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5 金門幽

 人前で泣かないと決めたはずなのに、涙が無神経に溢れてくる。泣き止む方法が分からないし、汚い顔を隠そうにも腕が上がらない。

 わたしの決意は飴細工のように脆かった。涙の雫が頬に線を描き、ぽつり落ちると、


「……だい、じょーぶ?」


 眠そうに瞼を擦る少女が、温かく柔らかい指で私の目元に触れてきた。

 しまった。こんな顔、お母さんにも見られたくないのに。

 涙や洟に塗れた顔を、メイクが崩れることなどお構いなしに袖で拭う。


「どこか痛いの? ユウがね、おまじない……してあげよっか?」


 頬に添えられた頼りない白い手を振り払いたいのに、無様に泣くことしかできない。

 人から与えられる優しさは嫌いだ。優しくされると、全てを吐き出しても良いと思ってしまうから。


「……ごめんなさい。わたし、どうしたらいいか分からなくって、お姉ちゃんは抱きしめてくれないし、涙の止め方を……知らないの」


 ああ、勝手に口が動いてしまう。わたしの悪い癖だ。感情が昂ると、無駄口を叩いてしまう。さっきも、お姉ちゃんに会うのが目的だったのに、言葉を交わすことに成功して調子に乗ったわたしは、お姉ちゃんと同じ空気を吸いたいと言い出してしまった。


 会いたかったと伝えるだけ伝えて帰れば、蹴られることはなかっただろうに。……それだと、キスはしてくれなかったから、結果的に見れば今の方が良い?


 ……わかんないよ、そんなこと。


「ユウは幽霊……、ユウと触れてたら、他の人から見えないよ。……だからね、泣いてもね、だいじょーぶ」


 少女はにへっと微笑み、ベンチから飛び降りる。わたしの正面に立つと、


「あっ、服に足跡がっ! 誰だ、そんな悪いことしたのは!」


 お姉ちゃんに足蹴された箇所を指差し、過剰に反応してきた。ワイシャツに刻まれたローファーの足跡、お姉ちゃんから貰えた形あるもの。すぐにでも服を脱いで額縁に入れて部屋に飾りたい。着替えがあれば、そうしていた。お姉ちゃんの唾液も飲むんじゃなかったな。どうせなら試験管に……あれ? いつの間にか、涙が止まっている。


「ふふっ……この足跡、奇抜なデザインで素敵だと思いませんか?」


 ブレザーのボタンを外し、胸部を強調して少女に見せつける。


「そう……言われて、みれば?」


 少女は首を傾けるも、否定はしてこなかった。自分でもおかしなことを言っている自覚が芽生えるくらいには、心の平穏を取り戻せている。


 やっぱりわたしは、お姉ちゃんを諦めたくはない。

 お姉ちゃんの唾液以外の体液を摂取したいし、キスの先もしたい。そんな色欲だけじゃなくて、遊園地以降のお姉ちゃんの話を……訊きたい。食卓を囲みたい。繁華街でデートがしたい。一緒の布団で子守唄を歌ってほしい。


 そんな一冊のノートには収まりきらないほどの願望が全て叶うことはないけれど、お姉ちゃんの声や姿は更新できたから、今日の夜はお姉ちゃんのベッドの上で妄想を楽しもう。

 今は、お姉ちゃんから任されたことを最優先に行動しなくちゃ。


「人に涙を拭いてもらえたのは久々で嬉しかったです。それでは、家庭科室の方へ――」


「人に? ユウは人間じゃなくて幽霊なの。…………はぁっ! すっ、すみませんっ! 幽霊が人様とおしゃべりなんてしてぇっ!」


 少女は目と口をカッと開き、土下座する勢いで頭を下げる。このままでは頭を地面にぶつけそうな気がして、腰を浮かし、両手を広げて少女の下がり続ける頭を胸で受け止める。


 これがお姉ちゃんだったら……なんて浅はかなことを思い浮かべるから駄目なのかな。


「それこそ大丈夫です。わたしもあなたと同じ幽霊です。お姉ちゃんを待たせているので、家庭科室まで急ぎましょう」


「家庭科室? ここって家庭科室じゃ、……あれ? ユウがいるの屋上だ! なんで?」


「それはあなたが……」


 母親との一件を教えようとしたが、お姉ちゃんの言葉を思い出し、さっと嘘を吐く。


「あなたがベンチで寝ていたからです」


 こんな嘘で誤魔化せるか?


