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25 夜灯冽その2

 夜灯家に引き取られたわたしの五年間を否定するかのように、旧姓で呼ばれた。


 お姉ちゃんに呼ばれて好調だった心が沈むも、同じ轍は踏まないように凛とする。


 わたしたちに関係する鬼ごっこは、遊園地の日に行った鬼ごっこだけだ。その続きと言われても、途中で放棄したのは……夜灯さんだ。


「確かに、あの日は決着というものはつきませんでしたが」


「覚えているのか」


「ええ、この小さな頭で覚えています。夜灯さんが自分の役割を放棄したことも、全て」


 遊園地の鬼ごっこでは、わたしが鬼で夜灯さんは人だった。けれど、夜灯さんは人としての役割を放棄して、鬼の目の前から永遠に消えてしまった。


 夜灯さんの企む表情を見るに、その日を再現するつもりだ。

 わたしは同じ轍は踏まないと誓ったが、夜灯さんは違うらしい。


 大好きな人がわたしの目の前から消える。

 同じような喪失感を最近味わったからか、意外と焦りはない。


「いいですよ。ルールはどうしましょうか」


「閉会式が終わると鐘が鳴る。それを合図にスタートしよう。終わりは……そうだな。七時に完全下校時間を知らせる鐘がなる。それまでに結城君が私に触れることができれば、結城君の勝ち。できなければ、私の勝ちだ」


 今の時刻は六時半前。制限時間はおよそ三十分。前回よりも長い時間。


「わたしが勝てば、夜灯さんには一つお願いを聞いてもらいます」


「ああ、私も同じ条件でやろう」


 夜灯さんは頷くと、梯子を登って幽霊部の部室の屋上に立った。見上げると、白いスカートの中から黒色のショーツが見えた。


 凝視するのは忍びなくて、目線を逸らしてしまう。

 スパッツすら履いていない夜灯さんに、わたしはため息を吐く。


『カーンッ』


 鐘が鳴った。


 音に反応して目線を上げると、そこには誰も立っていなかった。

 急いで梯子を登ると、奥の方に災害時の避難用滑り台があった。耳を澄ますと、ごろごろと滑り台の唸り音が聞こえる。


 もしかして、夜灯さんは本気……なのかもしれない。斑目さんの口ぶりからして、夜灯さんが何かを準備してきたのは想像できる。それが、わたしに鬼ごっこで勝つ準備だとしたら。


 ……どくん。


 心臓が声を発した。 


 …………まだた。まだ確定していない。勝手に期待して、勝手に絶望するのはわたしの悪い癖だ。……だけど、勝手に口角が上がってしまう。


「追いかけなきゃ」


 滑り台を座って滑るだけでは追いつけないので、滑り台の上を走って駆け降りる。勢いを加速して、加速して、一階に到着しても速度を落とさずに、夜灯さんの走る音がする方向へ走る。


