人魚の歌が終わるころ
海の泡になってもかまわない。一時でも生まれたあの愛が、確かな真実なのであれば。
深い深い海の底。色とりどりの珊瑚や魚に囲まれた楽園で私は生まれ、育ってきた。そう、私は人魚。父さまや母さま、そして姉さまたちは、愛をこめて私を「アンジェラ」と呼んだ。
アンジェラ。それは地上では天使という意味を持つ言葉らしい。 尾びれのある人魚に対して、背中に羽の生えた天使の名前を付けるのはなんだかおかしな気がしたけれど、私はこの名前をとても気に入っていた。
本当に素敵な名前だと思うのだ。例え海の中を泳げずとも、天を舞い、自由に地に降り立ち、歩くこともできる。それにもし私が天使だったなら、自由に美しいあの人のもとへと飛んでいける。
美しい、男の人。人間の王子。それは15歳の誕生日を迎え日のことだった。初めて地上へと上っていくことを許されたその日、地上では人間の王子の誕生日を祝い、豪華な船でパーティーが行われていた。
しかしその船は突然の嵐に襲われ沈没してしまった。そんな中、波に揺られた船から放り投げ出された男の人を私が助け出したのだ。その人が王子だと言うことはすぐに分かった。何故なら船の上で穏やかに微笑み、澄んだ声音で歌う彼の姿をずっと眺めていたからだ。 そうして私は、嵐の夜にたった一度触れただけの人間の男の人に恋をしてしまったのである。
海の青のような、美しい瞳。月に輝く、金色の髪。形のいい赤い唇。そしてその唇から紡ぎだされる、美しい歌声。
そのすべてに心を惹かれてしまった。たった一度触れただけの体を、こんなにも求めてしまうほどに。自分に地上を歩きまわる足がないことを、こんなにも憎んでしまうほどに。
もし私が人間になれたならと、そう思う。そうしたら張り裂けそうなこの愛を歌にかえてあの人に伝えるのにと。皆に「美しいね」と褒められるこの声で、幾らでも愛の言葉をささやいて見せるのにと。
そうすることができたとしたら、彼は一体何と言うだろう。皆のように「美しい」と言ってくれるだろうか。私に、触れてくれるだろうか。
そんなことを考えながら、私は毎日のように彼の住むお城へと泳いで行き、あの美しいお城の中で愛おしいあの人と共に暮らすことができたならと思いを馳せていた。
そんな日がもうずっと続いたある日のことだった。私の王子に対する恋心に見かねて姉さまが、そっと耳打ちをしてきたのだ。
「それ程人間になりたいのならば、海の魔女に頼んでみてはどうかしら」
「海の魔女ですって?」
姉さまの提案に首をかしげると、姉さまは海の魔女について教えてくれた。彼女はもう何百年も「海の森」と呼ばれる暗い海に住んでいる人魚なのだという。 海の中のあらゆる植物や生き物について知りつくしている彼女は、自分で様々な薬を調合しているらしい。そして噂によれば、彼女の薬を飲んで人間になれた人魚が、いつの時代だかはわからないけれど一人だけ居たというのだ。
その話に私が興味を抱くと、姉さまは一瞬悲しげに目を伏せ、それから取り繕うように笑って言った。
「海の魔女はどんな願いでも叶えてくれる。きっと噂通り、あなたの願いもかなえてくれるでしょうね。 けれど彼女はとても意地悪で狡猾らしいから、願いをかなえるための代償はとても大きいはずよ……」
それでも人間になりたいというのなら、彼女のもとへ行ってみるといいわ。そう言われ、いったいどんな代償が? と思わず息をのんだけれど、 すぐに私の頭には愛おしい王子の姿が浮かび、彼のもとで生き、愛されることができるのならばどんな代償だって恐ろしくはないわと自分に言い聞かせた。
その後、姉さまにお礼を言い、いつもなら行くはずもない深く暗い海の森へと泳いで行った。 始めていくその場所には色とりどりの珊瑚も美しい魚もおらず、ただただ薄暗い闇と、見たこともないあやしげな海藻が鬱葱と生い茂っているだけだった。
私が暮らしている海よりも水温も低く、肌に触れる水がひんやりと冷たい。こんなところに好んで住むなんて、いったい海の魔女とはどんな人なのだろうと思考をめぐらせる。小さく身震いしながら、 不安な心を携えて暗い海の中を泳ぎ進んでいくと、大きな岩陰に一匹の人魚の姿が見えた。
「あら、来客とは珍しい」
私の姿に気がついたらしい人魚は、そうつぶやき振り返った。しわがれた声にびくりと肩を揺らすと、それに気づき人魚が笑う。 海藻のような深緑の長い髪に、鋭い眼。そしてやけに目につく赤い唇は、私の姿を見て不敵に笑みを形作っていた。 しかし老婆のようなしわがれ声とは裏腹に人魚は若く美しい姿をしていて、それが余計に私の恐怖心を煽った。
……間違いない。彼女が、海の魔女だ。
怪しげな雰囲気にたじろぎながらも彼女のもとへと泳ぎ進めると、海の魔女は居住まいを正し、私をじっと見つめた。 鋭い眼がまるで獲物を狙うサメのようにギラリと光る。この目に負けてはならないと、私は強く唇をかんだ。
「……私はアンジェラ。あなたにお願いがあってここに来たのよ」
「そう。だけど聞くまでもなく解っているわ、お姫さま。愛する王子のために人間になりたいのでしょう?」
魔女の言葉に眼を見開くと、彼女は「私にはすべてわかっているわ」と声を上げて笑った。 それから一度岩陰へと姿を消し、それから何かを手にして再び現れた。訝しげに眉を寄せると、彼女は怪しく微笑んだまま私に近づき、手に持っていたものを手渡した。
魔女を見つめ、それから恐る恐る渡されたものに目をやると、それは手のひらに収まるほどの小さな小瓶だった。 中には薄紫色の液体が入っており、目の高さに持って行って見つめると、それは怪しげに波打ち、まるで私を誘うようにギラリと輝いた。
「……これは?」
「答えを聞くまでもないでしょう? 私は何でも願いをかなえる海の魔女。それはあなたが今一番望んでいるものよ。」
「……わたしが、」
望むもの。声に出してつぶやき、それからごくりと喉を鳴した。恐怖心か、はたまた好奇心か、わからない思いに心臓が早鐘を打つ。 掌の中の瓶を握りしめると、ジトリと嫌な汗をかいた。そんな私を見て、海の魔女は愉快そうに笑った。
「その薬を受け取るか受け取らないかは、あなたの自由。でももし受け取るというもなら、もちろん代金はいただくわ」
その言葉にはっとして魔女を見ると、彼女はわざとらしく肩をすくめた。 それから「世の中には善人ばかりではないからね。タダなものなんて一つもないわ」とつぶやき「さぁどうするの?」と目で私に語りかけた。
