06
少々……、いやかなり変態だが、仕事のできるユキを見て、落ち込むチカ。元気がなくなって、何だか具合も悪い……。
翌日から、二人は堂々といちゃつき始めた。……って言っても、元から普通に仲は良かったけどさ。ただ、今までは『行ってきます』だけだったのが、軽く唇を合わせるようにもなった、ってこと。さすがに直視しづらくて目を背けたが、それが逆に、面白がられたらしい。
「チカもして欲しいのかな。……カオル?」
「うん」
勝手に意思を通じ合って、カオルが近寄ってくる……って思ったら、後ろからユキに両頬を軽く押さえられていた。
「な、なにすん……」
「何って。行ってきますのあいさつ」
こんなときまでカオルは男らしく渋く言って、逃げられない俺にキスしてきた。チュッと音を立てて吸いつき、すぐに離れていく。
「うっわー、信じらんね」
「どうしたの?」
ユキの問いかけに、カオルは思いきり肩をすくめた。
「こんな美味いもんを、今までユキだけに独占させてたなんて」
「それは申し訳ない。今後は遠慮しなくていいよ」
「よくねーよ。二人とも遠慮しろよ」
もちろん、俺の反論は無視された。
「つか、遅刻するって。じゃあな」
カオルは九時半始業だが、大抵、直行直帰なので朝早くて夜も遅い。ユキの部署は八時半始まりで、俺のとこは九時なんだけど、天下り&窓際の集まりで、八時半には全員揃ってる。その代わり、夕方の六時過ぎには誰もいなくなるけどね。つまり、会社に行くならユキと一緒、ってこと。
「ほら、早く」
ベージュ色の上下に、錆朱色のシャツを合わせたユキが玄関で誘う。接客も営業もないからだろうけど、すごい色合いだ。俺と違って高そうなスーツを何着も持ってるし、何で寮なんかに入ろうかと考えたのか分かんないくらいだ。
「あー、うん」
靴を履いたが、やつはドアを開けない。こんなとこに二人で立ってたら、狭いだろうが。鏡でも見てるのかと思って顔を上げたら、そのまま捕まった。
「何だよ、朝っぱらからふざけんな」
「朝じゃなかったら、抱きしめてもいいんだ。それはいいことを聞いた」
「んな訳ねー、し……」
言い返した言葉が途中になったのは、唇を塞がれたからだ。おまけに、少々時間も長い。
「僕にも、行ってきますのキスをしてよ。あと、僕からもお返し」
「同じ会社に行くのに、必要ないだろ」
「じゃ、会社のエレベーターで、別れ際にしようか?」
「……それだけは勘弁してくれ。二度と出社できなくなる」
「それなら、毎朝ここでいいね」
よくない。
「チカが引き留めるから、出にくくなっちゃった。このままサボりたいけど、仕方がない。朝じゃなければ抱きしめてもいいって、さっき自分で言ってたことだし、夜まで我慢しよう」
「俺はそんなこと、一言も言ってない」
「愛してるよ。帰りは誘いに行くね」
「……。カオルを大切にしろよ」
理解できない。それこそ、付き合ってんだろ。今までは俺に内緒だったから、わざと絡んで来たりもしたんだろうに。あのとき……、最初にユキが俺を襲ったときに、カオルが声を荒げたのも、今になれば納得できる。
「チカは特別なんだよ。カオルも、もう分かってくれてる。僕も、チカなら、カオルが目の前でキスしても平気かな」
「俺は平気じゃない。そういうの、嫌いだ」
「一人に絞りたいの? 僕を選んでくれるのならいいけど」
「何で、お前ら二人からの二択なんだよ」
だが、そんな反論は全く耳に入らないらしい。
「カオルは優しいけど、多分、ベッドが中途半端になるよ?」
「うっせえ。朝から変なこと言うな」
「わかった。続きは今夜ね。ご希望なら、実技つきで説明するから」
「要ら……」
あんまり頭にきて、言葉が上手く出ない。第一、昨夜だって色々ありすぎて、よく眠れてないし。
「顔色が悪いな。朝から言うことじゃないけど、早めに帰って、ゆっくり休もう」
「俺を一人にしてくれれば、いくらでも寝てる」
「行こう。遅れる」
話を変えられてしまい、そのまま会社に向かった。エレベーターで普通に別れ、フロア奥の自分の部署に向かう。おっさんたちはもうみんな来てて、揃えたみたいに新聞を読んでた。
「おはようございまーす」
