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おにぎり屋ふくふく

おにぎり屋ふくふく|今日は、元気じゃなくていい日

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/06

今日は、何もしたくなかった。


理由は、あるような、ないような。

ただ、朝からずっと体が重くて、

気持ちも動かない。


目は覚めたのに、起き上がれなくて。

時計だけが進んでいく。


(……だめだな)

そう思うのに、どうにもできない。


スマホを見ても、返さなきゃいけない連絡が並んでいる。


でも、指が動かない。

そのまま、時間だけが過ぎた。

気づけば、外は少し暗くなっていた。


「……はあ」

小さく息を吐いて、ようやく体を起こす。


何か食べなきゃ、と思う。

でも、ちゃんとしたものを用意する気力もない。


ふらりと外に出る。

あてもなく歩いて、ただ足を動かす。

その先に、灯りが見えた。


小さな店。

――おにぎり屋「ふくふく」

やわらかい光が、静かににじんでいる。


(……なんとなく)

理由もなく、扉を開けた。


からん、と音。


「いらっしゃい」

やさしい声。


ふくさんが、いつものように立っていた。


「……こんばんは」

声は、少しかすれていた。


「寒くなってきたねぇ」

こくり、と小さくうなずく。

それ以上、言葉は出てこない。


「どれにする?」

並んだおにぎりを見ても、うまく選べない。


「……なんでもいいです」

ぽつり。


ふくさんは、少しだけ目を細めた。

「じゃあ、これにしようかねぇ」


差し出されたのは、塩むすび。

余計なものがない、まっすぐなやつ。


「はい」


受け取る。

手のひらに、あたたかさ。


そのとき。


「にゃ」

足元で、小さな声。


黒猫が、こちらを見ていた。

何も言わずに、ただそこにいる。


「……」

しゃがむ気力もなくて、ただ立ったまま見下ろす。


クロは、動かない。

それでいいみたいに。


席に座る。

すぐに食べる気にはなれなくて、しばらくそのまま持っていた。


あたたかさだけが、じんわりと伝わる。


(……食べなきゃ)

ゆっくり、ひとくち。


「……あ」

思ったより、やさしい味。


強くない。

でも、ちゃんとある。


もうひとくち。

クロが、少しだけ近くに来る。

何もしてこない。

ただ、そこにいる。


それだけで――

少しだけ、息がしやすくなる。


「……今日さ」

言うつもりなんてなかったのに、言葉がこぼれる。


「なんか、だめで」

ふくさんは、何も言わない。

ただ、聞いている。


「理由もよく分かんなくて」

笑おうとして、やめる。


「全部、やる気なくて」

クロは、変わらずそこにいる。


「……こういう日、あるよね」


「あるよ」

ふくさんが、ゆっくり言った。

顔を上げる。


やわらかな声。

「何もしない日があってもいい」


「元気じゃなくても、いい日ってのはあるもんだよ」

その言葉に、力はなかった。

でも、やさしかった。


「……そっか」

それだけで、少しだけ楽になる。


全部じゃない。

ほんの少しだけ。

それで、十分だった。


おにぎりを、もうひとくち。

半分くらいで、手が止まる。


「……もういいや」

無理に食べなくていい気がした。


ふくさんは、うなずく。

「今日は、それでいいよ」


クロが、しっぽをふわりと揺らす。


店の中は、静かだった。

誰も急かさない。

何も求められない。

その時間が、ただ流れている。


やがて、立ち上がる。

「……ありがとうございました」

少しだけ、声が戻っていた。


ふくさんは、にっこり。

「またおいで」


クロは、こちらを見ている。

「にゃ」


その声に、小さくうなずく。


外に出る。

夜の空気。

冷たいはずなのに、少しだけやわらかく感じる。


明日も、元気じゃないかもしれない。

でも――

今日は、これでいい。

そう思えた。


小さな灯りを背に、歩き出す。

足取りは、変わらない。


でも、さっきより少しだけ、重くなかった。

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