どうするの、ですって? 一度息を吸い、考える。どうするの? なんて、そんなこと、わかりきっている。 生半可な気持ちでこんな暗い海の底までやってきたりはしない。ここに来ようと思った時点で、私の思いは固まっていた。
覚悟を決めて顔をあげると、魔女は笑った。相も変わらず怪しげで不敵な笑みだった。
「もちろん、いただくわ。そのために来たんですもの。」
強い声でそういうと、「そのようね」と魔女は楽しげに言った。そして、私が想像もしていなかった言葉を口にした。
「では、代金としてあなたのその美しい声をいただくわ」
「なっ……」
――わたしの、声? 驚きに目を見開くと、魔女はくつくつとのどで笑い、「あなたの声は本当に美しいわね」とささやいた。
私の声。人間になったらこの声で歌を紡ぎ、いとおしいあの人へ愛の歌を歌おうと思っていたのに、その声をここで失ってしまうというの? あまりの絶望感に思わず手の中の小瓶を落とすと、魔女は小瓶と私を交互に見比べ、そして言った。
「よぉく考えて?足と声、今のあなたにはどちらが大切?」
「――、」
「王子は下半身が魚の女の子と、言葉を持たない女の子、どちらを選ぶかしら?」
もっとも、下半身が魚の女の子なんて、きっと悪い人間に見つかったら剥製にでもされてしまうかもしれないわね。 まるで死刑宣告のような残酷な言葉に、ブルリと身を震わせた。そしてもう一度、頭の中で魔女の言葉がこだまする。
足と声どちらが大切か。 あぁ、そうだわ。どちらが大切かだなんて、そんなの、そんなの……。 目をつぶり、これから自分の身に降りかかるであろう苦痛やもどかしさを想像していると、さらに魔女が言葉をつづけた。
「あぁ、そうだわ。言い忘れていたけれど、この薬には副作用があるの。 人間になった後、一歩歩くたびにあなたの足は針に刺されたように痛むけれど、それでもいいかしら」
そして人間になった後は、もう二度と人魚には戻れないのだという。つまりは、海の中に住む家族や魚たちには会えないということだ。 なんて恐ろしく、悲しいことだろう。そう思う。それでも私の脳には、いとおしいあの人の姿が目に浮かんでしまうのだ。
深く息を吸い、そしてはき、私は目を閉じた。それからゆっくりと目をあける。目前で魔女は「私にはすべて分かっているわ」と言わんばかりに微笑んだ。
「……構わないわ。あの人に会えるのなら、家族に会えないことにも、足の痛みにも、壊れた喉にも、耐えてみせる」
そう言いながら、姉さまの言っていた通り、なんて大きな代償なのだろうと涙が溢れそうになった。 でもそれでも、私のこの愛は「あの人のそばにいたい」とごねるのだ。例えその先に不幸しかなくとも、あの人のそばにいたいのだと。
「私は、運命に負けたりはしないわ」
「そう。それならこの薬を飲むといいわ。そうすればあなたのその尾びれは二つに裂け、人間の足に変わるでしょう。 だけどいい? もし王子が他の誰かと愛を誓ってしまった時は、あなたはこの海の泡となって永遠に海の中でさまようことになるわ」
「……構わないわ……」
この声を失い、愛を伝えられなくなること以上に悲しいことなどありはしないのだから。 そう告げると魔女は微笑み、先ほど私が落とした小瓶を拾い上げ、再び私の掌へと握らせた。 「この紫色の液体が私のこれからの運命を作り上げるのだ」と、小瓶を見つめながら思う。なぜだか、言葉が出なかった。
そんな私を見て魔女は遠い眼をしながら、ポツリとつぶやいた。
「もう何十年も昔に、あなたと同じ願いをした人魚が居たわ……」
その言葉にハッと顔をあげると、彼女は今までとはどこか様子が違う表情で海の上の地上を見つめていた。 やさしい目。そう思った。古い友人を思うような、とても意地の悪い魔女には見えないような、美しくも寂しげな微笑みを浮かべている。
「彼女は結局この海には戻ってこなかったわ。ひょっとしたら、海の泡になって消えてしまったのかもしれないけれど。 いくらか先の未来は私には見えているつもりだけれど、人の未来までは分からないもの。彼女は今、どうしているのかしら……」
あなたには、どんな運命が待っているのかしらね。 そう語りかけた魔女の目に、どうしてか「あなたの幸運を願っているわ」と励まされた気がした。
次の日。 私は声と引き換えに手に入れた小瓶を握りしめながら、家族のもとへともどって行った。 何も喋らない私と小瓶を見比べた姉さまは、まるで全てを悟ったかのように悲しげに眼を伏せ、それからそっと私を抱きしめた。
そんな姉さまを前にして、せめて別れの言葉と今までの感謝の気持ちを伝えられたらよかったのにと、そう思った。 そして私はなんて親不幸で恩知らずなのだろうと、父さまや母さまに申し訳ない気持ちになった。
「愛しているわ、アンジェラ。どうかどうか、あなたが幸せになれますように……」
――その言葉にどれほど私の胸が熱くなったことか。だけど、それじゃあ、それだけじゃあ足りないのだ。 優しくて温かい家族の愛では、私はもう満足できなくなってしまった。何故なら15年間も眠っていた私の熱情が目覚めてしまったから。 自分が欲していた愛が一体何だったのか、それに気づいてしまったから。
(ありがとう、さようなら、愛おしい人たち。)
胸の内で呟きながら、私は地上に向けて泳ぎ始めた。全てを振り払うかのように、一度も振り返ることはなく。
日も昇りきらないうちに私は王子の住む城まで泳ぎ着き、水をほしがる身体に鞭うち岸へと上がった。
(王子、王子。愛おしい人……)
あらしの夜に触れたやわらかな頬の感触を思い出す。私はもう一度、あの頬に触れるのだ。そしてあの美しい青い目に、私の姿を映し出すのだ…。
そう期待に胸を膨らませた瞬間に、不意に魔女の言葉が頭の中を駆け巡る。 「もし王子が他の誰かと愛を誓ってしまった時は、あなたはこの海の泡となって永遠に海の中でさまようことになるわ。」 その言葉に一瞬ブルリと体を震わせたけれど、だけどあぁ、もうこの声を失った時点で引き返す場所などないのだわ、と自分を叱咤した。
(……どうかどうか、私の愛を受け入れて。)
言葉で伝えられる愛などないけれど。その代りに全身全霊であなたを愛して見せるから。だからどうか、私を愛してちょうだい。 そう祈りながら魔女からもらった薬を飲み干すと、途端に体中に激痛が走り、私は気を失った――。
