01
主人公の千佳は、大抵の場合、名前を「チカ」と読まれてしまう。からかわれる程度で実害はないが、やっぱり面白くない。
「ええっ……。独身寮の空き部屋、ないんですか?」
総務のオバちゃ……、ベテランの女性社員が、苦笑しながら答えた。
「ごめんねー。君、決まるの遅かったし。やっぱり今って、少しでも節約したいのか、希望者多かったのよねー。寮を出てく人もいないし。ただまあ、入社5年目までって決まりはあるから、来年には空くと思うよ」
でもそれじゃ、今、住むところがない。
「でね。臨時ってことで、君を入れた新入社員三人で、家族向けの社宅に住んでくれるかな。3LDKだから、個室はあるの。キッチンとバストイレは共同になるけど、結構、生活時間って違うと思うのよね。社有のワンルームが空けば、順次移ってもらうし」
「はあ」
俺は仕方なく頷く。この就職氷河期に、やっと入れた会社だ。一応、代替を用意してくれてるっていうんだし、文句をいう筋ではない。
指定された住まいは、本社から電車で、一度乗り換えて30分ほどだった。駅を降りて、地図を見ながら知らない道を10分くらい歩いたら、中古のファミリーマンションが見えてきた。築20年か、もっと経っているかもしれない。ワンブロック手前にはコンビニもあったし、駅前は割と賑やかだ。ドアツードアで一時間以内で会社に通えるなんて、悪い話ではない。
部屋は301号室。同居の二人はもう、越してきているらしい。どうせ男三人だし、配属だって違うだろう。顔くらいは合わせるだろうが、そんなに面倒な付き合いはなさそうだと思う。ごみ捨てとか掃除とか、当番制にするのだろうか……などと考えつつ、ドアチャイムを押した。鍵は貰ってあるが、いきなり開けたら驚かれるかも知れないし。って、気を遣ったようでいて、一階のエントランスは普通に逆マスターキーで入ってきてしまったが。
「へーい。誰?」
ドア越しにも、どすどすとうるさい足音を響かせた後、勢いよく開けてくれたのは、見るからに体育会系のごつい男だった。
「……お、俺、今日からここに住むことになった、杉崎です」
「えええっ! なんだよ、男かよ!」
正直言って、この反応は想像できなくもなかった。部屋の奥から、もう一人の声がする。
「だから言ったじゃない。女の子のはずはない、って。まさか男二人の部屋に女性を同居させると思う? カオルは本当にバカだね」
「だって……、杉崎チカって……」
俺の名前は、杉崎千佳。チカじゃなくて、ユキヨシって読む。でも、チカって読まれるのはもう、漢字で名前を書くようになった時からずっと、で、慣れてはいるが……。さすがに、あからさまにがっかりされると、それなりにムッとする。
「よろしく、杉崎くん。ユキ……ヨシ?」
玄関に出てきたもう一人の男は、「千」の字は読めたらしい。
「うん。ユキヨシ」
「よろしく」
手を伸ばして握手を求めてきたので、仕方なく右手を出す。ひょろっと背は高いが、運動神経はあんまりなさそうな、眼鏡をかけた男だった。今更だが、俺の就職先は、割と大きな建設会社だ。この男は設計かなんかだろう。そして、さっきの体育会系は、営業だと思う。
「僕は七瀬優希。七つの瀬に、優しいに希望の希で、マサキ。八割方は、ユキって呼ばれる」
くすくす笑いが気持ち悪いが、同族意識は持ってしまう。
「おれは小清水薫。小さい清水に、風薫るの薫。つかさ、会社には女三人って思われてんじゃね?」
「言えてるかもね」
「だからさ。間違って、三人目は女が来るんじゃないかって、期待してたんだけどなー」
そんなはず、あるかよ。
「悪かったね」
一応返したが、小清水ってやつは全く意に返さない。身体を開いて、奥へと誘う様子に、ついそのまま上がってしまった。廊下の先がリビングで、ドアが二つ見える。もう一つの部屋はどこだろう?
