09
何も知らないチカが、今日もパートのオバちゃんと内職的な作業をしていると?
また主人公視点の一人称にもどります
二時半ころ、だったと思う。俺とパートのオバちゃんとで、また書類を作ってた。申請折り、って言われて意味不だったが、見本を見せてもらって感動する。
「すっげー。ここ引っ張れば、全部広がるんだー」
「今はね、何でもコンピューターだけどね。こうやって残るものは、紙の書類だわね」
とはいえ、不器用極まりないもんだから、せっかくの図面も汚らしく歪んでしまう。また、設計部に行って原本を借り、青焼きコピーをさせてもらわないとならないかもだ。誰も使わないミーティングテーブルの上に、ごちゃごちゃと図面や書類を広げて悩んでいたら、誰かがフロアに入ってきた。ここに用があるのは、デスクのあるおっさんたちか、俺か、オバちゃんか、なんだが。誰か間違えて入ってきたのかな、とまで思いつつ顔を上げたら、白髪のおっさんが一人で立ってた。 見覚えがあるような気もするが、その辺の偉そうなおっさんと同じにも見える。一秒くらい考えてから、客だったら悪いから、いらっしゃいませって言おうとした、途端。オバちゃんが、すごい勢いで立ち上がった。
「お疲れ様です!」
つられて俺も立ち上がる。会社の偉い人なんだろう。そしたら、窓際のおっさんたちも新聞を置いて、こっちを見た。
「おお、白石君。元気でやってるかね」
「ええ、お陰様で。皆さんのご助言は、いつも有難く拝聴し、経営に役立てております」
ここのおっさんたちが偉そうなのは元からだが、経営がどうとか……、あ……。
「白石社長、お疲れ様です」
やっと顔を思い出した俺が、さり気なく便乗して挨拶をする。
「杉崎君だね」
「はあ、あの、いえ。はい」
今の返事で、どう考えても呆れられた……、と思ったが、社長は俺の顔をじっと見て、また口を開いた。
「人事で、新入社員へのヒアリングだ。私も立ち会う」
「ええっ」
聞いてなかったけど、まあ、人事のヒアリングくらいはあると思う。だけど何でそれに、社長が立ち会うんだ。第一、迎えに来るのだって、おかしいだろ。この人はそんなに暇なのか? おまけに、この部署のおっさんたちも騒ぎ出した。
「白石君、せめて三時過ぎにしてもらえないか。杉崎君には頼みたいことがあるんだ」
「何です?」
「休憩時の、お茶を買ってきてもらわないと。毎日、一緒に飲んでるんだし……」
社長は唇を引き結び、指先を額に当てる。確かに、まともな人が聞いたら頭も痛くなるだろう。
「……杉崎君、来たまえ」
「はい」
俺は少々、しょぼくれて、社長の後ろをついていく。そしたら向こうから、見覚えのある黒スーツ……、人事の宮部さんが走ってきた。何か言おうとするのを、社長が制する。
「会議が早く終わったんだ。私が勝手に、彼を迎えに行ったまでだよ」
社長はずかずかと人事部の奥まで入り込んで、面接なんかに使うブースじゃなく、応接室を覗き込む。
「誰も来ないように言ってくれ」
そう命じるから、俺は覚悟を決めた。俺の素性がばれたんだろう。会社をだましたつもりはないが、宮部さんに迷惑がかかったら悪いから、いざとなったら自分が悪いことにしようと思う。どうせ首になるんだったら、それくらいは背負ってもいい。
長いソファに俺を座らせ、社長と人事部長は向かい側に座った。そして、おもむろに社長が口を開く。
「久しぶり、になるね。先代の告別式以来だ。君はまだ、小学生だったかな」
「……はあ」
正直言って、ちっとも覚えていない。宮部さんに案内されて棺に花は入れたが、親戚の人たちが来たら、母親が俺の手を引いて、すぐ帰ってしまったんだ。
「そのときは話もできなかったが……、君はずい分、お母さんに似ているようだ」
「そうですか」
だから何だ、とも思う。父親に似てないのは、俺のせいじゃない。
「お母さんは、お元気かな」
「はい。ありがとうございます」
別に、俺に愛想を言わなくてもいいのに。さすがに焦れた俺が、用件はなんですか、とか訊こうとしたら、急に社長が大きな声を出した。
「何故、直接私に会いに来なかった? どうして、宮部なんかを頼ったんだ?」
「え、あ、あの……、何でそんな……」
「社長。彼は何も知らないんです。杉崎君の……、母上は……、こちらのことは、本当に何も教えていない」
「何故だ!」
社長がまた大声を出したが、宮部さんは静かに言い返す。