どれくらい気を失っていたのだろう。 聞きなれた波の音に目を覚ますと、辺りはすっかり明るくなり、日が昇り切っていた。 あまりの眩しさに数度瞬きを繰り返していると、不意に自分の上に人影が現れた。突然のことに驚いて顔をあげると、そこには……
「やっと気がついた! 大丈夫かい? もうずっと気を失っていてけれど。君は一体、何処からやってきたんだい?」
何度も夢にまで見た、愛おしい王子の姿があった。 海のように青い眼が、心配そうに私を見つめている。その眼は驚きに見開かれていて、こぼれおちてしまいそうだと思った。 ふと思い出して下半身を見ると、王子が用意してくれたらしい白い布から、見慣れた尾びれではない二本の足が伸びていた。 これは本当に私の足なのだろうかと不安になり、動くようにと下半身に命令を下すと、その足は私が思う通りに動いた。
嬉しくて、信じられなくて涙があふれてくる。夢にまで見た人の足に、愛おしい王子の姿。 そしてその唇から紡がれる言葉を、どれほど欲したことだろう。その金色の髪を、そして優しい微笑みを、どれほど求めたことだろう……
「どうして泣いているんだい?……あぁそうか、恐ろしい目にあったのだね?だけどもう大丈夫。僕のお城へおいで。もう怖いことなど何も起こらないよ」
違うわ、違う。恐ろしいことなど一つもないわ。だってここにはあなたがいる。嬉しくて、せつなくて、だから泣いているの。 あなたに出会えたのに、この愛を伝える術がないなんて、そのことがこんなにも切なく胸を焦がすなんて思わなかったの。 愛おしい人。愛しい愛しい私の王子。
「……どうしたんだい?ひょっとして、口がきけないのかい?」
この言葉に唇をかみしめながら頷くと、「なんてかわいそうなんだ!」と王子は私の頭をそっと撫ぜた。 それから慈しむように私の金の巻き毛に触れ、優しげに言った。
「……君は、とても奇麗な眼をしているね。まるで青空のようだ……」
そう言われ、「あなたの眼の方がずっときれいだわ」と言いたかったけれど、言えるはずもなくただ私は微笑むことしかできなかった。
それから王子はそっと私の手を取り、城の中へと招き入れてくれた。 しっぽが裂けてできた私の足は、海の魔女が言ったとおり一歩歩くたびに針に刺されたように鋭く痛み、思わず苦痛に眉を寄せてしまう。 しかしそれ以上に、手に触れる王子の美しい指が掌が嬉しくて、私は足の痛みに抵抗し、背をピンと伸ばし精一杯美しく歩いて見せた。
城の中に入ると、今まで見たこともないようなものばかりが目に入り、眩しくて何度も瞬きを繰り返してしまった。キラキラと輝く床。美しい着物を身にまとった人々。ここにいる人々は皆幸福に充ち溢れているように見えた。 そんな中、王子に手を惹かれて歩く私を誰もが好奇な眼で見つめた。居心地が悪くて王子の手を握り返すと、何も心配することはないよと微笑まれた。
(ここで、私は今日から暮すのだわ。夢にまで見た王子のそばで……)
まるで本当に夢の中を生きているようだと思う。しかし、足の痛みによってこれは夢ではないのだと何度も現実に引き戻された。手に入れたこの現実が私にとって幸福なものなのか不幸なものなのかはまだ分からなかった。しかしそれでも足の痛みなど国はならないほど、心は満たされていた。
王子はとても優しかった。王子だけではない。彼の両親も召使も、お城に住む沢山の貴族も、みんなみんな突然現れた私を慈しんでくれた。 時々「あの娘は自分の哀れな境遇で王子の同情を買っているに違いない」という陰口が聞こえてきたけれど、あながち間違いではない気がして否定はできなかった。
そして何よりも、そんな話を耳にするたびに私以上に王子が不愉快そうに顔をゆがめ、「気にすることはないよ」と気遣ってくれるのが嬉しかった。 私は彼に大事にされているのだわ、と優越感に浸っている自分がいた。
王子は大事な業務の時以外はいつも私と一緒にいてくれて、いつもいつも優しい瞳で私に微笑んでくれた。 柔らかな日が差す静かな中庭に座り、沢山の話を聞かせてくれた午後のなんと幸せだったことだろう。髪をなでる指先の、なんと優しいことだろう。 幸せを感じるたたびに私は「この幸福がいつまでも続けばいいのに」と、うっとりと現実に浸り目を閉じるのだ。
他にも王子は、毎日色とりどりの美しいドレスを私に与えてくれた。しかし今まで服を着ることのなかった人魚の私は、 きらびやかなドレスを前にするといつも目移りしてしまい、結局毎回のように装飾の少ない純白のドレスにそでを通してしまう。 そんな私に、ある日王子は「なぜもっと美しいドレスを着ないんだい?」と不思議そうに首を傾げたけれど、答えるすべのない私は肩をすくめることしか出来なかった。 しかし、そんな私に王子はふと思い立ったように言った。
「あぁでも、君には美しいブロンドの髪と、宝石のような青い瞳があるからね。華やかなドレスよりも純白のドレスの方がいいかもしれない。」
それに、まるで花嫁みたいだ。 そう言って王子ははにかむ様に笑い、それから私の手を取ってキスをした。手ノ子尾に触れたその官職に、私は嬉しさのあまり泣きたくなってしまった。あなたのことがとても好きだと、そう思った。
しかしこんなにも幸せな景色の中にいるというのに、胸に抱いた愛を伝えるすべがないことを思い出すたびに不不幸な気持ちになってしまった。 足の痛みには耐えられる。王子とのダンスの時など、楽しくてうれしくて足の痛みなど忘れてしまうほどだ。 だけどただ一つ、愛を紡ぐことのできないこの唇が憎らしく思えてしまう。魔女が私に与えた代償は、あまりにも大きかった。
「オデット、ちょっといいかい?」
ある日の昼下がり。ボンヤリと部屋から見える城外を眺めていると、部屋に入ってきた王子が私を呼んだ。 私のここでの名前はオデット。話すことのできない私に王子がつけた、王子のためだけの名前だ。
オデット。それは悪い魔女によって白鳥に姿を変えられた、美しい姫君の名前らしい。なぜ王子がこの名前を私に付けたのか、私にはわからなかった。 しかしいつも面倒を見てくれる親切な侍女が、王子がいないときにこっそりと私に耳打ちをしてくれた。
「そのお話に出てくる王子の名は、ジークフリード。わかる?王子の名前もジークフリードよ。 つまり彼はね、物語の王子が愛する姫君の名前を、あなたにつけたのよ。」
