03
ユキと二人きりで、部屋に残されたチカ。少し、危ないような気がする。
まだ何も注文はしてなかったから、カオルと環さんが、美佐緒を連れ出してくれた。ユキと二人で残るのもまた、居心地が悪い。
「さっきの話だけど」
ユキが口を開き、俺は緊張しながら続きを待った。
「僕は美佐緒が嫌いで、鬱陶しいから言い過ぎた、とは思う。チカのことは、好きか嫌いかと言えば好きだ。カオルもそうだよ。そういう認識で、受け取ってくれる? あんまり、気にしすぎないでくれるかな」
「……うん」
「それから、美佐緒には本当に気を付けて。お弟子さんなんかでも、あいつに誑かされた人が、何人もいるから」
「穏やかじゃないな。子供に、何ができるんだい? あと、お弟子さんって? さっき、日本舞踊がどうとか言ってたっけ」
少し気が軽くなって、俺は逆に問いかけた。
「実家がね、日本舞踊の家元なんだよ。そんなに、大きい訳じゃないけど。そして僕は、全く興味がない。十歳くらいまでは嫌々ながら稽古してたけど、美佐緒が生まれたから助かった……って、思ったんだけどね。君も見ただろ?、あの目つき。根っからの娼婦さ。おまけに、きつい言葉を浴びせれば、逆に嬉しそうな顔をする。美佐緒に引っかからないで済むのは、僕か、環さんみたいな人くらいだろ」
「そう……、なのかな……」
いまいち分からないし、分かりたくもない。ただ、まあ、あんまり近づかない方がよさそうなのは理解した。美佐緒にも、ユキにも。
そのとき、ポケットの携帯が鳴り出した。表示されたダヴィの名前を見て、俺は少しうんざりするが、一応出た。
『チーカ? もう終わった?』
「何だよ。今、作業中」
とっくに終わったが、とっとと切りたくてそう言う。ユキが面白そうに、こっちを見ていた。
『手伝いに行く?』
「いいよ、来なくて。じゃ、忙しいから切るぞ」
シンジラレナイとか、ヒトデナシとかわめいていたが、無視して終話ボタンを押す。
「チカが、そんな態度をとるなんてね。意外だな」
「面倒くさかっただけだよ」
「それでも、少し嬉しいかも。僕との会話を優先してくれたなんて」
「ふざけんなよ。好きとか嫌いとかじゃないって、言ったばっかりだろ? ユキまで、あいつと同じようなこと言うのかよ」
つい、言わずがなのことまで、口に出てしまう。
「ふうん。今の電話の相手って、そういう仲なんだ」
「だから、そんなんじゃ……、おい! 返せよ」
ユキが素早く、俺の携帯を奪った。勝手に着信履歴を見て、軽くあごを上げる。
「David、ね。外国人か。ディヴィッド?」
「ダヴィ。ったく、ひとのものを」
取り返したが、ユキは悪びれた風もない。
「まあ、いいか。アドバンテージは僕にある。……どっち側? って、愚問か。チカは見るからに、受くさいからな」
「おい、何だよそれ」
だがあいつは、初めて会ったときと同じように、くすくす笑うだけだ。
「カオルのことは、心配してない。環さんも、チカのことは可愛がるだろうけど、大丈夫だろう。危ないのは、美佐緒だけだと思っていたが……、ライバルがいたとはね。参ったなあ」
参るのは、こっちだ。言ってることが、ちっとも分からない。
「ところで、もう配属は聞いた?」
話題が変わったのはありがたいから、普通に答えた。
「都市再開発部、っていったかな。何すんだろ。そっちは?」
「僕は設計。一応、院卒で、一級建持ってるからかな」
「えっ……、じゃあ、年上だったのか? だったらやっぱ、七瀬さんって呼んだ方が……」
「飛び級だからね。年は同じじゃない? ユキでいい」
何年、飛ばしたんだよ……。こいつ、本当に頭がいいんだ……。
「カオルは?」
「営業っていうか、エンドユーザー相手の販売部門って言ってた」
「へえ」
あいつは元気がいいから、そういうのも向いてそうだなと思う。
「チカが、そこならよかったのに」
「俺が?」
「うん。女の子ばっかりだから、安心だもの」
「どういう意味だよ」
女子社員が多い部署なら、希望する男も多いような気がする。だが実際、女が集まったら怖そうだ。ちやほやしてくれるどころか、俺なんか思いっきり、パシリにされるのが目に見えてる。
「浮気の心配がないってこと。チカはフェロモンまき散らしてるからね、環さんも興味持ってたし、美佐緒まで食いついてきて」