「……彼女は、そんな女じゃない。今までだって、ねだりがましいことは何一つ言ってこなかった。ただ、俺が……、前に渡した名刺を思い出して、彼が連絡をくれたんだよ。就職の相談にのってくださいって。それなら、俺が預かろうと思った」
宮部さんの口調が、変わっていた。社長もそれを咎めない。この人たちは、前からの知り合いのようだった。
「どうせ俺は婿養子の外様だから、何も知らないのだと思っていた。それでも、あいつと子供はどこか遠くで、静かに暮らしてると思ってたんだ。それがいきなり、この会社にいたんだぞ? あんまり驚いて、訳がわからなくて、お前が何か企んでるのかとまで思ったくらいだ。何で俺に教えない。預かるなら、俺だろうが」
まあ確かに、人事部長は入れてはくれるだろうけど、どうせ預かってくれるなら、社長の方がいいに決まってる。
「……待てよ。宮部てめえ、佳子に会ったのか?」
「ああ」
社長がまた怒鳴りそうだったが、宮部さんが抑えた。
「千佳君を預けろって言ったら、怒ってた。ここの……、白石の家の世話にだけは、ならないって。だから俺が、あいつに頭を下げて頼んだ。それこそ俺は社長じゃないし、採用枠を一人増やす程度の権限しかない。でも、何か一つくらいは、俺にも……先代の息子さんの役に立たせてくれって言った」
「カッコつけやがって。くそったれ」
社長は非常に、口が悪かった。外見とは、えらい違いだ。
「そしたら、そんなにうじうじしてるから禿げるんだとか言って……、薄いだけで、禿げてなんかいないのに……」
「ふん。いい気味だ。俺のことは何か言ってたか?」
「全然。第一、お前が今、白石って名前で、ここで社長してることも知らんだろ。俺も教えてないし。とっくに存在も忘れてるか知れん」
「てめえ!」
とうとう社長は立ち上がり、宮部さんに詰め寄る。
「今、どこにいるんだ。俺にも会わせろ。それから、こいつは俺が引き取る。あの時は何もできなかったが、今なら……」
「偉そうなことを言うんなら、その時にやっとけ。俺も何もできなかったから、お前を責める資格はないがな」
社長は黙って、座り込んでしまった。空気の抜けた風船みたい、っていうのはこんな感じだろうか。
「あ、あの……」
やっと静かになったので、俺も口を出す。
「お二人は、俺の……、えっと、私の、母親をご存じなんですか」
社長が宮部さんを振り返り、宮部さんは首を振った。何も言っていない、ということだろう。そして、宮部さんが説明してくれる。
「君のお母さん、杉崎佳子と、俺たち二人は同期だったんだよ。もちろん他にも同期入社の者はいたが、仲は良かった」
「気が強くて、口が悪くてね。だがやたら、年配の連中と親しくなる。先代も最初、会社の偉い人だとも気づかずに、普通のおじさんだと思って親切に接したのだと聞いた……、まあそれなりに何かあったんだろうが、いつのまにか君を授かったようで、何も言わずに辞めてしまった。秘書だった宮部が間に入っていたから、俺なんか宮部が佳子と付き合ってたのかと思って、非常に不愉快だったがな」
「何という濡れ衣だ。……それでも、彼が生まれてから、それは晴れたんだろうな」
「うむ。宮部よりは、オヤジの方がはるかにマシだ。だが、白石の家の連中は、素直に受け取らなくってな。科学的な鑑定の結果、親子関係は証明された。ただ、君を取り上げようとしたんだよ。母親としては、耐えられないだろう」
「佳子と子供がいなくなって、会長が半狂乱だからさ、俺なんか毎日探し回って……、何年もしてからやっと保育園を見つけて、運動会を見に行ったら……、あのクソジジイが、千佳と話をした、って、喜んで喜んで……。後で佳子に、何しに来たって怒られてな」
宮部さんは言葉を詰まらせ、横を向いてしまった。社長は咳払いをして、話を引き取る。
「宮部が変な方に話を持っていくから、湿っぽくなっちまったじゃねえか。とにかく彼女は、年寄り受けが良かった。君が今、再開発部の顧問たちと仲が良いようにね」
社長が付け足したら、宮部さんも驚いたようだった。
「あの爺さんたちを手懐けてるのか? そりゃすごい」
「……何ですか、それ。使い走りさせられてるだけですよ」
「ヒアリングだって連れ出そうとしたら、三時まで置いとけ、一緒に茶を飲むんだとか。ふざけた爺どもだよ」
二人は楽しそうに笑い、それから、もう一度俺を見た。