「ねっ、寝ちゃってたってこと、は……部長を待たせてる!? 起こしてくれてありがと! ユウは行かなくちゃいけないの、えっと……お姉ちゃん、バイバイッ!」


 少女の言う部長は、たぶんお姉ちゃんのことだ。

 少女は慌てて歩き出すも、急いでいるにしては遅く拙い歩き方。腕の振りや、足の伸ばし方に違和感はない。だが、一歩踏み出すと足が震えて、次の動作に遅れが生じている。


 空模様は晴天。長靴を履いているせいか、生まれつきか……、どちらにせよ、わたしがおんぶして運んだ方が早い。お姉ちゃんを待たせるのはあってはいけないことだ。

 少女の目の前まで歩き、しゃがんで踵にお尻をつける。


「わたしの背中に乗ってください。その方が早いです」


「でも、ユウ……迷惑じゃない?」


「迷惑ではありませんし、わたしはあなたに昼食を作る役目があります」


「……ん? ごはんはね、部長が作ってくれるんだよ。それにね、あなたじゃなくて、ユウは、金門幽かねもんゆうってゆーの」


 知っている。


 相手のことを名前で呼ぶのは、馴れ馴れしく接しても良いと誤解される場合があるため、抽象的な呼び方をしているまでにすぎない。名乗られたのだから、こちらも名乗り返さないのは礼儀に欠ける。しかし、おんぶ直前の格好で名乗るのは格好がつかない。


 背中に乗ってくれたら話しやすいが、少女……金門さんは遠慮して背中に乗ってくれそうにないので、その場でスクワットした変な人という印象を与えるが、すっと立ち上がる。


「自己紹介が遅れました。わたしは夜灯匁というものです。金門さんの後輩であり、幽霊部の部長の妹でもあります」


 簡単な自己紹介と軽いお辞儀をすると、


「こっ、後輩!? ふへへへ、ついにユウは先輩になったのか! じゃ、じゃあね、初めての先輩命令ッ! ユウを抱っこして、家庭科室まで運べ! ……はっ、はこっ……はこんで、ほしい、なぁ」


 金門さんはそう言って、両手を広げてきた。

 最後まで踏ん張らないところが金門さんの性格を表している。


 不器用ながらも、積極的に人と関わろうとする性格がお姉ちゃんの保護欲を刺激した?

 幼児体型がお姉ちゃんの好み? 全体的に未成熟な女の子が愛くるしくて手に入れたくなった? ……わたしの見当違いであってほしい。声はまだしも、身長や体型は努力で変えられない。


 金門さんは抱っこして欲しそうな手の広げ方だが、ワイシャツに描かれたお姉ちゃんの足跡を残すためにはおんぶするしか……でも、くっ……背に腹はかえられない。


 腰を落とし、金門さんの脇に左手を通して背中を支え、右手はスカートを押さえながらお尻。金門さんは落ちないように両足でわたしの腰をガッチリと挟み、顎をわたしの肩に乗せてきた。


「こっ、こういうことね、部長はしてくれないから……とってもうれしいの、ありがとね、匁ちゃん」


 感謝の言葉。金門さんの抱擁に力が増す。

 わたしは純粋な気持ちから溢れるありがとうの言葉を口に出すこと、出されることが少ない人生だが、感謝される立場になって理解した。


 興味がない人からの愛想では、微かな情すら湧かないことを。


 お姉ちゃんはわたしに嫌いと言ってくれた。無関心ではなく、嫌悪感を示してくれた。それは、わたしになんらかの感情を抱いているのと同義である。ならば、わたしが金門さんのことを嫌いになれば、当時のお姉ちゃんの心境を体験できる?


 ……不可能だ。この世の人類をお姉ちゃんか、それ以外でしか判別できないわたしが誰かに感情を向けるなど、到底無理な話である。

 この世の人類がお姉ちゃんだけなら天国だったのに、と妄想していたら家庭科室に到着していた。

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