07
カオルとユキが、チカに隠していたもう一つのこととは……? そして、チカにも小さな秘密があった。
結局、三人とも早起きしたことになって、またカオルが冷凍食品の朝飯を出してくれた。朝から重いってば重いが、昨夜はろくに食ってないし、腹が減ってれば何でも美味い。ユキの淹れてくれたコーヒーも、いい香りだった。淹れ方が上手いんだろう、お茶かなんかやってたのかも、とか、見当違いのことを考える。
「まともなもの、食ってねえだろ。特に朝飯。だから体調崩すんだ」
カオルがずけずけ言うから、言い返す。
「人のこと言えるのかよ。ユキだって、朝、食べてるのなんか見たことないぞ」
「ユキは、サプリメントとドリンクなんかで、栄養だけは足りてるはず。俺は途中で、ちゃんと何か食うよ。構っても煩く思われるかって遠慮してたが、これからは無理に叩き起こして、飯食わせた方がよさそうだな」
まるで、母親だ。確かに俺は寝起きも悪いし、何か食べるよりは寝ている方を選ぶが……。
「ちょっと昨日は、詰まんないことを考えて落ち込んだだけだよ。具合が悪い訳じゃない」
「どうしたんだよ」
カオルに訊かれ、ユキも心配そうな顔で見てる。でも、元凶の二人に向かって、言えることじゃない。それに、100パー、こっちの僻みだ。
「何でもない。ご馳走さん。ありがとな」
いくら早く起きたからって、そろそろ支度をしないと、間に合わなくなる。
「そんなんじゃおれたち、お前が心配で離れられねえだろ。夏から一人暮らしなんか、できねえだろうが」
「大丈夫だよ。学生のときも一人だったんだから」
逆に、比べて落ち込む対象がいなかったから、こんなにげっそりはしなかった。
「母親がたまに来て、いろんな食い物を置いてったし。……って、夏?」
やっぱり俺は鈍い。カオルの言葉が、今頃になって耳に引っかかった。
「会社から何か言ってきたのか? 寮の空きが出たとか」
「……。俺って、基本的に口が軽いんかな」
「そうだね」
ユキが頷いて、俺を真っ直ぐに見た。初めて見る、硬い表情だった。
「僕たちは、チカにもう一つ隠してたことがある。僕たちだけのことじゃないから、絶対口にはしないつもりだったけど、チカが訊いてきたら、カオルじゃ誤魔化せないし、最初から全部話すよ」
「何だよ、いったい……」
訳が分からない。こいつらができてたってことの方が、俺にはよっぽどの大事件だったのに。これ以上の隠しごとって……?
「今年の初めに、僕とカオルは、会社に呼び出されたんだ。深い考えはなかったんだけど、僕は、美佐緒が住む家では暮らしたくなかったし、どうせ引っ越さなきゃならないのなら、空きがあればいいなって程度で、寮の希望は出してた。カオルも、一人暮らしがしてみたくて、入寮希望にしたんだったよね」
ちらっと、カオルの顔を見る。話を引き取って、今度はカオルが口を開く。
「ユキは見るからに頭がいいし、出来る奴だって思われたんだろう。おれはまあ、元気だけが取り柄だけど、声もでかいし目立つからな」
「それで……、事情のある新入社員がいるから、しばらくの間、一緒に暮らしてくれないかと打診された。寮がいっぱいだから入れないってことにするって。どういうことかと訊き返したんだけど、人事も、正直言って何をしたいのか決めてなかったみたいで、はかばかしく答えない。逐一報告しろとでも言うのなら、そんなスパイみたいな真似はしたくないし、今からでも、内定を辞退させてもらうって答えたら、焦って、そうじゃない、ただ、一人にはしておけないんだ……って。とりあえずは三か月、夏くらいまででいいって」
「御社とはご縁がなかったと考えさせていただく、って、学生が言うことじゃないよな。おれ、横で聞いててぶったまげた」
「それで僕を好きになったらしいよ」
「うっせ。でもほんと、そんだけ。チカのことは、名前しか聞かされなかった。生意気な奴だったら面倒くせえなって思ったけど、ユキは、一目で気に入っちまったし」
「僕だけじゃないでしょ。カオルは?」
