しかもとびきりの美女。紫色の着物を重ね着して、白い花の髪飾りをつけている。

 ライコウさんを振り払い、手首を擦りながら女は言う。

「死んじまったのかい」

 案外つまらない男だったねぇ、と女は不機嫌そうに首を振る。

 あぁこの声! 

 ――あンたなんかお呼びじゃないよ。

 以前に僕が聞いた、低く艶っぽい声の主は彼女だったのか。妖怪と知っていると恐ろしいが、外見は男なら誰でも一度は心を奪われそうな美しさ。というか、僕も惚れた。

 僕の隣にいる男は、そこで急に立ち上がった。

「あ。あぁ……!」

 末谷隆介は突き動かされるようにして前に進み出る。僕は事態が全く把握できずにぽかんと口を開けていた。戻ってきた小鬼たちも同じように呆然としていた。

「いた……やっと……!」

 女は近付いてくる義兄を値踏みするように目を細める。そして、すぐにぷいとそっぽを向いてしまった。

「あぁ……あの、ありが」

「なんだいこの男は。知らないよォ、くッだらない」

「え……」

 その一言を聞いて彼は足を止めた。僕の位置からは顔が窺えなかったが、その後姿には激しい動揺が浮かんでいた。いや、失望か?

 紫の美女は残った妖怪たちをぐるりと見回し、はあぁと深い溜息をついて肩を竦めた。

「こうなっちゃこの集まりも(しま)いだね。ッたく、あンたと顔合わすと碌なことがないよ」

「こっちの台詞だ尻軽女」

「ふん」

 女は両手を引っ込め袖を振り振り、不満を紛らすための鼻歌を残して暗闇の中に去ってしまった。あぁ、誰だか知らないけれど、もう少し見ていたかった。マドンナが退場すると、残った妖怪たちも一様に項垂れた。

「そっかぁ、もう終いかぁ」

「しゃあない山に帰るべぇ」

「あぁ、帰ろ帰ろ」

「あたしらは別の所でも探しましょ」

「だったらこの先にいい()()()があるぜ!」

「よっし行こう行こう」

「あんた帰るんじゃなかったのかい」

 一つ目小僧が、轆轤首が、蓑を着た青鬼が、宴の終わりを惜しみ好き勝手なことを言いながら消えていく。久しぶりに新鮮な空気が鼻を擽って、僕は大きなくしゃみをした。

「へぇっくし! ……あ」

 ぱっ、と世界が明るくなった。蛍光灯のスイッチに手をかけたライコウさんがいる。その顔は、もう猫ではない。夢でも見ていたような気分だが、荒れ放題の部屋が異常現象の存在を裏付けていた。

「おい、(それ)返せ」

「あっはい」

 僕は鞘を恭しく差し出した。ライコウさんは刀を納めると、部屋の真ん中で立ち尽くす義兄にどうだと問いかけた。義兄は暫く立往生した弁慶のように微動だにしなかったが、やがてゆるゆるとこちらを向くと、こう言った。

「ありがとうございました」

 こういうのを憑物が落ちたような顔と言うのだろう。何かを吹っ切ったのか、とても晴れやかな表情だった。少し前までの対立が嘘みたいだ。

「よし」

 礼の言葉を聞き、ライコウさんは僕に言った。

「最後の仕上げだ。念には念を入れてな」

 ……へ?

 何がどうなってんの?





 

 それから。

 事の推移は僕を置き去りにして、とんとん拍子で解決の方に向かっていった。僕は当事者も当事者、妖怪退治の依頼人であったはずなのに、ほぼずっと蚊帳の外なのではないか。

 記憶の整理も兼ねて詳しく述べてみよう。

 リビングに広がった魔界での信じられない戦いの後、ライコウさんは駐車スペースの片隅に奇妙な石を安置した。(いし)(がん)(とう)といって、辻や分かれ道に集まる魔物の動きを制御するものだという。つまりは魔除け、これを置いておけば辻神の害はなくなるというわけで、今でも中国大陸や沖縄、九州ではよく見かけるそうだ。現在集まっていた妖怪たちは蹴散らしたといっても、いつまた別の魔物が集まらないとも限らない。だからこの小さな石碑が必要なのだ。

 隆介さんは本当に別人になったようにライコウさんに従順となり、辻神についての説明と石碑を動かしたり壊すなという彼の言いつけを真面目に聞いていた。

 そして帰り際、ライコウさんは費用は追って請求すると僕に言って車に乗ろうとした。あれだけ命を張った大仕事、数万どころじゃ利かないはずだ。懐が心配になってきたが、きっちり払うのが義理というものだ。そう思っていると、義兄が前に進み出て言ったのだ。俺に払わせてください――と。わけがわからなかった。どんな心変わりだ。