それを聞いた私は言葉を失った。いいえ、もともと今の私には言葉はないのだけれど、とにかくうれしくて恥ずかしくて、幸福な気持ちでいっぱいになった。 ……しかし、王子に名づけられた「オデット」という名前も愛おしかったけれど、それでも「アンジェラ」という私の本当の名を王子に伝えられないことがもどかしかった。
「オデット?どうしたんだい、ボンヤリして。」
再び王子に名前を呼ばれ、はっとした。顔をあげると不思議そうに首をかしげ、それでもどこか嬉しそうに微笑んでいる王子と目があった。 ……なんだか無性に切なくなって、そっと彼の頬に手を添えてみる。あたたかかった。愛しくて、離したくないと思ってしまう。
すると王子は慈しむような目で私を見て、私が彼にそうしているように私の頬に手を添え、そっと額にキスをしてくれた。 なんてあたたかいのだろう。めまいがしそうなほどの幸福だと、そう思う。この感情を一つ残らず王子に伝えられたらどんなに素晴らしいことなのだろうと。
しかし言葉を持たない私には、王子にならって彼の額にキスをすることしか出来なかった。
「さぁ、オデット。今日は一つ提案があるんだよ。とてもとても素敵な提案だ」
王子は微笑み、それから嬉々とした声で言った。少年のようなその表情に愛おしさが募る。しかしその意図が分からず、私は首をかしげた。 王子は私の手を取り歩き始めた。一歩歩くたびに、私の足は変わらず痛む。だけど王子と一緒にいる時は、どうしてかさほど苦には感じなくなっていた。 耐えられるような痛みではないはずなのに、王子の横にいられるのならなんてことはないことのように感じられるのだ。
「さぁオデット、ここに座って。」
王子は私を、王宮の中にある大きな図書室に連れてきた。城に連れてこられた時に一度訪れたことはあった場所だが、それ以外できたのは初めてだ。 字の読み書きができない私にとっては、ここは意味のない場所だった。それなのに、王子はなぜここに私を連れてきたのだろう。 王子の意図が分からなくて再び首をかしげると、王子は笑いながら私の横に腰を落とした。
「僕はこれから、君に文字を教えようとおもってね。」
そう言って、王子はポケットから美しい装飾を施したペンを取り出し、そっと私の手に握らせた。しかし持ち方すら分からずに困惑してしまう。
「こうやって持つんだよ。さぁ」
王子に指を取られ、持ち方を正される。まるで自分が小さな子供のようで恥ずかしくて俯くと、クスリと王子は微笑んだ。
「ねぇオデット。君は口がきけないだろう? だから文字を覚えて、君の思いを文章で伝えてほしいと思ったんだよ」
そうすれば君と会話ができるだろう?そう言われ、それはなんて素敵な提案なのだろうと私の心が明るくなった。 私には王子への愛を歌うことも伝えることもできない。だけど文字を覚えれば、愛を詩にすることもできるし、自分の名前を伝えることもできる。 文字を覚える、それはなんて素敵なことだろう! 思いを伝える方法は、何も言葉だけではなかったのだ。 私はあまりに嬉しさに笑い、王子の手を握り大きくうなずいた。
「よかった!それじゃあさっそく始めよう。僕は早く君の気持が知りたいからね」
人魚の国で毎日魚たちと戯れてばかりだった私にとって、生まれて初めてする勉強はとても楽しいものだった。 新しいことを知ることはもともと好きだったし、それを教えてくれるのが王子であるならば尚更だ。私はすぐに文字を覚え、文字が好きになった。
しかし指先の筋肉が発達していないためなのか、ペンを握り文字を書くことにはなかなか慣れることができなくて、 王子の美しい文字に比べたら、私の文字はまるでミミズがはっているかのような汚いものになってしまった。 そんな字を王子に見せているのかと思うととても恥ずかしかったが、それでも彼に自分の思いを伝えたくて、私は必死に字を書く練習をした。
「すごいよ、オデット! 君はとっても頭がいいのだね。それに努力家だ。この調子でいけば、きっとすぐに話すように文字を書けるようになるよ」
そうであればどんなに嬉しいことだろう。想像するだけでうれしくて、私は笑った。 美しい字で、自分の思いを王子に伝えたい。 そう思い、私は王子が忙しい業務に追われている間も一人で必死に文字を勉強し、練習をするようになった。そんな私を王子が褒めてくれるものだから、なおさらだ。
文字を覚えたら、まず初めに王子に何を伝えよう。ペンを置き、ふと考える。彼への愛? それとも、私の本当の名前? いつか人魚であった自分の正体を明かせたらと思うけれそれはまだやめておこうと思う。 万が一にでも気味悪がられてしまったら、自分を否定されてしまったとしたら、私はもう海に身を投げるしかないのだから。
……あぁ、そうだ、それではやはり、このあふれそうなほどの愛を伝えよう。歌では伝えられないこの愛を文字で伝えよう。 そしてその後に、私の本当の名前を伝えよう。彼はなんというだろう。素敵な名だと褒めてくれるだろうか。私の愛の告白に、僕も好きだよと、微笑んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら勉強をすると、何故だかとても幸福な気持ちになった。
それから、数日後のこと。 私は文字というものを完璧に覚え、字も王子ほどではないけれど、それなりに早く美しく丁寧に書けるようになっていた。 そろそろ頃合いかしらと、親しくしている侍女に以前から用意してもらってしまっておいた用紙を机の引き出しから取り出した。 普通の紙よりも厚くて丈夫な真っ白な用紙の右下に、金色の髪を持つ天使の絵が描かれた美しい紙だ。この紙に言葉を書き、王子に手渡そうと考えていた。
何度か呼吸を繰り返し、息を整えてから紙へと向かう。何度も何度も考え、練習してきた言葉を丁寧に丁寧に書き表すと、なんだか恥ずかしい気持ちになった。 それから文章を書いた紙を丁寧に四つ折りにし、もう一度深呼吸をしてから私は部屋を出た。早くこの想いを王子に見せたい。そう思い、自然と足取りが軽くなる。
……だけど、
「……やぁ、オデット。そんなに楽しそうな顔をして、どうしたんだい?」
丁度自室から出てきた王子を見つけると、なぜだかその表情は曇っていた。どうしたのだろうと思い、王子に駆け寄り彼の頬に触れると、王子は悲しげに眼を伏せた。
「……今朝、父上と母上に呼ばれてね。なんの用かと思って聞いてみたら、僕の結婚相手が決まったと言うんだ……」
目の前が、真っ暗になった。突然の王子の告白に、愛を書いた紙を持つ指先が震える。
