兄と弟(2)※
「彼女は小さな町工場で働く父親と二人暮らしなんだ。母親はいない。彼女が小学二年の時に両親が離婚した。母親が他所に男を作って出て行ったんだ」
「それはまた……」
大変でしたね――という言葉が喉まで出かかったが、侑はそれを飲み込んだ。大変かどうかは、彼女自身が決める事であって、他人が決める事ではない。
「それじゃあ父さんには言えませんね」
「ああ」
子供の頃から晃は、父親に言われ続けてきた。
会社や家のためになる妻を娶れ――と。
彼女に出会うまで、晃は父の言葉に疑問は持たなかったし、自分もそうだと思っていた。けれど彼女に出会ってから、彼女との距離が縮まるたび、今まで疑問に思っていなかった事に疑問を抱くようになった。
自分が好きな相手と、どうして一緒になってはいけないのか?――と。
会社の益にならない相手だとしても、想い想われているのなら一緒になるべきだと思うし、そうなりたいと自分でも思うようになっていた。それが自然だと。
けれど父親にしてみれば、そちらの方が不自然なのだ。社員のために、その家族のために、会社を傾かせるわけにはいかないのは理解できる。だが、そうだからと言って、好きでもない相手と結婚するのはおかしい。
だがそれを言っても、父は鼻で笑うだけで、取り合ってはくれないのは解っていた。
認めてくれないのは解っていた。
だから、それならば、自分から捨ててしまおう――そう思った。伯父のように、自分に課せられたすべての責任を放棄してしまおう――と。
それが良い事か悪い事か……人によって考えは違うだろう。
おそらく“悪い”と思う人の方が多いだろう。
けれど晃にとって、彼女と共にいるためには、それしか方法がなかったのだ。
「それが最善策だと、そう思ったんだよ」
己の気持ちを吐露する晃に、侑はスッと表情を消した。
「兄さん、アホですか貴方は」
呆れたように溜息をつき、鋭い視線を晃へと向ける。
「睨んだって撤回しませんよ。アホだからアホって言ったんです。あぁ、バカの方が良かったですか? どっちにしたって、兄さんがダメ男なのは変わりませんね。ホント、マジでダメだわアンタ。戦う前に尻尾巻いて逃げてどうすんだよ? ぶつかればいいじゃないか、父さんに。そもそも兄さんは、昔から良い子ちゃん過ぎるんだよね。父さんに洗脳され過ぎ。そりゃあ自分の感情や周囲に左右されるような経営者はダメなのかもしれないけど、でも、常に“on”な状態じゃ参っちゃうじゃないか。ちゃんと“off”がなきゃ、体も心も休まらないし、正しい判断も決断もできないと俺は思う。父さんがいい例だよ。そう思わない? “off”を無くしたあの人は、正しい判断ができなかった。だから俺の母さんを……」
そう言って唇をグッと結ぶ侑に、晃はひゅっと息を吸い込んだ。その先を彼が言わなくても、晃はそれを知っている。世の中には、余計な事を吹き込む輩は少なくない。それは親戚だったり……同級生だったり……先輩や後輩だったり……本当にどこにだっているのだ。だが、子供の頃から冷めていたが故に、それを聞いたからといって、晃が思うのは「余計なお世話だ」や「それがどうした」であった。
兄弟といっても、それらしい交流があったわけではない。会話はするが、必要最低限な事しかお互い話さなかった。
それで充分だった。
他の家の兄弟が、どんなものかは知らないが、知りたいとも思わなかった。
「ぶつかってみればいい。胸の中に溜め込んだもの、父さんにぶちまけてやればいい。じゃなきゃ兄さん、アンタ一生そのままだよ。父さんの言いなりだ。兄さんの意思なんて、今後一切必要ないね。父さんの人形に、意思なんか要らないんだから。父さんの決めた相手と結婚して、愛してもない相手を抱いて、自分みたいな子供を作るんだ。ま、兄さんがそれでいいなら、俺は何も言わないよ? 兄さんは兄さん、俺は俺なんだから。好きにすればいい。それにいくら兄さんが逃げたって、父さんが俺を後継者に選ぶと本気で思ってるわけ? んなわけないだろう。愛人の息子に誰がついてくるっていうんだよ。第一、兄さんの母さんの実家が、それを許すとでも思ってるわけ?」