「何が浮気だよ。俺は誰とも付き合ってないし、それに、その喋り方じゃ、俺が男を引き寄せてるって言わんばかりじゃないか」
「だって、現に今、ミスター・ディヴィッドと……」
「ねーよ。あいつも男だし」
「ふうーん。良かった、って考えていいのかな。とにかく、これからよろしくね」
「あ、ああ……」
これまた、油断だった。話を打ち切りそうな様子だったから、つい、気を緩めたところで、ユキが顔を近づけてくる。
「おい……、近い、近いって……」
軽く重ねただけだったが、唇を合わせられた。俺は思いっきり、後ろに反って逃れる。
「なん、だよ……もう……。ふざけないでくれよ。眼鏡も外さないから、こんなことするなんて、予想もしな、」
「チカ」
ぼやいた俺に、やつがきつい目を向けてくる。さっきの、美佐緒に対する視線と同じだ。怯えるのも腹立たしいから、俺は虚勢を張って見返した。
「あー?」
「今の言葉は……、君には、眼鏡をかけた恋人がいる。キスするときには、彼は眼鏡を外す、ってことかな?」
「……。何で、男にすんだよ。違うかもしんないだろ」
「女性なら、そんな否定の仕方はしない。不愉快だな」
こっちだって不愉快だ。何でこいつは、こんなに態度がでかいんだろう。まるで暴君じゃないか。
ユキは素早く片手を伸ばし、俺の手首を軽く掴んだ……、と思ったのだが。もう、ぴくりとも動かせなかった。
「放せよ。今度は何を……」
「挨拶代わりに唇だけのキスを、って思ってたけど。ご希望通り、眼鏡は外すね」
空いていたもう一方の手で、すっと自分の眼鏡を外す。その隙に振り払おうと力を入れたが、やっぱり無理で……おまけに、無理だと気づいて力を抜いたところを引っ張られ、文字通り抱きしめられていた。
「合気道の練習みたいだな。相手の力を利用して、って」
ああ、そういうことか。うっかり納得していたら、もう一度唇が重ねられる。今度は触れるだけじゃなくて、ねっとりとした感触の舌がこっちに挿し入れられてきた。
「……やっ、やめ……ろ……」
「愛してるよ、チカ。彼とは、どこまでいったの? まあ、すぐに忘れさせてあげるけど」
「じょう、だん……じゃない。俺は男なんか、と……」
「キス程度か。それに、今の反応じゃ、回数も少なそうだね。僕に任せて? うんと、よくしてあげる」
「い、要らな……、う、うぅ……」
何て言ったらいいのか。無味無臭のキスだった。ぬるついた舌が入り込んで、口腔内を舐め回す。それだけ、なんだが……、抵抗する気が失せていく。そのことに気付いた俺は焦って、必死で暴れた。
「大人しくしてないと、お仕置きだよ。痛くして欲しいの?」
「今すぐ、放せ!」
「あっそう」
もちろんそれは言葉だけ。放すどころか、俺を引きずるようにして、ダイニングテーブルの上に押し倒す。
「何しやがる」
「うん? ふふっ……」
のしかかられて動けないでいたら、ジーパンの、つか下着の中に、手を突っ込んでくる。細い指があれを触って……、このまま逆らわないでいたら、きっと、すごく気持ちいいいに違いない……って、頭の中で、俺が俺に話しかける。ずるずる引きずられ、墜ちて行きそうだ。
「いやだ!」
最後の気力を振り絞って、叫んだ。ユキはぽかんとして、俺を見ている。だがまた、元の表情に戻った。
「本当に、嫌?」
もう、駄目かもしれない。そう思ってしまう。
「何、してんだよ」
低い声。カオルだ。
「お帰り。早かったね」
ユキは、平気な顔で言い返す。
「邪魔だった、って言いたいのか?」
「そんなこともないけど。それとも、ジェラシーかな」
「ふざけんな。いくら手前でも、ぶっ飛ばすぞ!」
カオルは大きな声を出し、ユキから、俺を引き離した。
「ユキが誰に興味を持とうが構わんけど、嫌がってるのを無理強いってのは、俺は我慢できねえな」
ごつい指先が、目じりを撫でていく。そのとき初めて俺は、自分が涙ぐんでいたことに気付いた。
「チカは、そんなに女々しい奴じゃないだろ。そいつを手前は、泣かせたんだぞ」
「カオルも、チカに興味あるの? 意外だな」
「ユキ!」
カオルに怒鳴りつけられて、さすがのユキも肩をすくめた。
「……ごめん、カオル。チカも。……冗談ってことでいいよ」