「おれ……、女だと思ったのに、とか、必死で誤魔化したんだけど」
「今にも食いつきそうな目つき、してたよね」
思い出したらしい、ユキがくすくす笑う。
「そっか。ごめん。ありがとう。……迷惑かけた」
ひねくれてる訳じゃない。俺には、それしか言えなかった。カオルもユキも、顔色を変えてこっちを見る。
「人事って、あの黒スーツだろ? 俺から頼んでみる。二人のことは何も言わないから、安心してくれ。やっぱり一人で住みたいって言えば、多少の負い目もあるだろうし、一度くらいは俺の我がままも聞いてくれるだろ」
やっぱり自分は、存在だけで、他人に迷惑をかけてしまうんだと思う。配属も、使いどころに困った人事部長が押し込んだのだろう。実際、事務のパートの、そのまた補助みたいな仕事しかしてないし。自己管理もできるのか心配で、同期のホープ二人なら、俺の面倒を見てくれると思ったんだろうな。逆に、出来過ぎてて、こっちが落ち込んだけど。
「駄目だって、そんなの。お前が一人暮らしなんか、できるわけない。さっきの話だって、何とかしてお前を誘って、どっか別のとこ借りて三人で住もうって言いたかったんだけど、話の持ち出し方がわかんなくて……」
カオルが焦って言ったが、ユキが静かに手を挙げて、止めさせた。
「ごめんね、チカ。訊かないつもりだったけど……、君の事情を知っているのは、人事部長だけ、ってこと?」
「……多分」
「じゃあ、あの人に頼めば、三人でずっと暮らせるのかな」
「そっか。やっぱりユキは頭がいいな」
単純なカオルは、嬉しそうだ。
「そのうち何か訊いてくるだろうから、チカは一人じゃ食事もできないし、僕のベッドで一緒に寝たがるとか言っちゃおう」
ユキが勝手なことを言うから、カオルが不満そうに言い返す。
「何でそうなるんだよ。飯食わせたのはおれだし、あと……、おれなんかは羨ましいけど、普通の相手にそんなこと言ったら、チカがよっぽどガキみたいに思われるぞ」
「いいじゃない。引き離されるより」
「止めてくれよ。どうせなら、二人で暮らせばいい。……俺が辞めれば必然的にそうなるし、黒スーツも、もう悩まなくて済むだろう」
そんなこと、したくない。何しろそれこそ俺は頭も大してよくないし、何の特技もない。内定なんかちっとももらえなくて、もう最後の手段と思って恥を捨て、あの男に頼んだ。どこかに口利きをして欲しいと言ったのに、当の本社に入れられたのは驚いたが。実際、大きい会社の方が、色んな奴がいて目立たないのだろうと考え直した。その後は何も言ってこなかったから、このまま忘れられてもいいと思ったくらいだった。
「だめ!」
ユキが珍しく大きな声を出し、俺の横に来る。膝をついて、椅子に座ったままの俺を後ろから抱きしめた。
「教えて、チカのこと。一人で苦しまないで」
「おいチカ。ユキを泣かすなよ」
見上げたら、カオルも歪んだ顔をしていた。
「二人にそんな風にされたら、ますます俺がしんどい。とっとと消えてしまいたいくらいだ」
「ぶっ飛ばすぞ!」
カオルにぶっ飛ばされたら、本当に身が持たない。仕方なく、俺は口を開いた。
「……大したことじゃないよ。えっと、俺さ、母親しかいないじゃん。生まれた時から父親はいなくって……、どんな奴だったかも知らないんだけど……、一応、もう死んじゃった……とあるジジイと、DNAの型が一致するんだってさ。男だから、Y染色体で調べられて、確実らしい。本当に、そんだけ。だからって、今まで金もらったこともないし、普通に暮らしてた。母子家庭だから奨学金もらって大学行ったけど、就職決まらなくて……、めちゃくちゃ困っちまって……、そういや、あのジジイの葬式のとき迎えに来たおっさんが名刺くれたなって思い出して電話したら、今は本社の人事部長です、なんて言うからさ……、どこでもいいんで口利いてくれませんか、って頼んだだけ。まさか、この会社に入れてくれるとは思わなかったけど」
「あの人事部長って、前は会長の秘書だったんだっけ、」
「カオル? チカは何も言ってないよ」
ユキに注意されて、カオルは慌てて口をふさぐ。
