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4 姉とのキス

 抱きつくのは我慢。

 我慢我慢。絶対に我慢しないといけない。


 ここまで来たのに逃げられたら、お母さんに顔向けできない。


 欲求をコントロールすべく体に力を入れるも、貧乏ゆすりが止まらない。意識的に足の揺れを止められないのは初めてで、久しぶりに続く言葉を言えなくて、目線が下がる。


 ずっとお姉ちゃんの顔を見ていたいのに……体が言うことを聞いてくれない。


「なんで……お前が、ここに」


 お姉ちゃんは狼狽し、後退る。

 やはり、シミュレーションに無駄はなかった。わたしを拒絶するお姉ちゃんは、既に経験している。……が、妄想と違い、心に受けるダメージが甚大だ。


 いちいち落ち込んでいないで口に出せ。お姉ちゃんが逃げたら、わたしに追う手段は残されていない。

 心の奥底で悲鳴を上げる。下唇を噛み、薄皮がめくれて血の味が流れてくる。そんな些細なことは意に介さず、頭の中の言葉をそのまま発声する。


「おっ、お姉ちゃんに……、会いたかったから」


 たった一言が、空気で満杯だった肺を空にした。息を吸うたび、喉がつっかえる。お姉ちゃんの顔を見たいのに、見れば後悔するような気がして、頭を上げられない。


「私の居場所、誰が教えた? 母さん……いや、高瀬さんか?」


 聞いたことのない低い声が耳に入り、嫌な緊張感が冷や汗としてわたしの頬を伝う。


「高瀬さんは悪くないの! わたしが進学先に悩んでいて、それで……お姉ちゃんがいるかもしれないって思ったら、居ても立っても居られなくて。……お母さんにわがままを言ったわたしが悪いの!」


「他人が蒙る被害や涙を、雑草よりも価値がないと言い張る幽霊部でも、人を殺した者はいない。わたしが最初の人間になっても構わない気持ちが今、雑多に芽生えている」


「……べっ、別に、お姉ちゃんの今の生活を壊そうなんて考えてないの。ただ、放課後の一時間だけ、ううん、三十分……五分、一分だけでも一緒にいたいだけ。……会話なんてしなくていいし、わたしのことは認識しなくたって平気! だから、だから…………嫌いなままでいいから、絶縁したままじゃ嫌なの……お願い、お姉ちゃん。それだけは許して」