「おはよう」
こいつら頭硬そうだから、休みの次の日に欠勤や遅刻なんかとんでもないし、敢えて、早めに来ようと思ったのに。ユキのせいで遅くなっちまった。
「杉崎君、具合でも悪いのかい? こんなに遅くなって」
遅くない。まだ八時半だ。
「若いんだからって、あんまり無茶するんじゃないよ」
「へーい」
事務のオバちゃんが……、この人は社員じゃなくて、本当にパートのオバちゃんだ……、お茶を持ってきてくれる。
「俺にまで、いつもすいません」
「いーえ」
笑いを堪えているようなので、俺も苦笑してみせる。こういう人には気に入られておけ、というのが母親の言いつけだ。偉そうなジジイはころころ変わるけど、お局様はずっと居座るから、だそうだ。
休み明けで、雑用がたまっていた。決裁書類なんかを他部署に回すような仕事だが、箱に入れて置いておけばルートに乗るのに、持ち回りの方が早いという理屈で、俺にお鉢が回ってくる。2フロア上の、設計部に行かなくちゃならない。判をもらったら役員決済に回せとか言われ、ついでに何とかかんとかの設計図を青焼きでもらってこいとか……、自分が動けっての……。
綴った書類を持って走り、自分のせいでもないのに頭を下げて判をもらい、頼まれた設計図をもらう相手を探してうろつく。みんな、でかい机に向かって作業してるから、話しかけるのも申し訳ない。
「チカ?」
それなりに、長いものには巻かれるようで、他の人と同じ薄いグレーの作業着的なものをはおったユキが、机と図面とキャビネットの間から手を振っていた。
「……よう」
「おつかい?」
「そゆこと。情けねーよな。ユキなんか、すげえ仕事してんじゃね?」
「ううん。もう戻るの?」
「あ、ええっと……、悪いけど、訊いてもいい?」
メモを渡して、担当の人の席を教えてもらった。用事を済ませた帰りがけにもう一度近くを通ったが、上司っぽい人と話をしてたから、軽く頭を動かして挨拶だけして、そのまま帰った。しかし本当に、自分の仕事が情けない。正直言ってこの会社には、コネと言うか……、実際には、あんまりよく知らない人の、口利きで入れてもらった。使い道がないんだろうな、とまで考えてしまう。カオルみたいな元気で愛嬌あるやつとか、ユキみたいな特殊技能持ってるやつとか……、昨日会った女の子たちだって、ただの職場の華じゃない。一人一人が営業社員だ。俺よりはずっと、仕事ができるだろう。
ちょっとだけ落ち込んで、自分の席に戻る。すぐに昼休みだ。午後にはオバちゃんと一緒に、提出する書類を折って表紙をつけ、紐で綴った。三時になれば俺とオバちゃんを除いたみんなであみだくじを引いて、当たった人が余分に金を出し、俺が自販機で全員分の飲み物を買ってくる。よく言えば平和な、昔のお役所みたいなとこだ。ここだけ三十年くらい、時間が戻ってるみたいだ。
五時には、オバちゃんが挨拶して、さっさと帰っていく。他のおっさんたちも、次々に帰り支度を始めた。定時は五時半だが、何しろ六時には全員いなくなる。もちろん俺も、遠慮なく帰るけどさ。珍しく内線が鳴ったから取ったら、ユキだった。
「まだ、いる? 僕はもう少しかかりそうなんだけど」
「もう帰る。ちょっと用事あるし」
用事なんか、ない。ただ、誘ってきたから逆らっただけだ。
「手伝ってよ。そしたら、すぐ終わるし。一緒に帰ろう?」
何でこうなるんだ。でも、断れば後々まで絡んでくるのが目に見えてて、仕方なくまた、やつの席を訪ねる。何か分からんが、すごい勢いでキーボードを叩いていた。
「チカ。そこのプリンターから出てくるから、持ってきて」
「……。何枚?」
ついでに使われて、計算書みたいなのを三部製本してやったら、ユキの仕事も終わりらしい。
「ありがと」
名前の通り優しく笑って、それから書類を上司の人に渡し、平気な様子で一番先に帰ろうとするから、ちょっと驚いた。
「いいのか? まだみんな残ってるのに」
「だって、僕の仕事はもう終わったもの。チカもそうでしょ?」
「俺は……」
誰もいなくなったから、帰るだけだ。ユキは仕事ができるから、多少生意気でも許されるんだろう。また、落ち込みそうだ。
