おにぎり屋ふくふく|今日は、元気じゃなくていい日
今日は、何もしたくなかった。
理由は、あるような、ないような。
ただ、朝からずっと体が重くて、
気持ちも動かない。
目は覚めたのに、起き上がれなくて。
時計だけが進んでいく。
(……だめだな)
そう思うのに、どうにもできない。
スマホを見ても、返さなきゃいけない連絡が並んでいる。
でも、指が動かない。
そのまま、時間だけが過ぎた。
気づけば、外は少し暗くなっていた。
「……はあ」
小さく息を吐いて、ようやく体を起こす。
何か食べなきゃ、と思う。
でも、ちゃんとしたものを用意する気力もない。
ふらりと外に出る。
あてもなく歩いて、ただ足を動かす。
その先に、灯りが見えた。
小さな店。
――おにぎり屋「ふくふく」
やわらかい光が、静かににじんでいる。
(……なんとなく)
理由もなく、扉を開けた。
からん、と音。
「いらっしゃい」
やさしい声。
ふくさんが、いつものように立っていた。
「……こんばんは」
声は、少しかすれていた。
「寒くなってきたねぇ」
こくり、と小さくうなずく。
それ以上、言葉は出てこない。
「どれにする?」
並んだおにぎりを見ても、うまく選べない。
「……なんでもいいです」
ぽつり。
ふくさんは、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、これにしようかねぇ」
差し出されたのは、塩むすび。
余計なものがない、まっすぐなやつ。
「はい」
受け取る。
手のひらに、あたたかさ。
そのとき。
「にゃ」
足元で、小さな声。
黒猫が、こちらを見ていた。
何も言わずに、ただそこにいる。
「……」
しゃがむ気力もなくて、ただ立ったまま見下ろす。
クロは、動かない。
それでいいみたいに。
席に座る。
すぐに食べる気にはなれなくて、しばらくそのまま持っていた。
あたたかさだけが、じんわりと伝わる。
(……食べなきゃ)
ゆっくり、ひとくち。
「……あ」
思ったより、やさしい味。
強くない。
でも、ちゃんとある。
もうひとくち。
クロが、少しだけ近くに来る。
何もしてこない。
ただ、そこにいる。
それだけで――
少しだけ、息がしやすくなる。
「……今日さ」
言うつもりなんてなかったのに、言葉がこぼれる。
「なんか、だめで」
ふくさんは、何も言わない。
ただ、聞いている。
「理由もよく分かんなくて」
笑おうとして、やめる。
「全部、やる気なくて」
クロは、変わらずそこにいる。
「……こういう日、あるよね」
「あるよ」
ふくさんが、ゆっくり言った。
顔を上げる。
やわらかな声。
「何もしない日があってもいい」
「元気じゃなくても、いい日ってのはあるもんだよ」
その言葉に、力はなかった。
でも、やさしかった。
「……そっか」
それだけで、少しだけ楽になる。
全部じゃない。
ほんの少しだけ。
それで、十分だった。
おにぎりを、もうひとくち。
半分くらいで、手が止まる。
「……もういいや」
無理に食べなくていい気がした。
ふくさんは、うなずく。
「今日は、それでいいよ」
クロが、しっぽをふわりと揺らす。
店の中は、静かだった。
誰も急かさない。
何も求められない。
その時間が、ただ流れている。
やがて、立ち上がる。
「……ありがとうございました」
少しだけ、声が戻っていた。
ふくさんは、にっこり。
「またおいで」
クロは、こちらを見ている。
「にゃ」
その声に、小さくうなずく。
外に出る。
夜の空気。
冷たいはずなのに、少しだけやわらかく感じる。
明日も、元気じゃないかもしれない。
でも――
今日は、これでいい。
そう思えた。
小さな灯りを背に、歩き出す。
足取りは、変わらない。
でも、さっきより少しだけ、重くなかった。




