08
言葉通り人事部に乗り込んでいった、カオルとユキ。怖いもの知らずなので部長にも社長にも絡む。
この回だけ、三人称です。
都心のビル街の一角にそびえる、ひときわ大きな建物に、次々と社員が吸い込まれていく。ビルの前には、『白石建設』と社名を刻んだ石造りの大きなプレートが置かれていて、自社ビルらしい。まだ始業の少し前なのか、ざわついた様子の社内、管理人事本部の奥の応接室に、先程から若い社員が二人、くつろいだ雰囲気で座っていた。そこへ、黒いスーツを着た人事部長が姿を現す。
「おはようございます」
「ああ、うん。ご苦労様」
二人に先に声をかけられ、焦って返している。リストラや待遇見直しという雰囲気ではない。どう見ても、社員の方が態度が大きい。
「き、今日はどうしたのかな。わざわざ、報告には及ばないと言っておいたはずだが」
「ええ。でも、クレームは上申してもいいんじゃないかなと思って」
眼鏡をかけた、いかにも頭の良さそうな若者が、口を開く。しかし、スーツはチャコールグレーで地味だが、黒いシャツにネクタイが銀色だ。かなり自由な職場環境なのだろうか。
「な、何か、彼に不都合が……?」
「そうじゃねえんっすけど。あいつは、大人しいもんですよ。放っておくと飯も食わねえから、おれらが世話焼いてます。ただ、あの部屋、三人で住むには狭いかなって」
もう一人の、身体の大きな男が答えた。口調からしても、こちらは体育会系らしい。
「せめて洗面所周りは複数あった方が、有難いんですけどね。それに、詳しい事情は存じませんし興味もありませんが、彼のことは……もっと厚遇した方が、いいんじゃないですか?」
「七瀬君、彼から何か、訊きだしたのかね?」
人事部長が顔色を変えて問い返す。七瀬と呼ばれた男は、大げさに眉を上げた。
「おや。彼を問い詰めれば、何か面白いことが聞けるんですか?」
「じゃ、今晩にでもつるし上げっかなー」
もう一人の男が、ぼきぼきと指を鳴らす。人事部長は文字通り青くなった。
「ら、乱暴は止めなさい、小清水君。彼はそのう……、玩具にしていい存在じゃない。頼む」
「とりあえず、今日こちらに来ましたのは、」
七瀬が話をまとめだした。
「当初三か月というお話でしたが、彼は一人暮らしなんか無理だと思うんです。僕たちも心配だ。もう少し広い住まいを提供していただければ、と、申し出るためです」
「……それは、好意からと受け取っていいんだね」
「当たり前っすよ。たとえあいつがどこの誰だとしても、おれらにとっては単に可愛い奴だし」
小清水が腕を組んで頷いたが、七瀬が鋭く止めた。
「カオル!」
「小清水君、いま、何と……」
もちろん人事部長も聞きとがめ、思わず腰を浮かせる。七瀬が首を振って抑えた。
「思わせぶりは、止めておきますね。僕たちは、貴方を脅迫に来たんじゃない。実際、彼はおしゃべりじゃないし。僕たちが知っているのは、素直な、いい青年だってことだけです。正直言って、とても気に入っている。そして何故か、貴方に目をかけられているらしい」
「そうそう。おれらは宮部取締役人事部長の毒牙から、あいつのケツを護ってやらなきゃならん」
「やっ、止めてく、……そういう、冗談は、す、好かな……」
宮部という名らしい人事部長は、座り直して額の汗を拭いた。それでも、目の前の二人に悪意がないことは、理解できる。
「分かった。近々に、どこか探しておこう」
「よろしくお願いします」
話が終わったので、宮部がほっとした様子で立ち上がり、二人を送り出そうとしたのだが。かなり急ぎ足というか、ほとんど走ってくるような足音が、複数聞こえてくる。
「宮部君! 何処だね?」
「し、社長……」
「部長は今、ミーティング中で……」
壁の向こうから、そんな会話が聞こえてくる。宮部もすぐにドアを開けて、声をかけた。
「今、終わったところです。そちらに伺います」
「ああ、いい。応接にいるのなら私が行く」
声と共に、白髪混じりだが、五十歳前と思われる男が入ってきた。壁の向こうの対応からすると、この会社の社長らしい。剃刀のように尖った目つきに、贅肉の一片もない身体だ。手には、履歴書らしい書類の入ったファイルを持っている。
「これは、どういうことだね? 私としたことが、今の今まで気づかなかったとはうかつだった」
いらいらした様子で指を突いた履歴書には、大人しそうな若者の写真が貼られ、その横には『杉崎千佳』という名前が書いてある。先程の二人の社員も、つられたようにそれを覗き込んだ。
「ああ、君たちはもういい。先程の話は善処するから。業務に戻りなさい」
宮部に言われて、社長もやっと、彼らに気付いたようだった。
「君たちには関係ないことだ。外してくれ」
「そうかな。だって、その写真の主は」
「おいユキ! 拙いって」
七瀬が口を開き、小清水が慌てて止めたが、もう間に合わない。社長の男は、きっと七瀬を振り返る。
「何だね、君は」
「僕たち、人事部長に命じられて、その杉崎くんと一緒に暮らしているんですよ。お守りと言った方がいいのかな」
社長は今度は、宮部に視線を移した。
「この二人は確か……、入社試験の出来が一位と二位だった新入社員だろう。……七瀬、と、小清水と言ったか。その二人をあれにつけて、何を企んでいる? クーデターでも起こすつもりか?」
「わ、私は何も……」
「ふうん。彼にくっついていれば、会社の乗っ取りもできるんですか。社長が焦るくらいなんだから、きっと、すごい人物なんだろうな」
宮部は焦っているが、七瀬は平気で、社長にまで言い返す。
「君は、誰に向かって口を利いているのか、分かっているのだろうね?」
「ええ。眼鏡は視力を矯正するためのものですから、よく見えていますよ。実際、僕なら職なんかいくらでもある。辞めろというのなら即、出ていく。そうそう、彼も連れて行っていいですか。僕のお気に入りなんだ。名前が少し、古くさいところとかもね」
「だよなあ。おれなんか最初、読めなかったもん。会社のパンフで、創業者さんの『白石千男』って名前に振り仮名ついてたから、同じ字で、やっと読めた。千って書いて、ゆきって読むなんてな」
横から小清水も口を挟み、社長の顔色が変わった。宮部はとっくに、真っ青になっている。
「ああ、もう始業時間だ。席に戻らなきゃ」
「おれもー。じゃ、失礼します」
言いたいことだけ言って、二人の若者は出て行った。社長は人事部長を見やり、早口で命じる。
「三時からなら、時間が取れる。ヒアリングと称して、ここに呼んでくれ」
先程の二人は廊下で立ち止まり、指を三本立て頷き合った。しっかり聞こえていたようだ。