 数日後、姉と姪は揃って末川家に戻っていった。夫婦の間にどんな会話が交わされたのか知らないが、綺麗に和解して、しかも姉は絆が前より強まったなどと言い出している。

 こうして円満な家庭が再構築された。一週間が経ち、今では一連の妖怪騒ぎなど絵空事だったのではと錯覚してしまうほどだ。

 これを不思議といわずして、何を不思議というのだろう。

 でも、せっかく元の鞘に収まったのだから、あれこれ問い質すのも気が引けた。末谷隆介の隠された真実を暴こうという当初の決意はグダグダになって消滅してしまった。

 

「その後、どうだい。もう変なことは起こってないかい?」

「さぁ。もう特に連絡もありませんし、訪ねに行くのも野暮な気がして」

「ははぁ、そうか。まぁ便りがないのはいい便りだよ。ひと安心じゃないか」

 猪口の大吟醸を無意味に揺らしながら、僕は何をどう言ったものかと思案していた。

「どうそれ、美味しいでしょ? 豚の唐揚げ」

「えぇ、衣がカリカリしててイケますね」

「私が作ったんですよ!」

 厨房から元気よくひかりさんが出てきた。あぁ、紫の美女も蠱惑的ではあったけど、やっぱりひかりさんの自然で溌溂とした可愛らしさが一番だ。って、僕は何を考えてるんだ。

「え……そうなの? おいしいですよ、これ。定番メニューにしてもいいんじゃないですか?」

「だってさ、ひかり。上々だねぇ」

「よかった。嬉しいです」

 僕は知らず知らず試食役を仰せつかっていたのだ。光栄だ。

 からからから。引き戸が小気味良い音を伴って開けられた。今夜は盛況だなぁ。

「おっ、らっしゃい!」

「酒と魚。なんでもいい」

「はいよっ」

 新しい客は遠慮なく僕の指定席の横に座った。ま、混んでいるから仕方ない。だけどもう少し邪魔されず煩悶していたかったな。そう思いながら客を横目で見て、僕はあっと声を上げる。

「ライコウさん!」

 僕の隣にやってきたスーツの客は、かの妖怪退治屋ライコウだった。相変わらずの仏頂面である。ひかりさんに注がれた酒を一杯飲み干して、ライコウさんは僕に言う。

「この間は得したな。退治料は十三万八千円だ」

「十三万……⁉ そんな」

「随分安く抑えたねぇ」

 訳知り顔で音羽さんが会話に入った。相場的には安い方なのか。

「思ったほど大した相手じゃなかった。それにあの男も思いの外素直だったからな、どうも拍子抜けしちまったぜ」

「あの、ライコウさん」

 僕は人に化けた猫に尋ねる。このひとだけが全ての真実を知っているに違いない。

「どういう風の吹き回しでああなったのか、教えてくれませんか……?」

 ライコウさんは無言で上着を脱いで隣の椅子に掛けた。無愛想で強欲な妖怪のことだから、余分に説明料でも取らなければ喋ってくれないのかもしれない。

少し、暗い気持ちになった。

「ある所にな」

 予想は外れた。猪口の水面に物憂げな視線を落とし、ライコウさんは語り始めた。

「人並みよりは出来のいいガキがいた。まず要領がいい、筋道立った考えも持ってる。おまけに思いやりがあった。けどそいつには度胸がなかった。そのせいで全部の才能は宝の持ち腐れ。周りの誰もそいつには目もくれなかった」

 境遇を想像しようとしても、顔のイメージはぼんやりとして定まらない。敢えて当てはめるなら、恥ずかしながらそれは僕だ。

「自分が自分として振る舞って、それを見た周りの連中がどう思うか、それを知るのが恐ろしくて堪らなかった。考えるだけで冷汗が出るほどにな」

 人は時に不条理な羞恥心を抱く。自意識過剰とも呼ばれる宿(しゅく)()だ。

「そいつは高校を出て、故郷を離れ都会の大学に通うことになった。借りた下宿は昔変死体が出た事故物件だ。だがそんなことを気にする奴じゃなかった」

「え……」

 ちょっと待って。その話は聞いた覚えがある。そいつというのはまさか。

「奴はそこで女に会った」

 誰と言わずとも、女のビジュアルはすぐに浮かんだ。

「名前なんてもんはねぇ。(むらさき)(おんな)って淫乱な化物だ。これに魅入られたら男は最後、色香の虜になって死ぬまで精血を啜られる。部屋の本当の主がこいつだった」

 青年は永遠の美貌を持つ妖怪に魅入られていた……?