「隣国の姫君らしい。優しく、美しい人だと聞くけれど……」
涙が溢れそうだった。 王子がもしその姫君と結婚してしまえば、私はこの想いを遂げることなく海の泡となって消えてしまう。 だけど、悲しいのはそんなことではなかった。……いいや、悲しい? そうではない。悔しいと、そういった方が正しいだろうか。 王子の心が私から離れ、ただ一人の花嫁のもとへといってしまうのかと思うと、醜くも汚い嫉妬が積もってしまう。何故私ではなく? と。
「ねぇ、オデット。僕は結婚なんて、したくはないよ」
しかし王子のその言葉に、いくらか心が救われた。そしてそれと同時に、醜いことを考えていた自分に対して嫌悪を抱いてしまう。 ごめんなさいと胸の内で呟くと、王子は震えた声で言葉をつづけた。
「オデット、僕は君が大好きだ」
続けられた言葉に、嬉しくてたまらなくなる。私もよ、と今すぐにでも王子の唇に口づけて、愛を誓うことができたらいいのにと、そう思う。 だけど……
「君はね、あらしの後に僕を見つけ、お城まで運んでくれた娘さんにとてもよく似ているんだよ」
その言葉に、まるで頭を鈍器で殴られた後のように一瞬思考が停止した。
あらしの後。お城に運んだ娘。私によく似た、娘………。
王子が言っている娘が自分ではない他の娘だということを瞬時に悟り、私は呆然とすることしか出来なかった。 あらしの起こった次の日。海に投げ出された王子を抱きかかえて浜辺に泳ぎ着いた私は、彼が目覚めるまでジッと岩陰に隠れて様子をうかがっていた。 すると一人の娘が浜辺へと歩いてきたのだ。その娘は私と同じ青い眼と金色の髪の持ち主で、もちろん、人間だった。
娘が王子に気付き駆け寄ると、まるで何かの魔法にでもかけられたようにすぐに王子は目を覚まし、目の前の娘に「ありがとう」と何度も感謝の言葉を告げていた。 その娘が自分を救ってくれたのだと、信じて疑わないように。あらしの中自分を抱きかかえて海を泳いだ女の存在など、まるで覚えていないかのように。 そう。王子の記憶の中には、あらしの中彼を担いで海を泳いだ人魚だったころの私の姿はない。
だけど、それ以上に。 王子が私を愛し優しくしてくれたのは、「わたしだから」ではなく「救ってくれた娘に似ているから」なのだという事実を知り、たまらない気持になった。
「結婚だって、僕を救ってくれたあの娘さんなわけがないもの。だから、僕が結婚するとしたら君とだよ」
そんな話は聞きたくない、そんな愛ならほしくない! 私は気づけば唇をかみしめていた。 誰かの代わりに抱かれる愛ならば、そんな愛ならば愛されていないのと同じことだ。それなのに私は、なんて惨めなのだろう。一人舞い上がって、バカみたいだ。 王子の目は何時だって、私ではなく私によく似た娘の姿が映っていたのに。
惨めで、悔しくて、あの娘が憎らしくて、たまらずポロリと涙がこぼれおちた。そんな私を見て、王子が目を丸くする。
「オデット……?」
そんな名で呼ばないで。私はあなたが愛した姫君なんかじゃないのだから。 私はアンジェラ。たった一度触れただけのあなたを愛した、天使の名をもつ間抜けな人魚。人にも天使にも成れなかった、出来損ないだ。
「オデット、一体どうしたんだい?どこか痛むのかい、オデット……?」
不意に、王子は私が持っている紙に気付き、壊れ物を扱うような優しい手つきでそれを取り上げた。 そこに書かれた言葉に、彼は大きく目を見開く。
―親愛なる王子ジークフリードへ―
―あなたを心から愛しています―
―アンジェラより―
「……アンジェラ……? これは、君の名……?」
「っ――」
いつもいつも、彼に自分の名を呼んでもらえたらと思っていた。だけど初めて呼ばれた名は、切なく鋭く私の胸に突き刺さる。
「アンジェラ…アンジェラ、すまないっ、君がまさか、まさか僕のことを……!」
聞きたくない、聞きたくない! 耐え切れずに、私はその場から逃げだした。足が痛い、心が痛い、頭が痛い、死んでしまいそう! 王子の愛の正体に気付いてしまった私には、もう何一つ、耐えられる痛みなどありはしなかった。
愛し愛されたいと、そう思った。たったそれだけを望んでいた。 言葉はなくともこの想いが王子に届いたなら。そう思いながら、私は毎日毎日王子の隣にい続けた。 だけど、あぁ、もうダメね。
先ほどの王子の言葉が頭の中を駆け巡る。「君がまさか、まさか僕を……」
「愛していたなんて」
きっと、そう続いていたのだろう。
何一つ、伝わってなんかいなかったのだ。私のしぐさ、表情、視線…そんなものでは、私の愛を王子に伝えることは不可能だったのだ。 そう思い知り、そしてそれこそが一番つらいことだった。それでも伝えられるはずだと、そう信じて人間になる覚悟を決めたのに。 文字を覚えて、やっと愛を伝えることができたというのに、それも全て無駄に終わってしまう。なぜなら王子の想い人は、私ではなかったのだから。
「っ――」
部屋から見える海を見つめて、ただ涙を流した。今この悲しみを歌にできたなら、どれほど気持ちが楽になるのだろうと途方もないことを考える。 今すぐ家族のいる海へ戻れたら、今すぐ魚たちと戯れる日々に戻れたなら、そう思うけれど、もう一生叶うことはないことは分かっていた。 なぜなら私はそれら全てを捨て、王子の愛だけを望んだのだから。
だけど、その愛はきっともう手に入らない。 たとえ王子が結婚を断り、私を花嫁に迎えてくれたところで彼が私を通して別の女を見ていたことを知ってしまった。私は愛されていなかったのだ。
愛し愛されたいと、そう思っただけなのに。どうしてそれがこんなにも難しいのだろうと、途方に暮れた。
「アンジェラ、アンジェラ!」
知らぬ間に、眠ってしまっていたのだろうか。 名を呼ばれて目を覚ますとベットの中にいて、日は遠の昔に暮れていた。あれから大分時間がたってしまっていたようだ。
視線を上げると不安げな顔をした王子の顔があり、彼は目があった途端に安心したかのように彼の表情が和らいだ。 その表情に、もしかして悲しみのあまり私が死んでしまったとでも思ったのだろうかと、そんなことを考えた。
……考えて、笑った。 それも悪くはないかもしれないな、と。どうせ海の泡になる運命なのだ。それならば、その前に海に身を投げて。そうすれば、いつかは魚にでも生まれ変わることができるかもしれない。 そしてもしそうなったのなら、その時は人間に恋をするなんて、悲しいことはしなければいいのだけれど。