 全速力で一号館の正面玄関に突入すると、オートバイに乗り、エンジンを吹かしていた夜灯さんが、荒い口呼吸をしながら待っていた。


「待たせたな、結城君」


 待たせたのはわたしだし、わたしは結城に戻る気もない。……だが、風景はどうであれ、わたしが追った先で夜灯さんが待っていてくれた。


 お姉ちゃんが待っていてくれたことに、否応なく気分が高揚する。


 アドレナリンが溢れ出る。集中力が増す。


「うん……待ってたよ、ずっと待ってたよ、お姉ちゃん」


 わたしの言葉に呼応するように、大量の排気ガスを吐いてオートバイは廊下の奥へと走り去った。


 すぐにでも追いたかったが、ローーファーのままでは走るのに不利だ。


 幸い、ここは一号館の正面玄関。いくつもの靴が置いてある場所だ。靴を脱ぎ捨てて、わたしのサイズに合う運動靴を借りて、廊下に残るタイヤ跡を追う。


 お姉ちゃん。鬼ごっこなんだから、この隙に隠れるなんてしょうもないことしないよね。勝手に帰ることもしないよね。今日は信じていいんだよね。


『ガシャンッ!』


 オートバイが乗り捨てられる音がした。その後に、階段をダッシュで上がる足音が続く。

 音の反響からして、お姉ちゃんは三階の廊下を走っている。


 わたしは四段飛ばして階段を上がり、三階に到着。


 廊下に顔を出すと、お姉ちゃんの背中が見えた。


 教室四個分しか離れていない。

 もうすぐで、わたしの手の届く位置だ。


 わたしがお姉ちゃんを捕まえられたら、わたしと結婚するって願い。


「叶えてもらうよ、お姉ちゃん!」


 廊下にある展示物を無視して直線距離を突っ走る。

 お姉ちゃんは何も答えず、振り向かず、死ぬ気で走っている。


 わたしの前をゆくその背中こそが、わたしの欲しいもの。

 いくらお姉ちゃんが鍛えようと、私の方が脚力は上だ。


 ゆっくりとだが、着実にお姉ちゃんの背中が大きくなる。

 教室一個分の差がなくなった。


 その時、隣の空き教室からスイッチ音がした。


 違和感を感じる間もなく、わたしの体の左側を爆音と熱風が襲う。

 聞いたことがある。


 幽霊部には、爆弾に精通した部員が過去にいたことを。

 受け身を取るには気付くのが遅すぎて、教室側に背中を向けることしかできなかった。




 ――刹那の暗黙の後。


 燃える木片。


 散らばるガラス。


 両親を思い出させる熱。


 打ち付けられた壁の硬さ。


 視界を彩る鮮血。


 甲高い悲鳴が上がる。


 壁に体重を預けて、立ち上がる。


「ふふふ……爆弾を受けるのは初めてだよ、お姉ちゃん」


 割れた窓に頭を出して、新鮮な空気を取り込む。

 額から垂れる血を拭い、体の損傷を確認し、煙をかき分け、お姉ちゃんの背中を追う。


 しかし、お姉ちゃんが二階にある三号館へ繋ぐ連絡通路に足を踏み入れた瞬間、わたしの行く手を阻むように、尋常ではない速度で防火扉が閉まった。


 防火扉にある小扉から進もうとしても、なぜか開いてくれない。学校に常設されている防火扉も過去の幽霊部の遺産か。


「楽しい、こんなに楽しいと思うの、遊園地以来! もっとちょうだいよ、お姉ちゃん!」


 溢れんばかりに分泌されるドーパミンが節々の痛みを抑制する。大好きな人から与えられる理不尽が、わたしの脳内に歓声のパレードを引き起こしている。


 やっぱり、わたしにはお姉ちゃんしかいないよ。

 割れた廊下の窓に身を乗り出して、立ち幅跳びのように軽く空を飛び、連絡通路に着地。お姉ちゃんに遅れて三号館に入る。


『カチ』


 今度の違和感は察知した。


 爆発音がする直前、ふくらはぎに強烈なブレーキをかけて、後ろにステップ。


 強烈な爆発音の後、立ち上る煙に構わず進むも、大量の机と椅子で作られたバリケードが私の進行を妨げる。

 今はバリケードの隙間からお姉ちゃんは見えているけど、お姉ちゃんが次に行く場所は分からない。迂回する選択肢を取れば、その時点でわたしの負けが確定するかもしれない。


 そんな場面。バリケードを突破するしかない。


 シミュレーションできた。


 最低限のスピードを確保するために助走。そして、地面を蹴って窓の支柱を空中ブランコのバーようにしっかりと握り、それを軸として半回転。遠心力を利用して、バリケードの向こう側の窓へダイブ……成功。