「当然、その男も紫女に惚れ込んだ。必死で体求めて、睦言を交わすうちには本当の自分も曝け出して、不安も不満も残さず話しただろう。何もかもそいつにとっては初めての経験だ」

 ホッケの開きを持ってきたひかりさんもカウンターに留まって、ライコウさんの声に耳を傾ける。僕には素面で聞いてはいけない話に思われて、自分で酒を注いでまた飲んだ。

「女の方はそれが気に喰わなかったんだな。(そと)()は悪くねぇが寝てみりゃ思いの外なよなよした阿呆だった。だから関係も続かなかった」

「……彼は紫女に捨てられたんですね」

 だから死ななかった。

「最後に女がなんと言ったか、それは知らねぇ。どうせ今のお前みたいな男を好く女はいねぇだの、私に顔向けできる男になってみせろだの、もっと自分を誇ってみろだの、浅知恵で啖呵を切ったんだろうよ。それきり女は引っ越しちまって、人間世界に見切りをつけた」

 本当に知らないんですか、という問いは野暮だろう。

「とてつもなく(こた)えたんだろう、男はそれでやっと本当の自分になれる覚悟が決まったらしい。そうしたら、何もかも上手くいくようになった。女のことを忘れかけた頃には別のいい女にも出会って、大手の会社に就職も決まった」

「それから後のことは想像がつきます」

 僕が言ってもライコウさんは頷かなかった。

「紫女はここ何年か化物の世界に入り浸っていた。どこにいたってあいつの魔性は男を虜にする。宴があれば現れて、集まる男を好きに漁った。それで偶然、ある家を通り道にしちまった。そしてまた偶然、紫女が通るところを、男が見ちまった」

 言っとくが――ライコウさんはやっとホッケに箸をつけた。

「男の方はもう紫女に未練はなかった」

「なかった?」

「と、言い張るんだ。けど顔を見かけたからにはどうしても礼が言いたくなったんだと」

 俺を男にしてくれたのはあなただ、あなたのおかげで幸せになれた。ありがとう――。

 そうか。彼女ともう一度会うまで、彼は怪異を止めさせるわけにはいかなかったのか。

「へへっ、馬鹿だぜまったく。たったそれだけ伝えたいがために家庭をぶち壊しそうになったんだからな。想像はつくだろうが、相手は紫女。何度か夜を共にしただけの、ただの人間のことなんざ――」

「覚えていなかったんですね」

 少なくとも、そういうことになったのだ。

「いい女は忘れるのが上手だからね」

 音羽さんは経験者の口ぶりだった。

「十何年越しで自分が的外れな恩を抱いていたと気付いて、ようやく男は目が覚めた。こんな妖怪追っかけてる場合じゃねぇ、今守るべきものは他にいるだろうとな」

 絶句している僕に代わってひかりさんが尋ねる。

「今の話、奥さんは知ってらっしゃるんですか?」

「馬鹿言え。旦那は妖怪の脅しに耐えてなんとか家と嫁子供を守ろうとしてた勇敢な男だってことで話がついてる。それでいいんだ」

 そういうことになっていたのか。迂闊に問い質さなくてよかった。

 音羽さんが大きく頷いた。

「嘘も方便。疚しいことを隠す嘘じゃなし、丸く収めるためのレ、れとりっくだからねぇ」

 僕の結論もきっと同じだ。もはや真実を暴露しても得にはならない。

 そうだ。

 言い忘れていたことがあった。

「ライコウさん、今回は本当にありがとうございました」

 すると、妖怪退治屋は目を細めて酒を呷った。

「知らぬが仏、言わぬが花よ」


「でも」

 ひかりさんが言う。

「旦那さんも奥さんも、思い出は美しいまま守られたんですよね」

「思い出か。相変わらず下らんところに目をつけるな、サギ娘が」

「あー! ちょっとそれですよそれぇ!」

 急激に酔いが回ってきた僕は遠慮なく言い放った。

「こないだもですけど、ひかりさんに向かってサギとはいったいどういうつもりですか失礼な! どこがサギですか! なんにも騙してないでしょうが。鳥ですか、鳥のサギですか! そりゃあライコウさんは猫だろうし、誰しも何かに化けてるのかもしれないですけどね! ひかりさんまで鷺のお化け扱いしちゃいけませんよっ!」

 と。

 うん。

 ん? 

 この気まずい沈黙はなんだろうか。


 困り顔の泣き笑いでひかりさんが囁いた。

「誰にも言わないでくださいね」


「えぇ――?」

 知らぬが仏、言わぬが花。

 嗚呼、なるほど。






(終)


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