そんなことを考えていると、王子は初めて会ったあの時のように、私の金の巻き毛にそっと触れた。
「……隣国から、姫君の似顔絵の入った首飾りが届いたんだ。」
そう言い、王子は首に下げていた首飾りを外し、私に手を取りそれを握らせた。金色の、美しい装飾が施された丸い首飾り。 ズシリと妙な重みのあるそれは、右側に小さな突起が付いており、どうやらそれを押すと開く仕組みになっているようだった。
開きたくない、姫君の姿など見たくない。そう思う。だって、どうしてかとても嫌な予感がするのだ。
「アンジェラ……」
王子の声に、嫌だと首を振る。まるで自分は小さな子供のようだと思ったけれど、どうしても中の絵を見るのが恐ろしくて、王子に首飾りを突き返した。 しかし、すべてを否定する私を王子は許さなかった。もう一度王子の手が私の手に重なり、ゆっくりと首飾りを握りしめている指先を解かれてしまう。
見たくないと首を振ると、アンジェラ、と強い声で名を呼ばれ、目頭がじんと熱くなった。彼はこれ以上、私にどんな苦しみを与えたいのだろう。 見てはいけない。そう思うのに、もう一度王子に名を呼ばれ、私は眼を開けた。首飾りの中の姫君が、目に映る。
「っ―――」
見覚えのある、美しい女性。金色の巻き毛に、青い眼をした女性。彼女は絵の中でも優しそうに微笑んでいた。
「……この人が、僕の結婚相手。……そして、命の恩人だ。」
……名を、エリザベスというらしい。その名を聞いて、思わず笑ってしまう。 エリザベス。あぁ、たいそうな名前だわ。そう思う。彼女は生まれついての幸福なお姫さま。そしてその姫君は、私がたった一つ望んだ愛さえもやすやすと手に入れてしまう。 なんの痛みもなく。なんの苦しみもなく。きっと悩みなんて一つもないに違いない。人々にも動物にも愛されるような、愛にあふれた人に違いない。
悔しくて、悲しくて切なくて、また涙が出そうになった。今すぐにこの首飾りを壊してしまいたいと、そんな乱暴な気持ちでいっぱいになる。
だけどわたしはそんな感情を押しとどめて、ベットから出て机の上の紙とペンを手に取った。
「アンジェラ……?」
訝しげに私の名を呼ぶ王子をよそに、文字を書く。自分の字を見て、はじめのころに比べて何と上手になったことだろうと私は笑った。 これも全て愛する王子のため。彼に愛を伝えるため。それなのに、あぁなんて皮肉なことだろう。私は心にも思っていない言葉を書き、それを王子に手渡した。
「どうか、お幸せに」
だけどやっぱり心まで偽ることはできなくて、王子に微笑みかけることのできない私はただ俯いた。 そんな私をみて王子は立ち上がり、私を抱きしめた。ずっとずっと求めていた腕と胸の、なんと温かいことだろう。そしてなんと、せつないことだろう。 この人のすべてが自分のものになったならどんなに幸せなことだろうと、人魚のころから変わらずそう思っていた。
たくさんの感情に目を閉じ耐え忍んでいると、王子の息遣いが聞こえてくる。それから、まるで言葉を選ぶようにゆっくりと王子が話し始めた。
「…アンジェラ、驚かずに聞いてくれ。」
驚くものですか。そう思う。だってもう、覚悟はできているのだ。 王子は隣国の姫君であり、命の恩人だと信じている娘と結婚し王になるのだ。それはもはや政略結婚でも何でもない。少なくとも、彼にとっては愛のある幸福な結婚だ。
そして間抜けな私は、王子の幸せそうな笑顔を見ながら海の泡となって、永遠にこの広い海の中をさまよい続ける。生まれ変わることもできずに、ずっとずっと。 わかってる、わかっているわ。驚いたりもしない。だってもう、この運命にあらがうことができないのは知っている。
しかし、王子が口にした言葉は私の覚悟とはま逆のものだった。
「僕は、結婚しないよ」
想像もしていなかった言葉に、驚いて王子の顔を見た。彼は一体何を言っているのか。ひょっとしたら、今のは都合のいい聞き間違いだったのか。 きっとそうに違いない。そう思う。だって、そんなことがあるはずもない。だけど王子は私の心を悟ったかのように優しく微笑み、それから……
「っ――!」
私の唇に、キスをした。 あまりのことに信じられなくて、思わず王子の腕を振り払い後ずさってしまう。私の名を呼ぶ王子に構わず、慌ててペンをとり、文字を書きなぐった。
「何を言っているの、王子! 隣国の姫君はあなたの恩人、あなたの想い人。それなのに、結婚しないなんて! そんなのダメよ!』」
書き終えた紙を王子に握らせる。私の思いを詠んだ王子は、どうしてか苦笑した。 ……何故、そんな目で見るの? まるで慈しむような、愛おしいものを見るような優しい目。思いあがるのはもう沢山なのに。 気落ちするくらいなら、潔く海の泡となって消える方がずっとずっと楽なのに。……だけど、王子は言った。
「僕に結婚すべきだと言っているのに、それならばどうして、そんな泣きそうな顔をしているんだい?」
「っ……、」
あぁ、どうして、ですって? ……それは私があなたを愛し、そして愛されることを心から望んでいるから。 本当は結婚なんてしてほしくない。別の誰かのモノになどなってほしくない。海の泡になんて、なりたくない。 だけど同情心から愛を注がれるのも、生きながらえるのも嫌なのだもの。そんなみじめな人生を送りたくはないのだもの。 それに、私の勝手な愛で王子の人生を左右してしまうなんて、そんな最低なことはしたくないのだ。だって本当に、王子を愛しているのだから。
……はじめは、とても憎らしかった。王子に思われている幸福な姫君、エリザベスが。 だけど一度冷静に考え、王子のことを思えば彼女に対しての憎悪は間違いなのだと気がついた。だって、仕方のないことなのだ。王子が愛した人なのだから。
きっと隣国の姫君が、自分の結婚相手が彼女だと知った時、王子はとてもうれしかっただろう。幸福な気分になっただろう。 そして王子のその本音を奪う権利は、私にはないのだ。……だけど、王子は言う。
「アンジェラ、聞いてくれ。僕は君が悲しむ顔など見たくはないよ。君の悲しみの上で幸福になんてなりたくないんだ」
「いいえ、王子。同情なんていらないわ。あなたはあなたの幸せを選び、生きる権利があるのだから」
「それなら、君にだって幸せを選ぶ権利はあるはずだ! それにぼくは、同情でこんなことを言っているわけじゃない!」