許すわけないだろう――と、侑は眉間に皺を寄せ、腕を組んで晃を見た。
「そ、それは……」
「俺は遠藤の家に戻る気はないから。彼女と、莉奈と生きてくから」
「生きていくって……それこそ彼女の方はどう思ってるんだ? お前がゲイだって知っているのか?」
「ああ。もちろん知ってるよ。でもね、ソッチに関して彼女、偏見なんてもってないんだ」
「お前は、男が恋愛対象なんだろう? 男に欲情するんだろう?」
「欲情って……あのさ、俺、男とヤったことないから。まあ、キスとか、触られたことはあるけど、それ以上のことはしてないよ。したいとも思わなかった。体まさぐられても勃たなかったから、じゃあ本当は俺は異性愛者なのかなって思ったけど、女の子を相手にしても結果は同じだった。莉奈だけなんだ。抱けるのはさ。だから別れる気ないし、別れるのなんてありえないし、別れたいって言われても絶対に別れないよ。監禁して、俺なしじゃいられなくするから」
さらりと最後に怖い事を言った弟に、兄の頬が軽く引き攣る。こんな性格だったのかと、自分が何も知らないで今まできていたことを痛感した。
「もう一度言うけど、俺は遠藤の家には帰らないよ。絶対に戻らない。あの家に、俺の居場所はないからね。だからさ兄さん、諦めて戦ってよ。父さんに抗ってよ」
「侑……」
「兄さんならできるよ。大丈夫。俺はさ、勉強もスポーツも、何でもサラッとできる兄さんに憧れていたし、それこそ目標だったんだ。だから今の俺がいるのは、兄さんのお陰でもあるんだよ」
「別に俺は……」
「うん。分かってる。影で努力してるの、ちゃんと知ってるよ。それを表に出さない所が、兄さんの凄い所なんだよね。本当に凄いよ。憧れる。だから俺も、努力している所を他人に見せた事なんかないよ。彼女にもね。薄々気がついているみたいだけど、それでも俺のこと、莉奈は“要領のいい奴”って思ってる。この間の校内模試も、俺の方が成績よくって怒ってた。ゲームばっかりしてたくせに~って」
怒った顔も可愛いんだよと、うっとりと微笑んで惚気る侑に、晃はもう笑うしかなかった。彼の中にあった弟のイメージがどんどん壊れていく。崩壊が止まらない。本当に自分は、彼のどこを、何を、見ていたのだろう。
「と、とりあえず、お前の言うように、父さんに言ってみるよ。今すぐ結婚するわけじゃないし、時間は充分あるからな」
「そうして。で、彼女、どんな人なの? 同じ大学の人? 何歳? どこに住んでるの?」
矢継ぎ早に質問する侑に苦笑しつつ、晃は一つ一つ答えていった。まさかこんな話を侑とする日がくるとは、晃は一度だって思ったことはなかった。
重苦しい雰囲気はどこかに行ってしまい、最後には互いのメールアドレスと電話番号を交換し、お互い笑顔で店を後にした。長年二人の間にあった見えない壁が、今日、跡形もなく消え去った。本当の意味での兄弟になれたのだ。
来た時とは反対に、軽やかな足取りで家路に着いた侑である。だが、彼は忘れていなかった。マンションに帰ると、何が待っているのかを………。
案の定、リビングに入った瞬間、恨みがましい目で自分を睨む莉奈がいた。まだ腰が痛い。体がダルイと、莉奈は凍えるような目で侑を睨む。そんな彼女に平謝りし、許しを請い、食事をした店のケーキを献上して、なんとか機嫌を直してもらった。後日、その店に連れて行くことも、しっかりと約束させられた侑である。
「兄弟かぁ……あたしも分かんないなぁ。仲の良い兄弟もあれば、悪い兄弟もあるんじゃないの? 普通はさ。それぞれだよ」
「まぁね」
四つ買ってきたケーキのうち、二つを平らげた莉奈は、侑の淹れた紅茶で口の中をさっぱりさせると、ふと口を噤んでしまった。何かを考えるているのか……マグを両手で包むように持って、中の紅茶をじっと見ている。それは時間にして数分だったが、侑には長いように感じられた。
この時、莉奈が何を考えていたのか……それを彼が知るのは、もう少し先の事になる。