「とりあえず、僕たちがこっちの二つを使ってるけど、玄関わきの部屋でいいかな?」
七瀬に訊かれて、俺は頷く。
「あ、うん。どこでもいいよ。角住居だから、暗くもないだろうし」
それに、他人とは少しでも離れてた方が暮らしやすそうだ。俺はもう一度廊下に戻り、部屋を確かめた。一つは外廊下に面した小さなものだが、二面に窓があり、採光に問題はない。八畳ほどの洋間で、思ったより広かった。総務の話通り、新品のベッドと机、本棚が置いてあって、押し入れ替わりのクローゼットも大きめだ。
「そういや荷物は? 引っ越しじゃないのか?」
小清水が訊くので、俺は今度は首を振った。
「場所を見に来ただけ。これからいったん帰って、荷物まとめて明日にでも……あ、」
「どうした?」
「ダンボール数箱だと思うんだけど、まとめるの手伝ってくれる約束で、今のアパートに知り合いを呼んでるんだった。じゃ、行くわ」
ここから一時間はかからないと思うが……、待たせたら、それなりに悪い、と思う。
「へえー。彼女か? ここには連れ込むなよ?」
「……女じゃないよ」
「男性でも、恋人の可能性はあるんじゃない?」
横から七瀬が口を出す。
「違うって。そんなんじゃ……、とにかく、また明日」
俺は急いで、今のアパートに戻った。大学と同じ駅なのが取り柄だが、出口は反対側で、のんびり歩けば30分はかかる。建物は古いし綺麗でもないが、家賃は安い。そのアパートのブロック塀に、寄りかかっている男が見えた。すぐ横に、マウンテンバイクを停めている。
「悪い。待たせた」
声をかけたら、ぱっと顔を上げる。えーと、そんなに嬉しそうにされても、こっちが困るんだが。
「少し早く来た。約束の時間から、まだ5分ほどしか経っていない」
こいつの……といっても俺より年上だが……、言葉が硬いのは、日本人じゃないからだ。第二外国語の、スペイン語会話の講師だった。入学時は俺も夢を持っていたもんだから、将来は貿易関係に……などとボケた頭で考えて、第二外国語に選んだのだが、外国語学部ならともかく、一般教養みたいな第二外国語だ。大したことは教えてくれないし、こっちも勉強なんかしない。独仏はまだ人数が多かったけれど、クラスには15人くらいしかいなかった。ヒアリングの試験の後、答案を返しながら『95点。もったいない。あなたはお風呂上りにビール飲みませんか?』と聞かれた。ビールの綴り『cerveza』を『cerbesa』かなんか、書いたんだと思う。だいたい日本人なんだから、lとrも、bとvも、cとsも、耳で聞いただけで区別なんかつくもんか。 綴りは頭で覚えるしかない。だから、知らない単語は書けない。俺はあいまいに笑って首を振り、答案を受け取った。あと別に、出来がよかったって訳でもない。簡単な単語ばかりだったし。
授業の後、何となく話しかけてみた。先生はビール好きなんですか、みたいなことだったと思う。日本のビールは飲みやすい、とか言われたような気がする。そしたら、クラスの女子学生が帰りがけに『ディヴィッド先生、さようなら』って声をかけた。あいつは『さよなら。またね』って返した。で、俺はちょっと気になって、訊いてしまった。だって、スペイン語だったら、ディヴィッドじゃないはず。語尾についたdは発音しないって、自分でも教えてるじゃないか。何しろ、嫌でも『チカ』と呼ばれる俺だ。そういうのは気になる。
「えっと……、ダヴィ、じゃないのかな。ディヴィッドじゃ、英語読みだろ? 嫌じゃないの?」
そしたら、あいつは少し驚いたような顔をして俺を見たが、首を振って答えた。
「どうせ、ガイジンだし。気にしない」
俺はちょっとムッとして、声が大きくなった。
「自分の名前だろ? 気にしろよ。それに、教師なんだから、正しい読み方を教えてやんなきゃ」
「……うん。ありがとう。セニョール・スギサキは優しいね」
「優しくなんかないよ。ただ俺も、漢字で書くと、しょっちゅう名前を変に読まれてるから。嫌なんじゃないかなって思ったんだ」
「イギリスとかアメリカはみんな、ディヴィッドって呼ぶから、本当に、あんまり気にしない。でも、ありがとう」
国のことじゃなく、その国の人たちのことだろう。それまでとは全く違った表情で、柔らかく笑いかけてきた。俺は興味はないが、女の子なら、ぽうっとしたかもしれない。