そう言い、王子は私の手から紙とペンを取り上げた。思いを伝える術がなくなった私は、ただ唇をかみしめることしか出来ない。 そんな私をまっすぐに見つめ、王子は言葉をつづけた。
「ねぇ、アンジェラ。僕は君の気持を知ったとき、とてもとても嬉しかった」
それでも、あなたが愛したのは私じゃない。そう伝えたかったけれど、伝える術がなくて私は唇をかんだ。 王子の声が、視線が痛いくらいに、胸に響き、脳を揺さぶる。今すぐその声に、その腕にすがりついて泣いてしまいたくなる。 結婚などしないでと。私のそばにずっといてと。そんなわがままを言いたくなる。
……だけど、それはいけないことなのだ。だって、そうでなきゃ王子が不幸になる。 どうして私はこのことに今頃気がついたのだろう。どうして初めから彼の人生について考えなかったのだろう。そう思い、激しい後悔の念に襲われた。
私は自分が幸福になることばかりを考えて、王子のことなど考えていなかったのだ。自分が王子の運命を変えてしまうことなど、思ってもみなかった。 最初からわかっていたら、きっと人になどならなかったのに。私はなんて愚かで、子供なのだろう。自分本意なのだろう。 うつむく私に、王子は言葉をつづけた。
「アンジェラ、確かに僕ははじめ、君があの人にとても似ているから城に招き入れた。だけど、今は違うって気がついたんだよ。 いつからか、君の中に彼女を見出すことなんてなくなっていたんだ。ずっとずっと気付かなかったけれど、君の思いを知るまで気づかなかったけれど、 本当は僕も君自身にひかれていたんだよ。ねぇ、嘘でも夢でもない。これが僕の本心だ」
……涙が、溢れた。王子の唇から紡がれる、嬉しすぎる言葉たちによって。幸せで幸せでたまらない気持になる。 王子の言葉が彼の本心なのかどうか、それは当然解らないけれど、嘘でも構わないとそう思った。王子が見せてくれるこの夢が、この上ない程の幸福だと思った。
「ねぇ、愛してるんだアンジェラ。君だから好きなんだよ、君だから愛おしいんだよ」
震えた声でそう言い、王子は私を抱きしめた。強く、強く。まるで今言った言葉すべてが真実であるかのように。 嬉しくてたまらない。幸せだと、幸せで幸せで死んでしまいそいだと、そう思う。今すぐ王子の首に腕を回し、全身全霊で彼の愛に応えたいと。
……だけど、それはやっぱり許されないことなのだ。私は震える手で王子の方に触れ、そしてゆっくりと彼を引き離した。
「アンジェラっ…どうして、」
王子の問いに私は精いっぱい微笑み、再びペンを手に取った。 そして、全てを書く。気味悪がられることや王子に否定されるのを恐れ、伝えることを躊躇っていた全てを。人に恋をした馬鹿な人魚、アンジェラの話を。
あらしの夜にたった一度だけ触れた王子に恋をしたこと、自身の熱情に耐えられず、魔女に人になる薬をもらったこと、 そしてそれと引き換えに声を失い、痛む足を手に入れ、こうして人間になったこと。全部全部、王子に伝えた。 ただ一つ、王子が他の人と結婚した場合、海の泡となって消えてしまうことを除いては。
私の書いた真実全てを読み終えると、王子は呆然と紙と私を見比べ、それから静かに涙をこぼした。「僕が悪いんだ、僕のせいだ」と何度も自分を責めながら。 だけど、それは違うのだ。王子は何一つとして悪くなんかない。悪いのは、罪深いのは、自然の摂理に逆らってまで彼の愛を手に入れようとした私だ。 でなければこんな風に、王子に涙を流させることになんてならなかったのだから。
「王子、あなたは一つも悪くはないわ。だからお願いよ、顔を上げて頂戴」
そう書くと、王子は子供のように首を振った。一体どうしたのだろうと彼の肩に触れると、その手をぎゅっと握られる。
「違う、違うんだアンジェラ。…君の話が本当なら、僕は君に助けてもらったとき、うつろな意識の中、君の姿を見ているんだ。」
王子の言葉に、驚いて目を見開いた。すると彼は泣きそうに涙のたまった目で私を見つめ、そっと髪の毛に触れた。 壊れ物を扱うようにゆっくりと撫でられ、思考回路がおかしくなる。また、幸福な夢を見ようとしてしまう。
「冷たい水の中、それでもぬくもりを感じて、薄れていく意識の中で必死に目を開けた。そしたら、金色の髪の美しい天使が、僕を抱きしめていたんだ。 だから僕は、もうここで死ぬのだと覚悟を決めた。そうして眼を覚ましたら、目の前にはエリザベス姫がいて、僕は彼女が救ってくれたのだと、 薄れゆく意識の中で見た天使は彼女だったのだと、そう勘違いをしたんだ……」
けれど、違ったのだね。その時の天使は君だったのだね、アンジェラ。 そう言って私を抱きしめた王子の温もりに、私は涙が止まらなくなってしまった。信じられないほどの幸福に、めまいがした。
だって、彼は私を見てくれたのだ。私を、見つけてくれたのだ。ひたむきに王子を愛し、救いたいと思っていたあの頃の私を。 なんてことだろう、なんという幸福だろう。これ以上の幸福はないと、心からそう思った。
「アンジェラ、すまない、君にこんなにもつらい思いをさせて、本当にすまない。愛してくれてありがとう、救ってくれてありがとう。 だから今度は僕の番だ。君を愛している。そしてこれからはもっともっと愛すんだ」
涙を流しながらそういう王子に、心から感謝をした。……だけど私は、再びペンを握った。
「ありがとう、王子。だけどそれはいけないわ」
私の言葉を見て、王子は眼を見開いた。そして怒ったように、それは何故かと問う。私は彼の頬にキスを落とし、再びペンをとった。
「あなたは王子ジークフリード。この国の王となる尊い人よ。だけど私は、何もない。地位も名誉も言葉さえも、海の底に置いてきてしまった。 今の私にあるのは、あふれそうなほどのあなたへの愛だけよ」
「それでいい、それだけでいいじゃないか! 他のものなんて、何もいらないよ!」
「そんなこと、あるわけないわ。ねぇ、王子。私たちの腕で抱き合ったところで、何も生まれはしないのよ。国のためにだってならないわ。 だって、私はこの国のためになんて生きられないもの。あなたのことしか、きっと愛せないわ」
そう書くと、初めて王子の目がはっとしたように開かれた。その表情に思わず笑ってしまう。 国を愛せない王妃など意味のない存在でしかない。彼はそれを知っているのだ。だからこそ、良い王になることができる。 彼のその表情に、もうひと押しだと言葉をつづけた。