 小さくなっているが、まだわたしはお姉ちゃんの背中を視界に収めている。


 時間を確認すると、もう十分しか残されていないことに気づいてしまった。


 泣きそうになるも、気を緩めることはできない。お姉ちゃんが本気だからこそ、わたしはなんとしてでも勝たなければならない理由が二つある。


 一つは、鬼ごっこをするのが二回目だからだ。

 わたしはどんなことでも一回目は必ず最下位を狙う。そして、二回目以降は最高位しか狙わない。なぜなら、敗北を知らないことは勝利を知らないことよりも恐ろしい。


 常勝の憂い。常勝の油断。常勝の重圧。それらの苦痛は、お姉ちゃんの背中を見てきたわたしが一番身に沁みて理解している。


 二つ目は、わたしを結城と呼ぶお姉ちゃんが勝てば、どんな願いを言ってくるのか……想像に難くないからだ。


「お姉ちゃん、わたし……もう油断しないからね」


 極度の前傾姿勢で走り、爆発音にどよめく生徒や爆発に興味を示し集まってきた生徒の流れを逆流するも、遊園地の日と違って、人が多い。


 斑目さんとのライブで体力を消耗したせいだ。爆発で受けた痛みが尾を引いているせいだ。お姉ちゃんとの距離が離れてゆくせいだ。


 それら全てが相まってわたしの力が弱まり、前方から押し寄せる人の波に押し返されるも、


「わたしの邪魔するなっ!」


 体当たりして人混みを抜ける。階段を上がるも、お姉ちゃんとの距離は引き離されている。

 現実にショックを受ける暇もなく、わたしは足に命令する。


 加速せよ、加速せよ、と。


 目の前にはお姉ちゃんしかいない。


 走ると差は縮む。お姉ちゃんも疲弊している。


 教室五個分。

 徐々に追いついてゆく感覚。体力の優劣の差は明確。


 教室四個分。

 人にぶつかったせいで、額から止まっていたはずの出血が再び。

 視界は赤くなるも、拭う余裕はない。


 教室三個分。

 揺れるお姉ちゃんの背中にピントが合う。

 鬼ごっこが始まってから、お姉ちゃんは一度も振り向いていない。


 教室二個分。

 どくんどくんどくんどくん。

 心臓の激しい伸縮がわたしにさらなる緊張感をもたらす。


 教室一個分。

 わたしが手を伸ばしかけた時、お姉ちゃんは左手を教室に伸ばした。


 その手を見ると、銃を握っていた。誰かが、教室の窓からお姉ちゃんに手渡したのだ。


 拳銃というか、戦国時代の火縄銃のような……。


 お姉ちゃんと目が合った。銃口が額に向いた。引き金に指がある。


 打つ……そう確信したが、発砲音はせずに、お姉ちゃんの目線が下に向いた。


 今だ。


 バン、という発砲音に反射して足を上げる。肝心の弾は廊下のコンクリートをえぐった。


「はあ!?」


 お姉ちゃんは悲鳴に似た声を上げるも、足は止まっている。


 捕まえた。

 指先を伸ばすも、お姉ちゃんは息を吸いなおし、銃を握り直した。


 お姉ちゃんの目線は下がらず、しっかりとわたしの頭に狙いを定めて、打つ。


 目に映る回転する弾丸は、わたしの人生を振り返させる。


 これが、走馬灯……? 


 お姉ちゃんから施されたことを思い出しながら、コンクリートをえぐる火力の弾丸の弾道を予測。

 頭を横に逸らして直撃を回避するも、強烈な耳鳴りがわたしの足腰の力を奪った。


 お姉ちゃんはわたしが避けることを予知していたかのように、銃を捨てて階段を上がる。

 いくらわたしでも、今際の際を体験すれば足が止まる……道理はない。


 両手で地面を押して立ち上がる。

 手すりを使いながら、見えなくなったお姉ちゃんを追う。


 脳内物質が落ち着き始め、歩くのに痛みを感じるようになったが、最後の力を振り絞り、屋上庭園に通ずる扉を開いた。


「……待ってくれてたの?」


「鬼ごっこだからな」


 月光がお姉ちゃんの姿を照らすと、驚いた。

 お姉ちゃんは下着姿で待ち構えていたのだ。


 いや、よく見ると、履いているのはショーツでもブラジャーでもない、水着?


「ふふっ、お姉ちゃんったらひどいよ。鬼ごっこに勝つためだけに爆弾とか銃を使うのって、わたしじゃなかったら死んでもおかしくなかったよ」


「お前がその程度でくたばるような存在ではないことを、私は知った上で使ったんだ」


 あと、二分。


「話の続きは私が逃げ切ってだな……行くぞ」


「うん、わたしが捕まえてからにしよっか」


 僅かの間だが、休憩できたおかげで二分なら最高速で走れる。

 わたしが動いたのを見て、お姉ちゃんは駆け出した。


 お姉ちゃんは屋上庭園の数々の花壇を飛び越して、ベンチを飛び越して、手すりを飛び越して、地上十メートルの屋上庭園から空に向かってダイブした。


 水着しか身につけていないお姉ちゃんの姿が垂直落下する。急いで下を見下ろすと、ぶくぶくと泡が浮かぶプールの中心にお姉ちゃんがいた。


 わたしがお姉ちゃんを心配しなかったら……勝っていたのはわたしだったかもしれない。

 ああ、わたしはお姉ちゃんと違うんだな。


「……わたしも付いていくよ、お姉ちゃん」


 血と汗と木片で汚れた制服を脱いで、プールの中心目掛けて飛び、着水する。

 それと同時に、傷口に痛みが広がった。


 異常なほど熱い、泳ぐ力も残っていない、息苦しい、でも……楽しい。


 節々の痛みに悶えながら、プールサイドに体を打ち上げる。目の前には、サンダルとラッシュガードがあった。

 プールの出口にいるお姉ちゃんはマリンシューズを履いて、グラウンドへ続く扉にもたれている。


 下着のまま追おうとしたが、お姉ちゃんはわたしがラッシュガードを着るのを待っているのだと分かった。


 濡れた腕にラッシュガードを通し、ファスナーを閉じる。


 安っぽいサンダルを履いて、パカパカと足音を立てて、グラウンドに出たお姉ちゃんを追う。


 グラウンドに残るお姉ちゃんの足跡を踏みながら、走る。


 とうに走るとはかけ離れているフォームだが、走る。


 素足に砂が降り掛かろうと、濡れた足に砂が絡みつこうと、走る。


 耳に聞こえるのは二人の荒い呼吸音。


 目に見えるのは憧れ続けたその背中。


 いつまでもこの空間に居たいと思う。


 けれど、時間は戻らない。


 そんな不可逆的なことを教える鐘が。


『カーン』


 今、鳴った。


 お姉ちゃんは歩みを止めて、振り返る。

 満面の笑みで、こう言った。


「私の勝ちだ」


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