「ごちゃごちゃ言わずにいなくなれ!」


 心からの訴えが怒号によって掻き消された。グラウンドにまで響くほどの声量は、柔和なお嬢様言葉で賑やかだった屋上庭園に静けさをもたらした。


 耳に入る風凪の音が、わたしの精神を蝕んでくる。ひとたび口を開けば、嗚咽してしまいそうなほど胃が収縮を繰り返し、瞳に映るお姉ちゃんの下半身がぼんやりと滲んできた。


 お姉ちゃんの怒った顔……見たくないよ。


「お姉ちゃん……か。私の一番嫌いな言葉だ。希望、偶像、憧れや愛を含んだ目でいつもいつも私のことを崇めやがって。……私を追い詰るのはさぞ楽しかったんだろうなぁ!」


「そんなつもりじゃ! わたしは――――」


 立ち上がろうと踵が地面についた。ふとももで眠る少女の頭が揺れる。それを見たお姉ちゃんは強く舌打ちをし、瞬時に膝を曲げてわたしの胸に前蹴り。


 衝撃でベンチの背もたれがしなり、制服の胸部にローファーの跡がついた。


「お前に向けられた逃げられない好意のせいで、どれほど私が絶望したか……」


 ――――――――――えっ。


「お前の姿、声、仕草を目に入れても吐き気がしなくて安堵した。それどころか、溜まっていた鬱憤をお前相手に発散できるほどの自尊心が戻っていたことにも気づけた」


「あっ……、なん。んん……どうしっ」


 アレルギーで喉が腫れたかのように、断片的でしか声が出ない。

 隠されていた本心を直接伝えられることが、スプーンで目玉を抉られるほどの鈍痛を引き起こすなんて知っていたら、わたしは……、わたしは、お姉ちゃんに会い、た、く……。


 知らず識らずのうちに握り締めていた拳からパキ、と爪の割れる音がした。その音をキッカケに、枯渇していたはずの涙腺が崩壊する。


 ごめんなさい、お母さん。

 お姉ちゃんと口喧嘩できるほど、わたしの息は続かない。


「悶える暇があるのなら、金門君に昼食を作ってやれ。家庭科室に行けば、その子が材料を用意してくれるはずだ」


「…………金門、くん? ……ぐすっ、この子は……、んっ! お、女の子じゃ、ないの?」


「いつからお前は人の呼び方を指摘できるほど偉くなったんだ?」


「ごめんっ、……なさい。あっと、……その、こ、この子は……家庭科室で母親に、っす……なぐらっ、殴られそうになっていたから、連れてきたの」


 ピクッ、とお姉ちゃんの手が動いた。


「豚に似た顔面のやつか?」


 お姉ちゃんが人の容姿を悪く表現するなんて……。


「か、顔は覚えてないけど、その……太っては、いたよ」


「チッ! 入学式だからと甘く見ていた。あの豚め、法を犯すほど見境がなくなったのか。……家庭科室へは私が先に行く。金門君が起きたら一緒に降りてこい」


「……うん」


 頷き、遠ざかる足音に耳を澄ます。

 いいなぁ、この子。お姉ちゃんに心配してもらえて。わたしなんか、目の前からいなくなれって……わたしに落ち込む資格がないのは分かっているけど、心の底から羨ましい。


 お姉ちゃんとの会話を一から再生できる記憶力なんか要らない。縋りたい過去や、この先の未来を捨て去ってしまっても構わない。加害者であるわたしの苦しみは人に明かさないし、死ぬまで背負う覚悟もできている。


 だから、誰か教えてよ。


 お姉ちゃんと家族に戻れる方法を。


 ――ッ、骨の軋む音がした。


 いつの間にか、お姉ちゃんがわたしの前に戻ってきていた。茫然とその立ち姿を視界に入れていると、水気のない苦笑の後に、顎を親指で上げられ、唇で唇を塞がれた。


 口づけされ……キス?

 というか?

 えっ、まつ毛ながっ……。

 ん? んんん? ううううぅわあぁあぁあぁぁあああぁあああああ!!!


 鼻づまりのせいで口呼吸になり、ひゅっと息を吸うと人肌の空気が喉を通る。微かに入ってくる空気はひどく希薄で、思考できるほどの空気が脳に回ってこない。


 混乱している間にも、お姉ちゃんの舌がわたしの口内を不規則に躍動する。初めて味わうお姉ちゃんの唾液や舌の味は無味。お互いの唾液が混ざり合うことに嫌悪感を抱くどころか、舌がうねることで生まれた一欠片の気泡ですら愛でてしまいたい。


 経過した時間は数秒なのに、わたしの体内時計を狂わせるには十分だった。

 唇が離れる。わたしの舌と一筋の唾液で繋がった紅い舌が露われ、目が釘付けになった。お姉ちゃんは唇から垂れて、顎に付着した唾液を手の甲で拭う。


「こんな下らんことをしたくて私を追ったのだろう。くれぐれも金門君には母親の本性を……いや、母親に会ったこと自体を思い出させるな」


 コツッ、コツッ。離れていく足音が反響する。

 口づけされた意味、口に残る熱の疼き、お姉ちゃんによって壊された情緒。一つ一つ答えを導こうにも、思考はまとまろうとしない。


 …………ごくん。


 口内に溜まる唾と、頭に溜まる疑問を飲み込み、疼きを堪能する。

 想い続けた人からのキスは、どんなシチュエーションだろうと核爆弾ほどの威力を保っている。食道を通じて体内を駆け巡る唾液が、お姉ちゃんの体温を感じさせてくれる。


 わたしの頬は焔よりも赤く染まっているはずだ。

 でも、お姉ちゃんの顔色は何ら変わらなかった。

 最後にわたしの願いを叶えたつもりなのかな。これで諦めろと、伝えたかったのかな。


「会わない方が、二人のためになったのかな」


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