「でも、チカは愛されてる。名前の千の字は、その人にもらったんだろう?」
創業者の、前会長の名前くらいは、会社のパンフレットに書いてある。『千』をゆきと読むのは、それなりに珍しいかもしれない。
「知らない」
何の思い出もないし、俺には母親しかいないと考えてきた。知らない相手を恨む気持ちもない。ただ、就職口がなくて切羽詰ってたから、一度くらい利用させてもらおうと思っただけだ。そのジイさんだって、母親に連れて行かれた葬式で、寝てるのを見たのが初めてだし。
「あ、でも……。えっと、保育園かな、運動会を見にきたジジイがいてさ。普通の公立の、貧乏っちい保育園の園庭でドタバタやってただけなんだけど、でかい車が停まって、変な年寄りが出てきたからびっくりしたっけ。思いっきり俺をガン見して、名前を訊かれた。胸に縫い付けてあるひらがなが読めないのかって、言い返した記憶はある」
その後そいつは体調を崩し、会社の経営からも離れて、数年後に亡くなったらしい。葬儀に参列しろと、そいつの秘書だったという黒いスーツ姿の男が迎えに来て、母親が俺を連れて行った。もう会えないのだから、きちんとさようならをしなくてはならないと言われたが、顔を見るまで、その年寄りのことだとも気づかなかった。そしてやっぱり、なんで自分がその人の葬式に行かなきゃならないのかも、そのときは分からなかった。
「今の社長って、前会長の女婿だろ。確か、娘しかいなかったんだよな」
カオルが呟いたが、もう、ユキも咎めない。
「人事部長が悪人なら、チカを手元に置いて、それこそ自分の娘さんとでも結婚させたかもね。チカは大人しいから、利用するにはちょうどいい。僕たち二人を側近としてつけておけばいいし」
「今からでも、それでいいじゃん。そしたら、おれたちもずっと一緒にいられる」
「チカはそんなこと、望んでないでしょ。それに、あの人も悪人じゃない。チカの処遇に戸惑っただけだろうし」
ユキが静かに言うから、俺も、ゆっくり息を吐いた。
「もう、いいか。二人とも、早くしないと遅刻する」
「うん、そうだね」
「朝飯食う時間が要らないから、まだ間に合う。早起きもするもんだな」
二人が俺から離れたところで、どうしても、もう一言言わずにはいられなかった。
「これで分かっただろ。俺みたいな出来損ないが、この会社に入れてもらった理由。だからもう、構わなくていいよ。黒スーツには、ちゃんと言っておくから」
そしたらまた、ユキもカオルも、俺の前に戻ってくる。
「僕さ、美佐緒の母親が後妻だとか言って家に乗り込んで来たと思ったら、すぐに美佐緒が生まれて……、嫌いで嫌いで堪らなくて、苛めまくってたら、あんな風になっちゃったんだよね。あいつの素地はともかく、さすがに僕の所業は人としてどうかな、とは思う」
「おれも、二卵性だから似てないのは仕方ないとしても、環ばかり可愛いのが腹が立ってさ、お兄ちゃんは女の子の格好をしたらとっても可愛いってみんな言ってるよ、って毎日毎日、嘘を吹き込んだら、ああなったぞ。詐欺師の才能があるのかもな」
「だからチカが、自分を卑下する必要は全然ないって訳。人間性は、ぼくたちの方が下だよ」
「おれたちからしてみたら、こんなに魅力的な奴はいないけどな。こないだの女どもも、またチカに会わせろって煩いし」
口々に言われて、慰められてるんだとは分かってるが、少しは気が軽くなる。
「ほら、早く。着替えさせてあげないと駄目かな?」
「い、いいよ」
ユキに脱がせられたら、何されるか分からない。俺は急いで自分の部屋に向かった。
「おれももう少しゆっくりして、今朝は本社に顔出そうっと。理由はどうしよっかな……、あ、そうだ。人事部長に談判しようぜ。部屋が狭いんで何とかしてくれって」
「そうだね。チカをもっといい部屋に住まわせろって、暗に匂わせておけばいい。億ションの完成在庫も、どこかにあるでしょ」
「ひっでーな」
カオルとユキが、勝手なことを言いながら笑ってる。俺は、黒スーツがちょっと気の毒になった。