「私の愛は、きっとあなたを不幸にする。あなたを愛しているわ、この事実は変わらないわ。…だからこそ、幸せになってほしい。 あなたの幸福への道に、私は初めからいなかったのよ。いては、いけなかったのよ。だから私を選んではいけないわ」
書きながら、思わず涙がこぼれおちた。紙の上にぽたりと落ちて、インクがにじんでしんまう。にじんだインクのように、私の心も揺れた。
……本当は、それでも愛してほしかったのだ。声も名誉も持たない私を愛し、花嫁として迎え入れてほしかった。 だけど、いい。これで、いいんだ。初めから、こうでなければいけなかったのだ。 そんな私に、震えた声で王子が言う。
「でも、それじゃあ君が幸せになれない!」
……幸せ?いいえ、そんなことはないわ。
「私は十分、幸せよ」
だって、あなたからたくさんの幸せな日々をもらった。 海の底にはない太陽の温かさを知り、月や星への近さを知 り、空を飛ぶ鳥のさえずりを聞いた。あなたからたくさんの愛や優しさをもらった。 そして今は、こんな私のために涙を流してくれている。これを幸せと呼ばず、なんと呼べばいいのだろうか。眩暈をしそうな程の幸せを、胸一杯に感じている。
「だけど君は、僕のために声を失い、歩くたびに足は痛み……」
「それは私自身が望んだ結果の代償よ。そして私の望みは、あなたの愛。その愛も両の手に余るほどもらったわ」
優しい王子。どうかどうか、そんなに自分を責めないでほしい。だってあなたは何も悪くないのだから。そう伝えても、彼は首を振った。
「王子、私の最大の幸福は、愛おしい人の幸福よ。ねぇ、気づいたの。私が人間になったのは大きな間違いだったのよ。 あなたはまだ、エリザベス姫のことを愛しているはずよ。そしてきっと、彼女もあなたを愛しているわ」
「アンジェラ……」
「そしてあなたたちは結婚し、二人でこの国を治めるの。きっと素敵な国王になって、素敵な国になるわ。人々も皆、あなたを慕う……」
そして最期を迎える時、暖かなベットの中で、どうか一つ思い出して。誰よりもあなたを愛した人魚のことを。それだけでもう十分よ。十分すぎるくらいだわ。
そう書き終えると、王子は強く私を抱きしめ、何度も何度もキスをした。暖かな腕に唇に、そうだ最後くらいは甘えても許されるだろうかと、私は眼を閉じた。 甘えて求めて、この体に王子の愛を刻み込もう。そうすればきっと、海の泡になっても幸福だった日を思い出せる。
海の泡になっても構わない。一時でも生まれたこの愛が、確かな真実なのであれば。そう思って消えれるように、全身で彼を感じよう。
「愛してる、アンジェラ。本当だよ、僕のオデット姫。僕の天使……」
……あなたの天使で、いたかったなぁ。今までも、これからもずっとずっと。私の王子、ジークフリード。 愛してる、愛してる。何度書けば気が済むだろう。きっと何度書いても足りはしないだろうから、もう書くのはやめよう。 声があっても、きっと無駄だ。何度言っても足りないだろう。だけどせめて、伝えたかった。心からの感謝の言葉を。
「アンジェラ、ありがとう。」
いいえ、いいえ、ありがとう、王子。王子、愛しているわ、私の王子。そして夜が明ければ、さようならね。
夜が明け、日が昇りきる前に私は城を出た。一度だけ、隣で眠る王子の頬に名残惜しみながらキスをして。 涙が出る前に海へ向かった。どうかあなたが幸福になりますようにと、そう祈りを込めながら。
誰もいない海はとても静かで美しかった。ただ静かに波が音を奏で、まるで私をいざなうかのようにゆれている。終わりにはふさわしいと、そう思った。 私は近くにあった大きな岩に腰掛け、しばらく目を閉じて考えた。
(こんな私にも、海の泡となって何百年もさまよった先には、もう一度命を宿す権利は与えられるかしら)
魚でも鳥でも、虫だって構わない。どんなに醜い外見だって構わないから、何か別の人生を送ることはできるだろうか。 だけどもし、もし選べるとしたなら、今度は本当の天使に生まれたい。あぁでも、白鳥でもいいかもしれない。
いろいろ考えてみたけれど、やっぱり結局は王子の姿が頭に浮かび、生まれ変わっても彼を愛したいなと思った。 でももうこんな結末はごめんだわと、そう思う。もう一度彼を愛する権利を手に入れたその時は、今度こそ幸せになりたい。 王子でも姫君でもなくていい。地位も名誉も何もいらない。私と彼、何でもないただの人間で、それでも確かな愛を感じたい。
そんなことを考えると、なぜかとても楽しい気持ちになった。次なんて、私にはあるかどうかも分からないのに。 そうしてふと、海の魔女が言っていた何十年も昔に私と同じように人間になった人魚の話を思い出した。
彼女は今、何をしているのだろうか。この地上で年をとり、愛した人間の男の人と暮らしているのだろうか。 それとも恋に破れ、泡となってこの海をさまよっているのだろうか。考えて、どちらでもいいかと私は笑った。 どちらでもいい。そう思う。ただ、一つだけ聞いてみたい。あなたは幸福だった? と。そして私は幸せに生きたわと、そう伝えたい。
「……」
思いながら、立ち上がる。足に触れる海の水が心地いい。この中で過ごしていたなんて、まるで遠い昔のように感じられた。
(……ありがとう、さようなら、どうかどうか、幸せになって。)
愛しているわ、王子ジークフリード。
王子にいたいことをすべて胸の内で唱え、大きく息を吸った。終わりは始まりの場所で。後悔はない。嘆きもない。このまま死ねるのなら、むしろ幸福だ。 そう思いながら、一歩、また一歩と海の中へとはいっていく。焼けつくように足が痛む。でももう、これもお終いだ。今となってはこの痛みでさえも愛おしく感じられた。
海が深くなっていく。あともう少しで、すべてが終わろうとしている。 最後にせめて、歌うことができたらよかったなぁと、そんなことを思いながらも心は満たされていて、あるのは溢れるばかりの幸福感だけだった。
さようなら、また、いつか。 胸の内でもう一度唱えた、その時だった。
「アンジェラ!」
不意に、背後から聞きなれた愛おしい声が聞こえてきた。 振り返ってはいけない。そう思う。だって、そうしなければ決めていた覚悟が揺らいでしまう。
だけど、私は、私は……
「っ――」
気がつけば、振り返っていた――
もう5、6年も前に書いた作品なもので相当つたなくはあるのだろうけれども、人魚を愛してやまない私の原点にはなっていると思います。