「そうそう、漢字、難しい。スギサキ、ユキヨシ……、どういう字を書く?」
出席簿は、ローマ字で書いてあった。その横に鉛筆で、『千佳』と書いてやる。
「1000?」
「まあ、そうだけどさ。漢字ってほら、音読みと訓読みあるだろ……、わかんないか。いろんな読み方があるよな」
頷くのを見て、俺は続けた。
「それって、チカって読めるんだよ。女の子の名前みたいになっちまう」
そしたら、やつは笑い出した。なんで外人にまで笑われるんだ、と、俺は不愉快になったのだが……。
「チーカ。可愛いね」
『chica』は、英語の『girl』だ。ますます頭に来る。もろに、女の子、だなんて。
すっかりヘソを曲げた俺はそのまま帰ろうとしたのだが、やつが引きとめて、家でコーヒーを飲めと言う。前に、自宅でも教えている、みたいなことを言っていたし、気軽に人が来るところらしいと判断した俺は、何となくついていった。もしかして、クラスの女子なんかも行ったことがあるんじゃないか、って、軽く考えたんだ。連れて行かれた先は広めのアパートで、洋間に大きなダイニングテーブルが置いてあった。勉強しようと思えば、できそうだった。
そんで……、『語学を上達したいなら、その国の恋人を持てばいいよ』とかほざくから、『じゃあ誰か紹介してよ』って言い返した。同い年の彼女とは、ちょっと前に、別れたばっかりだったし。何しろ向こうは短大出で就職してて、まだ学生の俺は社会人の大変さがピンと来ず、今思えばこっちの我がままで、終わってしまったと思う……、まあ、それはどうでもいい。そしたらスルーされて、『会話を教えるから、漢字を教えてくれ』って言われた。部屋には子供用の漢字ドリルもあったし、真剣なんだなと思って、俺は頷いたんだけど……。その後なぜか、告られたって訳。多分俺が、名前のことで怒ったのが、大いに影響しているんだと思う。とはいえもちろん、付き合ってなんかいない。第一、『愛している。私のチーカ』なんて囁かれて、喜べるかって。
それでも、月一くらいで訪ねて行って、漢字の書き取りを見てやり、ちょっとした会話のレッスンをして、『続きはベッドで話そう』とか言われて文字通りぶっ飛ばして、とっとと帰ってくる。
「チーカの部屋に初めて呼んでもらったのに、出ていくところだなんて」
「うっせーよ」
喋っていたら、大家のオバちゃんが顔を出す。
「杉崎さんの知り合い? さっきから知らない人がいるって思ってたんだけど」
「荷物まとめるの、手伝ってもらおうと思って」
「ごきげんよう、マダム」
ダヴィが軽く腰を折って、大げさに挨拶をする。オバちゃんの目がまん丸くなった。
「あらら、外人さんかい。お愛想でも、気分がいいねえ」
機嫌がいいのは、こっちも助かる。俺はやつの背を押して、アパートの階段を昇った。
六畳一間に台所と、後で増築したっぽい風呂と洗面所だけの、狭い部屋だ。家具は今度の部屋に備え付けだったから、要らないと思って処分して、服や本をダンボールに詰めるくらい。あとはノートPCを抱えて行けば、それで済む。一人で十分なのに、ダヴィがうるさかったので、見せてやれば気が済むかと思ったんだが。
つい、油断してしまったのかもしれない。部屋に入り、ドアを閉めたところで、あいつがすっと自分の眼鏡を外して、胸ポケットに入れた。背が高いし、肌も白いから、それだけでも日本人じゃないのは分かるが、瞳が綺麗な緑色なんだって、そのとき初めて気が付いたが……。腕を引っ張られ、思いっきり抱きしめられて、キスされた。ううーむ、確かに眼鏡は邪魔なんだな、などとバカなことを考えつつ、必死で押しのける。
「何、すんだよ! ドタバタしてたら、大家さんに不審がられるだろ」
「先程の女性に知られて、チーカに不都合があるのか」
どうも違う風に受け取ったらしい。憮然として言い返すから、俺は呆れた。
「男とキスしてる変態って思われるよ」
自分で言って、情けない。何で俺が。確かに、彼女いない歴が、もうすぐ二年になろうとしてるけどさ……。
「どうせ、もう出ていく。構わないだろう」
「俺の意思は無視かよ」
目を背けたところで、また捕まった。もう一度キスされて、また全力で押しのけた。
「今度やったら、殺すぞ?」
「ふむ。それは本望だね」
「……そんな難しい言葉、どこで覚えた」