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6 ラタトゥイユ

 金門さんをその場で下ろすと、タッタッタと効果音を鳴らしながら入室していった。長靴のまま入ることを黙認し、わたしは靴を脱いで備え付けのスリッパを履く。 


 廊下もだが、家庭科室の床にできていた血痕は綺麗さっぱりなくなっている。部屋の中を見回すも、お姉ちゃんはいない。ほっとしたくないのに、湿気のこもった息が出る。


「ユウがね、持ってくるね!」


 金門さんは修飾語が抜けている文を発して、巨大な銀色の冷蔵庫から食材を取り出し、調理台の上に並べ始めた。


 ワイシャツの胸元にローファーの足跡が残っていることに安堵しつつ、調理台を眺めると、トマト、ブロッコリー、ナス、ニンニク、赤パプリカなどの、偏見だが、子供の嫌いな野菜しか用意されていない。調味料は塩、ブラックペッパー、その他基本的なものはある。


 このラインナップだと……わたしにラタトゥイユを作れと言っているのか?


 野菜を切り、鍋に詰めて煮るだけの料理という知識はあるが、わたしは包丁を握らない側の人間だ。猫の手? ふざけるな、わたしの手はお姉ちゃんを触る手だ。


 金門さんは家庭科室特有の背もたれがない丸型のパイプ椅子に座り、鼻歌混じりに足をバタバタさせてわたしを見つめている。行儀の悪い待ち方だ。


 食べるのが金門さんだけなら、わざわざ授業で使うかもしれない食材に手を出さなくてもいいだろう。こんなことで幽霊部の特権を行使しては、先生方の苦労を増やすだけだ。


 検索、『ラタトゥイユの作り方』……これにしよう。


「金門さん、しばしお待ちを」


 ループ再生する動画を見ながら、まな板の上で野菜を乱雑に切る。

 切り方にルールはない、あなたはあなたのよろしいように。


 あらかた切り終えたら、熱したフライパンに大さじ3のオリーブオイルを入れて、ニンニクが薫るまで炒める。その後、切った野菜をフライパンに加えて炒める。さらに野菜を切って炒め合わせる。全体的に野菜がしんなりしてきたら、弱火にして二十分煮込む。


 ……しんなりの基準は分からないが、こんなものだろう。

 煮込んでいる間にまな板と包丁を洗い、お皿の用意。コップに水道水でも入れようとしたが、金門さんはちびちびとオレンジジュースを飲んでいたので、コップを戸棚に戻す。

 時間が経ち、スプーンで味見。


「んー、野菜の旨味よ」


 動画と同じ発言し、塩、胡椒、追いオリーブオイルで味付け。お玉で救い、小皿に盛り付ける。パセリを振りかけて、


「完成しました。フランスの料理、ラタトゥイユです」


「……ラタトゥイユって、なーに?」


「ニースの郷土料理です。ラタトゥイユの『ラタ』はフランス語でごった煮、ラタトゥイユの『トゥイユ』はかき混ぜるという意味で、二つの言葉が合わさってラタトゥイユと呼ばれるようになりました。ラタという言葉は軍隊用語のスラングの一種で」


 煮込む間に調べた知識を伝えるも、


「いっ、いただきまーす」


 金門さんは最後まで聞かずに、湯気が立ち昇るラタトゥイユを食べ始めた。しかし、湯気が物語る熱さゆえ、スプーンを口に運んだ瞬間、口に入った野菜をお皿にケホッと吐き出し、慌てて冷たいオレンジジュースを口に含んだ。


 わたしに任されたのは昼食を作るまでだ。ラタトゥイユをふーふーして冷ましたり、食べ終わるのを待ったりするところまでは命じられていない。


 幽霊部の部室へ行こうとスリッパを脱ぎ、下駄箱に手を伸ばしたら、


「おっ、おいしくない……」


 スルーできない言葉が聞こえてきた。レシピ通りに作ったものがおいしくないのはわたしの責任ではない。だが、わたしの手で作ったものが否定されると不快だ。


 踵を返し、金門さんが手にしているスプーンを借りて一口。


 ……飲み込んでから思い出した。味覚が備わっていないわたしが味見をしたところで、味の有無は確かめられない。動画の人が言う野菜の旨味も、真似をして口に出しただけだ。


「どの部分が気に入らないのですか?」


「ひっ! なっ、なんでもない、よ?」


 威圧するような訊き方ではなかったが、金門さんは説教を受ける子犬のように萎縮してしまった。


「食べたくないのなら残しても構いません。ただ、おいしくない理由は教えてください」


 お姉ちゃんに手料理を振る舞って、マズイッ! なんて反応が返ってきたら泣きたくなるから、子供の舌とはいえ、味覚がある人の意見は参考になる。


「いっ、言ってもね、ユウのこと……なっ、殴らない?」


 脅える瞳には、わたしが金門さんの母親を足蹴した映像が映っているのだろうか。

 わたしはスリッパを履き直し、金門さんの前で膝をつく。


「改善案を求めているだけなので、殴りませんよ」


「……あっ、熱いし、皮は硬いし、味が薄くておいしくない。まっ、まずくはないけどね、……味がしないのは、食べたくない……の」


 熱いのは冷ませば良いが、野菜の皮の硬さと、味がしないのは些かに信じがたい。時間や分量は動画の通りに加えたので、金門さんの顎と味覚が発達していないだけだろう。


 野菜の旨味を無味と脳に伝達する味覚では、ラタトゥイユで食欲を湧かせることは困難だ。昼食には不似合いだが、金門さんのお腹を満たすために、わたしの唯一の得意料理を作るとしよう。