「佳子の息子で、その上に父親があのオヤジなんだから……、先が楽しみだ」
「俺は出来損ないですよ。寮の同室の二人があんまり優秀で、毎日落ち込んでます」
「ああ、あの二人なら今朝、私を脅しに来た。もっと広いところに住まわせろって」
「私にも絡んできたな。非常に生意気な連中だったが、悪いことではない。君にはどこか、子会社の一つを任せるから、取り巻きの二人も連れてきなさい」
社長に言われて、俺は首を振った。
「二人は取り巻きなんかじゃない。俺のことを何も知らなくても、大切にしてくれた。得難い友人です」
「……そうか」
「あと、別に俺……、一生、今の部署の平社員でもいいんで……」
「そんなこと、出来る訳ないだろう!」
社長が笑いだし、宮部さんとまた昔話を始めた。そしてまた、すぐに喧嘩する。とうとう社長が俺に、母親に電話しろと言いだして、まだ仕事中だって断ったのに、どうしてもごねるから、勤務先に電話してみた。大抵は一人で事務所にいるから、大丈夫だと思ったことは思ったが……。
「母さん? 仕事中にごめん。あの……、今、人事のヒアリングに呼ばれてて、そんで……」
宮部さんが話がある、くらいには受け取ったかもしれない。そしたら、白石社長がいきなり送受器を奪い取った。
「佳子か? 俺だ、俺。……バカ野郎、詐欺じゃねえ。俺だ、黒川。宮部のハゲが、佳子と千佳を隠していやがったんだってな。……ごめんな、本当に。……へっ、何で謝るのかって……、ああ、あのハゲが情報を握りつぶしてたんだった」
「ハゲじゃない!」
宮部さんが横から口を出し、電話口に割り込む。
「宮部だ。黒川は出世に目が眩んで、白石の家に婿養子に入ったんだよ。佳子や千佳君とは敵同士だし、そんな奴のことは思い出したくもないだろうから、あえて話はしなかった」
「宮部てめえ……」
電話を放り出して喧嘩を始めたから、俺が送受器を拾い上げる。
「ごめん、騒がしくて。なんかどうしても、母さんの声が聞きたいって。呼び出しくらったから、首になるかと思った」
『いいよ、でも、びっくりした。宮部がハゲそうだったのも驚いたけど、あの黒川が、社長ねえ……名前が白石ってのも笑えるわね。今でも、丸顔なの? 男のくせに、お菓子ばっかり食べてたけど。やっぱ、ハゲてるのかな』
「ううん。すっごい痩せてる。頭は白髪だけど、ふさふさだよ」
「俺か? 俺のことか? 佳子が俺を気にしたんだな?」
社長が騒ぎ立て、宮部さんが鼻で笑った。
「話題に出たくらいで……」
やっと解放されたのは、七時ごろだった。窓の外はもう暗いし、どうせみんな帰っちゃっただろうと思いながら、自分のフロアに戻る。案の定、照明もかなり落ちて、入口辺りにしかついてなかった。でも、入ってすぐの、いつも俺とパートのオバちゃんが座ってるデスクに、カオルとユキがいた。ひとの顔を見た途端に立ち上がって……、誰もいないから良かったけど……、両側からいきなり抱きつかれた。
「なん……だよ、びっくりするなあ……」
「チカ、大丈夫だったか?」
「三時からヒアリングって聞いてたのに、その前に社長が来て連れて行かれたって言うから、心配したんだよ」
「ユキが大騒ぎするから、俺も急いで来たんだぞ。人事の宮部さんが同席してるんなら、無事だとは思うけどさ」
「ここのオジサンたちも、すごい気にしてた。杉崎君を取り上げないで欲しいんだがなあ……、って」
「……その割に、もういないじゃない」
「僕たちが待ってます、って言ったからね」
そして二人に、今日の出来事を報告させられる。
「どっかの社長にしてくれるんなら、うんって言えばよかったのに。もちろん、おれらもついてくからさ。だけど、カッコいいな。二人は取り巻きなんかじゃありません、得難い友人です、って……。どうせなら友人じゃなくて、恋人って言えよ」
「恋人が二人もいて堪るかっての。その前に、男じゃんか」
「いいじゃん。本当のことなんだから」
カオルが俺を押さえ込んで、髪をぐしゃぐしゃかき回す。少々苦しい。
「助けてくれ、ユキ」
ユキは机に肘をついて、組み合わせた両手の指にあごを乗せ、楽しそうにこっちを見てるだけだ。
「うん? 今夜チカが、僕のものになるのなら」
「……ううーっ」
「あと、ふと思ったんだけどね。子会社は要らないっていうのは、本社を寄越せっていう風にも受け取れるんじゃないかと……」
「チカって、結構でかいこと考えてんだなー」