前編
「ツイてないなぁ、これは。」
そうつぶやいた僕の前には、適度に膨れ上がった革製品が転がっている。
「財布・・・だよね。どう見ても。」
時刻は午前5時過ぎ。空がうっすらと明るくなり、一日が始まろうとしている。ただ、夜間のアルバイトを終えようとしていた僕にとっては一日が終わろうとする時刻だった。「頼まれたおつかいをこなして仕事は終了。日の出切らぬうちに帰って寝よう。」などと思っていたのだが、おつかいのために店を出て少し、道路の真ん中に不自然に転がる財布と出会ってしまった。
道に落ちているものを財布と認識してしまった以上、流石にもう素通りはできない。僕はその財布を拾い、中身を確認する。開くと万札が一枚と千円札が四枚、小銭が少々。カードの収納部には運転免許証やクレジットカード、様々なポイントカード。
僕はその財布をポケットに入れ、おつかいを済ませ、アルバイト先の居酒屋まで戻った。店に入ると、仕事を終えた僕よりも二つほど年上の先輩がレジ前の椅子に腰を掛け、タバコを吸っていた。今日は店長は不在で、この人が店長代行として働いている。それともう一人、こちらは僕よりも二つほど年下の女性がいるはずだが、彼女は恐らく更衣室で帰りの支度でもしているのだろう。
「おう、おつかれ。ありがとさん。」
先輩は軽く僕を労い、再びタバコに口を付ける。ちなみに「おつかい」というのは、今日の店の売り上げの入金で、僕はATM用のカードと領収書を先輩に渡す。
「財布拾っちゃいました。」
「え、マジかよ。ラッキーじゃん。いくら入ってた?」
「一万四千円。」
先輩はニヤニヤとした笑みを浮かべながら「うらやましいねぇ。」「俺が行けばよかったかなぁ。」などと言っている。
「いや、流石に届けますよ。交番に。」
僕がそう言うと、先輩は笑みを崩すことなく「なんで?もったいない。」と聞いてくる。
「そりゃお金は欲しいんですがね、度胸がないんですよ。人のモノを使って平然としていられる自信がないというか。その・・・まぁ、怖いんですよ。」
そう言うと、先輩は
「あー、まぁわからんでもないかな。じゃ、俺にくれよ。財布。」
と、手を出してきた。
「なんでそうなるんですかね。」
「いや、お前が使わなけりゃいいんじゃないの?お前、落とした人がかわいそうだからってのより、その人に恨まれるのが嫌だとか、そんなだろ?」
「まぁ、そうですかね。」
「じゃ、俺が使うよ。その金。それならお前になんの問題もない。」
「うーん、なんだかよくわからなくなってきましたね。とりあえずあなたがお金が欲しいってことはわかりますが。」
先輩は依然笑いながら「ばれたか。」と言い、新しいタバコに火をつけた。
「お前はさ、その財布の持ち主は誰だと思ってるんだ?」
「どういうことです?」
「俺はさ、落とした時点でその財布は誰のモノでもなくなって、それでそれをたまたま見つけて拾った人に所有権は移ると思ってるんだよ。だからその財布の持ち主ってのは、中身のカードとかに書かれている人間じゃなくて、もうすっかり全部、拾ったお前のモノだって。」
「うーん、まぁそういう考え方は分からなくはないんですがね、実際にそう振る舞えるかっていうと僕には無理ですかね。それに・・・」
「それに?」
「その理屈だと、余計にあなたにこの財布を渡す理由がなくなりますよ。あなたにとってこの財布の所有者が僕なら、単純に僕にお金をくれって言ってるってことでしょ。なに年下にこづかいせがんでるんですか。」
先輩は再び「ばれたか。」といい、灰皿にタバコをこすり付けた。
「そんなわけで、結局僕は交番に届けに行きますよ。」
僕はそう言ってその場を去り、荷物を取りに男子更衣室へ向かった。
「お疲れさまでーす。」
更衣室で一息ついていたら、もう一人のスタッフであるシミズさんが挨拶をしにきた。
僕は一言「お疲れ。」といい、おもむろに携帯をいじり始める。彼女とは、いや彼女に限らず年下のスタッフとは普段からそれほど会話をしないため、事務的な挨拶以外に特にかける言葉が見つからない。
「聞こえてきましたよ。財布拾って、届けに行くんですよね。えらいですねー。私なら絶対そのまま自分で使っちゃいますよ。」
彼女も挨拶だけしてすぐに立ち去るだろうと思っていたのだが、先ほどの先輩との会話を聞かれていたらしい。
「まぁ聞こえてたかもしれないけど、度胸がないだけだよ。ビビリだからさ。」
「でもそれでちゃんと交番に届けるなんてすごいですよ。立派です。それじゃ、お先に失礼しますね。」
そうしてシミズさんは笑みを浮かべながら去って行った。
「えらいですね、立派ですね、か。思っちゃいないだろうな。」
たった一言二言交わしただけだというのに、残された僕は随分と陰鬱とした気分になってしまう。年下に、見下された、馬鹿にされた。「あなたには出来ないでしょうけれど、私なら平然とその財布を自分のものにできますよ。あなたって、善人ぶっててキモチワルイです。」そんなふうに僕は彼女の言葉をとらえてしまった。実際の彼女の気持ちがどういうものなのかなんてわかるものでもないけれど、僕はそう感じてしまった。
僕のことを馬鹿にしているという点では、先輩だって同じであっただろうけれど、年下のあまり接点のない人間に馬鹿にされるというのはひどく気に入らない。何を思って彼女は話をしてきたのだろう。普段は挨拶だけして、まして今日のように男子更衣室に僕がいるようなときは挨拶も交わさずに帰っていくこともあるのに。やはり僕を笑いに来たのだろうか。損得で動けぬ年長者を嘲笑いにきたのだろうか。
交番に行かなければならないということですっかり気分は滅入っていたのに、彼女との会話で僕は余計にうんざりとした気持ちになってしまった。
「なんだって財布を拾ったばかりにこんなに嫌な気分にならなきゃいけないんだろう。確かに善意からこの財布を持ち主に届けようだなんて思ってはいないけれど、行いとしては善行なんだから、もう少し気分がよくなってもいいものじゃないか。」
独り言をつぶやいてみる。もっとも、こんな気分になることは、財布を見つけた時点でわかっていたことだ。僕は、こんな人間だ。僕だって平然と、いや嬉々として落ちてる財布の中身を拝借できるような人間になりたかった。けれど、見知らぬ誰かがどこかで僕のことをずっと恨んでいることを想像すると、どうしてもあと一歩が踏み出せない。これが、先輩やシミズさんだった場合、その一歩を平然と踏み出してのけるのだろう。
僕はしばらく気持ちの整理をした後更衣室を出て、携帯を操作している先輩に挨拶をして交番へと向かった。