「チカと一緒に帰れるなんて、研修以来だね。誘ってよかった。……そういえば、用事って? お詫びに付き合うよ」
「いいよ。大したことじゃない」
先に帰るための口実だっただけだし。それに、落ち込み続きで元気が出ない。
「ほんとに少し、調子悪いみたいだ。まっすぐ帰って、早めに寝る。……えっと、何つうか上手く言えないけど、ユキにからかわれる余裕も、今はない」
ユキは俺をじっと見て、頷く。
「分かった。別々に住んでいたら、心配だから送っていく、って言うところだけど。それはいいとしても、僕が料理作れたらなあ……、お粥とか」
「やだよ、気持ち悪い。でも……、ありがとな」
本当に、食欲もなかった。ユキがドラッグストアでビタミン入りのゼリー飲料を買い込み、まっすぐ帰る。リビングで無理にそれを飲まされて、明日の朝でいいって言ったのに、シャワー浴びて寝ろってうるさいからざっと流して出てきたら、今度は、自分の部屋で寝ろと言う。そんな危ないところで寝られるもんか。
「いいよ。寝るとこがない訳じゃないし」
「駄目だよ。見てないと心配だ。……一緒に寝たいくらいだけど、今夜は我慢する。手は出さない。悪戯もしない。約束する」
ドアを開け放ち、椅子を置いて留めた。
「これで、安心してくれる?」
「……眩しいと、寝られないんだ」
すぐに、リビングの灯りも消してしまう。
「どうすんだよ。カオルが帰ってきたら」
「キッチンの灯りだけつけておけば、大丈夫だろう。じゃ、僕も軽くシャワー浴びてくるから、眠っていて」
普段なら、恐ろしくてこんなところでは眠れない。だけど、今夜は少し辛い。薄暗がりの中でも目に入ってくる、深い海のような青い部屋は、心が落ち着いた。そのまま、眠りに引き込まれていきそうだった。
「もう、眠ったのかな」
低い呟きが聞こえて、あの細い指が、俺の髪を梳いていく。
「ふふっ……、サラサラだ。おやすみ」
掛布団を直して、そのまま離れた。何かして欲しい訳ではないが、いつもあんなにしつこいユキが、あっけなさ過ぎる。でももしかしたら、それほど、俺は顔色が悪かったのかもしれない。
少しは、眠ったのだろうか。気配の違いを感じて、まどろみから覚めかける。
「どうしたんだ?」
カオルが帰ってきたようだ。
「元気ないし、顔色悪いから、僕の部屋に寝かせた」
「珍しく、紳士じゃないか。ユキはどこで寝るんだよ。俺のベッド?」
ジェラシーじゃない。ユキが好きだなんて、そんなはずないし。どっちかっていうと、カオルの方が近づきやすいくらい。もちろん、恋愛対象じゃないけど。でももし今、二人がふざけ合い始めたら、二人とも嫌いになってしまう……。
「チカの側にいる」
「……お前だって、そんなに丈夫じゃないだろ。ちゃんと寝ろよ。おれが見てる」
「だめ。チカに手を出したら、許さない」
カオルが声を抑えて笑い、話し声はもう聞こえなくなった。俺はまた、眠りに落ちたみたいだった……。
翌朝、早くに目が覚める。実際、落ち込んで寝てしまっただけで、本当に具合が悪い訳でもないし、早く寝たぶん、早く起きてしまったんだろう。
セミダブルのベッドの上には、ユキも眠っていた。きっと、カオルに無理やり寝かしつけられたのだと思う。俺にくっついてはいなかったし、こっちの着ているものも、乱れてはいない。
「嘘つき」
声をかけたら、驚いたように目を開けた。
「な、なに……?」
「一緒には寝ないって、見てるだけだって言ったのに」
「ぼ、僕は何も……」
慌てて、上半身を起こす。ユキが焦るのなんか、初めて見た。あんまり面白くて、腕を回して捕まえた。いつもとは逆だ。
「ありがとう。もう元気になった」
「……うん。良かった」
ため息が甘いって、こんな感じなのだろうか。あいつはふうっと息を吐いて、それから、急に我に返った様子だった。
「カオル! 早く来て!」
「……あー、何だよもうー、そんな大声出して、」
カオルもすぐに、ドアのところに姿を見せる。
「チカに襲われた」
「襲ってな……」
道理でさっきから、ひとの腕をがっちり捕え返してたわけだ。
「いいなあー! おれも、おれも」
「二人とも、いい加減にしろよ」