「フライパンと小皿にラップをしておいて下さい。別のものを作ります」


「たっ、食べるよ……ユウ。がんばるから、ね」


「無理やり食べて吐かれても困ります。冷蔵庫に保管していたら、お姉ちゃんが食べてくれるかもしれません。ラップの場所はわかりますよね?」


「……あぅ」


 お姉ちゃんからの頼まれごとは先生方の苦労よりも遥かに重要性が高い。どうせ、卵と牛乳で起こる苦労など大したことはない。


 巨大な冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。卵を割り、一つのボウルに卵黄、もう一つに卵白。卵白を入れたボウルは冷凍庫へ。それからそれから……。


 慣れた料理手順は、もはや呼吸をするのと変わらない。

 わたしの唯一の得意料理、お姉ちゃんが大好きだったふわふわスフレパンケーキ。


 高瀬さんにレシピと調理法を教えてもらい、目分量で調理できるまで練習した。お姉ちゃんより先に振る舞う人ができるなんて、練習していた頃のわたしは信じないだろう。


 フランパンで優雅に踊るパンケーキを三枚、重ねてお皿に乗せる。その上にマーガリンを盛り付けたら、完成だ。


「高瀬さん特製のふわふわスフレパンケーキです。はちみつはお好みで。……どうぞ、お召し上がりください」

「す、すごい! ユウね、こんなふわっふわなパンケーキ、見たことないの!」


 金門さんは目を輝かせながら拍手をして、フォークでパンケーキの弾みを楽しみ、はちみつをたっぷりと回しかける。マーガリンが溶ける前にフォークを刺し、がぶり。


「どうですか?」


「なんかね、もちもちしててね、めちゃめちゃ甘いのっ!」


 金門さんはナイフを使わず、パンケーキにかぶりつき、口を汚しながら食べ進める。

 高瀬さんとお母さん以外に味の感想は訊けておらず、微かな不安があった。子供の舌とはいえ、夢中になるほどおいしいのなら、お姉ちゃんが食べても喜んでくれるはずだ。


 金門さんが飲み物休憩を挟んだタイミングで、金門さんのほっぺや口に付着したはちみつを指で拭き取って舐めるも、あの時のお姉ちゃんの気持ちは分からない。


「ひひひっ、もう一人ね……おっ、お姉ちゃんができたみたいで嬉しいの」


 上目遣い、エイのような目の線の笑み。

 天使のような微笑みを見せてこようが、わたしは認めない。金門さんがわたしの妹なら、お姉ちゃんが金門さんのお姉ちゃんになるということだ。そんなこと、天地がひっくり返っても認めない。


 お姉ちゃんはわたしだけのお姉ちゃんだ。


「……お姉ちゃんを探しに行きます」


 程度の低い嫉妬心が生まれたおかげで、お姉ちゃんと話したいことが定まった。あとは、お姉ちゃんと目を合わせても動揺しない鋼の心を保つこと。


 会わない方が良かったかもなんて、会いに来たわたしが思って良いことではない。会えたからこそ、踏ん切りをつけることができるのだ。


 金門さんからの返事を待たずにスリッパを脱ぎ、軽やかな足で家庭科室を後にした。


 いくつかの空き教室、グラウンド、プール、体育館、雨月ホール。ありとあらゆる場所に足を運ぶも、お姉ちゃんの残り香すら発見できていない。いや、この場合は発見しようとしていない方が正しい。

 お姉ちゃんが居る場所は限られている。少しでも時間を稼ごうとしているわたしの体を、足を、心を、わたしは責められない。


「ここしかありえない」


 ……わたしの予想は裏切ってくれなかった。


 入学式から時間が経過し、人っ子一人いない屋上庭園。ベンチで足を組み、空を見上げてタバコの煙を雲に重ねるお姉ちゃん。

 愛煙家であることは、匂いと唾液の味で察していた。タバコを吸う姿の哀愁の良さは、記憶のフィルムに焼き付いてしまうほど心を打ってくる。


 昔に眺めていた横顔と瓜二つ。表舞台に立つお姉ちゃんを舞台袖から覗いていたわたしも、なんら変わっていない。年月が過ぎただけで、わたしたちの立ち位置は昔と同じだ。


 つまり、緊張していたことが不思議な話だったのだ。


 謝罪から入らない。感情を先走らせない。お姉ちゃんが不機嫌になるようなことは言わない。それさえ守れば、きっとわたしの心は平静を保てるはず。喧嘩できるはず。


 だって、キスまでした姉妹なのだから。


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